イベントEVENT
2011 12

[同時開催]
大家春子 個展
ちぐはぐ 展
2011年11月15日(火)〜12月12日(月)[水・木 休み]
 会場:新長田ギャラリー(神戸映画資料館すぐ横)

                           大家春子
  
 主催・問い合わせ  神戸プラネット(神戸映画資料館)info@kobe-eiga.net
 企 画  椿崎和生、神戸プラネット
 協 力  新長田まちづくり(株)


神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外
第6回 『不思議惑星キン・ザ・ザ』と知られざるダネリヤの宇宙

2011年12月18日(日)15:50〜(終了予定18:00)
講師:東海晃久
「神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外」では、1、2ヶ月に1回程度のペースで、さまざまな講師をお招きし、幅広いテーマで講座を開いてまいります。
 
[関連企画] [ソヴィエト映画会①『嘆くな!』]
 
ダネリヤ監督の素朴な哀情   東海晃久
 今回のレクチャーでは、カルト的に有名となった『不思議惑星キン・ザ・ザ』だけでなく、それまでの作品をも視野に入れながら、多少大袈裟ではあるが、監督ダネリヤの作家性について考えようと思う。
 ソヴィエト時代、代表的な喜劇映画監督と言えばガイダーイ、リャザーノフそしてダネリヤという三人が挙げられ、また曾てはそう宣伝されることも多かったのだが、中でもダネリヤは明らかにその毛色が異なる。簡単に言えば、ガイダーイはトーキー前後のスラップスティックから多くを継承しようとし、リャザーノフは寧ろ演劇的空間で繰り広げられる風刺劇を得意としたのに対し、ダネリヤには前者二人のいずれにもない或る「素朴さ」が漲っていることが感じられる。これは観ることによってしか伝わらないことだが、一考に値すると思われ、これを出発点にしたい。
 この「素朴さ」というのはしかし、単純さや野暮ったさとは全く別ものである。あるいは寧ろ、『キン・ザ・ザ』を観た人ならば、そこに「素朴さへのノスタルジー」を感じるかもしれないし、邦題に「不思議」という言葉が使われているばかりに、ついつい異様さや異常さが目立つかもしれない。だが、どこかこの異常ささえもわれわれには身近なものとして感じられないだろうか。いかに浮世離れした異様さの中に真実味を感じるのはなぜか。或はこれこそが「素朴さ」ということであるのではないか。
 いずれにせよこのわれわれが感じ取ってしまう「素朴さ」は本当のところは一体何なのか。われわれとしてはこれを吉田健一流に、詩人が自分にとっての正確なあるべき言葉を探しつつその洗練に努めることで初めて得ることの出来る素朴さに似ているのではないかと仮定した上で、映画にとっての無駄のなさ、ひいては映画的洗練ということをこのダネリヤにおいて考えてみたい。さらに、例えば『モスクワを歩く』などのこれといったストーリーが特にない映画の成功も、この素朴の原理が最も如実に表れることになるのが映画における主人公の位置づけであることを考えれば、理解出来るかもしれない。 
 いずれにしても、ダネリヤはシナリオを何度となく書き直し、事実上シナリオが現場ですら変更されて行くのが常であることで有名な彼の台本は、たとえそれが一般に音楽や踊りや芝居からなる映画という大皿の端に盛りつけられる添え物にいくら似ていたとしても、そこにある言葉もまた映画を支えるものとしてあるかもしれず、その世界と一つであり、決して切り離すことの出来ないものとして十全に機能しているのではないか。彼の作品の作り方がこの映画を支える言葉の探求とともにあることは注意してよい問題で、この探求に準じるようにして多くの主人公(『アフォーニャ』[1975]の配管工ボリショーフ、『ミミノ』[1977]の操縦士ミザンダーリ、『秋のマラソン』[1979]の翻訳家ブズィーキンなど)は、自らの生きる世界においてそのあるべき場所を見出せずにいる自分を取り戻そうとする歩みを辿ることになる。ただそれは、一巻の終わりがハッピーエンドを約束することを少しも意味していなくて、多少結論じみてしまうが、自分を取り戻したとて凡ては未だ道半ばである、ということを観る者に思い出させてくれる。

東海晃久
1971年生まれ。ロシア国営ラジオ局「ロシアの声」翻訳員兼アナウンサーを経て、現在、神戸市外国語大学非常勤講師。訳書に現代ロシア文学最大の実験作『馬鹿たちの学校』(サーシャ・ソコロフ、河出書房新社)がある。

 

《参加費》 1000円
*ご予約受付中 
info@kobe-eiga.net 宛に、お名前、連絡先(電話)、参加希望日を書いてお送りください。
追って予約受付確認のメールを差し上げます。
 
《割引》
講座参加者は[ソヴィエト映画会①『嘆くな!]の鑑賞料200円引き


連続講座:映画批評_新しい映画と観客のために
第4回 ニコラス・レイ生誕100年

2011年12月30日(金)15:20(講座の前に参考上映あり/終了予定19:00)
 
講師:藤井仁子(映画批評)
 気鋭の映画批評家たちによる連続講座。「映画批評はいまだ有効か」の堂々巡りを超えて、何度も新しくよみがえり続ける映画と観客のための批評の実践です。
 今回は、ニコラス・レイ生誕100年を記念し、『わたしは邪魔された―ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房)の翻訳者のお一人でもある藤井仁子氏を講師に迎えます。講座の前に参考上映あり。
 
[関連企画] ニコラス・レイ監督『孤独な場所で』
 
ニックス・ムービー、善悪の彼岸   藤井仁子
 彼らはわれわれが生きるこの世界に一度たりとも適切に導き入れられたことがない――ニコラス・レイの監督第一作『夜の人々』の冒頭を飾るこの前口上は、そのまま彼の全作品への前口上にもなっている。実際、銀行が泥棒同然のことをやる時代に追われる身となった若い恋人たちの短すぎる蜜月を描く『夜の人々』は、映画製作倫理規定の厳格な適用を受けていた当時のハリウッドにあって、普通なら許されないはずの題材だったのだが、その後も彼は気位の高い酒浸りの癇癪持ち(『孤独な場所で』)、銃を棄てた男と共同体から疎外される薹の立った守銭奴の女(『大砂塵』)、思春期の不良少年(『理由なき反抗』)、果てはロマ(『熱い血』)やイヌイット(『バレン』)といった、主流のハリウッド映画が決してしかるべきかたちで導き入れようとしなかった「夜の人々」の物語を紡ぎつづけるだろう。同時にそれは、いっさいを善と悪との二元論で解釈しようとする古典的ハリウッド映画のイデオロギーに逆らって、善悪では割り切ることのできない世界のあいまいさ、人間の複雑さをありのままに見据えようとする困難な試みでもあった。世界は深い。昼が考えたより深いのだ。その事実を生涯を挙げて示した作家の生誕100年が、伝説的な遺作『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』の日本初上映まで実現してしまったというのにあくまで昼の晴れやかさとは無縁のまま、「孤独な場所で」ひっそりと暮れようとしているのは、むしろ彼とその映画に似つかわしいことなのかもしれない。アルコールの力でも借りなければ到底乗りきることのできない、そんな夜が人生には一度ならず訪れるということを知るすべての人々のために、ニックの映画はあるのだから。

藤井仁子(ふじい・じんし/映画評論家)
1973年生まれ。映画評論家。早稲田大学文学学術院准教授(映画学)。映画批評サイト『テアトル・オブリーク』主宰。編著書に『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院)、共著書(分担執筆)に『成瀬巳喜男の世界へ』(筑摩書房)、『映画の政治学』(青弓社)、『日本映画とナショナリズム 1931-1945』『映画と「大東亜共栄圏」』、『映画と身体/性』(いずれも森話社)などがある。2011年秋出版の『甦る相米慎二』(インスクリプト)を木村建哉、中村秀之と共編。

 

《参加費》 1500円(講座+参考上映)
*ご予約受付中 
info@kobe-eiga.net 宛に、お名前、連絡先(電話)、参加希望日を書いてお送りください。
追って予約受付確認のメールを差し上げます。
 
《割引》
講座参加者はニコラス・レイ監督『孤独な場所で』の鑑賞料200円引き


これまでのイベント|神戸映画資料館

※内容は予告無く変更する場合があります。