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神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外
第6回 『不思議惑星キン・ザ・ザ』と知られざるダネリヤの宇宙

2011年12月18日(日)15:50〜(終了予定18:00)
講師:東海晃久
「神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外」では、1、2ヶ月に1回程度のペースで、さまざまな講師をお招きし、幅広いテーマで講座を開いてまいります。
 
[関連企画] [ソヴィエト映画会①『嘆くな!』]
 
ダネリヤ監督の素朴な哀情   東海晃久
 今回のレクチャーでは、カルト的に有名となった『不思議惑星キン・ザ・ザ』だけでなく、それまでの作品をも視野に入れながら、多少大袈裟ではあるが、監督ダネリヤの作家性について考えようと思う。
 ソヴィエト時代、代表的な喜劇映画監督と言えばガイダーイ、リャザーノフそしてダネリヤという三人が挙げられ、また曾てはそう宣伝されることも多かったのだが、中でもダネリヤは明らかにその毛色が異なる。簡単に言えば、ガイダーイはトーキー前後のスラップスティックから多くを継承しようとし、リャザーノフは寧ろ演劇的空間で繰り広げられる風刺劇を得意としたのに対し、ダネリヤには前者二人のいずれにもない或る「素朴さ」が漲っていることが感じられる。これは観ることによってしか伝わらないことだが、一考に値すると思われ、これを出発点にしたい。
 この「素朴さ」というのはしかし、単純さや野暮ったさとは全く別ものである。あるいは寧ろ、『キン・ザ・ザ』を観た人ならば、そこに「素朴さへのノスタルジー」を感じるかもしれないし、邦題に「不思議」という言葉が使われているばかりに、ついつい異様さや異常さが目立つかもしれない。だが、どこかこの異常ささえもわれわれには身近なものとして感じられないだろうか。いかに浮世離れした異様さの中に真実味を感じるのはなぜか。或はこれこそが「素朴さ」ということであるのではないか。
 いずれにせよこのわれわれが感じ取ってしまう「素朴さ」は本当のところは一体何なのか。われわれとしてはこれを吉田健一流に、詩人が自分にとっての正確なあるべき言葉を探しつつその洗練に努めることで初めて得ることの出来る素朴さに似ているのではないかと仮定した上で、映画にとっての無駄のなさ、ひいては映画的洗練ということをこのダネリヤにおいて考えてみたい。さらに、例えば『モスクワを歩く』などのこれといったストーリーが特にない映画の成功も、この素朴の原理が最も如実に表れることになるのが映画における主人公の位置づけであることを考えれば、理解出来るかもしれない。 
 いずれにしても、ダネリヤはシナリオを何度となく書き直し、事実上シナリオが現場ですら変更されて行くのが常であることで有名な彼の台本は、たとえそれが一般に音楽や踊りや芝居からなる映画という大皿の端に盛りつけられる添え物にいくら似ていたとしても、そこにある言葉もまた映画を支えるものとしてあるかもしれず、その世界と一つであり、決して切り離すことの出来ないものとして十全に機能しているのではないか。彼の作品の作り方がこの映画を支える言葉の探求とともにあることは注意してよい問題で、この探求に準じるようにして多くの主人公(『アフォーニャ』[1975]の配管工ボリショーフ、『ミミノ』[1977]の操縦士ミザンダーリ、『秋のマラソン』[1979]の翻訳家ブズィーキンなど)は、自らの生きる世界においてそのあるべき場所を見出せずにいる自分を取り戻そうとする歩みを辿ることになる。ただそれは、一巻の終わりがハッピーエンドを約束することを少しも意味していなくて、多少結論じみてしまうが、自分を取り戻したとて凡ては未だ道半ばである、ということを観る者に思い出させてくれる。

東海晃久
1971年生まれ。ロシア国営ラジオ局「ロシアの声」翻訳員兼アナウンサーを経て、現在、神戸市外国語大学非常勤講師。訳書に現代ロシア文学最大の実験作『馬鹿たちの学校』(サーシャ・ソコロフ、河出書房新社)がある。

 

《参加費》 1000円
*ご予約受付中 
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追って予約受付確認のメールを差し上げます。
 
《割引》
講座参加者は[ソヴィエト映画会①『嘆くな!]の鑑賞料200円引き

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