2008年5月24日(土)
山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]5報告《映画記者の仕事/映画批評家の仕事》を、若き映画研究者、羽鳥隆英氏がご寄稿くださいました。
《寄稿》 映画記者の仕事/映画批評家の仕事羽 鳥 隆 英
当代随一の映画批評家・山根貞男による連続講座《加藤泰の世界》は、早くも第5回目を数えることになった。今回、分析の俎上にのせられたのは、長谷川伸の同名戯曲を原作とする時代劇映画『瞼の母』(1962)である。筆者は目下、長谷川伸文学の映画化作品に関する研究論文を準備しているため、こうして報告を書かせていただくこと自体、貴重な精進の機会であり、まずは山根氏と神戸映画資料館の皆様に感謝を申し上げる次第である。連続講座の第1回目において『大江戸の侠児』(1960)を取り上げた際、原作となった山上伊太郎の脚本『時代の驕児』(稲垣浩監督、1932)と、加藤泰による再映画化版との詳細な比較を議論全体の根底に据えた山根貞男は、今回『瞼の母』を考察するに当たっても、長谷川伸の原作や、加藤泰以前に映画化されたいくつかの版を紹介することから議論を開始させた。映画学の立場から長谷川伸を研究している筆者にとっては、たとえば今日容易に見ることのできない佐伯幸三監督版『瞼の母』(1952)が、当時「母もの」映画と呼ばれる一連の作品に主演して人気を獲得していた三益愛子に主人公の母親=お浜役を、そして、どちらかといえば現代劇映画の俳優である堀雄二に本来の主人公=番場の忠太郎役を演じさせることで、「股旅もの」であるところの原作を見事「母もの」映画へと換骨奪胎している、という指摘に大変興味を惹かれたのだが、ともかく話題を加藤泰に戻そう。
かつて神戸映画資料館館長・安井喜雄と共同で編集した『加藤泰、映画を語る』(筑摩書房、1994)などを援用しつつ、山根は加藤泰版『瞼の母』をめぐる内幕の数々を我々に明かしてくれる。そもそも加藤は、片岡千恵蔵主演で最初に『瞼の母』を映画化した稲垣浩監督版(1931)に感銘を受け、いつの日にか自身の手で再映画化するべく、あらかじめ脚本を準備していたようである。折しも伊藤大輔監督、中村錦之助主演で企画されていた『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』が製作延期となり、その番組の穴を埋めるべく、映画化の当てもないままに執筆されていた加藤版『瞼の母』の脚本が、急遽、東映首脳部からの指名を受けることになった。とはいえ製作日数の余裕は、通常の作品に振り分けられる半分程度の15日しかない。そこで加藤は以下の秘策を提案した。すなわち(1)すべての撮影を撮影所内で行うこと、(2)すでに監督に昇進していた倉田準二の指揮下、完全な第2班を組織すること、(3)準備時間を短縮するために長廻し撮影を基本とすること、の3点である。
(1)については、撮影期間が年末(12月14日‐28日)に当たっていたため、加藤組以外の撮影と重複しなかったことが幸いし、また(2)については、加藤作品における助監督経験を通じて互いに気心の知れていた倉田準二の存在が大きかったようである。山根によれば、たとえば中村錦之助扮する番場の忠太郎が浪花千栄子の老婆と縁を結ぶ雪の場面の撮影は以下のようであったという。すなわち加藤泰と中村錦之助が別の場面を撮影するのに並行して、倉田の指揮のもと、撮影・照明その他の担当が各々の職分を尽くし、浪花千栄子、酔漢を演じる星十郎、大勢の仕出し、そして錦之助の代役らが稽古を重ねる。そこへ撮影を終えた加藤と錦之助とが合流し、加藤は倉田の、錦之助は代役の役回りをそれぞれ引き継いで撮影を完了するのである。さらに山根は、こうした加藤=倉田間の信頼関係がその後も続き、仁侠映画『明治侠客伝 三代目襲名』(1965)で藤山寛美の扮する流れ者が殺される場面なども同様の手法で撮影されたことを明かして、加藤作品における倉田準二の存在意義を強調している。最後に(3)について、山根は、長廻し撮影は『瞼の母』以前にも皆無ではなかったものの、この作品以降、その使用は増えていくと指摘しており、加藤にとって『瞼の母』の体験が大きな転換点になったことをうかがわせる結論となっている。
以上のように、映画撮影の内幕を熟知している山根貞男は、しかし同時に、自身の映画に対する鋭敏な感性をもって『瞼の母』に対峙する。映画の冒頭、中村錦之助扮する番場の忠太郎と松方弘樹扮する金町の半次郎が飯岡助五郎に白刃を向ける場面において、一般的な物語映画の慣習を無視し、何の予備知識もない観客をいきなり乱調のなかに突き放す加藤の驚くべき演出が、前述したように、この映画が伊藤大輔監督作品の穴埋めであり、したがって決して「お蔵」入りすることはないという計算のうえに成り立っているという指摘は、商業映画の製作現場を熟知し、加藤泰をはじめとする多数の映画人への聞き取り調査を実施してきた映画記者としての山根貞男から生まれてきた結論であろうが、反対に『瞼の母』における長廻し撮影が、古典的な切り返し編集に移行する契機として、母親が息子に対して投げかける衝撃的な台詞があるという見解は<註1>、映像と音響との織物である映画に対して、独自の映画的な感性をもって対峙している、映画批評家としての山根貞男からこそ生まれてきた言葉だといえるだろう。それはまた、主演俳優=主人公であるにもかかわらず、しばしば観客に背を向けてしまう中村錦之助=番場の忠太郎と、そうした彼の顔を、画面がそっとまえに廻り込んで捉えることの反復がもたらす効果、いいかえれば観客に背中を向けることの静謐な緊張感についての鋭敏な指摘にも看取できることである。
本稿を閉じるまえに、今回の講義で触れられなかった事柄をひとつ指摘しておきたい。それは、前述した冒頭の乱闘場面において、松方弘樹に斬り付けられる博徒・飯岡助五郎に扮した瀬川路三郎についてである。瀬川は1920年代から1960年代にかけて、時代劇映画を中心に活躍した俳優であり、蟹を思わせる《映画のための風貌》によって敵役を得意とした名脇役である。瀬川の出演作品は多岐にわたるが、なかでも印象に残るのは、やはり千恵プロ時代の時代劇映画であろう。同時期に朋輩であった香川良介が、千恵プロの解散以降も一貫して時代劇映画の第一線で活躍したのに対して、やや遅れをとった形の瀬川の場合、その映像は千恵蔵プロ時代の諸作を、とりわけ強烈に我々に想起させることになる。
その瀬川路三郎に、映画の冒頭で斬り付ける。このことの時代劇映画史における含意は明瞭であろう。じっさい瀬川は、加藤泰が感銘を受け、彼をして映画化の当てのない脚本を執筆させる契機ともなった稲垣浩版『瞼の母』で、主人公に最後に斬られる博徒・素盲の金五郎に扮しているのである。片岡千恵蔵=番場の忠太郎が最後に斬り捨てた博徒に、もういちど斬りつけることから開始される中村錦之助=番場の忠太郎の物語。この場合、はたして加藤自身が、瀬川の取り持つ稲垣版『瞼の母』との因縁を自覚していたかは問題ではないだろう。そうではなく、師匠・伊藤大輔の衣鉢を受け継ぎ、戦前の時代劇映画の大いなる遺産と格闘し続けた加藤泰の手になる『瞼の母』において、時代劇映画の《過去=1931》と《現在=1962》が見事に連続していること、そのこと自体が意義深いのである。
稲垣浩版において幸福な結末を迎えた母親と息子とは、加藤泰版では結局和解することができない。それを山根は「非情」と形容する。その「非情」の背後で、しかしながら、息子=加藤泰版が父親=稲垣浩版とひそかに互いの絆を確認しあっていたとすれば、この「非情」な映画が、同時に時代劇映画への愛情に満ち溢れていることも理解できるだろう。
<註>
1 この点について、今回の講座で山根が言及したのは以下の箇所である。すなわち飯岡一味との喧嘩に出向こうとする松方弘樹に対して、母親役の夏川静江が「親を殺して行くがいい」という場面、および物語の山場において中村錦之助が生き別れた息子だと名乗り出るのに対して、母親役の木暮実千代が「這い込み」だと決め付ける場面の2箇所である。
羽鳥隆英(映画研究者)
日本学術振興会特別研究員(京都大学大学院人間・環境学研究科)。現在、長谷川伸を主題とした博士申請論文を準備中。



かつて神戸映画資料館館長・安井喜雄と共同で編集した『加藤泰、映画を語る』(筑摩書房、1994)などを援用しつつ、山根は加藤泰版『瞼の母』をめぐる内幕の数々を我々に明かしてくれる。そもそも加藤は、片岡千恵蔵主演で最初に『瞼の母』を映画化した稲垣浩監督版(1931)に感銘を受け、いつの日にか自身の手で再映画化するべく、あらかじめ脚本を準備していたようである。折しも伊藤大輔監督、中村錦之助主演で企画されていた『源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶』が製作延期となり、その番組の穴を埋めるべく、映画化の当てもないままに執筆されていた加藤版『瞼の母』の脚本が、急遽、東映首脳部からの指名を受けることになった。とはいえ製作日数の余裕は、通常の作品に振り分けられる半分程度の15日しかない。そこで加藤は以下の秘策を提案した。すなわち(1)すべての撮影を撮影所内で行うこと、(2)すでに監督に昇進していた倉田準二の指揮下、完全な第2班を組織すること、(3)準備時間を短縮するために長廻し撮影を基本とすること、の3点である。
以上のように、映画撮影の内幕を熟知している山根貞男は、しかし同時に、自身の映画に対する鋭敏な感性をもって『瞼の母』に対峙する。映画の冒頭、中村錦之助扮する番場の忠太郎と松方弘樹扮する金町の半次郎が飯岡助五郎に白刃を向ける場面において、一般的な物語映画の慣習を無視し、何の予備知識もない観客をいきなり乱調のなかに突き放す加藤の驚くべき演出が、前述したように、この映画が伊藤大輔監督作品の穴埋めであり、したがって決して「お蔵」入りすることはないという計算のうえに成り立っているという指摘は、商業映画の製作現場を熟知し、加藤泰をはじめとする多数の映画人への聞き取り調査を実施してきた映画記者としての山根貞男から生まれてきた結論であろうが、反対に『瞼の母』における長廻し撮影が、古典的な切り返し編集に移行する契機として、母親が息子に対して投げかける衝撃的な台詞があるという見解は<註1>、映像と音響との織物である映画に対して、独自の映画的な感性をもって対峙している、映画批評家としての山根貞男からこそ生まれてきた言葉だといえるだろう。それはまた、主演俳優=主人公であるにもかかわらず、しばしば観客に背を向けてしまう中村錦之助=番場の忠太郎と、そうした彼の顔を、画面がそっとまえに廻り込んで捉えることの反復がもたらす効果、いいかえれば観客に背中を向けることの静謐な緊張感についての鋭敏な指摘にも看取できることである。
その瀬川路三郎に、映画の冒頭で斬り付ける。このことの時代劇映画史における含意は明瞭であろう。じっさい瀬川は、加藤泰が感銘を受け、彼をして映画化の当てのない脚本を執筆させる契機ともなった稲垣浩版『瞼の母』で、主人公に最後に斬られる博徒・素盲の金五郎に扮しているのである。片岡千恵蔵=番場の忠太郎が最後に斬り捨てた博徒に、もういちど斬りつけることから開始される中村錦之助=番場の忠太郎の物語。この場合、はたして加藤自身が、瀬川の取り持つ稲垣版『瞼の母』との因縁を自覚していたかは問題ではないだろう。そうではなく、師匠・伊藤大輔の衣鉢を受け継ぎ、戦前の時代劇映画の大いなる遺産と格闘し続けた加藤泰の手になる『瞼の母』において、時代劇映画の《過去=1931》と《現在=1962》が見事に連続していること、そのこと自体が意義深いのである。

以上のように、加藤泰は『花札勝負』の脚本を徹底的に検討し続ける。では、この改訂作業を通じて、加藤が追求したものとは果たして何か。山根貞男はその答えを、仁侠映画に対する加藤の個人的な信条を念頭に置くことによって、外堀から同定していこうとする。
山根が語るところによれば、『花札勝負』は三組の男と女の物語である。その第一は、山根が《ロミオとジュリエット》にもなぞらえる、敵対する貸元(嵐寛寿郎/小池朝雄)それぞれの縁に繋がる若い恋人たちである。その第二は、かつて主人公《緋牡丹のお竜》(藤純子)に盲目の娘の危難を救われながら、それと知らずにお竜の名を騙り、いかさま博打を続けるお時(沢淑子)と、やはり流れ者でお竜と盆の上で勝負を決する《化け安》(汐路章)の夫婦である。そして第三は、《緋牡丹のお竜》自身と、彼女とは敵対関係にありながら、彼女に母親の面影を感じてしまう博徒・花岡彰吾(高倉健)の二人である。このとき、一般の仁侠映画であれば、《緋牡丹のお竜》と花岡彰吾―あるいは藤純子と高倉健というべきであろうか―が《ロミオとジュリエット》の恋を成就させ、また結果的には両親を失うことになる盲目の少女の治療に専念することは、《弱きを助け、強きを挫く》侠客のとるべき当然の行動として描写される。しかし、『花札勝負』においては、彼らはより個人的な心情から自身の行動を決定していく。例えば、お竜とお時という二人には、お時の娘を媒介にした女同士の連帯が生まれ、互いの互いに対する真心が高まっていく。そしてこの真心からこそ、二人が、自分たちとは行きずりの縁しかない博徒同士の出入に命を懸けるという結果を生むのである。《仁侠道》という金科玉条に全体主義的に従属するのではなく、より低い目線から、善悪の闘争に主体的に参加する女と男。彼らを描くためにこそ、加藤泰は脚本を改訂し続けた。このように山根貞男は想像するのである。
本稿を閉じる前に、山根貞男にぶつけてみたい質問がある。すでに指摘されたように、『花札勝負』は長谷川伸の影響下にあり、それは例えば嵐寛寿郎と高倉健の決闘場面が、ほぼ長谷川の戯曲『沓掛時次郎』(1928)の引用である点からも看取できる。とはいえ、こうした引用はきわめて禁欲的になされ、いわゆる《遊び心》はほとんど感じられない。これに対して、加藤泰が『花札勝負』に続いて演出した後日譚『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970)では、舞台が明治期の浅草・六区に設定され、当時最新の発明であった活動写真や、上記『沓掛時次郎』を初演した新国劇の十八番『月形半平太』を想起させる剣劇などが興行されている。また、山城新伍扮する巾着切は、酔った勢いで《緋牡丹博徒》の主題歌を熱唱し、1970年前後に人気を誇った漫才師の鳳啓助・京唄子は、ほとんど自分自身の役柄で出演して笑いを振りまいている。長谷川伸の大いなる遺産を継承しつつも、それが度重なる脚本改訂のなかで自家薬籠中のものにされている『花札勝負』から、映画の過去や現在に向けての戯れかけが、物語世界の内部と外部とを不意に通底させてしまう『お竜参上』への移行。その背後には、いったいどのような事情があるのだろうか。加藤泰自身は、二本の《緋牡丹博徒》映画が示す差異に自覚的だったのだろうか。今後、連続講座のなかで『お竜参上』が取り上げられる折には、何としても山根貞男に尋ねてみたいと思う。
外部が存在感を持つことで内部も際立つ。本作品では外部と内部の二項対立的な図式が観客に印象付けられることが重要なのである。そして、その二項対立的関係のなかで映し出されるマダムたちのクロースアップの映像は、内部の密閉した空間を観客に意識させ、ある種の閉塞感をもよおさせながら、女たちの苦しみをフレームに充満させると同時に、復讐鬼川島の突出する怒りを表象する装置としても機能するのである。
以上が、山根貞男が連続講座第二回目で展開した、クロースアップを中心とした議論の詳細である。クロースアップが本作品でいかに機能していたのか、また逆に、クロースアップで本来撮られてもいい場面が撮られていない背景には何があったのかといった話がストーリーに沿って進められた。それでは最後に、山根貞男の解説を踏まえつつ、筆者の印象に残ったクロースアップのショットについて述べておきたい。
山根の解説によると、山上伊太郎のシナリオは、もともと「こそ泥」だった次郎吉がねずみ小僧になるというストーリーを辿るのに対して、加藤泰のシナリオは、泥棒でないただの「博打打ち」の次郎吉がねずみ小僧になっていくストーリーの軌道を描いている。なるほど、山上シナリオは、山根の言葉を借りれば「小泥棒が大泥棒になるだけのストーリー」であり、加藤シナリオのような突然の飛躍が観測されるわけではない。「博打なら誰でもやってるよ」という登場人物の言葉にもあるように、どこにでもいそうな人物次郎吉が、映像通り突如大泥棒ねずみ小僧へと変貌を遂げてしまう加藤泰のシナリオは山上伊太郎のシナリオのような直線的な変化では追いつかない動きを実践する。
山根は山上シナリオにはない、加藤シナリオの季節の指定が視覚的に面白い効果を生んでいると言う。モノクロ映画である『大江戸の侠児』。故郷に帰った次郎吉が、許嫁と義理の弟を連れて家を飛び出した後、尾根の上を疾走する場面が遠景ショットで収められる。通常なら息急き切って走る三人の躍動感を寄りのショットで収めてもいいはずの場面である。それを加藤泰は正反対の超ロングショットでフレームに収めることにより、観客は尾根の暗さ、黒さを強く印象付けられる。すると、次の場面では、白い雪が降り積もる宿場町に話が移行し、観客は直前の場面から一転、フレーム内に強く存在感を示す雪の白さを享受することになる。黒から白へ。この極端な色彩の振り子の揺れは、シナリオに冬という季節の指定があったからこそ可能だった演出であり、物語の大筋にはそれほど関係ないかもしれないが、加藤泰はシナリオで完結しない映画の面白さを観客に十分伝えるため、冬の特徴を利用した変化のある映像美を創造していた。
加藤泰と言えば、ローアングル、フィックス、長廻しなどで構成される独特な撮影スタイルが有名だが、それらが確立されたのは1960年代以降のことであり、1960年に作られた本作品では、ローアングルと俯瞰ショット、フィックスと流動的なキャメラ、長廻しとモンタージュといった相反する撮影技法が混在しながら、それぞれが印象的に観客に提示されている。つまり『大江戸の侠児』は、ちょうど加藤泰の作家性に「動き」が見られていく過渡期の作品であると考えられる。加藤泰もまた本作品の次郎吉のように、普通の映画監督から、複数の撮影技法を駆使して革新的な映画を撮る不世出な映画監督へと向かう、その道中を歩んでいた。