プログラムPROGRAM
2014 11

サイレント映画『時』 生演奏上映
11月8日(土)16:00〜

 
21世紀の異端映画作家・木村卓司の代表作『時』を、今回は生演奏とともに上映します。
演奏は、活動写真弁士・大森くみこさんと活躍中の深海無声團のメンバーである藤代敦さん。

「時」(2012/サイレント/60分/DVD)

監督:木村卓司
演奏:藤代 敦(キーボード)

 

 

一瞬一瞬、見えないはずの時が猛々しく発露し姿を現す。それは霧の様に実体のない幻想で意識下の深遠に降りて行く。日だまりの様にこの上なく心地のよいものだ。──木村卓司
『シネマトグラフ オブ エンパイア』(2009)、元町映画館が出来るまでを描いた『街に・映画館を・造る』(2011)で知られる木村卓司。その最新作『時』は、闇と光を往還する独自の世界である。
 
作品に寄せられたコメント
 

作者の「気持ちはよくわかる」という反応は、決して誉め言葉ではない。ただ、「気持ちはよくわかる」という反応が積極的な意味を持つケースも、ごく稀に存在する。木村卓司の『時』がそれにあたる。この作品を撮った監督の「気持ち」は、とめどもなく「高貴」なものだからである。
──蓮實重彦(映画評論家)

手で覆われた女の胸。平面の画面のはずが一瞬、たゆやかな膨らみの感触を漲らせる。そんなバカなと画面を凝視する頃には、「時は後戻りするはずないだろう」と笑うかの如く画面が呆けていく。そんな一瞬と流れと集約を、戯れ事としてではなく、作り手の過剰な激しさとして画面に焼き付けていく。実は、私が見たときは画面が一度フリーズを起こしたのだが、監督の呪いにも似た念に呼応しているかのようだった。
──家久智宏(「劇場分子」No.33 より)

ふわりと風に揺れるカーテンの影の向こうに横たわる女性の絵がどうしてこんなにもなまめかしくみえるのか。世界が垣間見せてくれる美しい一瞬が切り取られてゆく……。
──伊藤久美子(シネルフレ ライター)

過去への痛いほどのあこがれと欲望を満たしてくれるのは映画だけ。うまれたての映画が持っていたあの卑俗さと野蛮と高貴と可笑しさが、無声映画『時』には満ち満ちてる。
──いいをじゅんこ(クラシック喜劇研究家、ライター)

映画の中で、男は女(女体?)を渇望しているように見えました。石像や写真、絵画の女に対して男は倒錯した欲望をぶつけています。『さらばズゴック』では感じられなかった人間的なモチーフが『時』には感じられたのです。それも、極めて激しい形で。
人間のいない世界をひたすら追求した『さらばズゴック』から、人間のいる世界(女のいる世界?)を作り手は求め始めている。
──井土紀州(映画監督)

いやまあなんとも前衛的な……。ビデオカメラのレンズ性能を確認する実証実験のような……。サイレントで60分もあるのに眠くはならなかったです。ともかく一度観てもらうしかないと思います。
──太田耕耘キ(ぴんくりんく編集部)

『ラ・ジュテ』は静止画の連続の中に動画がワンカット入っていたが、今から考えると映画的に素朴である。がしかし、本作は静止している映像が、映画表現の命そのものである編集という躍動を得た幸福に満ちている。編集点が次から次へと圧倒的な間隔/感覚で放たれる時、そこに観客は別次元のゆらぎを得るのである。人はそれを時間と呼ぶのであろう。まさしく映画が司れるもの、時である。私は確かにこのスクリーンで映画の時間が醸造される瞬間を見た。
──金子光亮(「劇場分子」No.33 より)

木村卓司の映画は孤独だ。滅び行くものの大いなる黄昏の僻地に立っている。滅び行くものの絶壁のしかし明確にある、縁(エッヂ)に立っている。いま数多くの映画が生まれ上映を終えていくが木村卓司の『時』はいま立たされている絶壁の縁(エッヂ)が幻などではなくくっきりそこに存在することを知らしめてくれる時間である。
──木村文洋(映画監督)

触手のようなキャメラが平面像の女体をまさぐる。すると静止していたはずの被写体が一瞬息を吹き返したように動き出す。この瞬間に戦慄を覚える。この個人映画作家が自宅の納屋から発見されたという戦前のポルノグラフィーに眼差しを向けると、そこに津山三十三人殺しが実験映画と交差する時空が出現する。そして我々は思い出す。映画は3D技術など使わなくとも初めから立体映像だったのだと。
──葛生賢(映画批評家、映画作家)

普通、人が「時」を感じているものを接写で破壊している映画だと思いました。
──高橋洋(映画監督)

木村卓司さんは膨大な量の映画を観る。ふつうそれだけ観る人の撮る映画は自分の好きな映画を再現─更新する方向に向かうと思うが木村さんはそうはしない。『時』は膨大な数の触覚性に満ちたカットをつるべ打ちし観る者に眩暈を強いる映画だ。リビドーに満ちてつるべ打ちされる膨大なカットは一つ一つが木村さんの射精だ。なんと絶倫な人だろうか。自分が撮れる映画を撮る。木村さんは映画ファンだけではなく映画作家だったのだ。
──常本琢招(映画監督)

物質の肌理(きめ)がいずれ時間の肌理を浮き立たせる。それは禁欲とは無縁の激しい欲望の結実した姿でもある。日本の同時代でそのように感じることは少ないが、嗚呼自分もこのように撮ることができたなら、と思わずにはいられなかった。
──濱口竜介(映画監督)

60分のサイレントの自主映画と聞けば、はっきりいって悪い予感しかしない。だが、勧められて渋々『時』を見た私にもいくつかのことは断言できる。この作家が、無声映画を「音を差し引かれた映画」だとはまったく考えていないということ。長くキャメラを回していれば「時」が映るなどというおめでたい発想とはまるで無縁だということ。そして、映画館の暗闇でみんなして息を凝らしてスクリーンを見つめつづけるという経験を絶対に必要としている映画だということ。最後に、これがもっとも肝腎なことだが、めっちゃエロいです。
──藤井仁子(映画評論家)

《料金》
一般1500円 学生・シニア1300円
会員1300円 学生会員・シニア会員1100円


[貸館]映画上映者の国際交流!日本・インドネシア編
上映&トーク「上映者と作り手の幸福な連携」
創作の拠点に神戸を選んだ濱口竜介監督に、地域と上映コミュニティの意味を聞く
2014年11月19日(水)17:00〜20:30
会場:神戸映画資料館

indonesien01街なか、ネット、スマホ…。映像があふれる今、暗闇の中で大スクリーンに向かう映画体験は、かけがえのない特別なものです。日本では80年代から主要都市のミニシアターで世界の映画、個人映画、名作クラシック、ドキュメンタリー映画のような多様な映画が上映されてきました。インドネシアでは、国際映画祭で評判の作品を各地域で巡回上映する活動が始まったところです。
今回、インドネシアでインディペンデント映画の製作や上映をしているゲストを迎え、日本の作り手、上映者、観客と出会う数日間を企画しました。インドネシア映画と日本映画を並べて見て語り合い、両国の映画環境について共通の課題を探りながら交流する事業に、ぜひご参加ください。
[公式サイト]
17:00~
エドウィン短編集
 Edwin’s shorts
(2002~2008/インドネシア/DVカム/43分)
監督:エドウィン Edwin
カンヌ映画祭・監督週間の初インドネシア短編『木の娘・カラ』を含む、エドウィン監督の多彩な初期短編。『ゆっくりな朝食』『犬と結婚した女』『とても退屈な会話』『傷にまつわる話』『フラフープ・サウンディング』。斬新でタブーに挑む作品群は、インドネシア本国ではどんな風に上映されているのだろう?(協力:大阪アジアン映画祭)

18:00~
不気味なものの肌に触れる

Touching the Skin of Eeriness
(2013/日本/Blu-ray/54分/出演:染谷将太、渋川清彦、石田法嗣、ほか)
監督:濱口竜介 Hamaguchi Ryusuke
東京藝大在籍中の『PASSION』、東日本大震災で津波被害を受けた人々の「対話」を撮った『なみのおと』ほか東北記録映画三部作(共同監督:酒井耕)など、国内外で高い評価を受ける濱口監督。「即興演技ワークショップin Kobe」など商業性にとらわれない異色の創作活動を続ける。本作は豪華なキャストを迎え、不穏な人間模様を描く。

19:00~20:30 トーク
ゲスト:濱口竜介(映画監督)、田中範子(神戸映画資料館支配人)、インドネシアの皆さん
アート系上映館の多い神戸に活動拠点を移した濱口監督に、インドネシアの上映者たちが話を聞く。作り手にとって地域とのコラボ、上映者の存在とは?

インドネシアから来日
メイスク・タウリシア(映画プロデューサー&KOLEKTIF代表)Meiske Taurisia
インドネシア映画で初めてベルリン国際映画祭コンペ部門にノミネートされた『動物園からのポストカード』(監督:エドウィン)のプロデューサー。ほか『空を飛びたい盲目のブタ』など、世界の主要映画祭に選ばれる秀作を製作し続ける。バビブタ・フィルムズ代表。ファッション学校と映画学校でも教鞭をとる。2014年に映画制作者と地域上映コミュニティをつなぐ独立配給プラットフォームKOLEKTIFを設立。
アドリアン・ジョナサン(映画ライター、『Cinema Poetica』編集長)Adrian Jonathan
2010年より仲間たちとジョグジャカルタで映画評を発表。ポストカードで無料配布する形から、インドネシア映画文化を総合的に評し分析するウェブサイトの運営に展開。映画上映、討論会、批評家ワークショップの主催者。映画リサーチ (KONFIDEN FOUNDATION)、映画祭の作品選定(Festival Film Solo)なども。2013年、ベルリン映画祭タレント・キャンパスに招待参加(映画批評部門)。
サリ・モフタン(映画祭企画、ラインプロデューサー)Sari Mochtan
環境や再生エネルギー関係の職を経て、ナン・アハナス監督『囁く砂』『ベンデラ―旗―』など多くの製作現場でラインプロデューサーを務める。ジャカルタ国際映画祭で半数以上のイベントを担当する。

 

本プログラムは「多様な映画の観客育成プロジェクト(日本・インドネシア編)」の一環として開催されます。

主催:ドキュメンタリー・ドリームセンター、NPO法人独立映画鍋、KOLEKTIF
後援:駐日インドネシア大使館
協力:神戸映画資料館、Planet + 1、名古屋シネマテーク、アレイホール、アテネ・フランセ文化センター、大阪アジアン映画祭、東京国際映画祭、Jogja NETPAC Asian Film Festival, Festival Film Dokumenter Yogyakarta
協賛:Tembi Rumah Budaya、ガルーダ航空
助成:国際交流基金アジアセンター、アーツカウンシル東京

《料金》1,000円(全プログラム通し)
《会場》神戸映画資料館
お問い合わせ: Tel:070-5664-8490 (11:00~18:00) Email: doc.dream.center@gmail.com
URL www.eiganabe.net


ロシア・ソヴィエト映画 連続上映
第11回 グルジア特集2

2014年11月22日(土)~24日(月・祝)
グルジア映画の新時代を開いたと言われるレゾ・チヘイーゼとテンギス・アブラーゼの作品を上映。

senkawokoetew「戦火を越えて」
Отец солдата
(1964/92分/35mm)
グルジアフィルム
監督:レゾ・チヘイーゼ
脚本:スリコ・ジゲンティ
撮影:レフ・スーホフ、アルチール・フィリパシビーリ
音楽:スルハン・ツィンツァーゼ
出演:ゼルゴ・ザカリアーゼ、ケテワン・ボチョリシヴィリ、ウラジミール・プリワツェフ、アレクサンドル・レベデフ
第二次大戦中のグルジア。戦争で負傷した息子を見舞いに行こうとした農夫が、なりゆきでドイツへ反撃する部隊の兵士となってベルリンまで行くが……。英雄物語ではない個人的体験として戦争を描く。テンギス・アブラーゼと共同監督した『青い目のロバ』(1955)によりグルジア映画の新時代を開いたと言われるレゾ・チヘイーゼ監督作品。

 

naegiw「ルカじいさんと苗木」
Саженцы
(1973/90分/35mm)
グルジアフィルム
監督:レゾ・チヘイーゼ
脚本:スリコ・ジゲンチ
撮影:アベサロム・マイスラーゼ
音楽:ノダル・ガブーニャ
出演:ラマーズ・チヒクワーゼ、ミシコ・メスヒ
幻のナシの苗木を探して、グルジアを旅するルカじいさんとその孫が主人公のロードムービー。二人は道中で出会った人々に助けられながら旅を続ける。昔ながらのもてなしの美徳を保ちながらも、大きく変貌していく町や農村、人間の姿が描かれる。

 

kibounokiw「希望の樹」
ДРЕВО ЖЕЛАНИЯ
(1977/108分/35mm)
グルジアフィルム
監督:テンギス・アブラーゼ
原作:ゲオルギー・レオニーゼ
脚本:レヴァズ・イナニシヴィリ、テンギス・アブラーゼ
撮影:ロメール・アフヴレディアニ
音楽:ベジーナ・クヴェルナーゼ、ヤコヴ・ボボヒーゼ
出演:リカ・カヴジャラーゼ、ソソ・ジャチヴリアニ、ザザ・コレリシヴィリ、ソフィコ・チアウレリ
ロシア革命前の、グルジア東部の小さな村。美しい娘が羊飼いの恋人から引き離され、金持ちと結婚させられたことから起こる悲劇をコーカサス地方の豊かな自然を背景に描き出す。美しくも残酷な処罰のシーンや、愚かしくも魅力的な村人たちが印象的な、アブラーゼのグルジア史三部作の第二作。

 

主催:神戸映画資料館、アテネ・フランセ文化センター
協力:ロシア映画社

《料金》入れ替え制
1本あたり
一般1200円 学生・シニア1000円
神戸プラネットシネマ倶楽部会員1000円 学生・シニア会員900円
アテネ・フランセ文化センター会員1000円
《割引》
当日に限り2本目は200円引き

渡辺護自伝的ドキュメンタリー 1部・2部一挙上映
2014年11月29日(土)・30日(日)

半世紀にわたり映画を撮りつづけた巨匠・渡辺護にカメラは密着する。本作は監督自身の映画演出を具体的に探るドキュメンタリーであり、昨年末故人となった同監督が残してくれた貴重な映画史の証言である。

渡辺護自伝的ドキュメンタリー第1部
「糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護」
(2011/122分/DVCAM)
構成:井川耕一郎
出演・語り:渡辺 護
撮影:松本岳大、井川耕一郎
録音:光地拓郎 編集:北岡稔美
構成補:矢部真弓、高橋 淳
製作:渡辺 護、北岡稔美
協力:渡辺典子、太田耕耘キ、淡島小鞠、荒木太郎、広瀬寛巳、向井淳子、映画美学校

井川耕一郎監督による解説
2009年の秋、私の脚本で渡辺さんが撮るはずだった映画が製作延期になり、急にやることがなくなってしまった。
「渡辺さん、ぼーっとしていても時間のムダですから、何かしませんか?」
「するって、何を?」
「渡辺さんがいて、カメラがあれば、映画はできるでしょう。渡辺さんがカメラの前で自分のことを語ればいいんですよ」
というわけで、始まったのがこのプロジェクトである。

撮影は2009年12月にスタート。2010年3月までは週末のたびに渡辺さんの家で、4月以後は月一回のペースで映画美学校で行われた(研究科の授業の記録ということである)。
12月に撮影は終了したが、あと一、二回の撮影が必要なようである。

プロジェクトの全体像は以下のとおり。
第1部:『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』(2時間)
第2部:「渡辺護が語るピンク映画史」(2時間)
第3部〜第10部:「渡辺護による自作解説」(30分×8本)
(第3部以後は、作品をいくつかの系列に分け、渡辺護が自作解説を行うという構成になる予定)

今日、上映するものはプロジェクトの第一部で、渡辺さんが監督デビュー作『あばずれ』を撮るまでのことを語っている(ちなみに、第1回ズームアップ映画祭で作品賞をとった『少女縄化粧』が『あばずれ』の時代劇版リメイクであることはあまり知られていないのではないか)。
と言っても、これは単なる序論ではない。なにしろ、二百本以上の映画を撮った男が自分の人生を語るのだ。その語り口が、映画と似てくるのは当然のことだろう。
たとえば、渡辺さんが語る1945年8月6日には、事実と異なる部分がある。しかし、遠くで起きたことが直感的に分かってしまうというのは、『おんな地獄唄 尺八弁天』でも、『谷ナオミ 縛る』でも見られたことだ。
つまり、第一部は、渡辺護が自分の人生を題材にしてつくった新作というふうに見ることもできるだろう。

渡辺護の演出については、たとえば、次のように書かれてきた。
「カツキチからカツドウヤへ転進する途上で演劇青年として叩き込まれたスタニスラフスキーシステムに始まる一連の古典的な素養は、ここでもまた自在に活用され切っていると言っていい」
(『日本映画テレビ監督全集』1988年版・キネマ旬報社)
「早稲大学演劇科から八田元夫演出研究所に参加。TV時代劇の出演などもこなしたことからか、今にいたるも、踊って(自ら演技の模範を示して)演出するというのも、マキノ雅広などのカツドウ屋を彷彿とさせる」
(別冊PG vol5『PINK FILM CHRONICLE 1962-2002 幻惑と官能の美学』2002年)
だが、文字でこのように書かれても、どういう演出なのかはつかみにくいのではないだろうか(「カツドウヤ」、「スタニスラフスキー・システム」、「踊って」、「マキノ雅裕」がどのようにつながるのかが見えてこない)。第一部『糸の切れた凧』が、渡辺護の演出をより具体的に探る試みの第一歩になっていればいいのだが……。

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右端が渡辺護、左から2人目が山本晋也

渡辺護自伝的ドキュメンタリー第2部
「つわものどもが遊びのあと 渡辺護が語るピンク映画史」
(2012/138分/DVCAM)
出演・語り:渡辺護
製作:渡辺護、北岡稔美
撮影:松本岳大、井川耕一郎
録音;光地拓郎
編集:北岡稔美
構成補:矢部真弓、高橋淳
構成:井川耕一郎
協力:渡辺典子、新東宝映画株式会社、銀座シネパトス、太田耕耘キ(ぴんくりんく編集部)、林田義行(PG)、福原彰、荒木太郎、金子サトシ、宮田啓治、鈴木英生、高橋大祐、映画美学校

井川耕一郎監督による解説
渡辺護自伝的ドキュメンタリープロジェクトの第二部をピンク映画史にすることは、早いうちから決めていたことだった。
渡辺さんならピンク映画史が語れるだろう。そう思ったのは、『映画芸術』1970年11月号に載ったエッセイ「何が難しいことだって ピンク監督の弁」を読んだときだ。
ピンク映画の現場を面白おかしく紹介することをねらったそのエッセイは、短いものではあったけれども、ベッドシーンの撮り方や女優のタイプの移り変わりを具体的な例をあげながら書いていた。それはピンク映画史を記述する試みでもあったのだ。

第二部にとりかかる前に考えた方針は、『史記』の列伝のように行こうということだった。
つまり、人を語ることがそのまま歴史を語ることになるというスタイルである。
まずは「若松孝二と向井寛」、「小森白と山本晋也」というふうにお題を立ててインタビューをすることから始め、その後は自作解説の流れの中で、スタッフやキャストがどんな人だったかを聞くようにした。
渡辺さんの話は脱線脱線また脱線といった調子で、多くのひと、多くのエピソードが次々と出てきた。それらをすべて第二部にとりこむことはとうていできない。こぼれ落ちた重要な話は第三部以後の自作解説篇でとりあげることになるだろう。

それにしても第二部制作中、ずっと気になっていたことがあった。それはエッセイ「何が難しいことだって ピンク監督の弁」から感じ取れる渡辺さんの目だ。
1970年の時点で、渡辺護はピンク映画の代表的監督の一人となっていたはずだ。監督として脂がのってきた頃である。なのに、遠い昔をふりかえるかのようにピンク映画の現場を見つめているこの目は、一体何なのか?
一気にしゃべりまくるような調子のいい文体で書かれているけれども、このエッセイの裏側には、ひやりと冷たい何かが流れている。
そして、その冷たさは、『(秘)湯の街 夜のひとで』のラストシーンに映る川の冷たさを思い出させるのだが……。

10月の終わり頃、用があって渡辺さんの家を訪ねた。
予想していたとおり、渡辺さんは元気がなかった。
「向井が死んで……野上(正義)が死んで……なんで若松まで……、若ちゃんとは会って話をしたいと思っていたんだ……」
それだけ言うと、渡辺さんは黙ってしまった。
しかし、第三部をつくるうえで確認しておきたいことがあったので尋ねてみると、渡辺さんは次第にいつもの調子を取り戻してきた。
息つぎなしでしゃべり続ける渡辺さんを見て私は思った。
いつまでもしょんぼりしていてはいけないのだ。そんなことを亡くなったひとは望んでいない。生き残った者には語り伝える義務がある。
渡辺さんの語りの中で、ピンク映画の活気がよみがえる。撮って、飲んで、ケンカをしてをくりかえすつわものどもの群像喜劇、お楽しみ下さい。

渡辺 護(わたなべ まもる)
1931年、東京生まれ。1965年 、成人映画『あばずれ』で監督デビュー。映画監督本数:約230作品。谷ナオミ、東てる美、美保純、日野繭子、可愛かずみ…数々のスター女優を発掘しヒロインに育て上げてきたピンク映画界の第一人者。2013年12月24日逝去。

井川 耕一郎(いかわ こういちろう)
1962年生まれ。脚本家・映画監督、映画美学校 講師。ピンク映画の脚本は、1994年『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(監督:鎮西尚一)、1996年『黒い下着の女教師』(監督:常本琢招/O・V)など。最近作は2008年『喪服の未亡人 ほしいの…』(監督:渡辺護)。2000年『寝耳に水』(出演:長曾我部蓉子)監督。35mmのピンク映画『色道四十八手 たからぶね』が今年公開。

[12月公開予告]
ピンクリンク編集部 企画
「渡辺 護 はじまりから、最後のおくりもの。」
〜『あばずれ』から『色道四十八手 たからぶね』まで

《料金》
一般1300円 学生・シニア1100円
会員1000円 学生会員・シニア会員900円

《割引》当日に限り2本目は200円引き
*ご入場者に渡辺護監督ポストカードと『色道四十八手 たからぶね』35mmカットフィルムをプレゼント!(なくなり次第終了)
*各上映回、先着10名様にピンク映画ポスター・プレゼント


これまでのプログラム|神戸映画資料館

※内容は予告無く変更する場合があります。

※作品によっては、経年退化で色褪せしている場合がございます。予めご理解ご了承の上、ご鑑賞くださいますようお願い申し上げます。