今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「恐怖の対談:映画のもっとこわい話」

著者:黒沢清
出版社:青土社
発行年月: 2008年5月
 黒沢清は、自身が映画を撮り始めた頃に、〈映像〉と〈映画〉の違いについて、次のように悩んでいたそうだ。「映画と映像は同じものではない。映画が映像だと言い切るには、書物の本質が紙とインクだと断言できるくらいの理論武装が必要だ。それがどんな紙であるのか考えなくても本が読めてしまうように、僕たちは映像について何ひとつ知らなくても(それが映像だということを知識として知ってさえいれば)映画を見ることができる。映像は、実際、人がとりあえずそれを見てしまう、ということ以外には何の役にも立たない。(・・・)紙とインクに較べればまだほんの少し新しいけど、でも、そんなものは絶対に面白くも美しくもないのだ。だから、映画とは人がただ漠然と映像を見続けない為に考案されたシステムのようだ。なんだ、たかが映像じゃないか、そう呟かれることを映画は最も恐れる。(…)あなたが見ているものは映像なんかじゃない、何か別のものなんですよ、そう語りかけるのが映画の使命だ」(「ペテン師8ミリカメラマンは悩んでしまう。」『ストリート・ムービーキッズ』)。
 昨年の『映画のこわい話:黒沢清対談集』、そして今回の『恐怖の対談:映画のもっとこわい話』(青土社)と立て続けに刊行された黒沢清の二冊の対談集の前に、『黒沢清の映画術』(新潮社)というタイトルのインタヴュー本も出ているが、黒沢清が映像と映画の悩みを抱えながらも、「映像作家」ではなくて、「映画監督」以外の何者でもないことをわれわれはその映画を見て、よく知っている。そんな紛れもなく映画監督の黒沢清は、この「映画のこわい話」というタイトルの対談集で、文字通り〈こわい話〉をしている。ここで間違えてはならないのは、〈こわい映画の話〉ではなく〈映画のこわい話〉であって、様々な他者たちとの対話を通じて、〈映画が最も恐れる〉ことを縦横無尽に語ろうとしているのだ。
 ところで、映画監督の仕事とは何か。黒沢清は映画監督の仕事は突き詰めると「ワンカット」を撮ることだと『映画術』で言うし、二冊の対談本でも繰り返しワンカットの重要性にういて述べている。監督の仕事は、出来事の持続をワンカットで撮ることであり、そのカットの始まりと終わりを決めることだ。確実に起こってしまった出来事をワンカットで撮り、そのワンカットを編集した映像としてではなく、映画の画面として作りだし見せることである。ところが、「ワンカット」には、確固たる美学的な基準を見出すことはできず、もっぱら感覚的なものに過ぎない。つまり、何かが起こったということ以外には確かなことは何もない。そんな脆弱な事態に、映像作家ではない映画監督は自分の才能を賭けなければならないのだ。
しかし、多くの人はこの確かなことが何もないという脆弱な出来事、つまり「ワンカット」であることに耐えられない。恐怖すると言ってもよい。あるいは、確固たるものではない脆弱である事態だからこそ逆説的に有するあまりの豊かさに人は目が眩んでしまう。だから、ワンカットから目をそらし、思わずスクリーンのどこにも映っていない、目には見えない、主題や、ドラマや、物語や、俳優の演技だの、演出方法だの、ひいては「感動」や「恐怖」といった心理状態を持ち出して〈説明〉しようとする。こうして、黒沢清がリチャード・フライシャーのワンカットについて言及していた言葉を引くなら、「あるアングルで撮ると要らないドラマ」が浮上してくるのだ(『恐怖の対談』)。しかし、アングルと構図によってドラマを作り出すことに賭けた映画があるのも歴史的な事実であり、この黒沢の発言を受けて、一方にそのドラマによって映画をつくりあげてきたのがグリフィスであるという蓮實重彦の指摘は、映画史を考える上で決定的に重要だと思う。これを踏まえて、ここで、われわれは映画が映画であるためには克服すべき、心理とはまったく別の〈恐怖〉があることをもう一度真摯に考え直さなければならない。言うなれば、映画はその誕生からすべからく〈恐怖映画〉なのだ。
 現在においてもなお映画の歴史において多くの監督たちがこの〈恐怖〉について考え抜いた末に生み出し続けている様々な克服の努力を、単純に撮影の技術や作品の主題や歴史的な条件などに還元する前に、立ち止まって考えてみる必要があるだろう。黒沢清は、それを「映画ってこういうことが面白いはずだ、という確信と意地」と言っている。この「確信と意地」を、恐怖を克服すべく喚起された「欲望」と言い換えてもよい。映画を撮る側だけにとどまらず、見る側にも、いわんや上映する側にも、映画に関わる人間は誰しもがそれぞれ持っているものかもしれない。どんな映画だって面白いものにしたいと思うのだ。こわくもなければ、面白くもない、要するに、つまらない映画を誰も見たくないし、見せたくもないはずなのだ。
 黒沢清の二冊の対談集でいずれにもタイトルとなっている「こわい」をジャンルとしてのホラーに安易に還元してはなるまい。何をもって映画は映画になるのか、その根拠のなさの恐怖に脅えた人間同士の対話がとても「こわい」。逆に言うと、この恐怖を理念的に理解している相手の場合は、あまり「こわくない」。話はとてもよくわかるし、納得もできるのだけど、でも「こわい」からこそ、もう一度見たくなるのではないか。
 かつて金井美恵子が「映画であれ小説であれ、作品そのものの方が、作者の語る言葉より実は多くを指し示しているかもしれない。しかし、指し示されている無数の断片に、いかに鋭く繊細に感応することが出来るかを作者に(カメラマンやセット・デザイナーや俳優を含めた、作者たちに)差し出しかえすことがインタヴューなのであり、文章による批評というある意味で一方通行的であるかもしれない形式をこえた交換に人をおもむかせる最大の理由なのだ。/インタヴュアーの才能とは、単に相手から話をきき出す能力のことなどではないだろう。作品が指し示している断片をきき手と語り手が交換することによって、鮮やかに浮かびあがらせることの出来る能力のことなのだ」と述べていて、それをベルトルッチのインタヴュー本のタイトル『母なる光景(クライマックス・シーン)』より、ロラン・バルトの『偶景』という日記のタイトルにある言葉の方が映画のインタヴューにはふさわしいと述べていた(『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬパート2』)。
 〈偶景〉というこの確固たるものは何もなく、脆弱で、しかし偶々にせよ確実に出来事は起こっているまさにワンショットというほかない光景の数々が描き出されている「日記」(バルトは別のところで、日記とは、まさに世界の非本質的なものを、非本質的なものとしての世界を本質的に表現する形式として考えられて実践さるべきものと述べている)を読むのではなく、映画として見ること・・・。
 映画を撮る人間の「恐怖」については、実際に自分で映画を撮ってみなければ実感としてはわからないかもしれない。だが、たとえば、『恐怖の対談』の漫画家・伊藤潤二との対話を読んでみよう。これはどちらかというと、黒沢清がインタヴュアーに回り、インタヴュアーとしても恐るべき才能を発揮しているのだが、ここでのジャンルの違いを超えた交換から読む者たちは、ある発想が作品に結実していく様子が鮮やかに浮かび上がっていくのに圧倒されるだろう。まさにこの対談のタイトルにあるように、「こわさを画にする」こと、それは漫画が絵やコマでないように、映画が映像ではなく映画であることを、こわいほどに鮮やかに浮かび上がらせる。読者は黒沢のこのインタヴューによって、読むというより、まるで映画のスクリーンを見ているような感覚に襲われるだろう。いつの間にか何か「こわい」ものを見ている観客になってしまっているのだ。
 本書を読んで「こわい」と思った作品があれば、余計なことを考えずにまずはそれを見てみるべきだ。黒沢清が「こわい」あるいは「すごい」と言う作品に、あるいはそのワンカットに、ハズレはないと断言できる。そのうえでなおかつ映画を撮ることでしかわからない秘訣のようなものは確かにあるだろう。その秘訣は、もしかしたら今夏開催される「神戸映画ワークショップ」で黒沢清の口から語られるかもしれないし、それに駆けつけられなかったならば、間もなく公開の、恐怖が主題ですらない恐るべき最新作『トウキョウソナタ』を見れば、誰もが感動とともに震撼させられるはずだ。(前田晃一)

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