今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「シネキャピタル」

著者:廣瀬純
出版社:洛北出版
発行年月:2009年5月
本書が提示するのはあくまで一つのフィクションである(考えてみればわかるように、ヒッチコックの鳥にギャラが支払われるということは実際にはおこらない)。ゆえにこのフィクションは、本書において議論の展開の中心となるドゥルーズの映画論『シネマ』に精緻な理解を目指すための手引きをあたえるものではない。またそれによって欺いたりするような技術として用いられているのでもない。本書においてフィクションは、『シネマ』をフル活動させ、さらに遠くへ、アクチュアルなものへと連れて行く原動力となるものとして用いられている。つまりフィクションは『シネマ』という一つの歴史=物語を別の次元へと移行させる戦略的な武器として使用されているのである。本書はこの武器を携えて、『シネマ』の解説や解釈へ向かうのではなく、『シネマ』とともに新たな方向へと進むことで、十全な『シネマ』の強度の表現を試みている。
ではそのフィクションはどのようにして構成されているのか。それは映画における運動と、我々の生において根本的な実践である労働という独立した二つの問題系をモンタージュする=関係づけることでつくりあげられている。つまりこの二つの問題の系列の間にある関係を考えることをフィクションは可能にするのである。このような複数の系列の問題を行き来し、渡り歩くこと、すなわちフィクションを語ることをディスクール(ラテン語の「discurro=異なる方向に走っていく、歩き回る」を語源とする)と呼ぶことができるだろう。ここで重要なのは、ディスクールの歩みのスピードをゆるめ、ただ通り過ぎるようなものとなるのではなく、本書でも取り上げられるベンヤミンの言葉のようにブレーキをかけ、物語られていることを十全に把握できるようなものにすることである。そしてこの歴史=物語のスピードにブレーキをかけるという態度こそ、本書が提示する映画と我々の生に共通するもっとも重要な実践的態度なのである。この態度にのっとり、我々も本書のディスクールの歩みにブレーキをかけるべき時を見計らいながら、その歩みをたどることにしよう。
本書が危機的な状況として扱うのは、映画における搾取のシステム=シネキャピタルである。このシステムは全体がくまなく映画の素材となった「メタシネマ」(10頁)としての世界から映画作品を構成する労働力としての普通のイメージを購入し、それらに剰余価値を与えるためにモンタージュする=協働・労働させることで、普通のイメージたちがもっていた「純然たる潜在的能力としての労働力」(34頁)から際立つもの、すなわち剰余価値を抽出する。搾取はこの普通のイメージたちの協働によって生産される剰余価値を、イメージたちではなく映画システムの取り分としておりこまれることで生じる。このような協働させることによって抽出された際立つものは剰余価値として流通することで利益を生むだけではなく、イメージを見る者に際立った感情や欲望といった効果も与えることになる(だが見る者は、効果の抽出に参入することでタダ働きさせられることになる)。この本でヒッチコックが特権的な立場として登場するのは、前述した作り手の側だけのシステムであったシネキャピタルを観客までを巻き込んだ、総合的な剰余効果・剰余価値を支配するシステムとして完成させたからだ(115頁)。映画の語る歴史=物語、それは普通のイメージの協働による剰余効果の抽出とその効果の映画システム側への搾取という一貫したプロセスによって産出されるのである。
このようなヒッチコックを頂点とする搾取のシステムが産出する歴史=物語、さらに剰余価値=夢のクリシエ化とそのパロディ化の悪循環(59頁)による歴史=物語の終焉というネガティヴな問題に対し、我々はいかなる絶対的にポジティヴな歴史産出の闘争を行うことができるのか、これが本書が投げかける重大な問いである。この問題に対し本書では、現代映画において現れる「労働(剰余価値の生産)の拒否」を宣言した「普通のイメージたち」をその答えとして登場させる(71頁)。彼らは「労働を拒否し自律的なやり方(社会保障やベーシックインカムといったシステムとの新たな契約)で自分の生を生き始めるプロの失業者たち」(89頁)であったり、小津の映画のように際立つもののない日常的な凡庸さの中で生きる人々である。このような人々が「潜勢力」としての「絶対的な非−労働の権利」(186頁)を行使することによって映画の語る歴史=物語にブレーキをかけることができると本書は主張する。
我々はここで本書のディスクールにブレーキをかけることにする。というのも前述した本書によって投げかけられた問いに対し、我々自身もさらなる闘争の方法を考える必要があるからだ。たとえば労働の拒否に加えて、労働の過剰さの上演によってシステムにブレーキをかけることはできないだろうか。本書で幾度もとりあげられる映画作家ゴダールの『フォーエヴァー・モーツアルト』のワンシーンを見てみよう。そこでは内戦中のサラエヴォらしき場所で瀕死になっていた男女を「安い役者」として連れてきて映画を撮ろうとしている(映画内映画)。監督のヴィッキーは嵐が吹き荒れる中、女をカメラの正面に立たせセリフである「ウィ」を何度も言わせるが、その都度「ノン」で返す。何度もテイクが繰り返される中でついに彼女は耐えきれなくなり、砂浜へ走り去り、その場に倒れ込む。そしてカメラは倒れた彼女の表情をアップでとらえるのだ。そのとき本書でも引用されるオリヴェイラの言葉(166頁)から取られたと思われる「私は映画のそこが好きだ。説明不可能な光を浴びた壮麗な徴たちの飽和」というヴィッキーの声が入る。そして彼女は「ウィ」とつぶやくのである。ここで行われているのは本書で批判されている強烈なまでに過酷な労働であり、イメージに対する搾取の上演以外の何ものでもない。しかも彼女が労働から逃れようとした場においてもなお、カメラを回し、労働させようとするのだ。そこにはもはやイメージに自分の生を生きる非−労働の権利など存在しない。あるのは権利として選ぶことなどできない絶対的な必然性、あるいは過酷で痛々しい演技と生が一致した労働だけだ。しかしそのときイメージは剰余価値として消費されきらないような、過剰に際立った徴となり、我々を貫き、映画の歴史や剰余価値生産活動にブレーキをかけるのだ。このようでしかありえないような必然性のただ中で労働=活動する痛みや過剰さを表現すること、これもイメージの闘いの一形態であるといえるのではないだろうか。
我々は本書のディスクールの歩みに少しばかりブレーキをかけて、我々のディスクールを語った。それは幾分本書をフィクション化する行為であると言えるかもしれない。しかし本書がその根底に響かせているのは、まさにこの与えられてある歴史にブレーキをかけながら、我々の歴史を語ることへの誘いなのである。本書でも言われているように、歴史は終わることなく、新たな波として語り続けられるだろう。そして同じように我々は我々の生において閃光を放つ記号を読みとって、新たな記号に変換するという労働をやめることはないだろう。あるいは相も変わらず映画館に行き、暗闇の中で灯された記号を読みとり、それぞれの歴史を描き続けるはずだ。本書が実践し、我々に誘いかけるのは終わることなき歴史の記述なのである。
(芳村優希)

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