今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010」

著者:青山真治
出版社:朝日新聞出版
発行年月:2010年2月
本書は、映画監督青山真治がここ10年間に各誌で発表した文章をまとめたもので、全600ページに及ぶ大著である。副題にあるようにほとんどが映画評論だが、書評や日記形式のエッセーも含まれていて、バラエティーに富んだ内容になっている。
全4章から成り、「第一章 それでも映画は死なない」は比較的短く、序章ともいうべき章である。ここで著者は、映画の本質は物語や心理ではなく、潜勢力を持つ純粋な運動としての身振りにあると指摘し、その命題を具体的に検討を重ね実証しそこにこそ映画の可能性はあると断言する。同命題は本書の終章であるあとがきで、「映画は細部と運動を第一義とする」と言い換えてダメ押しされ、その間に位置する数々の映画論では、個々の映画作品の中の身振りや細部から映画の本質が具体的に解きおこされていくのである。
「第二章 アメリカは呪われている」は、アメリカ映画の評論を集めている。特に「アメリカ映画の現在」というシリーズは、あとがきの補遺を含めると100ページ近い労作で、かつ刺激に満ちた語り口で読む者を啓発してやまない。60年代後半から現在までのアメリカ映画をさまざまな角度から考察し、非常に系統的で立体的なアメリカ映画論、アメリカ映画史観を展開している。それはまず、70年代のアメリカ映画に特徴的な映像描写から語り起こされ、映画作家たちの成功と挫折、その変還を、多くのキーワードを駆使して21世紀までたどり、正史を示す。次に映画人が別名(アラン・スミシー等)を用いるというハリウッドの奇妙な制度に触れ、アメリカ映画の実体は資本家プロデューサーに代表される<主体>に牛耳られており、アメリカ映画史とは実は映画作家たちとこのアメリカ映画の<主体>との過酷な葛藤の歴史であることを説く。こうしてアメリカ映画の真の現在が重層的に示される。著者は多くの映画作家の名をあげて具体的にその足跡をたどっているが、40年間<主体>と対等に渡り合う独立独歩の歴史を生きてきたクリント・イーストウッドと、<主体>に入り込んでなお逡巡と挑戦を続けるスティーブン・スピルバーグを、葛藤御の歴史であるアメリカ映画の生んだ最大の映画作家と捉えている。・
「第三章 ここに女はいない」はアメリカ以外の様々な国の映画論と、小説家でもある著者の多くの書評をおさめている。前章では、研究者ともいえる一面を見せて長大な映画史論を展開したが、この章ではシネフィルとして、存分に映画の魅力、映画に対するこだわりを語っている。著者の語る映画がもたらす興奮、快楽、幸福感に映画を愛する者なら誰もが思いあたるだろうし、又、著者が熱意をこめて再現する細部や俳優の動きに、映画の新たな側面を教えられるだろう。この章で最も深い印象を残すのは、最初の2つの文章で語られるジーン・セバーグだ。この多くの映画人とすれ違い、謎の死をとげた女優を、著者は現代のジャンヌ・ダルクと呼ぶ。ちなみに、本書にはキュートなジーンセバーグが隠れている。お楽しみに。
「第四章 機関区ロック」は「プロムナード」「御意見無用!カルチャー日記」「機関区ロック」という三つの連載エッセーをまとめたものが中心となっている。ノリ重視の「御意見無用!カルチャー日記」が楽しい。映画短評、家族と飼っている猫のこと、青山作品でおなじみのスタッフ、俳優の面々について、旅行記、好きな音楽、特にロックについて、故郷である北九州への思い、当時の思い出、映画の師である人々について、などなど、日常のこと、周辺のこと、自身のことが率直に語られて、ありのままの青山真治像が浮かびあがり、青山ファンにはうれしいコーナーになっている。
さて、この本には全ての章にわたって繰り返し登場する人物がいて、それは中上健次である。おそらく決定的な出会いにより、中上健次は著者の血肉となり、基盤の如き存在となっているのだろう。例えば、<主体>と葛藤する映画作家たち、スプーク(幽霊)、セレブでなく地下に潜む者たち、ジャンヌダルクと化した女優、又、書評で取り上げられるのは、鬼、けうとい存在、疎外、バカ、不敬文学、そして路地―――本書に一貫しているのは主体、主流、中心から外れた、又は外された者たち、それでも孤軍奮闘している者たちへ寄せる思い、文句なしの共感である。そして、映画や文学においてはそこにこそ可能性があると著者は考えている。(「文化」を持たないことが「独自性」を生み「強さ」に繋がる―「文学と文化の谷間にて」より)ほとんど体質と化してしまったような著者のこうした姿勢は、どうやら中上健次が原点であるようだ。
(斗内秀和/神戸映画資料館スタッフ)

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