今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「映画、わが自由の幻想」

著者:ルイス・ブニュエル
出版社:早川書房
発行年月:1984年7月

「映画、わが自由の幻想」は、「MON DERNIER SOUPIR(わが最後の吐息)」の原題で1982年に出版された。ブニュエルは翌83年、83才で死去している。ブニュエル自身が半自伝的とよぶこの本によって、読者はまさに彼の最も幼い頃の記憶から、死の直前までの彼の生涯をたどることができる。それは、いくたの国をまたにかけ、歴史的事件を乗り切っていく男の冒険小説のようでもあり、又、類まれな感性と強靭な自我を持った一人の人間の魂の記録でもある。
ブニュエルの映画は白昼の夢に例えられることがある。『アンダルシアの犬』の冒頭、細い横雲が満月を横切り、続いて女の大きく見開いた目をかみそりの刃が真っ二つに切り裂いて横切る、という有名な場面は、ブニュエル自身が見た夢の引用である。『アンダルシアの犬』を作るに当って、ブニュエルたちが目指したのは「合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージもいっさい受け入れぬこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について詮索しないこと」であった。ブニュエルのこうした傾向は、本書のあらゆる箇所に現れている。夢、偶然、笑い、感情、矛盾、神秘、想像力、それらの説明不可能性をブニュエルは愛する。この資質こそブニュエルをシュルレアリスム運動に飛び込ませたのである。
ブニュエルは「シュルレアリスムの真の目的は社会を爆発させること、生活を変えることで」で、シュルレアリストたちは「嫌悪する社会に対し、スキャンダルを主要な武器に用いながら闘っていた」と述べている。『アンダルシアの犬』の眼を切り裂く場面はまさに衝撃的で、安定した現実をくつがえす暴力性、破壊性を象徴するものだった。以後、ブニュエルにとって映画を作るとは、説明不可能なことや、非現実、悪夢、スキャンダラスなどを映像化することによって現実を破壊、変革する、つまり日常生活の表層をはがし、宗教の支配や社会の不平等を告発することであった。例えば『ビリディアナ』のホームレスたちの宴会、『皆殺しの天使』のある邸の一室から出られなくなったブルジョワたちの悪夢、『昼顔』の縛られ鞭打たれるカトリーヌ・ドヌーブ、『哀しみのトリスターナ』の鐘につるされたフェルナンド・レイの生首、『自由の幻想』のトイレで食事をとり食卓で便器に座る一家など、その精神は晩年の作品まで一貫している。
もうひとつ、ブニュエルを語るとき避けて通れないのがカトリシズムである。ブニュエルは、「わたしは厳格なカトリックの家族の一員でしたし、八歳から十五歳までの間はジュズイットの学校で教育を受けました。わたしには、宗教教育と超現実主義の痕跡が一生の間付きまとって離れないのです。」(ユリイカ 1982年6月号 「ル・モンド」1966年インタビューより)と語っている。ブニュエルのほとんどの映画にカトリック教会が登場する。その描き方は常に否定的で冒涜的であるし、物議をかもしてきた。ホームレスたちに「最後の晩餐」を演じさせ。敬虔な尼僧が徹底的に辱めを受け(『ビリディアナ』)、キリスト像が大笑いし(『ナサリン』))極悪人にキリストのイメージをダブらせる(『黄金時代』)。又、本書でブニュエルは「信仰なきわたし」は、「神が絶え間なくわたしに目をそそぎ、わたしの健康や、欲望や、あやまちを気にかけておいでとは信じられない。神がわたしを永遠に罰することがあろうとは信じられないし、いずれにせよ、わたしは認めない。」と言い切っている。一方、ブニュエルは、シュルレアリスム運動において「わたしの心を奪ったのは特に道義の面における力だった。わが人生ではじめて、わたしは首尾一貫した、きびしい倫理に出会ったのである。」として絶えず内的葛藤を強いられながらも、その倫理を固守していく。が、ブニュエルの中でその戒律的で禁欲的な倫理観とは本質的にカトリシズムの厳格さに通じるものだったのではないだろうか。ブニュエルは生理的に、生涯カトリシズム的な厳しい精神性を守り通してきたといえるのではないか。カトリシズムはそのようにアンビバレンツな形でブニュエルに影響を与え続けたと考えられる。
ところで、本書の最初の章でブニュエルは「記憶は絶え間なく想像と夢想の侵略をうけている。そして想像の現実を信じたいという誘惑がある以上、われわれは結局自分たちのうそを真実にしてしまう。だが、その重要性は対照的なものだ。なぜなら、うそも真実も、ともにわれわれが生きたものであり、われわれ自身のものであることに変わりはないのだから。 -中略― わたしが描く自画像はとにかくわたしのものであり、そこにはわたしの断定力、わたしのためらいも、繰り返しも、空白も、わたしの真実とうそも入っていて、ひとことで言えば、これがわたしの記憶なのだ」と語っている。とすれば、映画監督という肩書きにもかかわらず、ほとんど冒険小説のような途方もないエピソードで埋めつくされた本書におけるブニュエルの人生は、一般的な映画監督というイメージの破壊であり、伝記という常識への挑戦とは言えないか。彼は映画製作の原理を本書でも実践している。本書はシュルレアリストの映画人ブニュエルの最後の作品としてふさわしいものである。

(斗内秀和/神戸映画資料館スタッフ)

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