今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「〈真理〉への勇気──現代作家たちの闘いの轟き」

著者:丹生谷貴志
出版社:青土社
発行年月:2011年9月

《クリント・イーストウッドのフィルムの人物たちはほぼ例外なく、あらかじめの宿命によってかなにかの突発事によってか「この世界」から陥没し、そして最後まで出ることはない》

新著『〈真理〉への勇気──現代作家たちの闘いの轟き』におさめられたイーストウッド論「クリント・イーストウッドは、自由と真理と残酷の映画作家である」を、丹生谷貴志氏は上のような言葉と共に書き始める。

すでに、『ドゥルーズ・映画・フーコー』の中で丹生谷氏は、《自身の崩壊過程に寄り添いながらそれと同じ速度で崩壊していく映画を作ること、これがクリント・イーストウッドという特異な作家の身上であること、そのことが、イーストウッドの老いという現実とともに、取り返しの付かない崩壊過程そのものに寄り添いながら死んでゆく映画という不思議なものを作り出す》と書いていた。そしてその「崩壊に曝された顔」と題されたイーストウッド論は、その時点での最新作『マディソン郡の橋』について語りながら、ゴムのように引き延ばされた《死んでもいなければ生きてもいない、生きてもいなければ死んでもいない厚みのない中有の瞬間》について、あるいは、《崩壊過程が終わろうとし、その終わりの始まりが始まろうとしている奇妙な宙づりの時間が反復されるような場所》について、素描するかたちで終わっていたのだった。

今回のイーストウッド論は、いわばその延長上で、『マディソン郡の橋』以後ますます冥さと不気味さをまし、謎めいていくイーストウッドの近作により沿いながら、この《崩壊過程》の、あるいはその《終わりの始まりの奇妙な宙吊りの時間》を、さらに深く掘り下げていったものだと言えるだろう。

ここでは、《崩壊過程》は《陥没》と言い換えられ、イーストウッドの登場人物がことごとく陥没していく場所は、《死の空間》と呼ばれたりもするのだが(そこまではいい)、丹生谷氏はさらに、いつものように唐突に括弧を開くようにして、ヘーゲル、フーコー、アルトーへと脱線(?)しつつ、この《死の空間》こそは《自由の空間》であり、《真理》が開く場所であり、そこに現れる《一種の弛緩、情念のゼロ度のアパシー、厚みのない白々とした広がり》の中にこそ、アルトーがあんなにも性急に放棄してしまった映画の《残酷》が開くのであると断言する。

いつもながらの乱暴な展開だが、これが丹生谷貴志氏の書くものの醍醐味だから仕方ない。読者は、丹生谷氏のクリント・イーストウッド愛をそこかしこに感じ取りながら、そのスリリングな展開を愉しめばいいのだ。とりわけ、『チェンジリング』のヒロインが陥没していく《死の空間》のなかに立ち現れる、イーストウッド的《自由》と《真理》の営みを、5ページにわたって読み解いていくくだりには、この謎めいたフィルムについての示唆に富む指摘が多々あり、興味深い。

ただ一つ残念なのは、映画が公開される前に書かれたために、『ヒアアフター』についての言及が全くないことだ。亡霊のような登場人物を何度も描いてきたイーストウッドが、初めて死後の世界を正面切って描いたこの作品を、丹生谷氏がどう語るか非常に興味を惹かれるところだが、それはまた次の機会の愉しみに取っておこう。

『〈真理〉への勇気──現代作家たちの闘いの轟き』には、映画について書かれた文章がもう一つ収められている。「死ねない絶望と超薄な『この世界』」と題されたクエンティン・タランティーノ論である。

《この「死にきれないもの」の遍在、生きることも死ぬことも奪われた者の遍在、その遍在の傍らで、或いは「中」で事件が進行し、そしてその事件全体が絶えずその「死にきれない者」の中に滞留し宙吊りになったものとして、奇妙な浮薄さを繰り広げるということ、ここにタランティーノに特異な、自覚的な固執がある》

これは、アメリカのテレビドラマ番組「CSI:ラスベガス」の、タランティーノが監督したエピソードについて書かれたものだが、『レザヴォア・ドッグス』を始めとするすべてのタランティーノ作品にもそのまま当てはまる言葉だろう。このように冒頭でいきなりタランティーノ作品の核心にふれたかと思うと、丹生谷氏の筆は、例によって横道にそれ(?)、キルケゴールの《死にいたる病》とはなにかをめぐる思索へと迂回していく。このタランティーノ論は、その実、キルケゴール論でもあるのだ(!)

キルケゴールにとって、《この世界》は徹頭徹尾《死ぬことができない》《死にいたる病》として存在する。そして《映画の世界》もまた、文字通りキルケゴール的な意味で《死にいたる病》、《死ぬことのできない世界》として存在するのだと、丹生谷氏はいう。(このあたりは、映画を主題にしたビオイ=カサーレスの奇妙な小説『モレルの発明』をつい思い浮かべてしまうところだ。そこでは《イマージュ》と化した者たちが、生とも死とも呼べない奇妙な時間を永遠に反復し続けているのだった。)

《映画とは「死にいたる病」の表出であり、或いはむしろその現前であり、或いはむしろ見る私たちを巻き込んで生成する「死にいたる病」としての世界そのものであるだろう》。だから、《「誰も死ぬことが出来ない」ものとしてしか、或いはそうしたものとしてのフィルムを撮り続けることだけに専心するクエンティン・タランティーノは、そのフィルムは、徹頭徹尾倫理的》なのである。

強引といえばまた強引な展開だが、この文章はタランティーノ論であると同時に、映画の誕生を目前にして亡くなったキルケゴール(1855年没)を、映画の同時代人として捉え直す試みでもあるのだ。そう思って読むと非常に面白い。

自分の得意分野である映画がらみの文章だけを取り上げたが、『〈真理〉への勇気──現代作家たちの闘いの轟き』には、イーストウッド論・タランティーノ論の他に、大岡昇平について書かれた二つの文章(「敗走者の生と真理──大岡昇平をめぐって」「名付けと視線の錯乱──『歩哨の眼について』の分裂」)と、吉田健一を論じた「スカー・フェイスの眼光──吉田健一に於ける詩と批評と非物質的なるもの」、そして、最後に置かれてはいるが、ある意味、この本全体の長いイントロダクションになっていると言ってもよい書き下ろしのフーコー論「鏡の魔、或いは砂浜の上の痕跡」(キリスト教の《肉》をめぐる考察)、以上六つの文章が収められている。

いずれの作家論も読み応えがあって面白いが、とりわけ二つの大岡昇平論はどちらも秀逸だ。なぜか「です・ます」調で書かれている「敗走者の生と真理」は、珍しくあまり脇道にそれることもなく、大岡昇平の《敗走者》へのこだわりをストレートに論じていて、この本のなかではいちばん読みやすい文章かもしれない(もっとも、それはわかりやすいという意味ではない)。しかしわたしには、《野営地の縁に立って敵軍の徴候を監視し続ける歩哨の眼の或る「幸福と不幸」》を主題にした「名付けと視線の錯乱」のほうにより惹かれるものがあった。

《歩哨の眼は名付け得ぬものを見てしまう。その視線において名付け-言葉-イメージは事実上散り散りになってしまい、必死にそこに意味ある形を与えようとする身振りは無際限の狂気に似始める》

ここに語られている《「見えるもの」と「見えないもの」の曖昧で名付けようのない地帯の上をなぞっていく》視線の問題は、大岡昇平の文学のみならず、映画にも少なからず関わってくるものだろう(セザンヌの絵と言葉を映画に撮るストローブ=ユイレ?)。《見ることが読み取ること-知ることと幸福な共動の中にあった臨界》が崩れゆくときに現れる《放心》、見ていることを忘れてしまう放心ではなく、《見ることに於ける放心》とは、まるで映画キャメラという《誰のものでもない視線》(『ドゥルーズ・映画・フーコー』)そのものではないか。

著者自ら認めているように、この本に集められた文章は、それぞれ別の主題について語っているようでいて、結局は同じところをぐるぐると巡っており、あちこちで響き合っている(例えば、「敗走者の生と真理」で語られる《詩の空間》は、イーストウッド論で語られる《死の空間》とほとんど同じものである、という具合に)。あるいは、むしろ、丹生谷氏はもう長い間ずっと、この《堂々巡り》を実に魅惑的にくりかえしてきたのだといえば言い過ぎになるだろうか。

乱暴にいってしまうなら、映画について書いているときであれ、それ以外のことについて書いているときであれ、丹生谷氏は常に映画のことを語ってきたのだ。丹生谷貴志氏の書くものは、「われわれが生きているこの世界はつまるところ映画なのだ」という、晴れやかであると同時に、残酷でもあるような事態についての際限のないパラフレーズである……。少なくともわたしは、あるときから氏の本をそのようなものとして読んできた。とはいいつつ、次は映画のみを論じた本を書いて欲しいとも思う。先日対談された青山真治論なんてどうだろうか、とリクエストしておく。

(井上正昭)
[関連企画]
10月10日(月・祝)神戸映画資料館レクチャー:映画の内/外
第5回 映画の夜と戦争②_『〈真理〉への勇気』刊行記念
対談:丹生谷貴志 × 松葉祥一

11月19日(土)連続講座:映画批評_新しい映画と観客のために
第3回 仮面と影──カーペンター的活劇空間について
講師:井上正昭

これまでの今月の1冊|神戸映画資料館