今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「映画を見に行く普通の男」

著者:ジャン・ルイ・シェフェール

訳者:丹生谷貴志

出版社:現代思潮新社

発行年月:2012年5月

映画とは、確認するまでもないが、その自らの光のために闇の力を借りる。読書は逆に、インクという闇のために光を要する。そして、そのインクは光を吸い込んだとていつまでもその場からこびり付いて離れようとせずに、時に紙から亡霊が立ち上がって、満百二十歳にもなる年金生活者を生み出す。一方、スクリーンを貫かんばかりの光はと言うと、そこに反射して像を成すや忽ち自分の場所を後から来る光に潔く譲り渡して、スクリーンに触れた瞬間に、遺灰が海に撒き散らされるようにして消えて行く。書物はだから(?)、墓碑のようなある種の磐石さを誇る図書館を夢見ても自ら燃え尽きることはなく、映画はそのマチエールからして人生そのものの儚さを照らし出すかのようにこの世界そのものに似始めもし、またそのスクリーンの裏にまで突き刺さることなく、そこに触れた瞬間に映画館の黒い静かさで抱え込まれる虚像を一気に吹き出し、そこに居合わせるわれわれは彼らの末期を垣間見る…… 否、そうだろうか、ただ垣間見ているだけなのだろうか、虚像というものが実像を必要とする限りは、あるいは、われわれが目を通して捉えていると思い做す世界の像が実は脳のなかで上下転倒されたものでしかなく、それもまた一種の虚像だというのであれば、そこにわれわれが見ているものはすでに虚実の区別などとうの昔に意味を失ってしまっているものではないだろうか。

本は読者に、それ特有の儚さにおいて、そこに書かれた様々な思考を生きさせようとします。読者はそこから自分自身のものとは別の外の世界を構成しなければならず、その世界を維持し、或いはそこに流れる時間を理解し計ることを迫られます──、映画の観客はと言えば、少なくとも僕という観客は、自分自身に属しながら一度として場所を得たことのない何かを文字通り見つめるという、かつてない自由の中に導かれます。観客はフィルムに属する何かではなくて、逆説的にも、観客(僕)自身の記憶を見知るのです。
(下線部は引用者)

 思考が石化してしまう瞬間というのがあって、それはわれわれが自分の外に見えるものを道具のように扱い始めたり、動かないものとして固定してしまう時のことでもあって、人間をも含めたあらゆる“流体”については悉く言葉を失ってしまうものである。その象徴とも呼べるのがカフカの測量技師であり、目の前に彼の仕事を管理する城が聳え立っているにもかかわらず、どうしても辿り着けぬまま、彼自体がどこにも辿り着くことのない浮子のように漂い出してしまう。だから、と言うか、スクリーンを目の前にしているわれわれもこの測量技師のようにイマージュを測ろうとするや、何一つ摑み取ることが出来ずに、イマージュの群れが次々と消え去って行くのを眺め垣間見るしかなくなる。シェフェールはまさにこの“視ること”と“思考すること”との合致を巡って筆を進めるわけだが、視ること=思考することによっては触れようもなく操作しようもない不可解な「他なるもの」とフィルム−イマージュの意味作用という言葉とを切り離さずに語っていく。少し長くなるが次の文章を引用しておこう。

僕らがその(注:フィルム−イマージュ)意味について自在に操作出来ると言うとき、それは僕らの中にある操作不能の「他なるもの」を切り取った上での一部分によってに過ぎない。その意味の働きはだいいちに、記号学的な記号の中には有り得ないでしょう。意味の働きは、諸記号における発明であり、そしてそれ自身ばらばらのものとして存在する「僕」という存在を、かりそめの仮縫いのようにして縫い合わせる、諸記号のつなぎ目に他ならないのです。意味はそうした働きとしてあり、そしてまた、世界が未決のものとしてしか生み出され得ないという時間性の意識そのものでもあるのです。だからこそその世界の意味は一瞬における仮の完遂ということにおいてかくも特異な愉楽となり、同時にその未決性において、終わり得ない苦悶とも名付けられるべきものとなるのです──苦悶はしかしそうした世界の宙吊りの未決性に直に結びついたものとして開示されるのではなくて、次のような事態に結びついて生ずるのです。すなわち、ばらばらの記号を縫い合わせていくつなぎ目であるという意味の特権性が(フィルムを見る僕はまさにそうしたものとなるのですが)、その世界を宙吊りにしてしまう時間への眼差しの中においては、一瞬の愉悦において完成するやすぐに崩れてしまうということ、つまりは永続的な持続とはなり得ないという事態において、なのです。
(注と強調──引用者)

もはや多言など要しないだろうが、映画の「罪」というのがこの愉悦に結びついているのは言うまでもないが、この愉悦の裏面には恐怖が貼り付いてもいる。思春期を迎える寸前のシェフェールの目に映った映画のイマージュは「辿り着きようもない場所へ」、つまり、観客である彼の方に向かって「不可能なもがきの情念の集合」としてしがみつこうとしてきて、しかもそれは形の定まらぬままに消えて行く蠢きとしてあって、「その世界全体をそのもがきで置き換えてしまうかのよう」な姿に映ったというのである。さぞかしこれなどは恐ろしい体験で、恐怖映画と呼ばれるものを見て胆を潰すといった程度のことではなく、世界がそのようなものとして映画を通して思春期の彼に映り込んでしまったわけである。そして丁度、思春期という幼年と成年とを穿つ断裂溝が口を開いた途端に、その得体の知れぬもがきと蠢きとが「映画的夜のリアリティ」として彼の生に紛れ込んできた。またそれゆえか、映画館の外に広がる現実生活において「僕」はかの決定的な断絶を埋め合わせたリアリティを見出すことなく、映画を見たときの印象としては随分奇妙とも言えることをシェフェールは口にすることになるのである。

僕は何か知れない最初のイマージュたちによって撮影されたかのような姿で、〔見たことのない僕自身を見たかのように〕、それを見た、そんな風に感じたのです。そして、それ故にこそ僕は、そこに、僕が見出した最高の歓喜、そしてしかし、同時に、そのなかに先住する茫漠とした恐怖が表出されるかのように、感じ取ったのです。

もう一度、この歓喜がしかし同時に映画に予め住み着く茫漠たる恐怖の表れだということには、この本が書かれなければならなかった理由を考えるためにも特別な注意を向けなければならないはずである。つまり、ここには「映画的夜のリアリティ」を通じて彼が気付くことになった、“映画を視ること”をめぐっての気掛かりというものがあるのである。それは端的にこの本の帯にも刻まれている「罪」という言葉で表されているし、この一言だけでも、本書に幼年期や思春期を想う一片の感傷もないことだけは確認出来るはずである。たとえこの本の美しさに感じ入ったとしても、あらぬ感傷へと自ら傾いてしまうということだけはあり得ないだろう。この本は映画の本なのかもしれないが、しかしそれは映画の夜で半ばトランスとも言うべき状態に入って世界の始原を、また、世界の現れと消え去りを、語っているかのようでもあり、ただ、それが語り出されて来る場所が彼すら知ることのない夜闇の深い淵であることを彼は承知しているから、映画の物語性についてはその記述が全くと言っていいほど欠如することになる。

彼が物語的なものへの関心の薄さに時折触れるのは、先ず何よりも、映画的時間がシナリオ(物語)の流れの作り出す時間と混同されてはならないと釘を刺しているからでもあろう。あの映画館の夜という世界には別に映画の時間と人間の時間というものが二つそれぞれ並行して在るというのではなく、そもそも暗闇の中へ浸り込んだ瞬間から、スクリーンと観客との間には距離と言えるものは存在しなくなり、映画の時間もその器を観客に借りる。勿論、視覚的には映画的夜の体験において他でもない観客である「僕(ら)」が自らを器にしてその時間を回転させているからでもある。シェフェールに言わせれば、映写機から投げ出される幾条もの光は形を持たないままにスクリーンの地面に降り立ってイマージュとして化肉していくが、世界を立ち上げて生成すると、忽ち崩壊、消滅していくものとしてあって、観客はまたそれを映画からの愉悦として得ることになる。これは現れては消えるものを見て喜びを感じることが同時に時間を体感することの愉悦でもあるということであり、その裏側にはわれわれ自身の半醒半睡があり、これを昏睡と同じ意味で用いながら、シェフェールは次のように述べる。

僕は視線が魅入られたように入り込むその世界の現れと消滅の流れの中で、一種の感情の昏睡、道徳性の昏睡の中に身を任せるのですが、同時にその世界は僕のそうした一種の昏睡状態にその世界の存在を信託するのです。言い換えれば、世界の現れと消滅の間の宙吊りとして有るという唯一の持続が、僕に世界の意味を捕捉させるものであり、逆に言えばその唯一の持続へと、その世界はその存在を託すのです。

無論、こんなことを考えてばかりいる観客は少ないだろうが、彼は自分の身体が映画的時間の流れに身を浸しながら、この崇高であるはずのものの消滅を喜んでみていることに罪業感を感じもし、またそのように身を任せること以外には映画など有り得ないという倒錯にも目を向けているのだが、果たしてこの映画的愉悦がその瞬時に崩壊していくこと故にあり、またその持続のなさを映画としてというよりも生として見てしまうことに苦悩を感じるのだとすれば、これこそが彼にこの書を書かせるきっかけだったと言ってみては言い過ぎだろうか。

「罪」と言うとき、僕が言いたいのはこの世界でなされる非道な暴虐のことではありません。この宇宙の〔無と有〕の縁に記号を通して結びついている人間のありようを指し示しているのです。そして「有罪性」と言うとき、僕が言おうとしているのは、与えられた条件に背くことである以前に、この世界の中に人間があたかもその主体であるかのように自らを開示しようとすることであり、そして、その主体という結節の中にこの世界を意識化されたものとして濾過し、世界の自由を、消え去りと現れとの絆である世界の縁の自由を、奪ってしまう、そのありように対してなのです。

さて、この一種自戒じみたことが突如として飛び出してきたのではない。後の成年期に繋がるはずの映画的夜の体験には、幼い頃に生と死のはざまにぶら下げられた、しかもそれがゆえに彼の身を守ってくれた、地下壕の夜が先行していた。そのため、彼の言う「感情の昏睡」は映画の夜に突如訪れたものでなく、戦中の地下防空壕で夜を視ることを初めて学んだ時からのものであったのだろうし、映画「論」として記されていくものもその殆どが幼年期の体験に近い時期のものが大半を占める。ただの夜ではなく、戦争の夜、自分を死の危険から唯一守ってくれた母胎のような地下の夜を彼は映画を見る度に無意識に重ね合わせては、またその昏睡によって記憶に留まらずにきたものを映画が垣間見させてくれるとも言うことになる。地下壕にいたものたちは皆、生と死のはざまに置かれながら、いつまで続くか分からぬ夜が破けて砕け、そこから新たな一つの身体となってあらゆる光を跳ね返すもので溢れかえる外界へと放り出される時を待ち望み、その期待のなかで夜は過ごされていく。いつしかそれは解放ともなりえようものだが、夜の中でまだ形を持たぬ「僕(ら)」の身体に巻き付けられた期待の胞衣は、爆音に波打つ夜に浸し込まれている者しか守ってくれないのだとすれば、危険を承知で外に出る時は、だから、その胞衣は救命着ではなく、世界の誕生とともに始まる自然の掟に従うべき人間の死衣となるに違いない。またそれは、「僕」にとってのリアリティを与えてはくれそうもない。そういった想念がもしかすれば映画の夜に後に重ねられて行ったのではないか、またそれゆえ、彼が映画館に戻って行くのはそこに愉悦があるという理由以上に、死と生のはざまにありながら期待を得ることの出来る、生のリアリティを思い出させてくれるからではないか。
ここまで本の記述の順序など全く無視して思いつくままに書き続けて来たが、またそのため非常に読みにくいものとなってしまったことをお詫びしたい。本を読まれるときは恐らく、この書評とは全く異なる順序で話は進んでいくはずだが、時にそれは外向きに渦を巻いて旋回するだろうし、必ずや最後には、その旋回によって溜め込まれた巨大な遠心力によってわれわれは映画館へと吹き飛ばされるに違いない。だからこう呼ぼうと思う、この本は「巨大な光の風車」であると。

(東海晃久)

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