今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW
2013 7

「神童のための童話集」東海晃久インタビュー

著者:シギズムント・クルジジャノフスキィ

訳者:東海晃久

出版社:河出書房新社

発行年月:2013年5月

『馬鹿たちの学校』、『犬と狼のはざまで』とサーシャ・ソコロフの訳書を立て続けに発表してきた東海晃久氏が新たに翻訳を手がけた小説が刊行された。著者はシギズムント・クルジジャノフスキィ。1887年キエフ市生まれのポーランド系ロシア語作家。1950年の死から40年を経るまで作品群は陽の目を見ず、現在もなお墓地の所在は分からないという。百科事典の原稿執筆者、台本作家、文学・演劇・音楽の講師業などの履歴を持つクルジジャノフスキィが、1918年から1927年までの9年間に執筆した29の短篇を収めた本書。ピアニストの右手から〈脱走〉して町をさすらう五本の指、ダイヤモンド化する少女の涙、象へ〈変態〉する蠅。こうしたまさしく「童話的」な物語から、「存在無き者が生きる国」のルポルタージュまで、処女作を含む29篇は紛れもなく「奇異」である。この「奇異」は発想に留まらず、文字から成る世界のスケール構築にも作用しており、広漠な空間を遠望するような、翻って顕微鏡を通して対象を覗き込むのに似た感覚をも読者に与える。

ここでクルジジャノフスキィが文学実験を行っているとすれば、技法のレベルより、「如何なるレンズをもって世界を見るか」の点においてかもしれない。彼が見る世界の伸縮に応じて、筆致もまたトランスフォームする。

幸いなことに訳者の東海氏は神戸在住。過去には神戸映画資料館でレクチャーも行い、この欄へジャン・ルイ・シェフェール著『映画を見に行く普通の男』(訳者:丹生谷貴志)の書評も寄せている。語ることが容易ならざる書物に対して、映画を入り口にすれば接近も可能なのではないかと思い立ち、東海氏、ならびに神戸映画資料館にお願いしてインタビューの席を設けて頂いた。

──神戸映画資料館の書評欄ということもあり、今日は映画とも絡めてお話を聞かせて頂ければ幸いです。クルジジャノフスキィが映画台本を書いていたという経歴を脇に置いても、『神童のための童話集』からは「映画」の要素を感じました。東海さんも解説の結びに「映画との親密性、つまりフレーム割りとの類比において翻訳を進めてきた」と記しておられます。

文字でいうパンクチュエーション。正しく点を打っていくという作業ですね。一つの文章の中にどれだけのシークエンスが入っているかと考えるなら、ピリオドに至るまでにはコンマなどがあって、クルジジャノフスキィの場合はコロン(・・)ですけども、それが息継ぎやリズムを生み出す。のっぺりと書いてしまえば、どこに谷があり山があるのか見えなくなってしまう。映画なら被写体との間にどれだけ距離を置くか。または近づく、遠ざかる、カットで割ってゆくという手法がある。翻訳する時も、観念的なことを除いて描写は映画と比較し易くて、僕はそういうことを気にしながら訳しています。なるたけ後ろからでなく、前の方から文章を立ち上げて画(え)を作ってゆく作業を常に心がけているので、自ずと彼についても映画に通じるリズムが生まれているんじゃないでしょうか。

──実際に翻訳作業の際、文字が映像となって湧いてくるようなことはあるんでしょうか?

映像をイメージしながら書くことは多いですね。

──きっとその反映でしょうか、クルジジャノフスキィの文章はカット割りの細かな映画のような印象も受けるんです。

そうですね。映画でいうカットの継ぎ目が、彼の場合はコロンじゃないかなと思っています。最初に言ったパンクチュエーション、符号の使い方で、彼はとにかくコロンが多い。日本語の中にコロンがあったとすれば真似できるものの、それができない。例外で多少使った箇所がないわけではないけれど、それをロシア語から日本語にどう消化するかという時に、見てみないふりをするか、そこへ何がしかの日本語を付け加えてゆくか、結局そういう作業になってしまうんですよね。

──コロンの処理に苦労されたということですが、リズム感は十分に感じ取れます。文章のリズム作りに関してもう少しお話願えますか?

「歌」みたいなもので、これだけ上手に書かれたものを僕が日本語に訳して歌う時に、音痴だと辛いわけですよ(笑)。本来ある言葉のリズムとちゃんと合っているかどうかは定かでない、それは分かりません。無いというのもひとつのリズム感になるとは思いますが・・・リズムをどう活かすかというと、音だけじゃなく視覚的なイメージ、あとは言葉の使い方ですよね。一つのものであっても色んな言い回しがあって、例えばAというものに対してのA´あるいはA´´、要するに類語、それを選んでゆくパラダイムのようなものがあります。「この場合はこういう言い回しで少し古めかしく言うべきだ」「ちょっと雑に俗っぽく言うべきだ」、そのあたりの〝キー〟の変え方。リズムに加えてキーの問題もあって、語彙によって変調する。変調によってリズムがどのように聞こえるか。ちゃんと原作のリズムと合っているかどうか分からないというのは、その部分なんですよ。

──「変調」は『神童のための童話集』の特徴ですね。東海さんの訳書に一貫しているのは一読、正確に表現するなら頁を見る/視るだけで、漢字でのリズムの付け方や語彙に気を配られているのが伝わることです。

「変調」は、文字通り言えば、調子を変えるということですが、この変調ということにはそれ以外にもっと大事なこととして、見えているもの・聞こえているものの背景そのものが変わるということもありますよね。つまり、リズムそのものを支えている背景そのもの、全体を変えてしまうということがあります。映画ならば色なり音なり変わるということで、言葉はこの時、一つの楽器ではありますが、ただの楽器に留まらなくて、時間とか歴史、つまり、記憶を溜め込んでいる特殊な楽器でもあって、読み手の足元を掬うものとなります。どういうことかと言うと、調子の変化とは、極端に言えば、読み手の日常を揺るがすものであり得るということです。ですから、「変調」は僕にとって単なる翻訳的技巧なんかではなく、原作者にとっても恐らく世界と対峙するには不可欠なものだと思うんです。

──クルジジャノフスキィの世界の見方は後ほど詳しく訊きたいテーマですが、変調は「チューニング」とも関連しています。『神童のための童話集』に収められた29篇は9年の間に書かれたもので、同じ年の作品を読み比べても話法が随分と異なります。翻訳の際には、複数のチューニングが必要だったのではないでしょうか?

まずはじめに迷ったのがその点でした。でも『神童のための童話集』、つまり童話集でしょう?だから「子供に聞かせる口調」を持たせるのがいいんじゃないかと思った。ただし、そこには〈神童のための〉という冠も付いています。そこで最終的な決断として、例えば文章の中に「君たちはいい子なんだからこういうことはよそうね」というような台詞が出てくる時には語りかける口調に、無い場合はレポート風、報告書風の文体にしました。あるいは写実小説風の文体とか。これは一作ごとに見ていかないと掴めないし、最初から「童話なんだから」と子供に向けた口調に統一してしまうと面白さを崩してしまう。その結果、一作ごとに違った文体になりましたね。

──「子供に向けた」ということからの連想ですが、とっつき易さにグラデーションはあっても、読みながら映像が頭に浮かぶ物語が幾つかあります。先ほど東海さんも映像をイメージしながら翻訳すると仰っていましたが、例えば涙がダイヤになる『売られた涙』のような話は、意外と子供でも楽しめるアニメーション化が可能なのでは?と感じます。

視覚化、ヴィジュアライズということですね。実際、彼には幾つかアニメ化された小説があるんですよ。『クヴァドラトゥリン』(松籟社『瞳孔の中クルジジャノフスキィ作品集』所収)、──小さな部屋へ押し売りが訪れる。押し売りは、部屋を大きくすることができるという塗り薬を押し付けてくる。住人は嘘と思いつつも買って試してみると部屋が歪にどんどん広がってゆく──この話がアニメーション化されたものを観たことがあります。だから作品によっては映像化し易いだろうし、『神童のための童話集』でいえば、余りにも思弁的な作品、特に『ヤコービと《ヤーコブィ》』など実体の無いものについての話は映像化難しく、作る人の力量が問われると思いますけど、たしかに『売られた涙』のような話はアニメーションにできると思いますね。

──さらに〈視覚〉の点から伺いたいのが、刊行前にたまたま東海さんとお話した際の、「クルジジャノフスキィには映画の眼が埋め込まれている」という言葉が記憶に残っているんです。「映画の眼」=「カメラ的視覚」という素朴な解釈は可能でしょうか?

視覚については…『神童のための童話集』からは話が逸れてしまいますが、モスクワの町について調べに調べを尽くした、寧ろ歩き尽くしたと言えばいいのかな、キエフから移り住み、とにかく歩き尽くしてモスクワが他の町とどう違うのかを記した文章の中で、「モスクワという町には瞼が無い」と彼は言う。「瞼が無い」、つまり「町が眠っている時間が無い」という意味も多少は含むでしょう。でも「寝ていても瞼の間から入り込んでくる」「寝ても覚めても町が自分の中へ入ってくる」という解釈もできる。〈瞼〉の問題。今回の解説ではあまり触れていませんが、これをどう解釈するかはクルジジャノフスキィが物をどう見ているかということとも繋がってくる。見たくないと思っていても何かが見えてしまう、見させられるというか。カメラというのはそれこそ瞼がない訳だし。

──解説では認識を巡って〈視点〉の位置、パースペクティヴにも言及されていますね。眼をカメラに例えるなら、クルジジャノフスキイという人はそれをどこに置くか、どのように撮るかがかなり独特であるように思えます。

今、ベラ・バラージュのカメラをどこに向けるか、手の動きであるとか、身体の或る部分、個々を撮ってゆくという話をちょっと思い出したんだけど、クルジジャノフスキィも人間を全体像でなく一箇所ごとに撮っている。『逃げた指たち』はまさしくそうですよね。ピアニストの右手から「トンズラ」した指が動くという話。それにも多少繋がると思うんですが、人間が動いているところを撮るとして、例えば階段をトントントンと上がってゆくのを遠くから撮れば全体が見える。『帰ってきたホラ吹き男爵』という作品の冒頭を見てみると、ボロボロの靴を履いた人間が階段を上る描写をするのに、靴だけにしているんですよ。靴さえ描いてしまえば履いているのは貧乏人、金があまりない人間ということがわかるじゃないですか?だから全体でなくていい。部分だけでいい。クルジジャノフスキィの作品がどう組み立てられているかというと、人間全体ではなく、一部一部を撮ることによってです。単に修辞法の問題ではありますが、映画的な眼ということで言えば一部から全体を映し出していて、彼が発明した手法ではないにしても、それをすごく意識的に行っている感じがありますよね。

──カメラが持つ「顕微鏡的」な視点とも言い得るのでしょうか?

ええ。映画との親和性からもう少し話すと、彼の『ありもしない国々』というユートピア文学を探った論考があって、『イタネシエス』の注釈にも入れていますが、そこでは「末端肥大」という現象が起こる。この「本来それほど大きくない筈のものが大きく見えてしまう」現象も映画との共通性ですよね。クルジジャノフスキィが何かを見せる時、全体像を写し出しても何の役にも立たないという確信から書いている印象を僕は持っています。だからこそ極端に或る一部を大きくしてみせる。凡て相対的なものだけれども、極点を作って、それを中心に彼の世界が回っていく。

──といって、ただ異化や不条理を前景化させようとする作家ではないことも明白です。

基本的に彼はシュールだとかアヴァンギャルドなものは少しも意識してなくて、寧ろリアリズムを踏襲した作家だと思います。手法としては、一箇所を変えることで全体を歪ませるというやり方だと思うんですね。最初に或る一点が変わることで凡てが違ってしまう。その変化した一点の動きを練り直し組み上げてゆく、そういう手法を採ってはいても、書き方自体はリアリズムですね。

──映画でいうコメディ、ユーモアを感じる部分についてはどうでしょう?翻訳の言葉選びで効果はだいぶ変わってきますよね?

読む人がいて、楽しんでもらうことを当然意識していますが、勿論クルジジャノフスキィ自身にもユーモアがあると思うんです。でも言葉のユーモアなのか、話のユーモアなのか、それがちょっと分からないところですね。

──『神童のための童話集』では節々に見られる妙に懐かしく、可笑しみを滲ませた言い回しも独特です。他にもよりユーモアを強調した小説を執筆しているんでしょうか?

本作には入っていませんが、「或る骨董屋で買ったグラスに、ワインを一度つぐといつまで経っても減らなくて水浸しになってしまう」というものなど、滑稽な話もたしかにあるんです。ただ、語り口調が滑稽かどうなのか分かりにくい。使っている言葉を見ると古い人ですからね、難しめの言葉が多い。そうなると「古めかしい言葉を使いましょう」となる。それに合わせて、『神童のための童話集』では簡単な言葉はあまり使っていないんです。

──お話を伺っても不思議な作家だと痛感しますが、こういう書き手と出会った時、読者はまず参照元を探すと思うんです。似たタイプの書き手はいないかと。ところがクルジジャノフスキィにはどうもそれが見当たらない。紹介の折にはよく「奇想」というフレーズが使われますが、それだけでは収まりが悪い気もしています。

僕は「奇想」というのがあまり好きじゃなくて(笑)。その言葉で括るのがね。奇想そのものは良いのだけど、この作家をそれで括るのは失礼じゃないかと(笑)

──とはいえ、「奇想」以外のワードがなかなか無いんですよね(笑)。書物をモチーフにした作品や晩年に失読症を患ったという生涯からも、ボルヘスを想起させる回路があるようにも思えますが、小説の構造が異なりますし、ボルヘスでいう「迷宮」のような言葉がクルジジャノフスキィの場合は見当たらないという。

シェイクスピアを好きだったり、クルジジャノフスキィって本当はとてもスタンダードな作家なんですよ。その印象をどう改変していくかは、これからの紹介者の力量というよりも、心意気にかかっているのではないでしょうか。あらかた「奇想」と言ってしまえばそれで済んでしまう作家ならば、僕は紹介しなかったでしょうね。シェイクスピア絡みでいえば、例えば、『ハムレット』の「ギルデンシュターン」という一人の人物を、「ギルデン」と「シュターン」に分けて作っている話もある。これなんかは、明らかにテクストの改変を楽しんでいますよね。そこに「奇想」を読むことは正しくない。寧ろ、テクストを通じての世界の改変ということでしょう。

──「世界の改変」はクルジジャノフスキィを読み解く鍵といえそうですね。「世界の改変」というアプローチは場合によっては政治と通底するかもしれません。『神童のための童話集』もちょうどロシア・アヴァンギャルド隆盛期に書かれた作品です。でも彼はそこから隔たったところにいるように見える。いかがでしょう?

そうですね。ロシア・アヴァンギャルドには政治性が滲み出ていますよね。しかしクルジジャノフスキイの作品を見ていると、少し次元が違う。政治に言及しなくても、認識者と認識される者の関係は話に含まれている。解説では敢えて「サバルタン」という言葉を使いましたが、所謂アヴァンギャルドとそれに連なる政治性がサバルタンの部分を扇動する要素を持つのに対して、彼のアプローチは違う。政治の問題も分かってはいたでしょうが、ではそれを語るとはどういうことなのか、語れと言われたことをどう語るのか?もうちょっと哲学的に考えたところで作品化しているように僕には思える。少し穿って見ればね。

──当時のロシアはモンタージュ理論が確立された時代でもあります。クルジジャノフスキィとモンタージュ。何か接点はあるでしょうか?

色んな材料を使って何が出来るかを実験しているところがある。ブリコラージュというか、今、手元にあるものを使ってどんな変わったものが出来るか、素材は溢れているから新しいものを敢えて考え出さなくても、あるものを組み合わせることによって別のものが出来るんじゃないか、そういう視点で作っているところがありますよね。

──インタビューのはじめに映画のカット割りの話題が上りました。クルジジャノフスキィの小説は速いモンタージュの連なりとも読めますが、モンタージュの技法自体は創作に活かしてはないですね。

モンタージュ以前にその改変を行っているというか、あるシークエンスを作るのにどのイメージを並置するかという時、並べようとしているイメージ自体が元の形を取っていない。全然違うものを使うというね。

──映画史を意識する映画作家と同様に、古典へのレファレンスは彼の中にある。ただ引いてくるイメージが歪で、それを写実的に描写してゆくと。そして彼は「変奏」が上手い人だとも感じるのですが、東海さんがご覧になるとどうでしょう?

分かりやすい例に『殺字者倶楽部』という作品があります。そこでは毎週土曜に「構想家」たちが集まって、全く文字を見ずに百物語のように喋る。ある語り手が、ピエールとフランソワーズという男女と神父の話をすると、別の人物たちから「構成や細部をこう変えた方がいいんじゃないか?」と提案がある。登場人物三人というのは変わらないんですが、男女を入れ替えたり、題名も変えたりしながら再三変奏させる。昔話の形態でいうと、駒がまずあって、でもその役割が変わっていく。『殺字者倶楽部』を見ると、クルジジャノフスキィが「こんな話も作れるんだ」と意識して書いているのがよく分かりますね。

──「駒」といえば、『負けプレーヤー』というチェスをモチーフにした物語もあります。
伺ったお話をもとに、とりわけ「変調」「世界の改変」を軸にして『神童のための童話集』をもう一度読んでみたいですね。さて、今日は折角なので翻訳のことをもう少し訊かせて下さい。これまで二作を翻訳したサーシャ・ソコロフに対しては特にそうだと思うんですが、東海さんはロシア文学の「翻訳者」であり、「紹介者」でもありますよね。文芸誌に掲載されたソコロフの『犬と狼のはざまで』の解説もご自身で執筆しておられます。

英米、スペイン、ドイツやフランスなど海外文学を研究している人は沢山いて、当然ロシアもその中に含まれる。でも僕は学会には一切ノータッチなんで、実情がどうかは殆ど分からないんですね。ただ「研究」というものに対する諦めがどこかあって、「誰が読まれてないのか」「誰がまだ紹介されてないのか」という事を考えるといっぱい出てきますよね。ロシアに限らずでしょうけど、やっぱりロシアにはそれが多いというのが実感です。まだまだ紹介されていない作家が多い。その理由として、ソ連の時代がある程度長くあって、その時期から研究を始めた人だとまず資料が手に入らなかった、あるいは思想信条から来る無視や軽蔑。誰であったかということかは分からなくても、そういう状況は想像できますよね。クルジジャノフスキィの場合はまず本国で紹介されていなかったから当然知る由もない。だけどもソコロフ、彼は彼でまた別の理由があって…端的に言えば皆やりたがらないだろうという(笑)

──ソコロフは・・・厄介であることが容易に想像できます(笑)

研究者全員がロシア語が上手いわけではないし、上手ければ日本語にできるとも限らないですよね。紹介されてこなかったものには色々なファクターがあるとは思うんです。だからといって僕が体現しているということではないですよ、決して(笑)。でも「無視していいのかな」「ここは気張ってでもやるべきじゃないか」という思いはあります。自戒も込めて。

──読者としての無責任な声ながら、ソコロフのような作家を知り、日本で読めるのは嬉しいことです。

僕個人の考えを言うと、今、大学の縮小などで教える場が少なくなって、職に就けないという状況が広がりつつあります。ロシア語なんて特にね。そうなると、オーバードクターが増える。意識しなかったけども、よく考えると結果的には僕もその一人なんですよ。お金にならないという経済的な問題はあるにしても、やろうと思えば何とかできる、難しいか簡単かは別として訳してゆくのなら、むしろオーバードクターという状況が新しい作家を紹介する土壌や人材を育む可能性もある。「不幸中の幸い」とでもいおうか。昔より皆、ロシア語をできると思うんですよ。これは一種の皮肉ですけど。時代の皮肉。ロシア語を分かる人は増えていると思うし、そういう人たちにも頑張ってもらえれば、もっと読みたいものが増えるだろうし、提供もできるんじゃないかなと思いますね。

──日本の映画界でも、批評家が海外の権利元と交渉して、時には字幕も自分で作り見せたい映画の上映を企画するケースがある。もしくは字幕制作者で紹介者を兼ねている人もいる。東海さんの仕事もそれと一脈通ずると思うんです。ご自身は「翻訳」という仕事をどう捉えておられますか?

得てして報われない仕事で、要するに「物好き」ですよ。翻訳から話が離れますが、昔から抵抗を感じることがあって、歌人や詩人など、所謂創作者が社会的に安定しているというのがどうも理解できない(笑)。一種のロマンチシズムを抱いているのかもしれないけど、僕にはどうもしっくりこないんです。文字・・・文学というのが何かはよく分からないけど、それに携わる人間が本気を出す場所は、大学ではないと思っているんです。特に今の大学。翻訳者は翻訳者であるべきで、講壇で何かを語るっていうものではない。これは個人的な意見で、非難するのではなく「こう在りたいな」という。そうなると身を削ることになりますが、身を削っても良いものができればいいので、そこで報われることに繋がってくるかもしれない。

──「知られていないもの」を紹介することは、何らかのリスクも背負うことになります。

難しいところで、翻訳では食べていけないから副業を持って、どれが副業なのかよく分からなくなる。翻訳をしている人は副業を持ってる人が沢山いて「これがメインだ」と言う人は少なくて、それはそれでいいとも思うけど、そうなると「翻訳家」とは言えなくなる問題も出てきますよね(笑)

──かねてからの疑問で、今回のインタビューもイントロを書く際に迷ったんですが、東海さんの肩書きは「ロシア文学者」、あるいは「翻訳者」、どう表現すればよいのでしょう?(笑)

本当はそこは誰かに線引きしてもらいたいところで、僕は大学で「文学とはこういうものですよ」という講義をしているわけでもなく、なおかつそんな講義はやりたくもないし(笑)。
文学の歴史を語れば良いかというとそれも違うでしょう。肩書きって面倒ですよね。だから「もの書き」でいいかなと思っています。

──肩書きは「もの書き」、いい響きですね。インタビューを締めるにはここが良さそうですが、最後に単純な質問をさせて下さい。東海さんがこれまで翻訳した三冊はいずれも異様に訳注が多い。何故なんでしょう?蛇足かつ愚問、伺うのも恥ずかしいですが。

僕たち読者というのは無知で、無知であることは誇りにしていいですよね。翻訳する上で、多くのことを知っている人に対しては失礼になるかもしれないけど、いわば補助輪みたいなものでね。訳注があればあったでいいだろうし、それによって読む人が増えればもっといいという理由で付けているんです。薀蓄ではないですよ(笑)

(2013年7月 神戸映画資料館にて)

取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地


これまでの今月の1冊|神戸映画資料館