今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

「なぜ哲学するのか?」松葉祥一インタビュー

著者:ジャン=フランソワ・リオタール

訳者:松葉祥一

出版社:法政大学出版局

発行年月:2014年3月

松葉祥一インタビュー

──J.-F.リオタール著『なぜ哲学するのか?』
刊行記念イベント
に向けて
ジャン=フランソワ・リオタールが教養課程の大学生を対象に行った講義を収録した『なぜ哲学するのか?』が法政大学出版局より刊行された。リオタール的〈哲学〉の道標として最適であり、のちのリオタールの思想を見てゆく上でも示唆に富む一冊となっている。
訳者は神戸市看護大学教授の松葉祥一氏。リオタールとの関わりは深く、彼同様〈実践〉の人とも呼べるだろう。3月15日(土)には神戸映画資料館で刊行記念イベントを開催。松葉氏とゲストの丹生谷貴志氏との対談は2度めとなる。
「いま、リオタールを読むこと」、イベントへの抱負などを訊いた。

──本書は「哲学入門」と紹介されています。実際に入門書に適した内容でしょうか?

「幾つかの意味でその通りだと思います。というのは、この本はもともと主に大学の1年生を対象にした4回の講義をまとめたテクストなのでわかりやすい。一から説いているし、自分の哲学の見方を4回にまとめているという点でも哲学入門に適しているでしょう。講義以前の思想、以降のリオタールの立場もここで見通せるほど上手くまとまっているんじゃないかなと思います」

──講義が行われた時期はいつごろですか?

「1964年なんです。彼は1968年の五月革命に深く関わるので、それ以前の時期です。ちょうど1950年から10年ほどはアルジェリアの独立運動にも関わっていて、もう哲学を全然やってないんじゃないかという時期もあったりする。その運動が挫折して「仕方ないから哲学にでも戻って勉強しようか」という時期の講義なので、4講めではマルクスのフォイエルバッハテーゼなどを読みながら、〈哲学すること〉と〈実践すること〉にはどういう関係があるのかということを大きなテーマにしています」

──リオタールといえば真っ先に『ポストモダンの条件──知・社会・言語ゲーム』(79)を想起したりもしますが、初期ということに限定されない広がりを持っていそうですね。

「そうですね。ある意味でリオタールの思想を非常によく表している本じゃないかと思います。まず美学の思想であったり現象学であったり政治学であったりと、幅広い側面を持っていることが一つ。それから確かに彼は、いま挙げていただいた『ポストモダンの条件』で知られるようになった思想家です。ポスト・モダンというと相対主義、つまりいろんな考えがあってそれがみな並立的に正しいと認める思想だと考えられることが多い。でもリオタールはそうは考えてはいなかった。この本のなかでも「なぜ哲学するのか?」という問いに対する最終的な答えとして、「人間は欲望するからだ」と非常にフロイト的な答えを出しています。つまり何か統一的なものや一体的なもの、たとえば「母親」や「共同性」が失われた時にそれを欲望することによって、初めて哲学が生まれるんだと述べています。バラバラで相対的で「小さな物語」が並立している状態よりも、寧ろ「大きな物語」──共同性や統一性──が失われた後の状態、そのなかでどう生きるかの問題であって「相対主義万歳」という思想ではないことがよく分かるし、そのなかでの争いをどのように調停するかという問題を徹底的に考えようとしたひとだと思います」

──のちのリオタールの思想が見えてくるところもありそうです。

「のちのリオタールを予見しているといえますね。一方で近代/モダンの「大きな物語」が終わった後、ポスト・モダンとは「小さな物語」が並立的に存在する世界だと考える。これはとてもよく理解できる指摘です。確かに、現代は「みんな違ってみんないい」を肯定する社会でもあるでしょう。その一方でリオタールは、実はその社会が同時に「大きな物語」への強いノスタルジーを持っていること、それを根底に置いていることを指摘しています」

──この本を通して「大きな物語」と「小さな物語」の問題も見直したいと思いますが、刊行記念イベントは丹生谷貴志さんとのトークセッション。どんな展開をイメージされていますか?

「ここで喋ってしまうと現場での楽しみが無くなるかもしれません(笑)。ただ、アンドレ・マルローがひとつのキーワードになるかなと思っています。丹生谷さんは以前、神戸映画資料館のレクチャーで、原体験として子供の頃にマルローの『人間の条件』の処刑の場面を読んで非常に衝撃を受けたと語っていらっしゃいました。汽車の燃える罐のなかに人間が一人投げ込まれる度に汽笛が鳴る。まったく無駄な死で何の決着もない。なぜこれほど無駄なものの上に、たとえば美術というものがあるんだという問いが原体験になっていると仰っていました。実はリオタールは最晩年に2冊のマルロー論を書いているんですね。今はもうフランスでもマルローをとりあげる人は少ないので、当時はちょっと驚いたのですが、そのうちの1冊『聞こえない部屋──マルローの反美学』(98)のなかでも、「マルローのすべての作品からは金切り声が湧き上がる」なんていう言い方をしています。そこで「芸術や文学とは無意味な真理を求める営みだ」と言い、マルローの美学を「反美学」と呼んだりもする。ハル・フォスターも『反美学』という本を書いてますが、それとはまったく違う意味で使っています。その「反美学」が果たしてマルロー美学の形容として正しいのか?それを丹生谷さんに聞いてみたい。それに関連して、1973年の『欲動機構』──ほとんど翻訳が出ているリオタールの著作のなかでもこれは翻訳されていませんが──そのテクストで「反映画」という概念を提示しているんです。「反映画」というと吉田喜重の『小津安二郎の反映画』を思い浮かべますけども、それに通じるところがあって、欲望を見つめ、過剰な運動を排して撮るところに映画のあるべき姿をみているとも読めます。若い頃に書いたものですので、あまりにもフロイト的過ぎて批判すべき点があるのは確かですが、それを越えて「反映画」「反美学」という概念が成立し得るのかということも丹生谷さんに聞きたいと思っています」

──とても楽しみですが、松葉さんはリオタールの教え子でいらっしゃるんですよね?

「そう、実は先生なんです(笑)」

──出会いを伺いたいです。

「あとがきに詳しく書いたので重複してしまうんですけども、何の情報もなく博士課程の学生としてパリに留学したんです。その時は「パリ大学といえばソルボンヌだろう」くらいの知識しかなくて、ソルボンヌ(第Ⅳ大学)の形而上学講座のピエール・ブータンを頼って何も知らずに喜んでパリへ行くと、王党派の活動家の哲学教師だったという(笑)。そんな人が今時いるんだと後でびっくりすることになりました。彼が就任する時にデリダらが反対の論陣を張ったりもしています。そのブータンのところでとても困っていたときにパリ第Ⅷ大学へ行くとたまたまリオタールがオフィスにいたので捕まえました。当時、彼が『現象学』(54)などでメルロ=ポンティについて書いているのを知っていたので「指導してくれないか?」と頼んだら、「いいよ」って(笑)。すんなり引き受けてくれました」

──そのような経緯でしたか。

「そういう出会いの後、準備論文までは出したのですが、結局博論を書けずに日本へ帰ってきました。その後、彼が来日したときにも通訳をさせてもらったりしたんですが、リオタールが湾岸戦争の時に「これはポストモダンの戦争だ」なんて言い出したので、私は批判の論文を書かざるをえず、亡くなった時にも「リオタールは『転向』したか?」という追悼文も書いたりしました。「不肖の弟子」ですね(笑)。今回は罪滅ぼしの意味で、この訳をしたというところです」

──ではリオタールに対して、愛憎相半ばするような感情もお持ちでしょうか?

「憎しみはないんですけどね。「何故なんだろう?」という疑問は残っているので、それを含めて考えたいと思っています」

──たとえばドゥルーズなどは近年“読み直し”の気運の高まりを感じますが、「いま、リオタールを読むこと」について松葉さんのお考えをきかせていただけますか?

「そこはもしかすると丹生谷さんと意見が分かれるかもしれませんね(笑)。丹生谷さんはリオタールの美学、特に『言説、形象(ディスクール、フィギュール)』(71)──彼の主著と言っていいと思いますが──などはある意味で古い、フロイトの図式に乗ってしまっているという読み方をなさると思いますし、私もそれは否めないと思います。ですが、いま読む可能性、現代性が二つあるとも考えているんです。一つはさきほども言った、ポストモダン概念というのは既に終わった古めかしい思想や相対主義ではないし、彼の目指したところは『ポストモダンの条件』ではなく、中期後半の主著といえる『文の抗争』(83)にあるのではないかということ。そのなかで「小さな物語」同士の抗争(ディフェラン)が起こったときにどのように調停するかを徹底的に考えています。それはきわめて現代的な問題だと思うんです。現政権のもとでまさに「大きな物語」が復活しそうな時に、単純に相対主義を対置するのではなく、その先にある可能性をみておくこと、別の言い方をすればグローバリズムに対してナショナリズムを対置するのではなく、オルター・グローバリズムの可能性を見越しておくことが必要で、その際に彼の議論は非常に参考になる。私はそれを「相対主義」ではなく「多元主義」だととらえています。「小さな物語」同士が並存するという言説そのものをどのように保証することができるか?その問いに対してリオタールは正面から答えようとしているのが一つ。そしてもう一つが美学ですね。少なくとも彼の中期以降の戦場は美学だったのですが、美学のなかで彼がやろうとしたこと、その方面の翻訳がそれほどないんですね」

──ロザリンド・クラウスが「マトリクス」の概念に触れていたこともあって、リオタール=美学というイメージは個人的に小さくはないのですが、美学の仕事に関してはまだそういう状況なんですね。

「美学のフィールドでリオタールがどういう仕事をしたのかは、日本ではあまり知られていない。彼がいう「反美学」「反映画」という概念は、非常にナイーヴだと思われるかもしれません。でも僕がパリにいた1980年代後半、彼が再解釈した崇高概念は現代美学の解読格子としてわかりやすかったし、彼がオーガナイズしてポンピドゥー・センターで開催した「非物質的なもの」という展覧会はとても面白かった。選んできた作品も面白かったですし、彼の言った「非物質性」がどういう概念なのかは、僕もまだはっきりと掴み切れていませんけども、もう少し考え直す必要があるんじゃないかと思います」

──美学や哲学、現象学などリオタールの思想には様々な断面があります。松葉さんはトータルでどう見ておられますか?

「リオタール自身は現象学を批判して、フロイトや美学などへ向かったと言っているんですけど、僕の考える現象学の範疇のなかにいたのではないかという意味で「彼はずっと現象学者だった」と思っています。最晩年までメルロ=ポンティの影響を言い続けていますし」

──素朴な質問として、松葉さんの考える「リオタールのメルロ=ポンティの捉え様」も訊いてみたいと思っていたんです。

「何だか、鷲田(清一)さんのようなことを言うんですよね。「スタイルが好きだ」「文体が好きだ」って(笑)。「彼の問いのスタイルが好きだ」という言い方をずっとしていて、それはわかるんですけど「もうちょっとちゃんと中味を言ってよ」という気もします。それから僕からすると、さっき話した「多元主義」というところですね。メルロ=ポンティのなかにリオタールの多元主義に響き合う点があるような気がしているのですが」

──リオタールをポスト・モダン=相対主義の人で完結させてしまうパターンが定着しているかもしれません。自分も含めてですが。

「それらは僕らのせいでもあるし、専門家としてきちんとリオタールを研究して、読んできた人がいなかったせいもあります。今はそれを志している方がいらっしゃるので、応援しているんですけどね」

──若い研究者が育っているんですね。再びトークセッションの話題に戻らせていただいて、前回の丹生谷さんがマルローの『人間の条件』を読んだ時のお話。それが小学5年生の時だったというのも軽い衝撃でした。その経験から厭世観が芽生えて、人生に暗い影を落とすようになったという(笑)。

「今までずっと引きずっていたんですか!?という感じもありますが(笑)」

──あの時がオープンな場での松葉さんと丹生谷さんとの初めての対談でした。「ずっと名前は存じ上げていて、いつかはどこかで交差することがあるだろうと思っていたけど、『死者』の言葉が象徴するおどろおどろしいイメージが先行していた」とも仰っていました。実際に丹生谷さんと神戸で交流されるようになり、そのイメージは更新されましたか?

「一つ、間に鈴木創士という悪い奴がいることが大きいですね(笑)。彼を通じて色々な話は聞いていたので、それほど間違ったイメージを抱いていたわけじゃないですけど、テクストとバイクを乗り回しているイメージとはどうもうまく結びつかなかった。でも本人に会って納得しました(笑)。時々見せる厭世的というか、暗い顔にはドキッとすることがあります」

──それはマルローのせいかもしれません(笑)。前回の対談はキリストの身体、「肉」の問題が主題になっていましたね。

「あの対談で出た丹生谷さんの「肉」の読み方は、僕にはたぶん出来ない。「肉」に物体としての人間という意味で死の影がさしているわけで、その意味での丹生谷さんの解釈は間違ってないし、まったくその通りなんですけど、僕には出来ないなという感じですね」

──今回は〈何かをする〉ということが軸になるそうですし、「肉」の話題はもう出てこないでしょうか?

「リオタールが肉という概念を使っていないので出てこないとは思います。でもどこかで「肉弾戦、第2弾」というのもやってみたい(笑)。僕自身、メルロ=ポンティにとって中心的なテーマですので、丹生谷さんの考える「肉」についてもう少し聞いてみたいなと考えています」

──その第2弾を待ちつつ、今回のトークセッションに期待します。ありがとうございました。

2014年3月 神戸にて
(取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地)

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