今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW

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「ヒッチコック」

著者:エリック・ロメール & クロード・シャブロル
訳者:木村建哉・小河原あや
出版社:インスクリプト
発行年月:2015年1月

 

 

 

後にフランスを代表する映画監督となったエリック・ロメールとクロード・シャブロルによって著された世界初の本格的なヒッチコック研究書。そう聞いて、図らずも時の流れを感じてしまったのは、ヒッチコックのみならず著者の二人も近年相次いでこの世を去ってしまったという事実ゆえだろうか。しかし、もはや映画批評の古典に属する書物であるとはいえ、本書は未だにその有効性を失ってはいない。それどころか、徹底して画面を追うことを通じてヒッチコックの核心へと至ろうとする著者二人の姿勢は、映画批評の衰退が囁かれる今だからこそ見直されるべきであるだろう。そんな本書は、『ヒッチコック』というシンプルなタイトルが示唆するように、彼のキャリアをイギリス時代から順に辿る評伝として執筆されている。そしてこの点が、本書を語る上でとりわけ重要に思われるのである。

そもそも、本書は明確な批評的戦略に基づいてヒッチコックを論じている。ヒッチコックの映画における視聴覚的な演出上の特徴(著者の二人はこれを「形式」と呼ぶ)を明らかにすること。そして、そのような「形式」と物語の内容とが緊密に結びつくことで描き出される主に形而上学的な「主題」を見出すこと。これら「形式」と「主題」との関係性からヒッチコックの作品世界を論じることで、彼の映画作家としての偉大さを証明しようというのが本書の狙いである。しかしながら、もし著者の二人がそのような戦略のみに徹しようとしたならば、ヒッチコックを語る上で評伝とは異なる別の方法が選択されていたのではないだろうか。例えば著者自身が序文で言及しているように、ヒッチコックに馴染みのテーマや彼のスタイルに的を絞って論じる方法や、彼の重要な作品のみを徹底的に研究する方法などがそれである。結果として、著者の二人は年代順に拘り、読者をヒッチコックのフィルモグラフィーの生成に立ち会わせながら徐々にその作品世界の深部へと到達させるような構成を選択した。もちろん、上で述べたような戦略に基づいた議論が本書の中心を成しているのは間違いない。ただし、それはあくまで中心であって全てではない。「我々の技法は親しんでもらうというものである。作品に親しむことにおいてこそ、我々はヒッチコックを高く評価し愛することを学ぶのである。」このような言葉にふさわしく、ある種の批評的な思惑のみに縛られることなく、ヒッチコックのそれぞれの映画について縦横無尽に論じているのが本書の特徴である。

だからこそ、著者の二人がヒッチコックの作家性について肩肘張って力説している箇所よりはむしろ、シンプルに彼の演出の素晴らしさを讃えている箇所の方に一読者としては心惹かれるものがあった。『汚名』のラブシーンが醸し出す官能性、ドストエフスキーの描写が引き合いに出される『山羊座のもとに』におけるイングリッド・バーグマンの顔のクロース・アップ、『舞台恐怖症』のタクシー内での会話場面におけるショット/リヴァース・ショットの連続がもたらす饒舌さ、『泥棒成金』の一見単純なショットのつなぎに潜む省略の大胆さ等に関する記述からは、ストーリーテラーとしてのヒッチコックの演出の的確さに対して新進の映画監督二人が興奮を隠し切れない様子が伝わってくる。物語を過不足なく語る「職人」としてのヒッチコック。そのような側面が強調されることで、いわゆる「作家の映画」と通俗的な「娯楽映画」という区別などヒッチコックにとってはいかほどの意味も持たないという事実が明らかにされるだろう。その一方で、主に『ロープ』を巡る箇所で繰り広げられるアンドレ・バザンに対する批判は、ヒッチコックに対する無理解がカイエ・デュ・シネマ誌の内輪においても依然存在していたという事実を垣間見させると同時に、そんな同志の無理解をいかに晴らすかが著者の二人にとって本書を書き上げる目的の一つだったであろうことが示唆されていて興味深い。

これらはほんの一例に過ぎす、本書においては芸術から神学・哲学までも含めた多岐に渡る議論がヒッチコックを巡って繰り広げられていく。正直に告白するならば、本書を読み進めていく上でその情報量の多さに圧倒されてしまい、ただただ途方に暮れてしまう瞬間があったのも事実だ。しかし裏を返せば、そのような困惑こそが、ヒッチコックの作品そのものの厚み、単一の批評的な視点だけでは捉え切れないその豊潤さを逆説的に証明していると言えるのではないだろうか。まるで、細部の素晴らしさを逐一羅列していくことでしか、ヒッチコックの映画には太刀打ちできないとでも言わんばかりに。

それにしても、本書を読んでいて不意に2015年現在の映画が想起されるような瞬間があったことには驚いた。例えば、ヒッチコックをムルナウやエイゼンシュテインと並ぶ「形式の発明者」であると称する結論部、「形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。」という言葉からは『さらば、愛の言葉よ』のことが思い起こされるし、「深みを欠いた芸達者、テクニシャンであって、真の作家ではない。」というヒッチコックに対する批判は、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』のような作品を作る者にこそ浴びせられるべきであるはずだ。あるいは、「ヒロインが恐れているのは、禍々しい何かが起こるというよりもむしろ、刻一刻と重みを増していく瞬間が積み重なっていく限りは、その出来事がまだ起こらないということなのだ。」という『知りすぎていた男』を巡る一文。ヒッチコックのサスペンス演出、その真髄の一端が読み取れる箇所だと思うのだが、例えばヒッチコック的サスペンスを現在実践した作品として『アメリカン・スナイパー』の名を挙げることも可能なのではないか。半世紀以上前に書かれた書物だからと言って、本書を決して侮ってはならない。

 

(坂庄基/神戸映画資料館スタッフ)

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