今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW
2015 11

doitsueiga0

「ドイツ映画零年」

著者:渋谷哲也
出版社:共和国
発行年月:2015年8月

 

 

 

一度でも渋谷哲也氏のレクチャーに参加したことがある者ならば、その解説者としての確かな手腕にすっかり魅了されてしまったのではないだろうか。例えばストローブ=ユイレの作品を鑑賞した後、その映像体験に圧倒されながらも難解というレッテルを貼ろうとしてしまう我々に待ったをかけるように、その読解の明快さでもって作品と観客とを確実に橋渡ししてしまうのだ。そんな渋谷氏にとっての初の単著は、氏がこれまでに書き連ねてきたドイツ映画にまつわる文章の集成である。レニ・リーフェンシュタールやフリッツ・ラングなどの伝説的な人物から、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーやヴィム・ヴェンダースなどのニュージャーマンシネマ、近年渋谷氏自身が紹介に携わっているトーマス・アルスランまで、いまドイツ映画を語る上では外せないであろう人物や作品が次々と取り上げられていく。

まえがきにもあるように、本書は渋谷氏自身とドイツ映画との一期一会的な出会いの記録としても読み得るものだ。しかし、そんな著者の私的映画史である一方、本書はあくまで未来を見据えた書物でもある。本書の中心となる二人の人物について書かれた文章がそのような印象を抱かせるのだ。渋谷氏が自身のライフワークと称するファスビンダー、その受容における新たな可能性を開く試みといえる「ファスビンダーと戦後ドイツ社会」も素晴らしいのだが、ここではもう一人の中心人物リーフェンシュタールについて書かれた文章に注目したい。

リーフェンシュタールを評価することの困難と向き合うこの文章は、戦後ドイツにおいて「リーフェンシュタール」という伝説的な人物像が築き上げられていく過程に目を向ける。リーフェンシュタールとは、「その作品、批評、自身の言動、他者の証言、メディアのイメージなどを内包したひとつのテクスト」と見做すことができるだろう。そう主張する渋谷氏は、彼女を巡るこれらの言説を戦後ドイツの社会状況などと照らし合わせながら、リーフェンシュタール像の核心に迫っていくのである。とりわけ、伝記やインタヴューの場を通じて、リーフェンシュタール自身が「孤高の芸術家」や「悲劇のヒロイン」というようなイメージを自己演出しているのではないかという指摘は重要である。一見信憑性の高そうなこれらの言説もあくまで個人の「記憶」に立脚したものに過ぎない以上、そこに絶対的な「真実」など見出し得るはずがない。あらゆる伝記や歴史記述に関わる根本的な問題となりうるこの矛盾は、その対象と向き合う者に絶望感を喚起しかねないだろう。しかし、この文章においてそれが微塵も感じられないのは、そのような矛盾をまず認識することこそがある種の「はじまり」として捉えられているからである。「レニ・リーフェンシュタール論をはじめるまえに」と名付けられていることからも明らかなように、この文章は将来書かれるべきリーフェンシュタール論の出発点に過ぎない。そして、そのような「はじまり」を告げる文章で締め括られる本書は、やはりあくまでも未来へと開かれた書物なのである。

 
(坂庄基/神戸映画資料館スタッフ)

●『ドイツ映画零年』 渋谷哲也インタビュー


これまでの今月の1冊|神戸映画資料館