今月の1冊WEBSPECIAL / BOOKREVIEW
2017 3

s_rgKALTuiCruQKoYz「「世界のクロサワ」をプロデュースした男・本木荘二郎」

著者:鈴木義昭
出版社:山川出版社
発行年月:2016年7月

 

 

 

 黒澤明の代表作である『羅生門』(1950年)や『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)などをプロデュースした人物が、後にピンク映画の監督に転身し、およそ200本もの作品を残したという話を聞けば、映画ファンならずとも、その「本木荘二郎」という人物に強い興味をそそられるに違いない。ピンク映画の第一作とされる小林悟の『肉体の市場』(1962年)が大きな話題を呼んだわずか半年後、本木は『肉体自由貿易』なる映画を監督し、亡くなる77年の『好色女子大生 あげちゃいたい!』まで、多数の変名(高木丈夫、岸本恵一、藤本潤二、藤本潤三、品川照二など)を使い、ピンク映画の世界で生きた。それまでのプロデューサーとして知られた名前を使わなかった理由として、著者の鈴木義昭は、黒澤に「迷惑はかけない」といった誓いがあったと考える。

 それはあたかも、自分の存在を映画界から書いては消し、書いては消すような作業だったようにも思われる。気の遠くなる不思議な作業でもあった。

 一体、本木荘二郎とはどのような人物だったのか。本書では、本木が田中友幸、藤本真澄とともに東宝の三大プロデューサーと呼ばれ、数多くのヒット作品にたずさわり(終戦直後の斎藤寅次郎による喜劇『東京五人男』(1946年)やマキノ雅弘の『次郎長三国志』のシリーズなどをプロデュースしたのも本木だった)、黒澤明の映画をいかに力強く支えたのかが示される。そして、撮影所を追われ、やがて「ピンク映画」(もっともよく知られるように、この名称が用いられるのは、撮影現場を取材で訪れた新聞記者によって命名された63年以降である)の世界で活動していた時代の本木の姿も、関係者への詳しい取材とともに明らかにされる。それは本木荘二郎という日本映画史から半ば忘却された、あるいは「自分の存在を書いては消し、書いては消す」という身振りに費した一人の映画人の生を、歴史の中に位置づけ直す試みといえる。
 多くの読者は、本木と黒澤の関係や何故彼がピンク映画の世界に足を踏み入れたのかという謎をめぐって、本書を読み進めるだろう。その謎については、実際に本書を手にとり向き合ってもらうことにして、繰り返し強調すべきは、本木の軌跡を追う作業が、大手撮影所によるメインストリームの日本映画だけでなく、その歴史と密接に結びついたピンク映画の世界に迫る作業でもあることだ。一方で38年に本木が入社した東宝撮影所や当時の映画界の状況について、戦後の東宝争議における黒澤や本木たちの行動について、その後に彼らが山本嘉次郎、成瀬巳喜男、谷口千吉たちと設立した「映画芸術協会」の果たした役割などについて、本書では詳しく描かれている。他方では、やがて映画産業が斜陽期に入り、ブロックブッキングのシステムが崩壊し、テレビ産業の進展に伴うかたちで、ピンク映画を作るプロダクションが多数生まれた時代の流れが記される。本木と同じくピンク映画のパイオニアで、65年のベルリン国際映画祭で『壁の中の秘事』を出品し、日本国内で「国辱映画」と批判された若松孝二も、初期にはテレビ関係の製作プロダクションなどで活動した。かつて『壁の中の秘事』の脚本を書いた曾根中生は、「国辱映画とはよく言ったものだ。言った人の未開発な脳味噌こそ国辱ものだろう」と記したが、むろん若松のような特定の作家のみでなく、いまやピンク映画の除外された映画史などを構想することは不可能である。本書はその例示であり、長年ピンク映画を研究し、映画人への聞き書きを続けてきた著者のまなざしと本木荘二郎の生を通じて、日本映画史の語り損ねられてきた地層を浮かび上がらせている。
 残念なのは、本木が監督したほとんどの映画を、現在のわれわれが観る機会を奪われている点である。黒澤の映画がいまや世界中で誰もが観られる状況に対し、本木の手がけたピンク映画の場合、多くのフィルムが廃棄されていることが、本書の取材でわかったという。ただし近年では、日活の倉庫から10本の本木の作品が発見されてもいる。本書の冒頭で、本木の監督した作品をフィルムセンターで研究者向けに試写が行われた様子が示されているが、今後さらにフィルムの発掘や一般に開かれた上映の機会をつくる作業が、映画史の再考にとって不可欠となるだろう。

(田中晋平/神戸映画保存ネットワーク客員研究員)


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