ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

『ライオンは今夜死ぬ』
諏訪敦彦監督インタビュー

©2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

各地で公開が続く諏訪敦彦監督の新作『ライオンは今夜死ぬ』。主演のジャン=ピエール・レオーの存在感に加え、監督が講師として参加する「こども映画教室」の成果を発揮した「共同創作のドキュメント」という側面も大きな魅力となり、8㎜作品『はなされるGANG』(1984)以降の試みを更新する出色の仕上がりだ。俳優レオー、さらに映画づくりをめぐる思考を語っていただいた。
*先日掲載した、約40年に及ぶ交流が続いている筒井武文監督インタビューとあわせてお読みください。

 

──つい先日、筒井武文監督にお話を伺った際に、諏訪監督のラストを決めない映画撮影を「おそろしい」とおっしゃっていました。

「おそろしい」と思ったら撮れないので、人から見たらおそろしいのかもしれないけど、自分としてはそんなに怖くはないですね。まあ、失敗しても死ぬことはないので(笑)。楽観的といえば楽観的だけど、逆に言えばゴールが見えていて、そこに向けてつくるのはやっぱりちょっとつまらない。映画自体につくってみないと辿り着けないところがあるから、おもしろさがあるし自由もある。自由とは、好き勝手にやるということではなく、自分が考えもしなかったところに辿り着く自由。そういう自由が、ものをつくる行為にはあるんじゃないかな。特に映画はそれができると思うんです。どうなっていこうと見ていられるし、うつし取れる。むしろ自分の思い通りに撮るほうが難しいと思うんですよね。相当なことをやらないと自分の思い通りにはならないので。世界や出来事はどうなるかよくわからない。捉えようのないのが世界です。でもカメラはそれをパッと捉える力を持っている。だから、そんなにとんでもないことをやっているつもりはないんですけどね(笑)。

──「ベースになる物語がない」という指摘に関してはいかがでしょうか。

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物語とは何かと考えると色々あるでしょうが、いわゆる「映画が描くお話」だとすると、その大まかな部分は撮影前にはできている。シーン1、2、3という形になっていて、それに基づいて撮影スケジュールも組まれます。だけど、そのシーンが思い描いた通りに撮られるかどうかはわからない。「やってみたらこうなっちゃった」とか、「あれ? 全然違う内容になっている」ということがよくあるし、今回もそうでしたね。特にジャン=ピエール・レオーという人は本当に予測できないので、全然予期していなかったシーンになったりもする。そうなると、「これでいいのか?」「この次はどうすればいいのか?」と常に検討と再検討を重ねていかないと辿り着けないところがありますよね。

──過去の作品は順撮りで撮影を進めてこられました。今回もそうでしたか?

これまでは基本的にそうでしたね。『M/OTHER』(1999)や『不完全なふたり』(2005)は完全な順撮りです。俳優の即興的な演技によって引き起こされる感情や出来事が変化してゆくので、それを追っていくには一個ずつ進んでいかないといけない。シーンを一個飛ばして先を撮るということはできないわけです。前にあるシーンを後で撮ったりすると、変化を辿れなくなるので、制作チームには日程面で順に撮っていくことを優先的に考えてもらうんだけど、今回も即興的な要素の強い子供とジャンに関しては基本的にそうでした。ただ、ジュリエットという昔の恋人の幽霊とのシーンはまったく切り離して、別に4日ほどで集中的に撮っています。

──それがコントラストをもたらしていると感じました。この新作では、過去作では見られなかったような切り返しも使っておられますね。

今回はトム・アラリという、僕より若いジェネレーションの撮影監督と初めて組みました。すごく優れた人で、色んな提案をしてくれました。僕の映画を理解した上で、「諏訪さんなら普通こういうことはやらないだろうけど、今回はやってみてもいいんじゃないか?」「このシーンはこう撮ってはどうか?」と。彼の意見によって僕が変わっていった部分があります。もうひとつ、「切り返し」という言葉が出ましたが、切り返しは、普通の映画では頻繁に使われる手法だけど──以前、黒沢清さんもおっしゃっていたように──かなりいかがわしいものである。僕もそう思うし、なぜいかがわしいかというと嘘だから。トリックに近い映画的な嘘をついて、それを本当のように見せる。最も一般的に使われるけど、本当は最も嘘っぽいものですよね。でも、だからやってはいけないかというと、そんなことはなくて。たとえば切り返さずに引きっぱなしで俳優を撮るとすれば、それは俳優のパフォーマンスに依存することになる。またそこにはフィクションと同時に、俳優のパフォーマンスを観察するドキュメンタルな視点も存在します。それを切り返すのは、撮る側も演じる側もフィクションに加担していく、共犯していくことになりますよね。本作にはそういう場面があっていい。僕たちがフィクションに加担する瞬間も、反対にフィクションから距離を取るシーンがあってもいい。様々な層が生まれるのをよいことだと思ったんです。

──終盤の湖のシーンでは、レオーを真正面から捉えて切り返します。本作のベストショットのひとつではないでしょうか。

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切り返すなら、最も嘘っぽい真正面からやろうと。斜めに入るとナチュラルに見えるけど、真正面からだとレオー的な嘘になる。あの切り返しは、まさにジャン=ピエール・レオーそのものというか。常にカメラに向かって演技している彼が、最も望むポジションでもあるわけです。簡単に言えば、彼はカメラが恋人なんですよ。カメラに向かってしゃべる。これ以上幸福なことはない。その次が鏡に向かって話す(笑)。つまり自分に向かってしゃべる。これもレオーならではですね。

──あのシーンで切り返す相手を見ても、他にはありえないと思えるポジションですよね。序盤から効果的に使われている鏡も、「自分が好き」だというレオーにマッチした装置です。「鏡像」ということからお話しいただけますか?

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鏡もまたおもしろくて、現実世界では鏡を通した実像と虚像がある。そっくりだけど、鏡の像は反射だから嘘で、写っている側は本物という明確な区別がありますよね。だけど、それを映画で撮った場合は実像も虚像も同じになります。同じように嘘であり、どちらも平面でそこに差はない。さらに映画では幽霊と、そうでない者との区別もないんです。だから、幽霊をことさら幽霊のように見せなくても、そもそもみんな幽霊なんだと(笑)。

──たしかに本作に登場する幽霊には、生きている者との線引きがありません(笑)。「嘘と実」という主題にも呼応する描写だと思います。『キネマ旬報』の筒井監督とのご対談では、トリック撮影を使わないことへの言及がありました。

そこに差はないのだと考えれば、何のトリックも要らない。ただそのままで居ればいい。あえて言葉にすれば、そういうことでしょうね。

──幽霊、つまり死者のお話が出たので、以前から訊ねたかったことを伺います。監督はその場でその瞬間に生成されるものから映画をつくっておられる。撮り終えた素材や完成した作品、いわば「死んでしまった時間」をご覧になるときに、どんな感覚を覚えるのでしょうか。

最も素朴に答えれば、ロラン・バルトは「写真は死んだ時間だ」と言いますよね。写真とは「かつてそこにあったものであることから逃れられない」と。その通りだと思います。でもそれが動きはじめると現在、圧倒的な「今」を感じさせてしまう。映画は常にすでに撮られた過去だけど、いま目の前で生起している現在でもある。そういう両面を感じながら見ているんじゃないかな。「今」をどうやって再構成するのか? そのパラドックスが編集において起こるわけですよね。

──レオーと子供とのバランスなど、筒井監督は本作の編集に対して「諏訪さんは賭けに勝った」ともおっしゃっていました。

勝ったかどうかはわからないけど、筒井さんのおっしゃる通り、今回の編集では子供の場面とレオーの場面の配分の問題がありました。これが本当にデリケートなバランスで、何かがちょっと狂うと全部が狂ってしまう。とても難しかったですね。どちらかが重くて、もう一方が軽くても駄目で、直前まで変えていました。最終版を上げてから、さらに10分切っています。

──過去作の編集も大変だったかと思いますが、何か変化はありましたか?

大変さの質が少し違いましたね。『M/OTHER』でも多少ありましたが、子供が出ていると、大人とのバランスをどう取るかという問題がまず出てくる。やっぱり子供って共感を呼びやすいので、少しバランスが崩れると持っていかれてしまう。それから、今までの編集はどちらかといえば時間や空間の持続を尊重しています。アクションでないものを尊重してつないでいるんですね。編集のときに、画面に直接あらわれていないものを見ようとする視点が働いていたんだけど、今回はそうした持続にあまり関心を持たなかった。むしろ一般的な編集に従っています。というのも、レオーはパフォーマンスの持続のなかで何かが立ち上がってくるタイプではない。パフォーマティヴな俳優ではないんです。どちらかといえばサイレントの俳優に近い。アクションによって表現する人だから、編集で空間や時間の持続を重視すると彼の演技を殺してしまう、裏切ってしまうことになります。……いま話していて気づいたけど、そういうことだったと思います。だから今回はアクション的につないでいます。

──そのせいでしょうか、レオーのたどたどしい足取りなど、ちょっとしたアクションも際立って見えます。

よろけるのは、本当によろけているんですけどね(笑)。脚が弱くて立っているのが大変なんです。撮影のときは、ずっと椅子に座ってスタンバイして、本番直前に立ち上がって演技をして、終わったらすぐに座る感じで。映画を見ると結構動いているけど、実際はあんなに動けないんです。

──そうは見えないですね。劇中に何度か「物語の結末」というセリフがあります。結末のレオーの表情からは、はじまりのようなニュアンスも感じ取れます。

そのニュアンスは強調していますね。僕も「老い」や「死」というテーマをそんなに深刻なものとして捉えていません。だけど一方で、それはかなり残酷なことでもあると思うんです。映画において死を描くのは、とてつもなく残酷なことでもある。なぜなら本当に死んでいるから。死んでいくものを記録してしまっているわけで、残酷なことだけど、だからこそ深刻にならず明るくやる。そういう気持ちでした。

──その意味でも死と生が共存した作品だと思います。『ecce3 映像と批評3』(2012、森話社)掲載のインタビューで監督は「映画は人を巻き込むものだ」とおっしゃっていました。他者との関わりのなかで映画が生まれるのは変わらないと思うのですが、作品への距離の取り方にこれまでと違いはありましたか?

以前よりも、自分が引いているところがありますね。どういうことかというと、「こども映画教室」と同じで、そこで僕は直接映画をつくっていない。講師として見守る立場で、つくる当事者は子供たち。できた映画の内容にも僕はほとんど関知していない。でもそれは僕の作品でもあると思っています。子供たちのつくるものはおもしろくて、刑事ものや忍者もの、魔法の映画もあって、それらは決して僕が生み出したわけではないけれど、自分の作品だという気持ちもあるんです。僕と数日間関わったことで、彼らのなかから生まれてきた映画で、それもひとつの作品なのだと。だから「作者」、つまり映画をつくる人はすべてを支配する必要はなくて、関与する人たちがそれぞれものをつくり出していくきっかけや出会いを組織することで、ひとつの映画ができればいいのではないかという気がしますね。そういう意味で、本作では全体を統御する演出力が弱まっていると思うんです。色んなものが野放しになって、そこに様々なものが共存している。逆にそうあってほしいとも思っています。

──「弱さ」というと、前に鈴木卓爾監督とのご対談で「弱い監督」という言葉を使ってお話しされていたのも印象に残っています。

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「弱さ」に関しては色々な意味があります。ペドロ・コスタと話すときも「僕たちは弱い監督だよね」って(笑)。たとえばジョン・フォードみたいなジェネレーションの監督は「強い」監督。権力を持っていてイメージを支配していく。単純にそれだけじゃないけど、小津安二郎さんだって強い監督ですよね。ある強靭なイメージを持って撮る。でも、いま表現している人たちって、強いから表現するわけじゃない。弱い者が表現者になっていく。学生たちを見ていても、「俺はどうしてもこれが言いたい」「これを表現したい」と声高に言う人はほとんどいない。逆に「自分が何をしたいかよくわからない」とか「テーマが見つからない」と言う。これもある「弱さ」ですよね。でもその弱さにおいてしか、ものをつくることはできないんじゃないかとも思う。弱い者たちの映画があり得るだろうと。現代映画はそういう局面を迎えていると感じます。その問題をどう乗り越えていくかということを考えていて、演出力が弱まって引いた立場になっていても、それは自分の望むところでもあるし、今回はそういうものを目指したと思いますね。

──監督のコントロールが弱くなるほど、映画の強度や作家性が高まるのは逆説的とも受け取れます。それも本作のおもしろさではないでしょうか。

でも結局、それは最初からあったのかもしれないですね。『2/デュオ』(1977〉のときから演出を統括している部分は弱くて、それにも関らず僕が映画全体のフレームを強力に仕掛けているのだと受け取ることもできたし、「諏訪の作家性」だと言われてしまうパラドックスがあった(笑)。しようがないなとも思ったんですよね。望んだわけではない「諏訪敦彦の作家性」と逆説的に結びついてしまうことは経験しているので、それを否定しようとは思わないけれど。

──監督の作品は様々なパラドックスからできていますね(笑)。さて、19歳のときに出会われた筒井監督は、諏訪監督を「ライバル」とおっしゃっていました。諏訪監督にとってはどのような存在か、最後におきかせください。

ベタに言うと「先生」ですね。やっぱりいまだに彼から学んでいると思うんです。学生のときからそうで、筒井さんが言ったことはすごく重く響きます。「何だろう? どういうことだろう?」と考えることもある。彼の価値観を信頼していますね。

(2018年1月11日 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『ライオンは今夜死ぬ』公式サイト
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