インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW
2014 2

 

石井岳龍監督インタビュー


昨年に続き、3月1日(土)に神戸・塩屋の旧グッゲンハイム邸で映画監督・石井岳龍のフィルムトークイベント「GAKURYU ISHII PRESENTS!! 月夜のシネマトークvol.2」が開催される。上映作品はロベルト・ヴィーネ監督作『カリガリ博士』(20)。ドイツ表現主義を代表するサイレント作品に、ピアニスト/キーボードプレイヤーなどとして多彩な音楽活動を展開する森俊之の生演奏が付けられる(映写機は神戸映画資料館より貸し出される)。
石井監督といえば最新作『シャニダールの花』(2013)のDVD/ブルーレイが2月7日にリリースされたばかり。イベントと作品についての取材は、近年の映画作りを通して監督が得た確かな手応えも感じるものとなった。──『月夜のシネマトーク』は昨年春以来の開催で、前回上映したのはデュシャンやマン・レイの作品でしたが、今回『カリガリ博士』を選ばれたのはどうしてでしょう?
「イベント担当の方から何か作品を選んでもらえないかと提案があって、自分が今、一番観たいものになりました(笑)。あとは音楽を付けたいということだったので、『カリガリ博士』ならサイレント映画のライブ上映として演奏のやり甲斐もあるんじゃないかなと思ってのセレクトですね」
──今観ても視覚に訴える力が大きい映画です。
「サイレント時代のかなり極端な形の映画と言えますよね。それと他の作品は最近、状態の良いソフトがある。『吸血鬼ノスフェラートゥ』(22)とか、ムルナウ監督作品は復元されて状態のいいものが出ているんですが、『カリガリ博士』はまだ出てなくて昔のプリントのまま。プリントで上映したい意図もあったので、この作品がふさわしいんじゃないかなというのもありましたね。内容が自分の好みである部分も強いです」
──モノクロ作品ですが、石井監督のフィルモグラフィーでモノクロームといえば『ユメノ銀河』(97)もそうでしたね。
「『ユメノ銀河』は同じサイレントでも、どちらかといえばフランス・アヴァンギャルドの方に近いかもしれません。たとえばジャン・エプスタイン監督の『アッシャー家の末裔』(28)とか。エプスタインはよく「詩的」「フォトジェニー」と形容されるんだけど、モンタージュを駆使して或るドラマ、ヴィジュアルインパクトを語る彼のことが頭のどこかにありましたね。『ユメノ銀河』は非常にシンプルな話なので、それをどうにか映像の力で面白く、あるいは怖く語れないかと考えていました」
──『ユメノ銀河』の原作は夢野久作の『少女地獄・殺人リレー』。『カリガリ博士』と夢野さんの小説には共通するところがありますよね。
「夢野久作さんは明らかに『カリガリ博士』の影響を受けてますね。『ドグラ・マグラ』にはどこか似た構造がある。「観て感銘を受けた」と日記にも書いていましたね」
──ループする構造ですね。
「そう、“悪夢の迷宮”というところ。『ユメノ銀河』も、英語タイトルは『Labyrinth Of Dreams』。『夢の迷宮』という題にしていて、そっちの方がイメージ的には近いですね。『カリガリ博士』は夢野久作さんの小説と構造的に、世界観も近いものがありますけど、あの極端に歪んだヴィジュアルは他にちょっと見当たらない。オンリーワン、まったく独自のものですよね」
──その映画に今回、音楽を付ける森俊之さんとの出会いを教えて頂けますか?
「SHUUBIという知り合いのミュージシャンがいて、彼女が主演の映画に私も出演していたり、プロモーション・ビデオを実はグッゲンハイム邸で撮影しているんです。そういう繋がりもあるし、最新アルバムに森さんがプロデュースと演奏で加わっています。ふたりでよくライブも演っていて、その時に初めて演奏に触れて、日本人離れしたリズム感と演奏の正確さ、そしてファンキーさには驚くものがありました。ピアノ演奏とそのセンス、「こんな人が日本にいたのか」と。「どうしてもいつか仕事をしたい」と注目していた方です」
──ということは、企画のスタートの時点から森さんの演奏を考えておられましたか?
「最初から森さんを想定してはいなかったんですけどね。サイレント映画に生で音楽を付けるならクラシックとかパターンがあると思うんですけども、担当の人から「そういう人じゃない方がいい」と言われて(笑)。だったら森さんでと。一緒に何かしたいと思っていましたが、非常に忙しい方なので駄目もとでお願いすると快くOKをもらえた。その意味でもちょっと奇跡的、稀有な機会になると思います」
──演奏にはグッゲンハイム邸のピアノが使われるんでしょうか?
「うん。最初はキーボードやPAを使うという案もあったんですけど、グッゲンハイム邸を見て頂いて、結局あのピアノを使うことになりました。「生で演る」というのは、とっても素晴らしいと思うんですね」
──当日の演奏はすべて即興で?
「全部即興で・・・・・・あの映画は前もって、ある程度考えないと出来ないとも思うんですけどね(笑)。ただ本人は「即興で」とおっしゃってると聞いています。その演奏を聴けるというだけで私は今からドキドキいうか、どういう音になるんだろうと非常に楽しみにしています」
──即興=一回性ということに関連して、過去に神戸映画資料館でのイベントで石井監督が「昔は自分の映画がソフトなどの形で残ると思っていなかった」と話しておられたのが印象に残っています。『狂い咲きサンダーロード』(80)さえも、後々まで残ると思っておられなかったというのがとても意外だったんです。
「そう、まったく想像していなかったですね。消えて無くなるものだと思っていました、映画は」
──博多での青春期、映画館に通っていた時期も「目に焼き付けるしかないと思って観ていた」とも語っておられました。
「基本的に映画は一度上映されたら終わり、次にいつ出遭えるか?という思いでしたね。基本的によほどの名作、超大作でもない限りリバイバルもされなかったので二番館や三番館、名画座で観る機会があれば1日何回でも観ていましたし、何度でも通っていましたよね。20回や30回観るということもザラだったと思います。そこで憶えないともうその映画には出遭えないわけですから、特に気に入ったモンタージュや話の運び、演技や構図、撮り方に感銘を受けた映画はとにかく吸収しようとした。それしか方法がなかったので懸命に観ましたね」
──映画を本格的に作り始めてからも、その感覚が染み込んでいたんですね。
「特に僕らが最初に作っていたのは8ミリ映画だった。8ミリってそのもの自体がネガでありポジであり上映プリントなので、1回ごとに傷が付くんですよね。トラブルでグシャグシャになって、その分切らないといけなくなったり、あと音が非常に貧しかったので、時々カセットテープやオープンリールを使って外から出してシンクロさせるとか、それこそライブ的なことをやるのが染み付いていましたね。自分で映写もしてたし、そうしなければいけない状況でもあった(笑)。でもそれがまた楽しかったですけどね、とっても」
──昔は大事なカセットテープを再生していても「そのうち切れるんじゃないか?」と怯えていたのを思い出しました。
「レコードもそうですよね。あれは1回再生するごとにすり減っていくものなので。デジタルはまったく逆で、「あくまで複製物は複製物」という考え方でした。その辺の考えを改めるのに、やっぱり相当時間はかかりましたね。デジタルの可能性はすごくわかってはいたけど、自分が映画から受ける感銘は「映画館で得る一回性のスリル」を含めてのものだったし、表現としても大切だと思っていました。ビデオで映画を観せるとうことは、いわば複製物を楽しんでもらうことですし、そのこととオリジナルとの差に戸惑いがありました、最初はね。今は自分の中で分けて考えてはいます」
──今回のイベントはまさに一回限りのものとなりそうですが、一方で2月7日に『シャニダールの花』のDVDとブルーレイがリリースされました。デジタルとアナログメディアの分け方についてはまた後ほど伺いたいのですが、まずこの作品の企画から制作の流れはどんなものだったんでしょう?
「はじめはじんのひろあき君がメインで脚本を書いてくれていて、それは本当にエンターテインメントでした。モチーフの花もニューヨークでオークションにかかるというような設定で、世界中に浸透して人々が身に付けて、それを巡るサスペンスとして企画が進んでいたんですけど、作ろうとしていた会社が無くなって一回完全に中断してしまったんです。でも私はどうしてもあきらめきれなくて、「自主制作でもいいから撮る」と言って企画自体を預からせてもらって、関西で実現可能な状態へ落とし込んでいきました。その後も色々紆余曲折があって「より良い強い話は出来ないか?」と完成した形を捨ててハードボイルド、サスペンスストーリーなども組んでみましたが、試行錯誤の結果、「やはりこの形がいい」となったんです」
──主演の綾野剛さんと黒木華さんの関係をクローズアップするとメロドラマの要素もあります。石井監督の作品ではここまで際立っているのは珍しいですよね?
「メロドラマ、ハードファンタジー、はっきりとそっちへ振り切っていますよね。あるいは人間ドラマと言えばいいんでしょうか、花を巡る閉ざされた世界の中の話ですけど。これから先、こういうものがあるかどうかは自分でもわからないですね(笑)」
──メロドラマというと、石井監督はライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督がお好きで、昨年は神戸でドイツ映画研究者の渋谷哲也さんとの対談も行われました。博多で映画館に通っていた時代からメロドラマはよくご覧になっていましたか?
「昔は特に好きではなかったですけど、段々歳も取ってきましたしね。ファスビンダーや彼が尊敬するダグラス・サーク、あとはヒッチコック。映画ならではの表現と娯楽との接点は自分の好きな世界です。そういう自分の好きな映画からインスパイアされたというか、『シャニダールの花』では“語り方”というんでしょうか、或るテーマを見えやすい形にしたかった。「男性がいて女性がいる」のは映画にとって永遠のテーマ、ひとつの黄金郷だし、時代時代で追求されるメインストリームだと思うので、そういう普遍的なものと今でしか作れないものとの新しい融合はすごく考えました」
──前作『生きてるものはいないのか』(2012)は、俳優や演出に重きを置いた作りをなされたとおっしゃっていました。その作りは継続していましたか?
「この作品はかなり厳しい条件、撮影時間も短かったので、思い切って凝縮する制作方法をとりました。その中で俳優さんのキャスティングや演技の在りようがこれまで以上に重要になってきた。俳優さん達は感受性も非常に鋭いし──つねにそういう人達と仕事をしたいんですが──感情表現も豊かで、世界観を共有出来るっていうのかな、大事な仲間なんですよね。新しいものを作ってゆくのに不可欠な存在で、その為にも彼らの魅力や演技の極みを導き出す題材、演出を磨いていかないと駄目だと思ったんです。これが私の得意なアクション映画的な動きと結びつけばもっと嬉しいんですけど(笑)。『シャニダールの花』では、そのアクション無しでも面白さをどう出せるかが試みでもありました。「花に狂わされた人達のドラマ」という題材がそれを可能にしたということですね」
──これも『生きてるものはいないのか』の取材時にお聞きしましたが、新作ごとにやったことのない試み、挑戦に取り組まれるのは石井監督の変わらない姿勢ですね。
「そうなんですよ、昔からの自分の性格で。毎回どんなにそれが拙くても、人に理解されないとしても、自分としては全力を出してチャレンジしているので冒険だと思っています。ちょっとでも「行かなければいけない、自分が行きたい場所」が見えたら、突っ込んで行きたくなるタイプなんですよね、その結果は勿論成功した方がいいんですけど、成功するかどうかより、その過程の方が大事というのかな。そういう風にこれまで1本ずつ作ってきて今、多少なりに自分の考えも変わってきていますが、『シャニダールの花』もやはりまったくの新しいチャレンジだったので、そこが自分にとって燃えた部分でもありました」
──その映画がDVD、ブルーレイになって発売されましたが、石井監督作品のブルーレイ化は本作が初めてですね?
「そうです、劇映画ではね。『ネオ・ウルトラQ』というWOWOWで監督させてもらった番組は短編映画と呼んでもいいものでしたが、長編映画としては初めてのブルーレイなので嬉しかったですね(笑)」
──では、その『シャニダールの花』の劇場公開からDVDとブルーレイのリリースを経て、現在感じておられることをきかせて下さい。
「今後は怖いものが無くなったというかね。映画と自分の得意なものとの接点を最大限に発揮しつつ、なおかつ普遍性、一般的には「娯楽」と呼ばれるものにもチャレンジしたい意欲が強くなっています。それも自ら仕掛けてゆくことに今はちょっと興味があります。次に撮る映画は少し違っていて、最も過激な映画の部類に入ると思うんだけど、同時にこちらのテリトリーを拡大していく中で、不特定多数の観客、世界の観客の方へ向けた娯楽の王道との接点も見つけ出せるんじゃないか?と、自分の中でチャレンジングな気持ちになっていますね」
──さっきも伺ったように、映画的な表現を損なわずに娯楽の部分を拡げてゆくということですね。
「そうですね。娯楽性とアート性の極北っていうかな、ファスビンダー監督の最も優れた作品や、私が今まで観てきて尊敬している監督たちの作品の中にもそれはあります。ただ、一般の方々に対しての娯楽ということになるとトータルな問題が大きいですよね。俳優さんの問題や題材の国民性とかね。観やすさということでいえば料金も関係してくると思うんですけど、今の日本で娯楽性とアート性が高次元で拮抗している映画は非常に作られ辛い。でも黒澤明監督、溝口健二監督、小津安二郎監督たちはそれをちゃんとやってきたわけですから、自分もそういうことを考えざるを得ない。アートはアートで極めていきたい気持ちも勿論ありますが、同時に娯楽を極めたいという気持ちは最近俄然強くなっているかな。例えば『生きてるものはいないのか』や『シャニダールの花』は私にはとても面白い作品だったんですけど、なかなか理解してもらえない方もいた。あの条件の中ではベストを尽くしたし、何の不満もないんですが──もう少し予算や撮影日数があれば、という理想はあるかもしれないですけど(笑)──もっと沢山の人に観てもらいたい。テーマや訴えたいこと、映画の質を落とさずに普遍的なものを作れる糸口が今、自分の中で見え始めています。それはやっぱり脚本や企画の力なので、もっと拡げていきたいと思っていますね」
──石井監督がそう考えるようになったのは何故でしょう?
「『生きてるものはいないのか』と『シャニダールの花』の2本はいわば完全にインディーズの映画というか、私が企画して“撮りたい”と思ったもので、それを100パーセントの状態で色んな方に協力して頂いて作れたことが大きいですね。例えば深作監督の『仁義なき戦い』(73)などは昔一番観た映画の部類ですが、しばらくああいう映画はもう作れないとあきらめていたんです。でも今観ても面白いし、映画の基本的な力を持っている。それと同じものは作れないけども、映画の活き活きとした躍動感であるとか、その時代の観客にアピールする力は永遠不滅のものだと思うので、題材や映像のインパクト、出ている俳優さんなどが同じ作品だとしても、もっともっと貪欲にお客さんを映画館に引っ張ってくる力を高めたい。それは自分にやれる筈だしやらなきゃいけない、そこを担いたいという気持ちも湧いてきています。そう考えたのは、俳優さん達と出会えたからでもありますね。スタッフも今や幅広く日本映画を代表する人たちになっている。要するに自分にとって駒が揃った。今とは逆転した位置にあったシナリオの力も、自分の中でピークが見えてきている。勿論何でも出来るわけじゃなくて、自分の得意な分野というのがありますから、その中で娯楽性と、私でしか作れない映画表現の極みを結びつける冒険に向かってじっくり計画を練っているところではありますね」
──映画監督にではなくアスリートに向けての質問のようですが、現在のコンディションは良好といえますか?
「うん。(教鞭をとっている神戸芸術工科)大学の方も順調に人材が育ってますし、協力してくれる頼もしい人達もやっと集まったので、「これで作らないと嘘だろう」という状態にいます。現実的に創作の各過程で自分の思い通りにはいかない、順番が入れ替わったりする問題はあるでしょうけど、それはたいしたことじゃないんですよね。「作りたいけど作れない」「これを作っても一般の方に届かないんじゃないか?」という不安が今はまったくなく、私の中で何も怖いものもない。「こうすれば大丈夫だ」というテーゼというか、ひとつの指針、目的地が見えたんですよ。その目的地へ向かっての航海、「あとはただ形にするだけだ」ということですね。色々やってきて、打たれ強くなったのもありますね(笑)」
──自分は石井監督の映画で育った世代ですから、そういう言葉をここ神戸で伺えるのは嬉しい限りです。最後にアナログとデジタルをどう分けて考えているか、お話いただけますか?3月1日のイベントは上映も演奏もアナログ、ソフト化された『シャニダールの花』はその対極にあるともいえます。
「『シャニダールの花』は勿論映画として作ってあるので、映画館で観て頂くのが第一義なんですけども、なかなか時間が合わなかったり料金の問題もある。映画館へ行けない方でも興味を持ってもらえれば、まずはDVDなりブルーレイでご覧頂いて、「面白い」と思って下さったら次の作品も観てもらいたい。私自身は映画館で観る映画は、「ライブ」として捉えています。体感するものとして臨場感やスリルのある娯楽、あるいは巨大なアートとして捉えてますし、それをディスクで所有・鑑賞するのは、CDだったりレコード、つまり「アルバム」だと考えています。その両立がなかなか難しかったんですが、それも色々な経験から可能になった。音のミックスや映像の在り方も含めて、ようやくクリアできたと思っていますね。それは『シャニダールの花』が初めてかもしれないな」
──家庭用プレイヤーでの再生にも十分耐え得る仕上がりになったでしょうか?
「何ら遜色ないと思います。どんな劣悪な状態でも良いでしょうし、優れたオーディオであればさらに良いですね」
えいがのみかた#20「GAKURYU ISHII PRESENTS!! 月夜のシネマトークvol.2」
映画『シャニダールの花』公式サイト

(2014年2月 神戸にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

 


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