ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema
『ヒッチコック』 木村建哉インタビュー

 

1957年、世界で初めて出版されたアルフレッド・ヒッチコックの研究書『ヒッチコック』。著者はエリック・ロメールとクロード・シャブロル。二人の独自の視点「形式(フォルム)」に基づく作品分析、そこから導き出されるヒッチコック映画の世界観、それを記す煽動的な文体など読みどころの多い一冊だ。木村建哉と小河原あやによって翻訳されたその日本語版が、2015年1月10日にインスクリプトから刊行される。神戸映画資料館では12月27日(土)・28日(日)に刊行記念イベントを開催、先行発売も予定している。待望の刊行を前に、訳者の一人、木村建哉にイベントへの展望も含めてインタビューを行った。

 

──まずは木村さんのヒッチコックとの出会いから伺えますか? いつ頃、どんな形だったのでしょう?

子供のときなのではっきりと覚えていませんが、小学校低学年の頃にテレビで放映された『北北西に進路を取れ』(59)や『サイコ』(60)、あと『鳥』(63)も見た記憶があります。

──そのとき既に、何か魅了されるものは感じましたか?

いや、その頃はとにかく怖くて、よくわからなかったですね(笑)。

──自然な反応ですね(笑)。では、映画としてヒッチコックの面白さを発見された時期は?

1984年に、ヒッチコックが持っていた『めまい』(58)、『裏窓』(54)、『ロープ』(48)などの権利の封印が解けて、他の作品とあわせて一斉にリバイバル上映されたんですよ。そのときアメリカ時代の代表作をまとめて見て、特に『汚名』(46)と『裏窓』に非常に感動しました。その年は1年で10本以上ヒッチコックの映画がスクリーンに掛けられたし、ちょうどビデオが普及した頃でソフトも流通しはじめました。だからスクリーンで見られないものはビデオで見て、すぐにトリュフォーのロングインタビュー集『映画術』の該当箇所を読む。そこで見落としているところがあると、スクリーンに掛かればまた行ったりビデオで見直したりという具合に、ヒッチコックにすっかりハマりました。

──それからちょうど30年ということですね。いま『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』のタイトルが挙がりましたが、今回刊行される『ヒッチコック』と比較して、共通点や違いを教えていただけますか?

ストーリー重視でなく、まず表現の形式や演出に着目するのはトリュフォーと共通しています。実はトリュフォーのインタビューでの発言は、ロメールとシャブロルに影響を受けているところがあります。ただ『ヒッチコック』の特異な点として、例えば主人公が濡れ衣を着せられて追う警察から逃げるという設定、あるいは『間違えられた男』(56)だと、裁判にかけられる設定の根源にキリスト教的な原罪の意識──誰でも持っていて、犯していなくてもそこから逃れられない罪の意識──を見出している。その罪深さを物語として語るのではなく、思弁的にと言うんでしょうか、視聴覚的な演出──それをロメールとシャブロルは「形式」と呼ぶのですが──を通じて徹底的に掘り下げています。同時に、人間にとって悪が魅惑的であるのを演出で描いていることも強調していますね。共通する部分もありますが、むしろトリュフォーがロメールとシャブロルから受けた影響が大きいだろうと思います。

──特異といえば、文章の激しさもそうですね。言い回しが独特です。

この本は、世界で初めてヒッチコックについて書かれた単行本、研究書です。いまやヒッチコックは映画学研究や批評でいちばん多く取り上げられている監督で、彼について書かれた本を集めれば小さな図書館が一杯になってしまうと映画学者の間でよく語られたりもするのですが、1957年当時は決してそうでなかった。ロメールとシャブロルはそろそろ映画監督として長篇を撮り出そうという駆け出しの頃。その二人が物凄い熱を込め、ある意味で肩肘を張っているところもあるくらい大上段に構えて、「ヒッチコックはエイゼンシュテインやムルナウなどに並ぶ芸術的な監督だ」と力説する。それは、その後の研究や批評の大きな流れを生み出してもいるんですね。その意味で歴史的にも重要ですし、ロメールとシャブロルという大監督が若い時期に書いた本なので、後の二人の作品にもこの本を書くために考えたことの影響があらわれている。いま読んでも最も刺激的なヒッチコック研究書だと思います。……と、ついつい私も肩肘張ってしまいました(笑)。

──いえ、読む側も力の入ってくる本です(笑)。原文もこのような勢いなのでしょうか?

文体は明らかに煽動的、戦闘的ですね。それまで『カイエ・デュ・シネマ』内、あるいは外にいる人との間で激しく議論をしてきて、その流れでロメールとシャブロルは、「議論では勝利した。こっちのものだ」と思っている。でも世間はまだまだヒッチコックのことを認めていない。そこで「自分たちがヒッチコックを決定的に世界に認めさせるんだ」という力が入っています。翻訳するときは、読みやすさとその肩肘を張った感じとのバランスに気を配りました。読みにくくなってはいけないけど、仰々しさも残したい。そのあたりはちょっと苦心しました。

──二人の力み、そして読みやすさとが両立した翻訳だと感じました。『カイエ』誌内の論争というと、たとえばアンドレ・バザンはロメール&シャブロルとは異なる見解を持っていましたね?

50年代の『カイエ』には、ヒッチコックをめぐる一大論争があったんですよね。肯定するかどうかで激しい議論があった。本文のあと、私は「訳者後書き」を書いていますが、共訳者の小河原あやさんはその議論に関する論考を寄せています(「ヒッチコック、新たな波──ロメール&シャブロル『ヒッチコック』の成立状況とその影響」)。『カイエ』はのちのヌーヴェルヴァーグ一派だけで固まっていたわけでなく、いわゆる「作家主義派」以外のベテラン執筆者も少なからずいて、そういう人々の間では「何でヒッチコックを褒めるんだ」という反発もあったんです。

──時代が流れて、映画を見はじめた頃にはもう「ヒッコック=大監督」という認識が定着していた世代の人も多いと思います。

ええ、今ではもうわからないでしょうね。

──となると、『カイエ』内でなぜそのような論争が起こっていたのか、遠い出来事としか感じられない方も少なくないかもしれません。小河原さんの論考も楽しみですが、先ほどもお訊きした、『ヒッチコック』が書かれた頃の状況をより詳しく伺えますか?

1957年という時代、映画に関する研究書はまだ少ないものの出てはいた。例えばチャップリンやフォードに関してですね。そうしたものが色々出版されているなかで、ヒッチコックを真面目に、あるいは学問的に取り上げて、名匠として評価しようという風潮はなかった。今でこそヒッチコックは映画史上最高の監督であると思われていますし、先ほど申し上げたように、批評も研究書もとても多い。当時、雑誌を舞台とした批評ではヒッチコックも議論の対象になりつつありましたが、「研究書」はとにかくこの本が初めてなんですね。ロメールとシャブロルは『カイエ』で、「ヒッチコックは技術を持ち、それを使った素晴らしい表現を行って見事な精神的世界を構築している」と何度も擁護しました。「もう十分に書いた」という部分も無いわけではなかったはずですが、しかし世間でまだヒッチコックは「娯楽作品の職人」としか思われていなかった時代です。そこで二人は「何としてでも偉大さを世界に知らしめる。世の中の認識を変えるんだ」と気合いを込めて、このような煽動的な文体で書いた。それは実は『カイエ』の身内に向けてでもあったんです。内外の批判派に徹底的に駄目を押すという。

──挑発的とも受け取れますね。こういう文体は今の映画研究では見られないようにも思います。

そういう文体ですよね。「ヒッチコックが単なる娯楽作品監督だとか、技術をひけらかしているだけだ、といった見方がいかにくだらないか、馬鹿げているか」と繰り返す。なぜそんなに構えて喧嘩を売るように書かないといけないのか? ロメールはのちには大学教授も努めた、普段は知的で抑えた文体で書く人です。それが『ヒッチコック』でテンションの高い文体になっているのは、やはり世間で「サスペンスの人。観客をびっくりさせたり怖がらせたりしている監督」と思われていた時代だからこそでしょうね。

──「超絶技巧」という言葉が幾度も使われていることだけを見ても、ロメール&シャブロルの気概が伝わります。当時の世間の評価に対し、二人は 一貫して「形式(フォルム)」の視点から語ってゆきます。この点を木村さんからお話しいただけるでしょうか?

50年代のフランス映画の主流は、物語や脚本の内容を重視した、いわゆる文芸映画で、トリュフォーがそれを「良質な伝統」と揶揄していますが(「フランス映画のある種の傾向」)、一般的にはそういう映画が芸術的だと思われていたわけですね。これに対してロメールとシャブロルは、映画の価値、映画がどれだけ優れているかは、物語の内容が芸術的かどうかではない。演出・表現がいかに優れているかだろう、と言う。その上で二人が主張するには、一貫した表現のなかにはある特徴的な形式が貫かれているはずで、その演出の形式を通じて監督の個性が強くあらわれてくる。その個性とは、世界観や倫理的な態度、世界に対する構え方まで含んでいる。ヒッチコックにおいては、演出を貫く形式への配慮が一貫・徹底していて、彼の独特の世界観──キリスト教的な「人間は根源的に罪深い」という道徳的・倫理的、ないしは宗教的な世界観──を形式的表現が支えている。あるいはむしろ、表現があってこそそうした精神的世界が成立している。ロメールとシャブロルはそう論じました。内容だけを重視して、形式や表現の話をすると「形式主義者だ」だと批判する人も50年代には多かった。しかしロメールやシャブロルはそうではなく、「形式こそが内容を創り出すのだ」と。内容が先にあって形式はお飾りなのではなく、形式が内容を生み出す、と明言する。そしてそれを最も徹底的に行っているのがヒッチコックだと考えたんです。

──『ヒッチコック』を締めくくる一節、「形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ」に結実していますね。ロメールとシャブロルは形式のなかにいくつかのモチーフを見出してヒッチコック作品の深部を探ろうとする。その一つが「交換」ですね。

二人が形式的な面でまず着目するのは、ヒッチコックの映画においては何かの対象あるいは物が「交換」されること、特に「罪の交換」がしばしば描かれていることなんですね。「罪の交換」とは、犯していない罪が他人から自分に移動する、あるいは、自分の罪が他人に移動する。その罪の移動と引き換えに、次に「責任」が移動する。このような「罪」「責任」の交換の典型が、例えば『見知らぬ乗客』(51)ですね。この作品では罪や責任の移動が、ライターの移動と並行して描かれていて非常にわかりやすい。ではなぜそのように罪が移動してしまうのか? なぜ犯してもいない罪が濡れ衣として自分に降りかかってくるのか? 交換のありようをどう描写しているか、その形式を分析してゆくなかでロメールとシャブロルが段々と明らかにするのは、「罪が交換可能であるということは、実はすべての人間がキリスト教的な原罪を背負っていて、人間は根源的に罪深い。等しく罪深い人間の間では罪はいくらでも移動できる」。つまりヒッチコックの映画では、無実=イノセントであるのに濡れ衣を着る人間がいるように見えるのですが、この移動の実態を分析していくと、本当は無実でいられる者はいないという構造が浮かび上がってくる。これがロメールとシャブロルの一貫した主張です。罪あるいは責任、あるいはその元になる「欲望」──彼らが直接使っていない言葉ですが──が移動して交換されるとき、それを遮るものもまた出てくる。そうした演出もまた一貫して行われていて、二人は「遮るものの現れ方」に神の意識が働いているのを読み取る。結論だけを聞くと、何か宗教的な見解が先にあるように思いがちですが、そうではなく、一貫した演出からどう世界観が構築されているか、それを読み取っていこうというのがロメールとシャブロルの議論の仕方です。

──あらゆる人間が「罪の媒介」たりえるということになるでしょうか。『私は告白する』(53)での〈悪〉と〈善〉の位相の考察も面白いですね。ヒッチコックの場合、それは単純な二項対立ではないし、均衡に到達するものでもない、と読めました。

そのことが「悪役の魅力」にもつながってくるかもしれませんね。

──悪役をライティングで引き立たせる技法については、荻上チキさんのラジオに出演された際にもお話しされていて興味深かったです。「交換」「罪」以外に、ロメールとシャブロルが挙げているモチーフについてもお聞かせください。

『ヒッチコック』で、罪の交換や移動と並んで挙げられているのが「告白」ですね。犯した罪が他人に移動する、ある意味で罪を他人に押し付けて黙っている。これは赦されない。それは公に、もしくは信じられる人だけには告白しなければいけない。でもなかなか告白できない。告白すれば、自分が本来負っていた罪を他人に押し付け移動させたことから少なくとも道徳的には解放される。でもそれができないことが、ヒッチコックの映画ではある核心を成している。この点をとりわけ、『山羊座のもとに』(49)を中心に語っていますし、『私は告白する』を論じた箇所でも触れられています。面白いのはそのとき、罪の告白とアナロジカルに、よく似たものとして「愛の告白」がそこに重ねられていることです。自分がある人を愛しているのがなかなか認められなくて、それを言うことができない。あるいは、言ってはならない、つまり妻がいるのに他の人に惹かれてしまうというシチュエーションは、例えば『パラダイン夫人の恋』(47)にもあります。愛の告白ができずに男女の関係をこじらせて、面倒くさく込み入ったものにしてしまう典型例がおそらく『汚名』ですね。そこでは愛の告白ができないことと、自分も同じく罪ある者として相手の罪を認め赦すこととが表裏一体で描かれています。その構図のなかで、具体的にラブシーンやクライマックスの場面などが分析されていて、それはぜひ本で読んでいただきたいところです。スリリングな分析が行われています。

──「告白」に関しては、ヌーヴェルヴァーグの仲間であるジャック・リヴェットやジャン・ドマルキの文章も引用して論じていますね。ところで、1957年といえば、『めまい』や『鳥』など一般的に代表作とされる作品の発表前です。その後の作品とロメール&シャブロルの論考を照らし合わせて、木村さんはどのような印象を抱かれましたか?

『ヒッチコック』は、56年公開の『間違えられた男』までの44本の作品を取り上げています。そのあと『めまい』、『北北西に進路を取れ』、『サイコ』、『鳥』と重要作が続くわけですが、例えば『北北西に進路を取れ』を見てみると、犯していない罪の濡れ衣を着せられて、警察に追われながら真犯人の悪事を食い止めるための闘いを行うという、ヒッチコックの典型的なパターンの一つに少しひねりを加えて発展・展開させています。『めまい』は犯していない罪をめぐる物語であるかもしれないし、あるいは『裏窓』と表裏一体と言い得るかもしれません。『ヒッチコック』での『裏窓』についての記述を読んでいると、ほとんど『めまい』のことを論じているんじゃないかと思えるようなところがある。このように『間違えられた男』までしか扱っていない本なのですが、ヒッチコックの円熟期の傑作と呼ばれている作品群を見る上でも様々な点で参考になるというか、『ヒッチコック』を通して57年以降の作品を見ると目から鱗が落ちる部分があります。言い方を変えれば、ヒッチコックの作家的な精神世界は57年までには確立されている。それをさらに決定的に推し進めるような部分がその後の作品にあるのではないか。『サイコ』には人を次々と殺してしまう人間が出てきますが、ここに『疑惑の影』(43)や、ほとんど理由もなく殺人を犯す『ロープ』の二人組を受け継ぐ者の姿を見て取ることもできると思うんですね。『ヒッチコック』刊行は57年。しかし以降のヒッチコックを考える上でも、そこでの議論は有効かつ注目すべきものだと思います。

──ここまでのお話、そして神戸の刊行イベントで木村さんと小河原さん、さらに濱口竜介さん、高橋知由さんを加えた4人でのトークセッションを聞けば、肝心の本を読まずとも内容の大部分を把握できてしまうのでは、という不安が一瞬頭をよぎったのですが……(笑)

私たちの話を聞いていただいて安心してもらっては困ります(笑)。ぜひとも本を読んでいただきたいです。

──27日(土)・28日(日)の2日間はより深いお話が聞けるはずですし、今回は訊き過ぎないよう、このあたりで留めておきます(笑)。トーク初日は小河原さんとのお二人ですね。どんな展開になりそうですか?

イベントでは参考上映もありますよね。ご覧いただいた後で、ヒッチコックの視覚的・聴覚的な演出について踏み込んでお話しすることになると思います。

──2日目の28日はいかがでしょう? 「ヒッチコック映画の撮り方」でなく、「撮られ方」というタイトルになっているのも気になるところです。

28日は映画監督の濱口竜介さん、脚本家の高橋知由さんをお迎えして、翻訳者の二人がお話を伺います。そのときにはヒッチコック作品を、そしてロメールとシャブロルの議論を、現在の最も先鋭的な映画作家の代表と言ってもいい濱口さんと高橋さんがどう見てどう読むかを訊いていく予定です。我々翻訳者からもヒッチコック作品の画面の細部、視覚的・音声的な演出について、そして脚本の構成について具体的な質問を投げかけながら、ヒッチコック的な映画づくり、あるいはロメールやシャブロルがそこに見て取った可能性が現代においてどう継承され得るのか、またどんな意味を持ち得るのか、濱口さんと高橋さんにお話いただく予定です。

──濱口さんはショットやカメラ位置から、高橋さんはシナリオの練り方というポイントからお話しが聞けるのではと予想しています。最後に少し脱線しますが、『ヒッチコック』は、本文自体は今回の翻訳でも180ページ余りと、コンパクトな本です。著者の二人は最初からこのくらいの分量を目安にしていたのでしょうか? もしくは何か理由があって?

本の執筆事情については、ロメールもシャブロルもまったくと言っていいほど語ってないんです。日本語訳も出ているインタビュー(『不完全さの醍醐味』)でシャブロルが執筆分担に関して、「イギリス時代は自分が、アメリカ時代はロメールが書き、一作品だけ入れ替えた」と言ってるんですけど、どこまで本当のことなのか、そのまま信じるわけにはいきません。『カイエ』に二人が書いた色んな文章を取り込んでいるので、そんな単純な分担ではないはずです。ただ、おそらくロメールもシャブロルも長篇を撮ろうとしている時期なので、自分たちが監督になることが見えていた。批評家活動にはそんなに時間を割けなくなるだろうというときに、それまで『カイエ』で繰り広げてきた論争を総括する形でまとめておきたいという思いがあったのかもしれません。時間をかけて分厚いものを書くことはできないし、当時はビデオで細かく確認というわけにもいかない。資料もそんなにない時代。小著に見えますが、凝縮されているのは間違いないです。監督デビューして批評家の仕事があまりできなくなる前に、作家主義について最も重要なヒッチコックについて、いったんきちんとまとめておきたかったんじゃないか。そのように推測しているんですけれども。

──ロメールの長篇デビューは59年撮影(62年公開)の『獅子座』で、シャブロルは58年の『美しきセルジュ』です。その前の出版ですものね。

そうですね。でも、推測ですが、彼らは自分たちが本当に監督としてやっていけるかもわかっていなかったと思うんです。ヌーヴェルヴァーグのようなデビューの仕方は、当時ほとんど前例がないわけですから。

──たしかに。その後の二人の監督作品を参照して読んでゆくのも『ヒッチコック』の愉しみかもしれません。来年1月には立教大学(新座キャンパス)でのシンポジウム開催も決定しましたが、まず神戸での2日間を楽しみにしています。今日はありがとうございました。

 
(2014年12月)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

 
ロメール&シャブロル『ヒッチコック』刊行記念
 ひとはどうしてヒッチコック主義者でありうるのか
 12月27日(土)
 レクチャー「ヒッチコック映画の見方」木村建哉+小河原あや
 参考上映『三十九夜』『海外特派員』
 12月28日(日)
 トークセッション「ヒッチコック映画の撮られ方」濱口竜介+高橋知由+木村建哉+小河原あや
 参考上映『汚名』

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