インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『三里塚に生きる』 代島治彦監督インタビュー

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空港建設反対闘争から半世紀が経とうとする三里塚。そこに暮らし続ける農民に大津幸四郎がふたたびキャメラを向けた『三里塚に生きる』が関西での公開を迎えた。共同監督としてインタビュアーをつとめるのは、『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』(11)の監督でもあった代島治彦。編集も担当した本作では、大津が撮りおろした映像と小川プロダクションが残したラッシュフィルムを繋ぎ合わせ、「いま─過去」が連なる時間を編み上げている。撮影や編集、そして映画の持つ「まなざし」についても話を訊いた。

──インタビューをもとに構成された作品ですが、お話を訊く上でどんなことを意識されましたか?また大津さんとは、事前に打ち合わせを重ねたりしたんでしょうか?

どんなことを訊こうとか、大津さんと具体的な打ち合わせはほとんどしなかったんです。僕は三里塚と同時代に生きていないから、詳しくは知らない。ただ小川プロの映画を通して知っている。今回の撮影にあたって、資料や本をいっぱい読んで頭に詰め込みました。だからものすごく頭でっかちになって三里塚に入った。でも、それを武器に相手の話を訊き出そうというつもりはさらさらなくて。知識があるとステレオタイプなイメージが自分の中に出来てしまうこともわかっていたので、一回それを無いことにする。知っているけど、「知らんぷり」をして訊いていくんです。たとえば「何年何月にこんな出来事があって新左翼のセクトがこうだった」という事実を知っていても、話を訊くときは「ほとんど何も知らない馬鹿な奴」というスタンスでしたね。そうしようと最初の段階から思っていました。

──この欄の時評で藤井仁子さんも言及されていますが、代島監督が人参を齧って、その味を伝える姿が映ります。鍬の使い方を聞いていたりもする。核心に触れる話題だけでなく、他愛ない会話や交流もインタビューを進める上で大事だったんでしょうか?

人参を食べるのはあそこしかないんですけどね(笑)。基本的には日常会話から入っていきます。天気の話題や「収穫はどうですか?」とかね。相手が喋りやすいことから丁寧に訊いて、こちらが訊きたいことへ入ってゆく。そういう間合いがありましたね。あとは大津さんとの二人きりの現場なので、僕が訊き始める、あるいは相手が語り始めると、遠くで撮っていた大津さんが段々寄って来て、「かなりいいポジションに来たな」というあたりで本当に訊きたいことをもう一度訊ねてみたりもしました。そういう画の作り方と訊き方は──これも特別に打ち合わせはしていないんですが──阿吽の呼吸のようなものですよね。目の端で「大津さんがどこに居て何を撮っているか」を見ながら進めてゆく。それもぎごちなくならないように、相手の方へ変な気を遣わせないように話を運んでゆくことは心がけていました。

──言われてみると、はじめは扉の手前で撮っていたのが、インタビューが進むに連れてポジションが変わっていることがあります。大津さんの位置に注意すると、更に発見がありそうです。

sanrizuka05それからこの作品では、人に話を訊くときに二通りの撮り方があります。一つは三脚で固定して撮る。そしてもう一つは手持ちで迫る撮り方。三脚で撮るときは、ちゃんと話を訊く体制を作って場所も決めている。一方、手持ちで寄っていくのは何を話すか、もしくは話をしてくれるかどうかもわからない人の場合ですね。勿論、あらかじめ「撮らせて頂けますか?」とは伝えてあるので、まず訊いてみようと大津さんがキャメラを回し始める。そこから大津さんのポジションを見て、僕が色んな話、世間話などをしているうちに気負いなく話してくれるようになったりする。だから手持ちで撮っているのはどちらかというと積極的に話したくない人で、三脚で撮ったのは基本的に「喋ってもいいよ」という人。そうした違いがあります。

──秋葉清春さん(元青年行動隊)が三ノ宮文男さん(元行動隊リーダー)について語る場面ではズームも使っていますね。

あれはズームですね。大津さんが珍しくズームを使っていて、やっぱり寄りたくなったんでしょうね。寄ったところでいい言葉を話してくれたので、僕も編集でズームを使いました。大津さんはあまりズームを使わない人なんだけど、たまたまいいことを言っているときにズームしていた。なおかつ寄った後はそのフレームがずっと続くので、あまり不自然にならずに見えるかなと思ったんです。そういえばあの秋葉さんの場面は違いますが、三脚のときは二台回していることもあるんです。そこで大津さんがどう動いているかと言うと、AカメラとBカメラの間を行ったり来たりしながらズームしてみたり、広い画角にしてみたりしています。一番よくあらわれているのは、移転した大きな邸宅の庭で秋葉さんが喋っているシーン。あのシーンではBカメが引いていて、語っている秋葉さんのバックに豪壮な家が映っている。ただ、同じポジションからの顔のアップもあります。だから話の内容に応じて途中でフレームを変えていて、そこでも大津さんは二台のカメラの間を行き来しています。大津さんって、そういう自由闊達な直感で動く人なので、うまくその場に直感が当たればいいんですけど、当たらないときはまったく使えない映像になってしまう(笑)。

──大津さんでもそんなことがあるとは(笑)。

ありますよ、幾多(笑)。でもその勘が当たったときのフィットの仕方はやっぱり物凄いキャメラマンですよね。

──そこで大津さんの撮影についてもお訊きしたいのですが、代島監督は『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』(11)も手がけておられます。「まなざし」ということからお話頂けますか?

一緒にやっていて感じる大津さんのいちばんいいところは、「優しいまなざし」なんです。本当に。厳しいまなざしを持つキャメラマンもいるし、ぐいぐい迫っていくドキュメンタリーもありますが、大津さんは臆病なくらい恐る恐る相手に近づいていきます。そして相手の感情とシンクロしながら、相手が熱を帯びると大津さんのキャメラも熱を帯びる。その場の空気に感応しながら撮っていくんです。撮り方も奇抜とまではいかないものの、そのとき感じたアングルを自由に動かしながら撮るんですね。だからさっきお話したように、直感がハマるとすごくいいものが撮れるんですが、それが外れるとガタガタになる。あと大津さんのキャメラでよく言われるのは、「編集者泣かせ」。テレビなどのドキュメンタリーによくあるように、「ここでロングが撮っておいてアップがあってこれを押えて」とキャメラマンは順番に撮っていきますよね。定石がある。でも大津さんはそういうことを一切しないし、それが苦手な人。一気に長回しして色々と変えてゆくから、編集でかなり繋ぎづらいときがあります。ただ、大津さんがその場の空気に感応して撮った映像は、何て言うんだろう……。「絵描きが絵を描く」のに近いタッチがあるんですよね。大津さんのタッチがある。そういうキャメラマンですね。

──前半のインタビューでは背後に回り込んでいますね。あの構図も最初から決めていたとは思えなくて、それも「大津さんのタッチ」と言えるのかもしれません。

堀越昭平さん(元親同盟)を撮っているところですね。あそこはオール手持ちで、実は2時間くらい話を訊いているんです。その間、大津さんはずっとカメラを持っている。当時の大津さんは78歳で、癌の手術も2回やってもう体力もないんだけれども、何とか持ちこたえて撮っています。いま仰ったように、背中に回って撮っているときに堀越さんがいいことを言うんです。「飛行機を発明した奴がいけないんだ」とかボソッと言う。あれはたぶん後ろ姿でないと使えない言葉なんです。当然、相手が何を話すかはわからないから偶然ですよね。でもそれが積み重なってひとつの物語が出来ている。大津さんのキャメラの動き、撮られたものによって編集していくので、その意味でも編集者泣かせなんですよね(笑)。

──固まった画のイメージや編集プランから撮るのではなく、大津さんの直感が先行するんですね。それを追う編集、構成はどのように進められましたか?

sanrizuka04特別な主人公がいないこの映画の編集でいちばん大事にしたのは、彼らが語った言葉なんです。だいたい110時間ほど撮影して、そのうちの約80時間は人が話している言葉ですが、それを全部書き起こしたんです。手書きで起こして大学ノート15冊くらいになりました。それは見返すことが出来るし、自分で書いたから記憶もしている。そしてそこに記録された言葉は、「登場人物のセリフ」なんですね。そのセリフをシナリオ化していったんです。劇映画がシナリオからキャスティングしてドラマにするのとまったく逆で、登場人物たちが発した膨大な言葉を最後に抽出して繋げてゆく作業を行いました。そこで時間軸であるとか芯棒のようなものに頼らなくても、想い──同じ闘争のなかで体験した、あるいは人生のなかで感じていた色々な想い──の揺れ動きを言葉で紡いでいけば、多面体の、十人十色の万華鏡のような物語が出来るんじゃないかなと考えました。

──大津さんのインタビュー記事を読み返すと、「真実の多様性」について幾度か語っておられる。それは出演者各々の「三里塚」を浮き上がらせた本作の作りにも通じていると思います。小川プロダクションのラッシュフィルムや福田克彦さんの作品映像も随所に使われていますが、それらを現在の三里塚と結びつけるためには、どのような工夫があったんでしょう?

フッテージを使ってはいますが、それは過去のことと言うよりも、いま目の前で語ってくれている人の心のなかにある記憶ですよね。だから過去のものじゃなく、いまと繋がっている過去、その人のなかにある現在進行形の過去のようなイメージで繋いだんです。後になって気づいたんですが、『ペコロスの母に会いに行く』(13)にも過去のことが色々出て来ますよね。でもそれは決して回想じゃなく、認知症になったお母さんがいま思い描いていることとして表される。『ペコロス』と同じには出来ないけれど、いま語っている言葉とぶつけることで、その映像が過去のことではなくなる。たとえば島寛征さん(元反対同盟事務局次長)が花見の席で語る場面で、『三里塚の冬』(『日本解放戦線 三里塚』/70)のフッテージが使われますが、いま喋っているところに、むかし幹部候補生だったときに悩んでいる姿が続いて映り、そこからからまた現代へ戻って来て話すのは、島さんが過去にさんざん聞かされた言葉だったり悩んだことなんですよね。だから引用したのは、過去の映画の文脈のなかの大事な部分ではまったくないんです。いまの島さんが喋っていることにぶつける言葉を探して、たった10秒や15秒ですが「これしかいない」という映像を引用しているんです。

──モンタージュで、断絶のない「いま─過去」の文脈を作るということですね。

sanrizuka_yanagawa01それを紡げるかということですよね。あとは流れのなかで、「これは絶対入ってくるな」というフッテージも当然あります。それはたとえば柳川秀夫さん(元青年行動隊リーダー)のところ。柳川さんのお母さんが息子のことを語って、一輪車にスイカを積んで押してくる柳川さんの姿を繋いでいる。あれはさっき話した島さんの編集とは違って、「自然にこうくるよね」という流れです。流れで繋いだところと、ぶつける形での繋ぎとの両方がありますね。

──そういう編み方だったんですね。大津さんといえば、『全貌フレデリック・ワイズマン アメリカ合衆国を記録する』(岩波書店)での土本典昭さん、久保田幸雄さんとの鼎談も記憶に残っているのですが、大津さんと代島監督のスタンスは、ワイズマンのそれとはだいぶ異なるものです。被写体となる方への距離をどう捉えておられましたか?

sanrizuka_koizumi01距離と言われると難しいんですが、たとえばワイズマンや王兵が取るのは、「自分たちの不在」というようなポジションですよね。それがいちばんいいと。その意味で言えば、この作品での僕たちは、「そこに自分たちが存在すること」をはっきり示しながら、相手とちゃんと向き合うようにした。その向き合えるところに達するまでが大変でした。と言うのは、相手が向き合ってくれないから(笑)。顔をそむけて「あまり喋りたくない」という素振りがずっと続いたのが、段々と向き合って来て、滲み出すように何かを話してくれる。柳川秀夫さんでも小泉英政さん(三里塚に定住した闘争支援者)でも、彼らの素直になれない、「今更そんなこと喋ってもしようがない」という態度が──うまく話せないので比喩になってしまいますが──見えない瘡蓋で覆われているように思えたんですね。それを引き剥がしてもう一度血を流させるなんていうことは当然出来ない訳ですから、瘡蓋をじっと見つめる。「見つめること」から、その向こうに見えているような見えていないような、彼らが傷ついていることや語りたくないことが何なのかを想像してみる。でも想像してもわからない。ただそういうことは相手に伝わるんでしょうね。「瘡蓋を撫でるように自分たちに近づいて来ているな」と段々理解してくれて、自分の言葉で語ってもらえるようになったんですよね。瘡蓋の向こうから、もう一度何かが滲み出てくる形で言葉が出て来たと思います。

──先ほど伺った「優しいまなざし」ということにも繋がるでしょうか?

「優しさ」と言ってしまうとカッコ悪いんだけどね(笑)。

──いえいえ(笑)。ところで、代島監督は過去にチベット難民のドキュメンタリー『オロ』(12)をプロデュースしておられます。本作のある場面でも「空港難民」という言葉が見られますが、もしかすると「難民」は監督が追求しているテーマでしょうか?

それはないですが、もし『オロ』と共通点があるとすれば、あの作品の岩佐寿弥監督はちょうど大津さんと同い年で、岩波映画制作所に同時入社なんです。僕はお爺さんが好きなのかもしれません(笑)。思いを抱えて七十代後半になって「やりたい!」と言われると、手伝いたくなってしまうんです。現場でもそうですね。さっきワイズマンが話題に上りましたが、ああいうクールに構えた撮り方もある。僕自身そういう手法で撮りたいと思うこともあるけれども、どちらかと言えばコミットしてしまう。現場に入ると、そこにいる人にコミットしてしまうところはありますね。

──その現場の写真を見ると、そこには本当に代島監督と大津さんしかいません。極めて小さいユニットでの制作スタイルは、作品のどんなところに反映されていますか?

まったく二人の現場で、僕と大津さんは年齢がふた回り、24歳違うんです。大津さんは三里塚闘争の頃は30代。青年行動隊の人たちから見ればお兄さんですよね。僕は10歳くらいのときなので下の世代です。だからこの作品は、上と下から当時の三里塚の青年行動隊や、母親だった方の気持ちを探る構造を持っています。そして、僕と大津さんが作っている現場にもう一人誰か別の人間が入ってくると、掻き乱されてしまうんですね。今回は大津さんと二人だけで作っている場の空気があって、そのなかでの僕の役割は相手と親しくなっていくこと。その後ろで大津さんがキャメラを回していく。そういう呼吸があって成り立つチームでした。大人数だと相手もこちらも構えてしまう。息を合わせないといけないですよね。そして何かストレスがその場の空気にかかってくる。それは画面に出てしまうので、なるべく被写体にも僕たちにもストレスのない現場を作ることが大事でした。

──その空気は画面に定着していると感じます。無論、そういう和やかさだけでなく、作品の空気はかなしさも含んでいて、代島監督がパンフレットに寄せた文にも「『生きるかなしみ』の世界。」というタイトルが付けられています。

sanrizuka03僕はいま56歳で、「お前は生きるかなしみを知っているのか?」と問われたら、もっと知っている人がいる、僕のかなしみなんてたいしたものじゃないとも言えます。でも40代くらいからかな、すごくかなしい困難なことに直面したりして、やっとそれが少しわかってくる。やっぱり自分で噛み締めてみないと、なかなかわからないと思いますね。自分がかなしみのどん底まで降りて来たと感じたとき、底に足を着いたと思ったときに「いや」と思って、そこを蹴ってもう一度上に浮上出来るかどうかですよね。そういう経験から生まれる力が実感としてわかるような気がしたんですね。今回登場して頂いた方は、それを噛み締めて知っている人たちばかりでした。その力は三里塚へ行って対面して初めて感じられる。やっぱり行く前はどんな人かわからないし、三里塚闘争というとドロドロのマイナスイメージもありました。でも行ってみると、かなしみのどん底を蹴り上げて生きている人だなと感じたんですね。その「生きるかなしみ」は、僕の描きたい世界だったんです。

──冒頭の字幕はヨハネの福音書から引かれていて、それはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のエピグラフにもある一節です。映画とは、「受難」ということで関連を見出せるように思ったんですが、いかがでしょう?

三里塚に入るときに少し考えたのは、大津さんが撮った水俣や広島、長崎で起きたことは、「絶対的な」と言うと変ですが、自分で選びようがない。患者になったり原爆を落とされて色んな症状が出たりと、「絶対的な」受難者ですよね。ところが三里塚の場合は、これも少し変な言い方だけど「相対的な」受難者。国家権力が強制的に空港を作ることになって、それに反対した人もいれば、賛成して移転した人もいた。どう選ぶかによって違ってくる。そこで自ら闘うことを選んだ人は、結果的に受難を引き受けることになった。ある立場から見れば、「自己責任じゃないか」と言われる受難なんですね。そういう自分の身に降り掛かって来そうな相対的な受難はいっぱいあると思うんです。ただ、そこで初志を曲げずにどうやって生き抜けるかという問題も生まれてくる。三里塚に行って描こうと思ったのはそういうことでした。

──物語を支える大友良英さんの音楽に関してもおきかせ下さい。代島監督が大友さんと組まれるのは『オロ』に続いてですね?

2回目ですね。『オロ』も大友さんでした。

──当て方も独特だと感じます。マーチということも含めて、今回はどのように音を決めていったのでしょう?

まず編集が終わったものを見て頂いて、打ち合わせで大友さんから挙がってきたのがマーチだったんですね。マーチというと軍楽じゃないですか?勇ましい軍楽や軍隊を鼓舞するイメージもありますよね。最初は「果たしてマーチでいいんだろうか」とも感じたんです。でも説明を聞くと、大友さんは「勇ましいんじゃなく、かなしいマーチなんだ」というイメージを持っていたんです。「彼らはヒーローでもないし、完全なる愚か者でもない」と少し不思議なことも仰っていた。なおかつドキュメンタリーに音楽を付けるのって難しいんです。音楽の力は強いから、何かを演出したり、感情を持って行ってしまう。だから大友さんは、「音楽じゃなく音の羅列」だと。(自宅と田畑を強制収用された)大木よねさんの場面のあたりから音楽が鳴ってきます。それは映画が後半に差し掛かっているということもあるんですが、よねさんが、「闘争は楽しかった」と戦闘宣言のなかで話していますよね。人生のドラマも含めて、そこで初めて「楽しいぞ」という気持ちが生まれてくるし、そういうメロディーも出てくる。そして最後のテーマで一つの曲になっていく。大友さんは「愚か者のマーチ」とも言っていましたね。愚か者を讃えるようなイメージが、うまく映画と結び付いたと思っています。

(2015年1月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

『三里塚に生きる』公式サイト
大津幸四郎さん追悼上映『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』
(大阪・第七藝術劇場にて2月14日より6日間限定上映)

これまでのインタビュー|神戸映画資料館