ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

『孤独な惑星』 筒井武文インタビュー
──『筒井武文監督特集Part2』によせて──

©映画美学校/筒井武文

©映画美学校/筒井武文

隣り合わせた二つの部屋に住む、三人の男女の四夜の出来事を描いた『孤独な惑星』(2010)。ヒロインの心の揺らめきを、洗練された精巧な技法により16ミリフィルムに焼き付けると同時に、筒井武文のモダンでセンシティヴな資質も遺憾なく発揮したラブ・コメディだ。特集へ向けた最後の取材では、撮影のエピソードに加えて、一貫した映画への姿勢や新作に関する話も訊く事ができた。

 

──本作に関しては神戸公開(2012年6月)の折にインタビューをおこない、その後もかなりお話しを伺えたので……

もう僕が話すことはないんじゃない? この映画に関して、世界でいちばん理解されているのは、吉野さんだと思いますよ(笑)。

──以前、監督と3時間ほど同席する機会に恵まれ、そのうち2時間半はひたすら本作の話に没頭したのは忘れ難い思い出です(笑)。しかし、まだまだ汲み尽くせぬ魅力のある作品ですので、今回の特集に向けてあらためて伺えればと思います。3年前の取材では、「女性の方に見てもらえれば」と話しておられました。

女性映画を作りたいと思っていたので、やっぱり20代、30代、40代の女性に見てもらえると嬉しいなと思っていました。もちろんその上の世代の方にも。

──成り立ちは映画美学校高等科のコラボレーション実習で、30分の短篇をDVで撮る企画だったそうですが、それが16ミリ撮影の長篇になったんですね?

予定の撮影日数さえ超えなければ、かなり自由に作れる条件だったんです。フィルムだからといって、デジタルより撮影が延びるわけではないし、予算をオーバーした分は僕が負担することにしました。撮影期間は5日と予備日が1日。予備日も使いましたが、6日で終えたので成立しました。

──脚本は宮崎大祐さんが書かれています。最初からこのタイトルでしたか?

うん。この映画のために書いて来た初稿からそうで、僕も何の迷いも覚えず『孤独な惑星』にしました。

──撮影は2008年。監督が人物の動きや、いい表情を撮ることへの関心を深めていた時期だったと思います。他に意識されたことはあったでしょうか?

真里(竹厚綾)も哲男(綾野剛)も、ある言葉を喋っていて、それが本心なのか、そうではないのか、何を考えているのか分からないような撮り方をしたかった。あえて矛盾するようにというのかな、ソファで横になっている真里に哲男が近づいて毛布をかけるシーンがありますよね? あそこで真里は狸寝入りをしていて、哲男が部屋に入って来たことを分かっているのが表情から窺える。でも翌朝、目を覚ましたときに、かけられた毛布を不審に思っているようにも見えますよね。そういう矛盾があるんです。

───劇場パンフレットのインタビューで、「いろいろな両義性を仕掛けている」と仰っていますが、それがあらわれているシーンですね。ソファで眠る竹厚さんをとらえたクローズアップも印象深いです。

大体は引きでしかとらえていないので、寄っているのはここぞというときですね。あれは芦澤さんがミニ・クレーンを使って、絶妙なショットを撮ってくださいました。

──逆の角度からのクローズアップもあります。ベッドで哲男が言い寄るシーンなどは、竹厚さんと綾野さんの芝居の息が長いですよね。

kodokunawakusei04最初の寝ている竹厚さんのクローズアップに影が揺らめくところは、助監督が影を作っていたのだけど、綾野くん本人に代わって本番をやったら、ぜんぜん微妙な気配が違うんですよ。その後の二人芝居は、いつまでも観ていたくて、終電が近いのに、テイクを数多く重ねました。綾野くんに攻めさせ、竹厚さんには掛布団を鎧にして守ってと指示しました。でも、本心はその鎧を突き破ってほしい、自分から身を任せるには大義名分がいる、といった少し悲しい、繊細な女心を見事に体現してくれました。

──あのシークエンスだけでも真里の内面が伝わりますね。動きの始点と終点だけ決めて、あとは俳優に任せる演出だったとも伺いました。

僕のやり方ですね。繋がりがあるので、「スタートはここから、終わりはここに来てください」とは言うけど、そのあいだは役者さんに考えて動いてもらう。面白ければ、そのままOK。長過ぎれば編集で切ることも考えるけど、基本的には関係性を表現出来ていれば
OKですね。

──竹厚さんと綾野さん、そして三村恭代さんの形作るトライアングルのバランスも良いですね。

三人ともいいですね。特に竹厚さんは本格的な映画出演は初めてなので、新鮮さや初々しさがあって良かった。最初は綾野君に引っ張ってもらったり、僕が形をつけたシーンもありますが、撮影2日目かな、「監督、私、真里になりました」と言ってくれた。「役柄を掴んで、一心同体になってくれた」と思い、そこからは何の注文も出しませんでした。

──『オーバードライヴ』(2004)に続く出演となるミッキー・カーチスさんに対してもそうでしたか?

はい。芝居もお任せでしたし、「ミッキーさん自らを演じてください」とお願いしました。

──ミッキーさん演じるレンタルビデオ店のお客も矛盾した存在ですよね。辻褄を合わせようとすると混乱してしまう(笑)。音響もまた然りですが、森永泰弘さんが手がけたサウンドデザインについておきかせください。劇場パンフレットには、「監督からは音量の指定があった」と書かれています。

少しは提案しましたが、それでも「森永君、やってくれたな」って感じでしたね(笑)。僕自身も驚きました。はじめは別の方に音を頼んでいたけど、どうもうまくいかず、仕上げも延びていたんです。そのあいだに、「The School of Sound」という映画音楽を中心にしたシンポジウムがロンドンで開かれて、僕は藝大から参加した。そこへ森永君も行ってたんです。ロンドンの街を歩いたりしながら、映画の音に関して話をする時間もあった。帰国して、『孤独な惑星』の音で行き詰まったときにふっとひらめいたんです、「なんだ、森永君に頼めばいいじゃん!」って(笑)。それで連絡しました。

──筒井監督作品は、延期が良い方向へ転ぶことが多いですね(笑)。

これも偶然の賜物とも言えますね。ロンドンで無駄話も含めて交流したことがあの音を生んでいます。でもね、十数人の作曲した音を拾って来て、それをミックスしているので、音楽の許可取りは大変でした(笑)。音が仕上がっても、許可を取るために初号の完成まで3ヶ月か4ヶ月延びました。

──『オーバードライヴ』のときとは違った音の苦労があったんですね(笑)。ピエール・バスティアンの楽曲が使われていますが?

バスティアンも森永君が持って来ました。曲はもちろん素晴らしいんですが、許可取らずに持ってくるからなあ(笑)。

──大変でしたね。でも結果が良ければすべて良し、です(笑)。人が居ないはずなのに、靴音が聴こえるシーンがいくつかあります。やはり森永さんの発案でしょうか?

あれはもう森永泰弘の世界ですね。森永君が登場人物を一人増やしたというのか、幽霊なのかもしれないけど(笑)。ただ、あれは森永君が映像から読み取った表現ですからね。こちらが勝手に直すわけにはいかない。

──あの音響が物語を二重化しているとも感じるんですが、撮影は芦澤明子さん。『オーバードライヴ』での経験が生かされたのではないかと思いますが?

芦澤さんとのコンビネーションは、やはり『オーバードライヴ』で築いたものですね。それで6日間という短期間で撮れた。信頼関係が出来ているし、お互いのやりたいことを理解して撮影に臨んでいるので、無駄な確認をせずに済みました。よほど極端なアングルの場合はキャメラをのぞいてと言われたけど、そうでないときは、もうフレームの確認もせずに撮っていきました。

kodokunawakusei05──真里が世界地図に画鋲を刺す動作は、『オーバードライヴ』のクライマックス、「アルティメット大会」前夜に主人公・弦が壁に何かを刻むのと重なるように思ったのですが……?

……なるほど、その関連は気付いてなかった(笑)。どちらも、その意味については説明されませんしね。

──その地図や、アナログのオーディオシステムなど美術も凝っています。『ヒカリ』(2006)も「部屋の映画」で、本作では都会のマンションを使い、それをさらに膨らませたのではないでしょうか?

セットではなくロケなので、さりげなく異界の感じを出すのはより難しいのですが、美術の三ツ松けいこさんが作品世界に応じて飾り込んでくれました。物語には隣り合った二つの部屋が必要だったけど、幸いなことに上の階の部屋も空いていて借りられたんです。上からベランダにライティング出来た。お化けみたいな白いものが落ちてくるシーンも上から落とせたので、それもすごくラッキーでしたね。

──哲男が梯子で降りて来るシーンにも活用されていますね。隣り合う部屋をひとつのフレームに収めた構図は、『ゆめこの大冒険』(1986、以下『ゆめこ』)、『オーバードライヴ』でも見られましたが、本作ではセットではなく、ロケで撮られています。

あの撮影もすごく贅沢で、撮っているのはマンションの向かいに組んだ、3階か4階くらいの高さのあるイントレからです。駐車場にやぐらを立てて、その上にキャメラを置いて撮影しているので、結構大変なことをやっていますよ(笑)。

──盗み聞きする人を盗み見しているような感覚を抱かせる、かなり不思議な画でもあります。

ほんと変ですよね。観客がいちばん悪いことをしているようで……。客観的な視点で撮っていて、哲男と亜理沙の部屋は途中から回想になるしね(笑)。

──隣の真里の部屋と時間軸が異なるという(笑)。

隣の部屋は真里の主観による回想なんですが、彼女は音しか聴いてないわけで、彼女に見えないものが写っている。つまり、観ている視点――観客ということですが、それが引き裂かれているわけです。その現在と回想を繋いでいるのが、フィルムのカブリ、カット尻の光線引きなんです。それを意図的にやりました。ワンカット撮るごとに、フィルムをマガジンから引き出して、カット尻にライトを当てて感光させているんですよ。フィルムに直に光を当てるという、すごく野蛮なことをしている(笑)。

──フィルムを愛する人とは思えない繋ぎ方です(笑)。

愛は暴力なんです(笑)。逆にいえば、フィルムでしか出来ないですからね。

──たしかに。フィルム撮影の可能性を突き詰めているとも感じますが、スタンダードサイズも作品の味わいを深めていますね?

そうですね。スタンダードは久々で『ゆめこ』、『学習図鑑』(1987-89)以来かな。やっぱり映画の基本のサイズじゃないですか? 『オーバードライヴ』のときに初めてビスタで撮ってみて、画を構築するのがあまりに楽なのにびっくりしたんですよね。2人、あるいは3人を撮るのも簡単に構図がきまるし、ちょっと拍子抜けした。スタンダードは1人サイズにしても2人サイズにしても難しいですからね。そこに人物や空間をどう収めるか、『孤独な惑星』で学習し直せたと思います。

──竹厚さん、綾野さんともに長身痩躯ですが、スタンダードにマッチしています。窮屈に感じさせないというのでしょうか。

その意味でも良かったんです。スタンダードのほうが高さが出ますからね。

──そういえば今春、新作『自由なファンシィ』が完成したそうですね。これは本作と繋がる「愛の三部作」の二作目ということで、公開がとても楽しみです。

はい(笑)。もちろん最初から三部作にするつもりはなく、『孤独な惑星』は一本の映画として完結しています。でも「まだ語り切ってないことがある」という強迫観念めいたものが芽生えてくるんです(笑)。続編ではないけど、また別の形から男女の関係を描きたいと考えてしまうんですよね。『孤独な惑星』は出会いから描いていますが、『自由なファンシィ』はすでに二人が一緒に暮らしているところから始まり、別れを中心に描いた物語になりました。三作目では再会をモチーフにしたいと思っています。

──そういう形で連なるんですね。

主題は『孤独な惑星』と同じで、「人が他者を理解出来るか?」という問題です。他者を理解したときに、自分はその他者にとってどういう存在なのかを認識する。そこで、お互いを理解した瞬間に二人は別れを迎える。これが『孤独な惑星』と『自由なファンシィ』の共通テーマ。第三作では、それを超えた愛があることを描けないだろうかと思っているんですけどね(笑)。ただ、何だかんだ思っていても映画の論理のほうが強いので、映画がそれを許してくれるかどうか。

──作り手と映画の関係について、くわしくお話しいただけますか?

kodokunawakusei03監督や作家が作者のように思われているけど、映画に比べれば、すごく弱い存在でしかない。映画作りって、その作品の可能性をどれくらい引き出せるかなんですよね。たとえば編集するときも、繋げることは出来るけど、それが繋がるかどうか、いいか悪いかは素材が教えてくれる。「ここじゃダメだよ」という声がきこえるんです。自分の思いで繋ぐのではなく、撮られたものがいちばん気持ちよくなるように繋がないとうまくいかないんです。

──いわゆる「映画の文法」で繋いでもダメだということでしょうか?

映画の文法は人間が作ったもの。でも映画は、人間の領域を超えた存在だと思うんです。だから、僕は好き勝手にやっているように思われがちだけど、実はそれほど自由でもないんですよ(笑)。キャメラも映写機も人間が発明して、映画が作り出されました。人間が機械を手なずけたわけだけど、その機械の可能性や、機械を通して生まれる映画は、必ずしも人間のスケールに収まるものではないと思うんです。眼が二つあるけど後ろは見えなかったり、二本足で歩行したり、人間にはいろんな条件がありますよね。そういうものを描くためにうまく出来ているようで、本当に革新的な映画はその条件を超えたところを描けている。宇宙人を描いた映画がたいていつまらないのは、宇宙人が人間の延長線上にある条件しか満たしていない、つまり本質的には地球人と変わらないから。本来、映画は人間の想像力を超えているはずなのに、人間の表現に収められてしまう。その限界を解き放つのが、映画の可能性だと思うんです。

──『ゆめこ』の劇場パンフレット(『ゆめボー読本』)掲載インタビューで、「どんなにいいカットがあって、それを入れようとしても、流れに合わないと入れられない(…)無理に入れると映画が死んでしまう。やっぱり強いのは“映画”」と語っておられるので、監督の映画へのスタンスは当時から一貫しているといえますね。

だから、まだまだ映画には分からないことがいっぱいあります。一本撮るごとに壁にぶつかりますからね(笑)。

──本作を撮るなかでも発見があったと思います。伺えますか?

『オーバードライヴ』でもそうでしたが、頭で考えて撮っても良くならないことがあるんです。『孤独な惑星』の場合、3分の1くらいは事前に頭のほうからリハーサルしていたので、カット割りも2日間分くらいの余裕があった。それが段々尽きてくるんですよね。ただ助けもあって、役者さんがそのあいだに役柄を掴んで自分で動いてくれるようになる。すると、その動きを見て現場で考えて……と撮り方も変わってきます。つまり劇映画のなかで、頭で作ったシーンから、ドキュメンタリーのように直感的に撮るように変化してゆく。『孤独な惑星』にはそういう側面が少しありました。それで、どう撮っていいのかイメージが湧かなかったのが2日目の朝の場面。哲男を泊めた翌朝、真里が部屋を見回すと姿がなく、もう帰ったと思ったら突然現われて、というシーンです。

──ベランダに居候させてくれと申し出るシーンですね。

これをどう撮るかが分からずに困っていたんです。それで、困ったときに僕が何をやるかというと、「移動車を引いてパンをする」(笑)。

──『オーバードライヴ』冒頭の記者会見と同じ撮り方ですね(笑)。

芦澤さんの撮影のおかげですが、あの狭い空間に移動車を引いてみると、部屋にある柱が二人の境界線として機能した。狙って撮ったように見えるんですけど、実際は全然計算してなかったんです。現場でああなりました(笑)。

──そうだったんですね。『オーバードライヴ』の鈴木蘭々さんと佐藤幹雄さんの食事のシーンで柱が使われていたので、本作でも柱をもとに画をイメージされたと思っていました。

『オーバードライヴ』のときは狙いです。だから、これを進歩と言っていいのか。むしろ退化することも必要だったりして(笑)。それと、あのショットは照明も重要でした。照明は御木茂則さんで、あのシーンでは朝の光を演出するのに、窓外に建てたイントレの上に鏡を2枚入れて光の流し込みをしてくれました。最初のテイクは御木さんからNGが出たんですよ。最後、太陽が雲に入って陰ってしまったのでもう一度やってくださいって。そのショットのあいだは光が続くように、ということでしたが、それを聞いて僕は逆に「グッドアイデア、いいじゃん」と思った。むしろ途中で陽が落ちて、射し込む光が陰っていけば長いワンショットが面白くなるぞと考えたんです。そこで外で計算してもらい、30秒から40秒くらいで陽が陰るタイミングで撮ったんです。移動する間に光も変わっているので、二人のあいだの動揺もうまく表せたと思います。

──あのショットの最後に、ベランダに吹く風も動揺を高めています。

あと、竹厚さんが一人で部屋に居るシーンが多かったんです。一人の人物を撮るのってすごく難しい。二人居れば掛け合いますから、切り返しでも、長回しで位置の変化でも出来るんだけど、一人だけで面白くなるのか、自信が無かったんです。そこがシナリオに持っていた唯一の不安だった。でも、竹厚さんが真里というキャラクターをとてもよく掴んで、さりげないのに大きな存在感を出してくれたので、これは成立すると思った。特に好きなシーンは、毛布をかけられた真里が起きて、朝食を作ったりしているところですね。それを撮っているときに、僕のなかで、「(早朝の)時間を撮れている」実感が湧いたんです。それまで時間自体が撮れてるなんて感じたことはなかったので、撮りながら感動していました(笑)。

──哲男をベランダに住まわせるようになって3日目の朝ですね。キッチンにいる真里をワンカットで収めている。竹厚さんの動きも良いし、画面左隅に置かれた鏡も非常に効果的です。……悪い癖で、白熱して来ました(笑)。

ええ(笑)。そのあとベランダで寝ている哲男を起こして会話する。あれが物語のなかで二人の感情が最も近づく瞬間です。上下の切り返しになっていますが、メロドラマとしてはあの瞬間が頂点になっている。それを断ち切るように玄関のチャイムが鳴る。何かの理由でテイクツーを撮るとき、ふと気付いて加えたのが、真里が窓の鍵を閉める動き。ただ鍵を閉めるだけですが、真里が無意識に外敵から哲男を守るというか、隠そうとする。テイクワンではやらなかったけど、「これは必要だな」と思ったんです。何気ない動きをギリギリで加えられたし、気に入ってますね。

──アングルは引きのまま、鍵を閉める手を強調するような画ではないですが、あの小さな動きはたしかに目に残ります。いったん玄関に向かおうとして、鍵を閉めに戻りますしね。

チャイムが鳴ったとき、やって来たのは誰なのかはまだ分からないけど、哲男が出て来られないように閉じ込めている。真里は哲男をベランダの空間に閉じ込めたけど、逆に哲男によって部屋に閉じ込められているともいえますよね。それがこの映画の面白さだとも僕は思っています。

──ガラス戸が境界となった、「閉じ込め/閉じ込められ」もこの作品が持つ両義性の一つですね。大らかかつ緻密な演出・撮影・編集の積み重ねで構築された作品であることを、スクリーンでたしかめたいと思います。ありがとうございました。

 

取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

筒井武文監督特集part2[2015年4月11日(土)・12日(日)]

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