ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

『螺旋銀河』 草野なつか監督インタビュー

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1985年生まれの監督、草野なつかの初の長篇作『螺旋銀河』が神戸・京都での公開を迎える。ラジオドラマのシナリオを共につくることになったOLふたりの日常と関係の遷り変わりを、ジオラマに似た都市空間の切り取り方や、高橋知由との共同執筆による脚本などで、固有の(しかしどこかにあるかもしれない)世界として描出した73分の作品。作劇や創作の源について監督に訊ねてみた。

 

──本作のモチーフのひとつになっているラジオと監督との接点から教えていただけますか?

実家がとてもよくラジオを聴く家庭で、古い記憶は永六輔さんから始まります(笑)。母親は寝る前に『ラジオ深夜便』をいつも聴いていて、庭仕事をするときもラジオを聴くような家だったので、私にとっても生活の一部ですね。本作にあるラジオドラマのアイデアは、脚本を共同執筆した高橋知由君のものでしたが、普段ラジオを聴く習慣のない人よりは、すんなり身体に入って来た気がします。

──ラジオは何かをしながら聴く「ながら」に適していたり、身近に感じるメディアという捉え方があるかと思います。監督にとって、ラジオはどんなメディアでしょうか。

「ながら」もしやすいので、作業するときなど、生活の上で役に立っています。それから、「世界に自分が放たれる」感じがします。特に夜に聴くラジオはそうですが、自分が放り出されて、自由になれるイメージがありますね。夜の時間が無限にあるような気持ちになる。抽象的ですけど・・・・・・(笑)。でも私は、ラジオは夜のものだと思っています。深夜の放送のほうが、内容を問わず身体に馴染みますよね。

──コインランドリーでラジオを聴くシーンも夜です。あの場面は最初から考えておられたものですか?

はじめからイメージとしてありましたが、あれはどこから来たんだろう・・・・・。統括プロデューサーの城内政芳さんが、「ラジオの声が世界に触れる」という言葉を挙げたんです。たとえばトラックやタクシーを運転する人など、ラジオを聴きながら移動や夜の仕事をしている人は多い。そのような形で「声が世界に触れるイメージがあるといいんじゃないか」という話が打ち合わせのなかで出ました。それは最後まで信じていられる言葉だったし、その意味では最初から夜でしたね。

──映画のなかの昼と夜、明暗のバランスは意識されたのでしょうか。

撮影の時点で昼夜の割合までは意識してなかったですが、第一稿を形にしてくれた高橋君は考えていたかもしれません。ただ、編集の方針として綾(石坂友里)と幸子(澁谷麻美)がひとりでいるところを大事にしようと思いました。というのは、この映画で彼女たちがひとりになる時間は夜が圧倒的に多い。夜のひとりのシーンをちゃんと丁寧に見せようと編集していきました。

──綾と幸子のキャラクターはどのように作られたのでしょう。ふたりには監督のパーソナリティも投影されていますか?

rasen_s10ふたりとも、私のある部分も入っているし、色んな人の要素を合わせた創作人物ですね。創作人物ではあるけど、会ったことのない、まったく知らないような人は描けないので、周りの友達がサンプルになっています。「怒りっぽいところはあの子かもしれない、強がる部分はあの子、落ち込みやすいのはあの子かもしれない」というふうに、自分でも無意識のうちに友人をたくさん取り入れていると思います。でも特定の誰かに似ているとは、あまり考えなかったですね。「見たことのある誰かだけど、誰でもない」という感じでしょうか。

──撮影は神戸、大阪の吹田や中崎町、京都の中京区などでおこなわれています。以前、高橋さんにインタビューした際に、「草野監督は場所を見つけるのが巧い」とおっしゃっていました。何かコツのようなものはありますか?

高橋君に誉められました(笑)。私は8割方、勘で生きている人間なので自分ではわからないんですけどね。でも、場所に対する関心がかなり大きいのかもしれません。

──よいロケーションを見つけたときは、人の配置も含めた具体的な映像イメージが思い浮かぶのでしょうか。

本作の場合だと人に関しては、助監督に助言をもらって相談しながら決めていったんですが、その場所で人に動いてもらうことを積み重ねて、「これはいい」、「これは違う」と取捨選択しました。最初からポンとイメージが湧くというのとは少し違うかもしれないですね。場所だけ、あるいは人だけを見るのではなく、「その場所に居るその人」を大切にしているのかもしれません。いつもそのように人と場所を見ていますね。

──ラジオドラマの朗読シーンは僕もよく知っている場所で撮られていますが(一部をラジオ関西本社スタジオで撮影)、ほぼ何もない空間です。演出はどのように?

視線がひとつのキーになっています。演出は、かなり場所に助けられました。実はその場に行って、ふたりの芝居を見て初めて「これで視線の演出は勝てた!」と思える、ちょっとラッキーなことがあったんです(笑)。あとは、あのシーンの芝居は声と表情でしかできないので、声に関して「相手の言葉を受け取ったときにちゃんと反芻して、まず自分の身体に入れてください」と何度もお願いしました。セリフがすべて頭に入っているとしても、それを発語するだけだと、やはり会話ではないので。言葉でふたりの心の動きや盛り上がりを見せるためには、実は自分が発するよりも相手の言葉を受けることのほうが大事だという話はしました。

──ふたりが横並びになっているのも面白いですね。おそらく、あのポジションは現実のラジオドラマの収録現場ではほとんどないと思います。

ふたりが向かい合うのは絶対に違うと思ったんですね。そこだけはリアリティじゃなく、「この世界はこのルールでやればいい」という確信がありました。

──順撮りでしたか?

2日間かけた順撮りです。テイクを重ねるなかで、ふたりの声や顔がだんだん研ぎ澄まされていきましたね。

──シナリオ教室で、幸子がコインランドリーを、「時空が歪んだ、少し非日常的な場所」と説明するくだりがあります。「映画」について語っているようにも感じたのですが。

ああ、そうですね・・・・・・。印象的なセリフを高橋君が考えてくれて、私の撮りたいもの、描きたいものとリンクしたんですが、あの言葉にはそういう意図もあったのかしら。でも本当にそうかもしれない。私はそういう映画がとても好きですね。どこにいるのかわからなくなるような。

──監督はダニエル・シュミットがお好きだということですが、どんなところに惹かれるのでしょう。今後撮りたい映画とも絡めてお話しいただけますか?

ベタな言い方ですけど、現実とそうでないものとがない交ぜになって、同居している世界。シュミットは大学3年生のときに初めて見たんですが、見終えたときに自分がいつの時代、どの国のどこにいるのかさっぱりわからなくなる感覚を覚えたんです。スクリーンのなかの人が自分の世界の延長線上にいる、でもそれは現実とはまったく違うところだという、ものすごく矛盾した心理状態になって。そういう自分のいる場所が危うくなる、あるいは見る人の「自分という実体」が無くなってしまうような映画を撮ってみたいなと思います。それがどんな映画で、どう撮ればいいのかはまだわかりません(笑)。でも、本作のラジオドラマのシーンの「場所が飛ぶ」構造は、シュミットの影響がすごく大きいですね。

──ふたりのいる場所が掴めなくなりますね。

場所もそうですし、ふたりが綾と幸子なのか、石坂友里と澁谷麻美なのか、それともラジオドラマのなかの役柄なのかわからなくなる。そうした危うさは最初からの狙いで、シュミットの描く世界への憧れが強くありました。

──シュミット=「オペラを撮りたい」という単純なことではないんですね(笑)。

それはないです、さすがにそこまで手を出してしまうのは(笑)。昨年、オーディトリウム渋谷でレトロスペクティヴが開催されたきに、お蔵出しのような形でオペラのビデオを見ましたが、すごく変で面白かったですね。

──ところで、女性ふたりが主人公という映画は多いですが、見ていてそういう系譜の作品よりも、なぜだか岡崎京子さんの漫画を思い出したんです。

私、岡崎さんの作品が大好きなんですよ。

──やはりそうでしたか。映画づくりにもその影響はありますか?

rasen_s02あると思います。岡崎さんの作品のなかでもよく取り上げられるのは後期の『リバーズ・エッジ』(1993)や、映画化された『ヘルター・スケルター』(1995)。重い話であったり、かなり壊れたキャラクターが出て来たり、事件が起こるようなヘヴィな世界を描いたものが取り上げられがちですが、私はどちらかといえば、中期かそれ以前の、「変哲もない日常かもしれないけど、何かおかしな世界」を舞台にした作品に魅力を感じます。『ジオラマボーイ パノラマガール』(1988)がいちばん好きで、そこでは日常が積み重なってゆく。でもそれは単なる日常ではない変な世界で、そのなかであっけらかんと事件が起こり、人物もあっけらかんと生きている。そういう作品が好きなんですよね。ただの日常を描きたいわけではなく、「あっけらかんとした生」の感じを撮ってみたいという気持ちがすごくあります。

──岡崎さんは「家族もの」も何作か書いておられて、それもまた面白いですよね。

多いですよね。『ハッピィ・ハウス』(1990)とか。あとは家庭劇ではないですが、『くちびるから散弾銃』(1987)も好きですね。岡崎さんの作品にある多幸感というのか、「もう終わっていることに誰もが気づいているアッパーさ」みたいなものが好きなのかもしれません。80年代の空気も含めて。既に死んでいるのに生の強さを感じるような、あるいは生きているのか死んでいるのか解らないような感覚を覚えますね。

──そうした感覚は、本作の当初のタイトル『アントニム』(対義語)ともどこかで通じるかもしれないですね。73分の作品には多くの実景が挟み込まれています。監督も撮影されたようですが?

撮影期間のあいだに実景を撮る時間がまったくなく、カメラマンが撮ってくれた実景も少なかったんですね。彼はバタバタしていて、本作の撮影後はすぐ次の現場に行ってしまうということで、日程を合わせられなかった。それで、稚拙なカメラで大変申し訳ないんですが、私が撮ってくることになりました。もともと短篇をつくっているときは自分でカメラを回していたので。それから、編集段階でも「実景が足りない」という話になりました。編集の鈴尾啓太君は私が実景を撮るのが好きなのを知っていたし、この映画の流れには実景が必要だとアドバイスもくれたので挟んでいきました。本作は引きの画が多いですが、もちろん人物をちゃんと描きたい思いはあります。ただ、先ほどとお話ししたように、「その場所にいるその人」を撮りたい。場所が人に与える影響や、人がそのなかに存在していることを大事にしたいと考えています。それで引きの画が好きなんだと、あるときハッと気づきました。本作は人の映画であり、架空の郊外の土地の映画にもしたかった。それであのような雰囲気のある場所の画、実景を多く挟みました。

──ジオラマ的とも言える郊外の景色が選び取られています。あのような雰囲気も監督のお好きなものですか?

rasen_s16好みですね。人物造形ともつながるかもしれませんが、「どこにでもある場所だけど、どこでもない場所」へのこだわりがものすごくあるのかもしれないですね。

──そのこだわりの源は何でしょうか。

考えとして、「特定する」ことが好きではないんですね。何かを決め付けてしまうのを、自分で裏切りたい。「あの人は嫌い。嫌な人」と思ったときに、そう思った自分を疑いたいし、疑わなければいけないと思っています。だから場所も、ランドマーク的なわかりやすい場所ではなく、「あそこかもしれないけど、別のところにもここに似た場所があったかもしれない」と思えるところ、人も「あの人かもしれないけど、でも違うかもしれない」というのが好きですね。

──多義的な発想を持つようになられたきっかけや出来事はありますか?

もしかすると、田舎が無いことが関係しているかもしれません。私は神奈川生まれで、そこで育って大人になってから実家を出たんですが、父方の祖父母とは同居していたし、母方の祖父母も徒歩5分のところに住んでいました。だから現実から放たれる場所として、夏休みに田舎に行くというような経験がなかった。子供時代に生きていた場所は、全部が現実だったんですよね。そうした環境の下、自分を解き放つために匂いや音、色などで、想像のなかのどこでもない場所に連れて行っていたのかもしれません。

──では最後に『螺旋銀河』をどのように観客に届けたいか、お話し願えますか。

本作に出て来るのは、どこでもないような場所ですが、実際には存在する場所なので、その「誤差」のようなものを楽しんでいただきたいですね。そして、夜の街を歩きたくなるような映画だと思います。歩くのが面倒だったりして、普段見逃しがちな日常の風景ってあると思うんですが、夜に家の周りを歩いてみるといつもと違うものが見えるかもしれない。この映画を見てもらうことで、そんなことが起きればすごく嬉しいです。

 

(2015年9月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

脚本家・高橋知由インタビュー

『螺旋銀河』公式サイト
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