インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』
遠藤ミチロウ監督インタビュー

©2015 SHIMAFILMS

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旅先で、そして故郷・福島で。ライブの鮮烈なバキューム・ヴォイスと、対照的な穏やかな語りにより、新しい「ミチロウ像」が立ち現れる──ザ・スターリンのインディーズ・デビューから36年。65歳のいまも音楽活動を続ける遠藤ミチロウの初監督映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』。撮影は還暦を迎えた2011年のみ。1/60という限られた時間ながら、自身の過去─現在─未来、震災以前・以降の人生を凝縮したドキュメントが生み出された。異色の初監督作について話を訊いた。

 

──ミチロウさんと映画との接点からおきかせ願えますか?

ずっと好きで、いっぱい見てました。(山形)大学に入ったら映画研究部がなかったので、1年生のときに友達とつくったんです。撮影などは一切せずに、ただ上映するだけだったけど、若松孝二監督の作品ばかり上映していました。

──制作活動はまったくおこなわずに?

上映しているうちに学生運動のほうが大変になっちゃって、何にもつくらずに終わりましたね。そのまま消滅(笑)。

──若松監督の映画が、その後の音楽活動に影響を与えることはあったのでしょうか?

直接はなかったと思うけど、若松さんの映画って、性と政治がモロに出てくるじゃないですか? 普通は遠い状態にあるものを、若松さんは無理やりくっつけるし、そこに音楽もある。ジャックスを使ったり、山下洋輔トリオを使ってみたり。それが混沌とした塊になってボーンと響いてくるので、すごく好きでしたね。最初は「変な映画だな」くらいに思っていたのが、「うわっ! 何だこれ!」と惹き込まれていきました。

──性と政治は、ザ・スターリンや、その後のミチロウさんの音楽性に通じるものかもしれないですね。

スターリンの音楽も、性と政治とをひとつの曲のなかにグチュッとぶち込んでいる。その手法は若松さんから引き継いだんだと思いますよ。

──本作のタイトルは、1984年に発表されたソロ作『ベトナム伝説』に収められた楽曲名です。

『ベトナム伝説』は、はじめは全部カヴァー曲にするつもりだった。でも著作権がどうのこうの面倒くさいので、(アレンジが)原曲から離れた曲はオリジナルでやっちゃえと。『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れていましました』(*以下、『お母さん』)も、元々はボブ・ディランの『It’s Alright, Ma(I’m Only Bleeding)』をカヴァーしようと思ってつくったんです。でもオリジナルにした。原曲とあまりにも違うので(笑)。あと『お前の犬になる』も、タイトルは『I Wanna Be Your Dog』(ザ・ストゥージズ)に似ているけどオリジナル。逆に『カノン』は、もとはオリジナル曲でした。『ビンの中から』という歌で、クラシック喫茶に行ったらなんか似ている曲が流れてて、あわせて歌ってみた。するとそのまんまで、「えっ!?」って(笑)。コード進行がまるっきり一緒だった。それならクラシックで歌うほうが面白いなと思って、キーボードの平沢(進)君に「全部シンセでクラシック風に演奏してくれ」とお願いしてつくりました。タイトルもパッフェルベルの『カノン』に変えたんです。

──『カノン』は、本作では竹原ピストルさんのカヴァー・ヴァージョンを聴くことができます。

うん。あとは、僕の還暦記念のトリビュート・アルバム(『ロマンチスト~THE STALIN・遠藤ミチロウTribute Album~』、2010)でも、戸川純ちゃんが歌ってくれているんです。

──本作も、最初のプランでは還暦を記念するロードムービーだったそうですね。

そうですね。ライブで地方を回ってて、そのなかで僕の好きな場所や街を撮っていこうと思っていたんですけどね。映画には入りませんでしたが、本当は沖縄と北海道も撮りたかった。

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──冒頭に、大阪のライブハウスKING COBRAでのTHE STALIN Zの演奏シーンがあります。はじめから映画に使うつもりで撮影されたものですか?

あれはたまたま、DVD用に撮っていたものです。あとで形にできたらいいなと考えていて。

──では、ライブはすべて撮影されたのでしょうか?(*このパートの撮影は柴田剛が担当)

撮っています。撮ったんだけど、後半の3分の1くらいはPAが飛んで、音がショボくなってしまって(笑)。

──それは残念(笑)。制作はシマフィルムからの提案でスタートしたということですが、監督をつとめることになった経緯も含めて、原案を教えてください。

最初は、福知山と舞鶴のライブの簡単なドキュメントを撮りたいという話でした。「監督は誰がやるの?」と訊いたら「まだ決まってない」と。「えぇ、それはなあ……」と思って、やったことはないけど、「じゃあ僕で」となったんですよね。その2ヶ所で撮った直後に東日本大震災が起こって、「これはちゃんとつくらないと」と本腰を入れたんです。それで福島にも行くことになった。

──そこで旅に「震災」という主題が加わったんですね。撮影は2011年の1月から9月までですが?

だって、そこで終わらないと、61歳になっちゃうんで(笑)。

──そうか、単に還暦を祝うのではなく、「60歳のドキュメント」というテーマだったんですね。ミチロウさんの誕生日は11月15日なので。

そうそう。その期間に北海道と沖縄のライブがなくて撮れなかったんですよ(笑)。

──ミチロウさんは昔から旅がお好きですよね。『音泉map150──全国インディーズ・ライブスポット情報』(アスペクト)という編著も出版しておられる。これは各地のライブハウスの紹介本ですが、旅日記でもあります。

実際に旅をするようになるのは大学入学後でしたが、子供の頃から社会科の地理と歴史が大好きだった。それはいまでも変わらないですね。「あそこ行きたいな」と思って行くと、歴史的なスポットがあって、そこにも行ってみたくなる。18歳のときから随分と旅をしていて、大学生のときは暖かくなると旅に出ていました。

──本作のなかで、マンガに触発されたとお話しされていますね。

そのマンガの正体が、この前はじめてわかったんです。ながやす巧の『ぶらりぶらぶら物語』。上條淳士さんから教えられて、「これだ!」って。

──検索してみると……なかなか時代を感じさせる絵ですね(笑)。さて、本作の撮影は高木風太さんたちが担当しておられます。

ライブシーンがこれほどちゃんと撮られているのって、ドキュメンタリー映画ではなかなかない。特にメインとなる福島のあづま球場でのライブがしっかり撮られているのは、偶然にせよラッキーなことですよね。

──現場はどのような体制で?

「今回はこの街を撮る」と決まったら、プロデューサーの志摩敏樹さんとカメラマンが2人、そして音声担当の4人で来てくれた。でも旅にずっと密着という形じゃないですよ。「ここで撮る」と決まれば、現地集合するスタイルで。

──姿はうつりませんが、ホテルの部屋などのお話には聞き手がいます。どなたが担当されているのでしょう?

ホテルの場面は誰だろう……、志摩さんじゃないな。志摩さんが訊いている場面もあるけど。電車のなかで話しているシーンの聞き手は風太さんだったんじゃないかな。

──監督としてインタビューで話したいこと、訊いてもらいたいことは何かイメージしておられましたか?

いや、全然。インタビューに関しては、訊くほうにお任せでした。

──志摩さんと松野泉さんが編集を手がけておられます。インタビューや会話パートの言葉の取捨選択は、どのように進められたんでしょう。

まず、大雑把に編集した素材を送ってもらう。どこで撮ったのかは記憶しているから、それを見て「あの辺は入れようか」とか、時系列に沿って編集するか、あるいは多少前後させて編集するのかを相談して、結局完成した映画の形になった。ただ、撮られる僕の立場の「ここを使いたい」というところと、監督として「ここは使わなきゃいけないのかな」というところ、あとシマフィルムさんからの意見もあるので、そこはせめぎ合いでしたね。おふくろとのシーンには入れたくないものがいっぱいあったけど、逆にシマフィルムさんからは「こっちを入れましょう」という声があった。そこで僕も監督の立場から、「出したくないところを出したほうが面白いんだろうな」と考えて、この形になりました。本当はおふくろともっと色々話しているから、「あのシーンを使えばいいのに」と思っていたのに、「このシーンを出されちゃった」というのはありますね(笑)。

──実家でのお母様との会話の場面は、少なからずミチロウさんのパブリックイメージを覆すものです。やはり映画に使いたくなかった?

出したくはないですよ、しようがなく出しちゃった感じです。作品のためには仕方ないか、みたいな(笑)。普通、このタイトルなら親と揉めていて、それが対面することである種の感動を呼ぶものになりそうだけど、俺の場合は絶対そういうふうにはならないし(笑)。実家が嫌だということに対して、答えが出ない。特別な理由があるわけでもないし、親を憎んでいるわけでもない。だから映画で家族の問題を打ち出そうとしても、歯切れが悪くなるんじゃないかと思ったんですよね。

──詩人の三角みづ紀さんとの対談のなかにも、「中途半端」という言葉がありますね。

でもあれは家族に対してではなく、福島に対するイメージというか。自分のなかにある中途半端さと、福島の持っている中途半端さ。あとはツアーで訪れる奄美大島に感じたものですよね。中途半端という言い方はおかしいかもしれないけど、両極端のなかで揺れ動くイメージ。それが現実なんじゃないのかなって。原発ひとつにしても、賛成か反対かだけで話が進んでいるけど、本当はその揺れ動きのなかに皆いるわけじゃないですか。それは、ほかのこと全部に被ってくると思う。

──福島といえば、「プロジェクトFUKUSHIMA!」についてもお話しいただけますか。

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NPO法人にしたのは翌年ですが、2011年に福島にゆかりのある──住んでいるか、実家がある──ミュージシャンや表現者に声をかけて、何かイベントをやろうと立ち上げました。

──かつてのミチロウさんは、このようなプロジェクトやフェスティバルに関心を持たれていましたか?

やる気なかったですよ、全然。やっぱり震災がデカいですよね。

──旅と震災と家族、それから三角さんとの対談も映画の軸になっています。

そうですね。もし震災が起こらずに、ひとつのロードムービーとして撮ったとしても、三角さんとの対話的な要素は入れたと思います。

──対談では、テーマを設定されていたのでしょうか?

いや、決めてなかったですよ。三角さんが僕のファンで、そのきっかけが『お母さん』を聴いたこと。だからいちばん面白い存在だった。家族の問題に関しても三角さんの色んな思いがあるし、しかも女性。男と女、家族という両方の問題をちゃんと語れるのは三角さんだなと思ったし、そこを浮き彫りにしたかった。ちょっとズレたのは、僕が「家族をつくろうと思わないのか」と訊いたら、「思わない」と答えが返ってきたところ。守るべきものがあるのは嫌だと。三角さんはあそこで、「ひとりの表現者として生きていたいから子供をつくらない」と話している。それがすごく面白かったですね、成程と思って。

──三角さんとのやりとりからは面白い言葉が出てきますよね。ミチロウさんが「生まれ変わったら男は嫌だ」とおっしゃったり。

昔からそうなんですよ。旅や、スターリンみたいなことは男じゃないと出来ない。要は、男であるのはしようがない。じゃあ男ってどれだけ楽しいんだろうと考えて、男が出来る楽しいことを全部やろうって発想ですよね。オカマにならずに(笑)。男として出来ることを追求してきた感じです。

──オープニングショットは河辺で撮られています。河は女性の象徴のようにも受け取れますが。

そこまでは考えてなかったですね。あれは自分がいちばん肯定している福島。ずっと釣り遊びをしていたあの河が、子供の頃の自分を象徴しているんですよ。まずそこへ行ったら放射能で汚染されていて、自分にとって肯定的な福島と原発とがぶつかっていた。幼い頃の思い出や記憶が全部汚染されているというイメージですね。あの河と、中盤に出てくるお寺がいちばんの遊び場だったんです。

──どちらの場面にもガイガーカウンターが映りますね。ところで、楽曲のセレクトはどのように?

撮影したなかから選びましたが、スターリンだと『ワルシャワの幻想』『ロマンチスト』『虫』『電動コケシ』。僕のソロでは、『お母さん』『父よ、あなたは偉かった!』『JUST LIKE A BOY』『原発ブルース』など。『カノン』は竹原ピストル君、『早すぎた父親』は三角さん、『JUST LIKE A BOY』はAZUMIも歌ってくれている。結構、僕のなかのベストテンに入る曲ばかりですよね(笑)。

──本作は限定された期間の姿しかうつしていませんが、ミチロウさんの人生を凝縮した印象を抱かせます。ベスト的な選曲だけではない、別の何かがあるからだと感じたのですが。

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還暦という、約1年弱のドキュメントのなかに、それまでずっとやってきたこと、これからのことが引っくるめられたからだと思うんです。特に震災によって、いままで俺が向かってきたもの、「なんで歌っているのか」という要素が全部バーッと出てきた。

──震災によって発見されたことは多かったのでしょうか。

うん。震災の直後もそうだったし、9・11のときもでしたね。9・11はリアルタイムでテレビであの映像を見ちゃったじゃないですか。やっぱりそのあとって歌えなくなるんですよね。歌うまで気持ちが向かわないというか。表現している奴らに、「自分はなんで歌ってるんだろう」とか「何を歌えばいいんだ」ということが突きつけられた。それに対して歌えるようになるのは、はっきりとはしないけれども、自分なりの答えが出てきたから。そうでなければ歌えないことがあると思う。

──阪神淡路大震災の頃を振り返る場面もあります。1995年当時もそのような思いはお持ちでしたか?

うん、絶対あったと思います。東日本大震災と同じく、阪神淡路大震災のあともライブなどを自粛する風潮がありましたよね。ライブハウスからも「自粛しろと言われたけど、どう思いますか?」と訊かれたり。それに対して、ものすごい反発心があったんですよね。「何で自粛するんだよ! いまこそ表現しなきゃいけないんじゃないの」って。厳しい現実を突きつけられたときに、自分の思いを出さなかったら、僕らは表現している意味がないんじゃないかと感じたんです。

──遡って80年代はいかがでしたか?

変わらないです、まったく。

──完成した監督作品をご覧になって、どんなことを感じられたでしょう。

自分でも見るたびに気になるところが違うんですよ。2回めに見たときは、1回めとは全然違うところが気になった。色んな切り口があって、そこから入って見るから、いまでも「あのシーンを使えばよかったんじゃないか」とか、色々考えますね。

──いつ見てもお好きなシーンはありますか?

oiaw02意外と、お墓のシーンは好きですね。あとは……、宇和島もそうですね。ロック食堂『TE-TSU』で話しているところもだし、変な神社に行っちゃったりとか、ブランコに乗って揺られている画も。ほかには、奄美大島の加計呂麻島でうり坊が出てきてたわむれるシーン。僕は結構ああいうところが好きなんですよね。

──ほのぼのしたオフショットばかりで、ライブシーンが入っていません(笑)

ライブはしょっちゅう見てるんでね(笑)。DVDもいっぱい作っているので。

──たしかにそうですね。あのようなオフの姿は、昔なら見せなかったものでしょうか。

いや、見せるチャンスがなかっただけで、僕はああいうロードムービーをつくりたかった。気に入ってるシーンは、ロードムービーとして撮った映像なんです。

──素のミチロウさん?

素のほうですね。ライブシーンじゃない旅の姿を見せたかった。

──ライブ用にメイクを施す場面もありますが、見せたかったのはノーメイクの姿なんですね。ミチロウさんにとって、映画と音楽との違いがあるとすれば?

映像が付くと、イメージが限定されてしまうんですよね。「映像のなかの音」になっちゃう。でも音だけだと映像がないから自由に想像できる。映像を付けるのって、いい意味でも悪い意味でも具体的になるけど、イメージを小さくしてしまうし、限定してしまう。音だけなら、聴く人によって映像的なイメージが自由になるので、そこは一長一短ですよね。

──カメラが音楽と2011年の空気を取り込んでいる。まずそれが本作の長所ではないでしょうか。

でも、ほかのドキュメンタリーと比べるとどうなんでしょう。インタビューとライブしかない、いわゆる「ミュージシャンの映画」ではないですよね。普通のドキュメンタリーなら、ひとつのテーマがあって、それを追いかけていくんでしょうけど、この映画に具体的に「これ」というテーマはない。あるとすれば、「震災が起こった2011年の僕のドキュメント」だけなんですよね。僕が引きずっているものを撮っていくと、テーマがいっぱい出てきた。

──そのような多重性を持つ映画になることを、撮影時に実感されていましたか?

いや、ないですよ。震災が起こってしまい、それにまつわる映像も撮っていこうとしたときには、結果としてどうなるかは決まってなかった。撮影していくなかで、8月に福島でライブイベントを開催することになったから、予想のつかない、どう転んでいくかわからないドキュメントでしたよね。

──あづま球場での演奏は、本作のクライマックス。あのライブシーンに関してもお話し願えますか。

『ワルシャワの幻想』で、スタンドにいるお客さんたちに向かって、「お前らの貧しさに乾杯! 福島乾杯!」って歌っているところが、実は一番使いたかったんだよね(笑)。

──「お前らの貧しさに乾杯」という歌詞はオリジナルのまま。でも意味合いが変わっていますよね。

被災して、原発の影響も受けている観客に向けた「お前らの貧しさに乾杯!」って、すごい皮肉だよね。だけど、それが現実でもある。最初に『ワルシャワの幻想』を歌ったのは、バブルに向かっていた頃(*1982年に発表されたザ・スターリンのアルバム『STOP JAP』に収録)。「もう喰いたくない」っていう飽食の時代には、「メシ喰わせろ」という歌詞が皮肉だった。でも、いまはそれが現実の時代になっちゃった。正規雇用されない、仕事もない、給料も安い。「メシ喰わせろ」が現実そのままになって、逆転してしまったのは不思議ですよね。

──当時とまったく同じことを歌っているけれど、意味が反転しています。

うん。同じだけどまったく逆の意味になってしまって。

──臓物を客席に投げつけるパフォーマンスについて、「喜ばれると嬉しくない」とお話しされるくだりがあります。福島で歌われる『ワルシャワの幻想』も、同じなのかもしれないですね。言葉を投げつけるというのでしょうか。

そうですよ、喜ばれたら意味ないもん(笑)。それからあの歌詞は、お客さんたちへと同時に、自分に向けても歌っているんですよね。

──歌詞もそうですが、語られる言葉も多義的に感じました。

そう。旅の話をしているときに、「本当はバンドはやりたくない。一人旅するのが好きで、バンドはしようがないからやっている」と言う。あれって、子供の頃のひとりで釣りをしたり、お墓で遊ぶのが好きだった──ひとりでいるのが大好きだった──ことと、全部つながってくる。だから旅がしたいんだという。

──作品の惹句は、「なぜ歌い続けるのか?なぜ旅を続けるのか?」。明確に語られないものの、随所に答えが散りばめられているように思います。昨年、本作が山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された際のインタビューでは、「(映画に)メッセージなんてないよ」と答えておられます。それはいまも変わりませんか?

全然ないですよ。受け取る人によって感じるところが違うと思う。東京の場合だと原発への意識が強いから、そういう視点から見られることが多い。でも西へ行くほど、原発に対するリアルさが薄くなるので、別の切り口から入ってくるんじゃないかな。沖縄でなら家族の問題から、「なんて親不孝な息子なんだ、こいつは」っていうふうに見られるだろうし、色々でしょうね。

──そのような解釈の幅は、音楽にも当てはまるでしょうか。

そうです。映画に限らず、自分が出した作品に関してはみんなそう。作品は発表した時点で一人歩きするから、「ここを聴いてくれ」とか、どうでもいいんですよね。聴くなら全部聴いてほしいっていうだけの話で、どこを感じるかは人によって違っていていい。

──ミチロウさんの作品に長いあいだ触れてきた方には、特に愉しみの多い映画だと思いますが、あらためて感じたのは吉本隆明さんからの影響でした。

大きいですよ、やっぱり。

──吉本さんとは幾度か対談なさっていて、書籍にも収められています。

『バターになりたい 遠藤みちろう対談集』(ロッキング・オン/のちにマガジン・ファイブ刊『嫌ダっと言っても愛してやるさ!』《2003リミックス版》に再所収)。あと写真集『我自由丸』(マガジン・ファイブ)にも入っていて、それは『バターになりたい』から20年経った対談ですね。僕にとって父親の影響ってすごく大きい。物心ついて、本を読み始めたときに最も影響を受けたのは吉本さん。知的なもので育っていくなかでの父親が吉本さんだった。吉本さんもファザコンな人だから、その影響も強いですよね(笑)。初期の著作で特にインパクトが大きかったのが、高村光太郎論(『高村光太郎』春秋社)。高村もファザコンで、父との葛藤のなかで彼が出来上がっていくという本で、僕は高村光太郎も大好きだから、「高村─吉本─遠藤」という三重の構造が生まれていますよね。しかも島尾(敏雄)さんもそう。

──島尾さんはミチロウさんと同じ福島生まれ。加計呂麻島にある島尾敏雄文学碑を訪ねる場面では、吉本さんへの言及から父親の話題へと発展します。

本当は、最初はテーマを『父よ、あなたは偉かった!』にして、父をテーマにつくりたかった。そうすると戦後やいまの日本の問題は浮き彫りになるけど、福島がしぼんでしまう。でも自分が幼少期を過ごした福島に面と向かおうとすると、おふくろを出さざるを得ない。それで『お母さん』になったんです。だからプロジェクトFUKUSHIMA!は、おふくろというより父親に面と向かう場。記者発表のインタビューで、「戦後の僕らはこれでよかったのか」と発言してプロジェクトを立ち上げている。あれは完全に、『父よ、あなたは偉かった!』の流れですよね。

──福島が母親、日本が父親というイメージでしょうか。仮に福島を横糸とすると、本作で日本について語られる事柄は縦糸としてつながっていますね。

うん。たとえば95年には阪神淡路大震災、オウムのサリン事件、沖縄では米兵による少女暴行事件があった。僕はあの年に初めて沖縄へ行ったんですよ。ツアーで行った直後に事件が起きた。その前の沖縄と、あとの沖縄とを見続けていて、それは辺野古の問題にもつながってくる。オウムはいまのイスラムの宗教問題に、阪神淡路大震災は東日本大震災へと全部つながる。それまで僕が持っていた考えや疑問が、震災の年にとまとめて出てきたんですよね。その意味でもテーマをひとつに絞り切れなかった。

──結果として、還暦を迎えて起こるべきことが起こったとも言えるでしょうか?

そうですね。これも偶然ですが、父親は戦前からのX線技師だったんです。だから結構被曝している。子供のときに親父が鼻血を出して、「やっぱりX線の影響なのかな」と家族で話すことがよくあって、放射能に対する恐怖心はその頃からあった。それは大人になったときの広島に対する考え方にあらわれています。

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──95年以来、毎年「爆心地ライブ」を開催している広島も本作において重要な土地になっています。それにしても、撮影がおこなわれたのは5年前ですが、タイムラグを感じさせないですね。

著作権の問題など、色々な事情があって時間がかかった。そのあいだに病気
(膠原病)になって、何も出来なくなってしまって。それが治って「やっと」という状態になったら、もう2015年だったという感じですね。

──5年経ったけれど、何も変わっていない?

うん。震災が起こったときに家族の絆があらためて見直されたし、ローカルのコミュニティも大事だとか言われた。それが5年ほど経つと、なんだかモヤモヤとなっちゃった。家族の問題なんて何も解決していない。震災で「家族が大事だ」と気づいたところで、それは解決しない問題としてすでに孕んでしまっているもの。原発も同じ。戦後の日本は家族がどんどん崩壊していった。子供が親を殺したり、引きこもりの問題が出てくるなかで、震災が起こって「家族が大事」と言われても、逆に「いや、その家族が自分たちをこんなふうにしちゃったんじゃないか」という思いも強い。だからストレートに「家族が大事」と言うのには行けないですよね。それを誤魔化して家族の感動物語をつくり上げているけど、本当はそうじゃなかっただろうって。時間が経つと前のように、やっぱり「家族って何だよ。親なんか嫌だよ」となる。震災以降の問題も元に戻ってるんですよね。いや、さらにひどくなっている。だから僕はこの映画で「家族って素晴らしい」とは訴えていない。むしろ「家族って嫌なんだよなあ」って。震災から時間が経てば、結局また同じ問題にぶち当たる。それらも引っくるめて、僕は震災以降も、その前の問題に強くこだわっている。

──震災を機にリセットされたわけではなく、連続しているということですね。ただ、ミチロウさんはそういう問題をストレートに歌っておられないですよね。

原発に限らず安保法案もそうですけど、否決されてもそれですべてが解決するわけではない。メッセージって、正論を打ち出すところがあるじゃないですか。正論は正論として、それですべてを解決させようとするのは、俺は違うと思う。否定しないけれど、正論がすべての世界に対して「いや、違う」と言いたいですよね。

──もしもミチロウさんの歌がメッセージのように聴こえてしまう瞬間があるとすれば……?

そういうときは、何か皮肉を込めてるんだよね。いつだって(笑)。

(2016年2月26日 大阪KING KOBRAにて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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