インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW
2016 11

『二十代の夏』 高野徹監督インタビュー
 
→映画『二十代の夏』神戸上映会

20s01

『ハッピーアワー』(2015/濱口竜介)で助監督をつとめた高野徹。その監督作『二十代の夏』が、クランクアップから1年を経て完成し、このたび神戸で上映される。小説家の青年の夏の終わりの恋愛模様を描いた本作へのインタビューでは、映画体験や作品完成への道のり、女性観(?)まで、幅広くお話を訊くことができた。

 

──1988年生まれの監督の「映画体験」から伺いたいのですが、横浜国立大学のご出身ですね。梅本洋一さんの授業に出席されていたのでしょうか?

そうなんです。梅本先生のゼミに所属していました。梅本先生がいらっしゃらなければ、映画を撮り続けていなかったでしょうし、そこでいろんなことが決定づけられたように思います。お恥ずかしい話ですが、2007年の入学当時は、トリュフォーもゴダールも、ロメールという固有名詞すら知らなくて、「何それ?」というような大学生でした。梅本先生のゼミも、「何がなんでも入ってやる!」といった意気込みはなく、「何か面白そうだな」くらいの軽いノリで入ってしまって、コテンパンにやられました。「お前は小津安二郎も見ていないのか? それでも人間か?」というようなことも言われて(笑)。悔しいから見てやろうと思い、梅本先生が見るべきだと挙げた作品を見るようになり、そこから僕の映画体験が始まったように思います。それが2009年のことですね。

──その後、とりわけ大きな衝撃を受けた映画はありましたか?

2010年に、東京のユーロスペースでジャック・ロジエ監督の特集上映がおこなわれました。そこで初めてロジエの映画を見たんですが、「僕が見たかった映画はこれだ!」と思いました。単純にスクリーンを見続けていたくなる。そういう映画に出会ったことがなくて。僕はとても単純で影響されやすい人間なので、「自分でもこんな映画を撮ってみたい」と思うようになりました。

──ロジエの作品のどのようなところに惹かれたのでしょう。

やはり、うつっている役者たちがとても自由であるところですね。僕も自主映画を撮っていた経験から、カメラの前に立つのはとても怖いことだと思っていましたが、話を聞くと、ロジエは演技経験のない素人をキャスティングして、その人たちが自由に振る舞っている。すべてのカットで、もう一回同じことをやろうとしても出来ないであろうことが起きている。そのカットが連なった、本当に奇跡のような映画だと思いました。

──演技経験のない人間がカメラの前に立つことは、『ハッピーアワー』のテーマのひとつでもあったと思います。助監督をつとめることになった経緯を教えていただけますか?

僕からお願いしました。実は濱口監督の『THE DEPTHS』(2010)に美術助手として関わっていて、作品が生まれる瞬間を間近で見ながら「すごい映画を撮る人だ」という感覚を肌で覚えました。『不気味なものの肌に触れる』(2013)のときにも、「助監督をしてみないか?」と依頼をくださったんですが、別の仕事があって参加できなかったんです。でも、そのことをずっと後悔していました。それで、濱口監督が神戸で開いた即興演技ワークショップの成果発表として、KIITO(デザイン・クリエイティブセンター神戸)でおこなった公開本読みを聞きに行きました。するとそこで、見たことのない映画が生まれるような予感を得て、この機会を逃すとまた後悔すると思って参加をお願いしました。

──そうだったんですね。濱口監督自身が「常軌を逸した映画」とおっしゃる通り、大変な現場だったと思うのですが、参加にあたって不安を感じませんでしたか?

大変だろうとは薄々感じていましたが、それ以上に、濱口監督がどのように映画をつくっているか? それをいちばん近いところで見たいと思いましたし、映画制作に少しでも貢献できれば、自分にとっても嬉しいことだと考えていました。ですので、大変かどうかはあまり重要ではなかったですね。

──その時点で、『二十代の夏』の舞台となる伊豆大島へはすでに行っていたのでしょうか?

そうですね。公開本読みが2014年の2月。伊豆大島には2013年の7月に行っていました。それは単純にバカンスとしてでしたが、そこでとても豊かな体験をして、「ここで何か映画を撮れたらいいな」という思いを得ました。

──伊豆大島に行かれたのは、青山真治監督の映画がきっかけだったそうですね。

はい。関心を持ったきっかけは『東京公園』(2011)でした。小西真奈美さんと三浦春馬さんの両親が伊豆大島に住んでいるという設定で、ふたりが海に浮かんだ岩島を見に行き、そこで小西さんが号泣するシーンがあります。それがとても大きく心のなかに残っていて、自分の眼で見たくなって、夏に伊豆大島に行こうと思い立ちました。

──実際に行ってみて、どんな印象を抱かれたのでしょう?

本当に自然が雄大でした。海もそうですが、火山島なので、いまでも活動している火山がある。自然や風景から受けた「これまで自分の見たことのないものだ」という印象は、いまでも深い記憶としてありますね。

──すぐに具体的な映画の構想が生まれましたか?

そのような自然のなかで映画を撮ろうとしたとき、どういう物語が展開できるのか、すぐには思いつかなかったです。ただ、ロジエの映画を見たときに直感したように、「この場所だったら撮りたい映画を撮れるんじゃないか。何か物語を書けるのではないか」と感じて、制作に取りかかったんです。

──ここまでお話を伺って、監督は「見たことのないもの」に魅力を覚える方だと感じていますが、本作の主人公である小説家・カズキが、「わからないことや知りたいことに近づくために書いている」と語るくだりがありますね。監督の映画制作へのスタンスも、それに近いところがあるのでしょうか?

あると思います。僕が映画づくりに対して思っていることを、あのセリフに少し託しています。

──カズキが監督を投影したキャラクターだとすると、ストーリーのベースはどこから生まれたのでしょう?

これもお恥ずかしいのですが、ベースには僕自身の恋愛体験をかなり反映しています。ある女性を好きになったけれど、振り向いてもらえなかった。最善を尽くして彼女に喜んでもらおうとしたり、好意を伝えようとして行動を起こしたものの、ことごとく裏目に出たというか、彼女が何を考えているか、まったく理解できなかったんです。「あれって一体何だったんだろう」と振り返ってみて、脚本のベースにした部分があります。

──それはだいぶ前の出来事ですか?

かなり最近の経験なんです。2014年の頃ですね。

──では、それも設定に反映されていますね。しかし、そうした経験をすぐに客体化して創作につなげるのは、なかなか難しいことのようにも思います。

はい。かなり短い時間で映画にしていますね。ただ、2014年の経験がきっかけになっていますが、それ以前の経験や、僕が女性に対して持っていた疑問も物語に反映しています。本当にわからなかったんですよね。女性たちが何を考えていたのか、そして自分がどう振る舞ったのかを単純に知りたかった。それを作品の形にして客観的に見ることが出来たら、何かわかることがあるかもしれないという興味を持って、映画づくりを進めました。

──登場人物の女性・レイコとユカは歯科衛生士という設定で、彼女たちがカズキの口のなかをのぞき込むシーンがあります。これも監督の経験を活かしたエピソードでしょうか。

やはりそれも自分の体験で、女性で歯科衛生士の友人から、前歯が虫歯じゃないかと指摘されたんですね。その事実にショックを受けるのと同時に、「人に口のなかを見られるのって、とても怖くて恥ずかしいな」と、はたと気づきました。映画に使うと面白いのではないかと思い、ネタとしてストックしていたものを今回使ってみました。

──顔全体ではない、「口のなか」という細部があらわすように、本作の根底には少し変わった視点から人を捉えるまなざしがあると感じました。もし他にも、実体験を活用した部分があれば教えてください。

とてもよく似た──似ているというよりも、ほぼ同じ──顔の女性が出てくる設定にしていますが、これは僕が好きになるのがことごとく似た顔をしている女性で、「一体なぜなんだろう?」と思っていたからなんです。好みもあるでしょうが、それを友人に打ち明けると、「全然顔が似てないじゃん」と言われました。現実とは違う、「僕が見たいもの」を女性たちに見ていたのではないだろうかと思うこともあって、物語に取り入れました。

──多くの実体験を取り込んでいるということは、カズキは監督の分身的な存在でしょうか。

当初はかなり分身的なキャラクターでしたが、実際に出演者をキャスティングして、本読みをやってもらい、撮影を進めるなかで、自分との距離が生まれる感覚はありましたね。

──画づくりやセリフに関してもおきかせください。予告編の冒頭で見られるフェリーターミナルのシーン。カラフルな色彩を持つこの場面は、焦点を合わせにくい、うごめきのある画になっています。エキストラを使って計算した動きなのでしょうか?

本当は呼びたかったのですが、制作体制が脆弱だったために、エキストラを呼ぶことが出来なかったんです。船が着く時間にレンタカーショップや宿の方たちが集まるのは知っていました。それで、うごめいている人たちをフレームに収められるんじゃないかと思って、ちょうど船が着く時間を計算して行きました。そこに来ている人たちの撮影許可を取って、あのカットが撮れたんです。

──シーンの最後に人が横切るのも、想定していないことでしたか?

そうですね。カメラマンと「横切るといいよね」と話してはいたんですが、用意はしてなくて。ひとり、スタッフに動いてみてもらうとどうも嘘くさいので、エキストラは使わないと決めました。何が起こるかわからないけど「おもしろいことが起こるはずだ」とカメラを回し始めると、絶妙なタイミングでカメラの前を人が横切ってくれました。

──それから、庭先での会話シーン。人物の手前で猫がずっとじゃれ合っているのが目を惹きつけます。

あの猫は、舞台となったペンションに住み着いている野良猫なんです。撮影前は、「猫がうつったらいいな」程度に思っていたんですけど、実際に回し始めるとフレームのなかでじゃれ合っていた。撮りながら気づいたのが、あの猫たちは登場人物たちと重なる部分があるのかもしれない。少し飛躍した考えかもしれませんが、女性たちにおもちゃのように扱われているカズキと、一方的にやられる子猫。まるで猫がカズキを象徴しているような気がして、これはこれで意味のあるカットになるような気がして採用しました。

──さらに画面の特徴として、幾つかのシーンに、フレームを分割するラインを取り入れていますね。

常々、男女のあいだには何か越えられない壁や境界があって、それをフレームのなかで表現できたら面白いなと思っていました。たとえば屋上のシーンでは、胸の高さくらいの長い手すりがあり、カズキは自分のことを悠々と語りながら、それを迂回してレイコのそばへ行きますが、最初はふたりは別の空間に隔てられています。

──あのシーンは夕暮れどきで、マジックアワーの光も効果的です。かなりテイクを重ねたのでは?

20s02そうですね。屋上のシーンはかなりテイクを重ねて、撮影部と照明部が光のつながりを心配するくらいでした。しかし、撮れば撮るほどいい演技がそのとき起きている気がして、陽が落ちるまで、時間の許す限り粘りました。

──セリフのやりとりは、どのように組み立てられたのでしょう?

撮影前にだいぶディスカッションをしましたね。また、撮る前にシナリオも大幅に書き直しました。まず役者たちから、「自分ならこういうことは言わない」というような疑問を出してもらい、それならどんな言い方がありえるかということをディスカッションして、役者の身体になじむようにセリフを書き換えて言ってもらいました。

──セリフを書くときに、心がけておられることはありますか?

書く段階では、まずリズムが大事だと思っています。シナリオを音読してみたときに、何か心地よい、あるいは心地よくないリズムがあると思うのですが、それを意識して書いています。ただ、実際に役者に読んでもらったときに違和感や、「こういうことは言わないんじゃないか」という意見があると、そこから修正を加える書き方をしています。

──海辺でカズキとある女性が、携帯電話を使って会話するシーンも山場のひとつ。そこでのセリフはいかがでしたか?

20s03あのシーンのセリフもかなり書き直しました。撮影場所も、最初は廃校の教室やカフェの室内を想定していたのが、最終的に海辺で話すシーンになっています。

──その海辺のシーンをはじめ、ワンカットで撮ったシーンが多いですね。カメラポジションなど、撮影についてもお話しいただけますか?

ポジションは、僕とカメラマンで「このあたりが適当ではないか」と相談しながら決めたんですが、カット割りは僕が決めています。特に本作はワンシーン・ワンカットが多い。その理由として、登場人物たちをじっくり観察したい思いがありました。登場人物たちのあいだに生まれる恋愛を観察するには、どのようなカメラポジションやカット割りが適切か考えたときに、まるごと登場人物たちの動きや言葉を見れば、僕が観察したいものを捉えられるのではないかと思い、ワンカットを選択しました。

──カメラは一台だったのでしょうか。

ワンカメでしたね。役者を疲労させるのは得策ではないので、2台で撮りたいシーンもありましたが、予算であったり、制作体制の問題で断念せざるを得なくて、ワンカメで撮っています。

──砂漠でのカズキと映画監督とのやりとりもワンカットで撮られています。作品の流れというか、ノリがそこで変わりますよね。

20s04まず、あのシーンにはシナリオがなく、メモ書き程度のことしか決めてなかったんです。「主人公に対して監督がこんな質問をする」程度のことだけ決めて撮りはじめると、何回やってもうまくいかなかった。スタッフのひとりが飽きてしまったのか、石投げ遊びをしていているのを見て、ふたりが石を投げれば撮りたいものが撮れる気がしました。そうして撮れた、自分でもイメージしていなかった面白いシーンですね。

──あのシーンの映画監督はずっとアンダースローで石を投げていますが、演出なのでしょうか?

あれは、出演者の馬君馳さん自身のアクションです。彼がアンダースローで、特に指示はしなかったです。

──お酒を飲むシーンがあるからというわけではなく、ホン・サンスの映画のようなノリも感じました。

20s05大好きなので、ホン・サンスを意識したところはあります。とても魅力的な映画だと思っている一方で、何が魅力的なのかをうまく言語化できなくて。批評などを読んでみても、どれも僕にとっての答えが書かれていない。僕自身も能力が欠けているのか、その魅力を自分では言葉に出来ない。それだったら、映画で示すことで何かヒントが得られるんじゃないかという思いはありましたね。

──映画をつくる上で、「ロジエと濱口竜介とホン・サンスを同時に好きであること」にギャップはないでしょか? 方法論などの問題として。

ロジエの映画を見て、出演者たちが自由に振る舞っているところに感動を覚えたのですが自由であるためにはどうすればいいのかという問いがあります。濱口監督は脚本をベースに、役者に「カメラの前にいていいんだ」という感覚を与える撮り方をしている。僕の場合は、正しい方法論なのかどうかわかりませんが、ある役者がいて、準備してきたことや、今まで信じてきたものをいったん無にして、信じるものを失ったときに、その人自身の魅力があらわれる気がしています。そのような状況をつくって、役者にカメラの前に立ってもらったときに、どんな演技をしてくれるのかという興味があります。

──前に濱口監督にお話を訊いたときに、『親密さ』(2012)の第2部の演劇パートは最大で16のカメラポジションがあり、それは「待ち受けるカメラ」で、反対に第1部は「追いかけるカメラ」だったとおっしゃっていました。本作も、追いかけるタイプの撮影だったのでしょうか?

そうですね。追いかける形でした。撮影場所に行って、役者に演技して動いてもらうまでは、何が起こるかわからないと思っていました。動いてもらって、それをカメラでどう切り取るかを考えたので、役者を追いかける映画でしたね。

──なるほど。画面の話に戻ると、終盤にジャンプカットを使った波打ち際のシーンがありますね。そこでも面白いことが起こります。

あそこだけ唐突ですね(笑)。ジャンプカットになっているのには幾つかの理由があって、ひとつはとても長いカットになってしまったこと。長くても良いカットは存在しますし、本作のなかにもあるんですが、波打ち際のカットに関しては、たしか3分くらいの長さになってしまった。それは必要のない長さで、どうしようか考えました。そこで、違和感が出るかもしれないけれど、ジャンプカットにしてみたんです。

──波の動きはあらかじめ予測していましたか?

20s06把握していました。ロケハンの時点で何度か浜に行くと、いつも波が強くて、ここなら役者たちが用意してきたものを超える、予期してない反応をしてくれるんじゃないかとひらめいて、あの浜で撮ったんです。

──それらのことも含めて、はじめにイメージしていたものが撮れた手ごたえはありますか?

まったくイメージ通りには撮れていなくて、僕自身もこんな映画になるとは思わなかったです。ただ、そこに何か面白さがあると、作品が完成して感じています。

──そのあとのラストシーンですが、観客の誤解、読み違えを招く可能性もあるつくりですよね。特に僕はしばしば「誤読」してしまうんですが(笑)、ラストの解釈についてお話しいただけますか?

本作は、見る人によって異なる捉え方が出来る作品だと思っています。見る人が、僕の意図とはまったく逆の印象を受けて、誤解を生むかもしれない。狙ってつくった訳ではないですが、それが映画の豊かさや多様性につながると考えています。ですので、みなさんの思い思いの感想を聞けるのを大きな楽しみにしています。

──本作はまず『島の女たち』という仮題で、クラウドファンディングで資金を募り、今年の春に『恋はフェリーに乗って』というタイトルで一度完成しましたね。その70分版を編集で再構成して42分にしておられます。結末は同じものだったのでしょうか?

実は色々と変遷がありまして(笑)。第1稿を濱口監督に読んでもらって、「このラストは観客が信じられないんじゃないか」というアドバイスをいただきました。たしかに僕も自信がなかった。それで別のラストを書いて、70分版ではその結末が提示されていますが、予備というか、使うかどうかはわからないけど、時間があったので第1稿のラストも撮っていました。42分版に再編集するときに、しっくりくるような、一本筋が通るような思いがして、最初に書いたラストを当てはめたんです。砂漠のシーンで、映画監督がカズキに「お前は他人のことを見ていない」という意味合いのセリフを言いますが、僕自身も女性に対して自分の見たいものしか見ていないと気づいた瞬間がありました。それを活かした物語のなかで、カズキがふたつの恋愛を通過して得たものがある。彼がもう一度、女性と出会うときにどのような人間像が立ち上がるのか? それを問うようなシーンにしたいと思って、このラストにしています。

──ラストは、オープニングから円環を描く構造になっています。

そうですね。冒頭のナレーションでカズキが、「島での出来事は一年前だった」と語ります。船の上で小説を書いているカズキは、故郷の島での恋愛を経た一年後という設定で、その恋愛を振り返っています。そのときにふと目を上げると、ある女性があらわれる構造にしました。

──オープニングのタイピングのアクションが、ピアノの音に合っていますね。

実は撮影のときは、音楽を付けるかどうかはまったく考えてなかったんです。ただ、ノートパソコンで小説を書いているあのシーンを使うと決めたときに、理由はわからないんですが、「ここは音楽が必要だ」と思って、海外のロイヤリティフリーの音楽を持ってきました。たくさん聴いたなかからピタリと合う曲を見つけることが出来て、実際に当てはめると、このシーンのためにつくられた音楽のようにさえ思えました。

──そのオープニングは、ナレーションとテロップを組み合わせた、少し変則的なものです。

編集中にナレーションも必要だと思い、主演の戎哲史さんに来ていただいて録音しました。さらに再編集するときに、42分版の物語構造のプロローグとして、そのナレーションを当ててみると、足りなかったんです。新しく録ることも可能でしたが、文字を入れてみたらどうだろうと試してみたら意外な効果を発揮して、ナレーションとテロップが交互に来る形になりました。

──「ケガの功名」ですね。42分に絞り込む編集のポイントは、どこに置かれたのでしょう?

僕には影響されやすく、面白いものにすぐに飛びついてしまうところがあります。そういうものがどんどん脚本に侵入してきて、「これは面白いはずだ」と思って撮ってみるんですが、あとで見ると、「本当に撮りたかったものなのか……?」と頭を抱えることも多い。今回は、最初の衝動に立ち返ってみて、それに忠実に素材をピックアップしました。それはやはり大変な作業でした。「この映画は果たして完成するのか?」という疑問がありましたし、方針が定まらず、編集するパソコンから遠ざかってもいたんですが、頭のなかではずっと編集のことを考えていました。結果として、「時間」がかなりのことを解決してくれました。撮った直後だと切れなかったものを、時間が経つことで、本当に映画に必要なものかどうかを冷静に見られるようになりました。必要がないと思えば、そこにどれほどお金や労力や、協力してくださった方の努力があっても──ある意味で残酷ですが──切ることができました。

──タイトルの変遷に関しても教えてください。どのようにして、『二十代の夏』になったのでしょう?

タイトルを付けるのが苦手で、なかなか決まらなかったんです。伊豆大島で撮ったのだから、島にちなんだ題名がいいと思ったり、一度は『恋はフェリーに乗って』になりましたが、それを発話するのが恥ずかしくて(笑)。どうも人前で言いにくい。作家自身が言えないのは問題だと思い、あれこれ考えたけど、思いつかなかったんですね。そこで原点に戻ってみました。ジャック・ロジエのフィルモグラフィに、『十代の夏』(1958)という作品があります。原題は『Blue Jeans』ですが、日本では『十代の夏』というタイトルで公開されました。僕の映画は二十代の男女の恋愛の話なので、それをちょっと拝借して『二十代の夏』とするのがふさわしいと思って、このタイトルになりました。

──2010年の作品『濡れるのは恋人だけではない』の予告編を拝見すると、ここにも海が出てきます。お好きなモチーフですか?

もちろん好きですが、海への愛を語れるかと問われれば、そこまではなくて(笑)。育ちが埼玉県で海がなかったので、憧れはありましたが、海よりは船のほうが好きですね。短編を何作かを撮るなかで、「あれ? 全然意図していないのに、自分の映画にはいつも船が出てくる」と気づいて、それならもっと船を撮ってやろうと思い、『お姉ちゃんとウキウキ隅田川』(2012)という作品では、ボート屋さんに船を借りて、その上でダンスを踊るという荒唐無稽なシーンを撮ったこともあります。どうしてかはわかりませんが、僕の映画づくりにおいて、船はひらめくモチーフですね。

──ある土地で撮影する場合、「ご当地映画」を意識するケースもあります。本作で、そのことは考えておられましたか?

伊豆大島で撮ってしまうと、絵葉書のような映画になってしまうんじゃないかとは思っていました。どこにカメラを向けても雄大な自然がうつる。でも、そういう作品には興味がなく、そこで生活していたり、葛藤している人の映画を撮りたかった。どうしたら、絵葉書のような映画ではないものがつくれるのかは考えました。

──11月5日の神戸の上映では、野原位さんとのトークも予定しています。どんな内容になりそうでしょう?

『ハッピーアワー』の制作で神戸に半年間滞在したなかで、いちばん楽しかったのが、三宮駅からKIITOまで20分ほど歩きながら野原監督と交わした会話で、他には代え難い時間でした。映画や恋愛の話題、あとは他愛ない話でしたが、「こんなにわかり合える人がいるんだ」という驚きもありました。何故そう感じたのか、今回のトークを通して考えてみたいなと思っています。

──野原監督と過ごした時間が、高野監督にとっての「ハッピーアワー」だったということですね。

それから、野原監督の作品を拝見すると、女性が主人公であったり活躍しているんですね。僕は女性が主人公の映画を、怖くて撮れる気がしなくて。そこには「女性がわからない」という原因があるんですが、野原監督は平然と撮っておられる。どんな心構えでつくっておられるのか、それも訊いてみたいですね。

──では最後に、思い出に残っている神戸のスポットがあれば教えてください。

元町に萬田屋というホルモン焼きうどんのお店があって、『ハッピーアワー』の撮影中に濱口監督たちとよく行っていました。ホルモン焼きうどんが看板メニューですが、それだけでなく、何を頼んでもおいしい。カウンターだけの小さなお店で、今回また訪ねるのを楽しみにしています。

(2016年10月)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『二十代の夏』公式サイト
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