ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema
2016 12

『秋の理由』 福間健二監督インタビュー

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2013年2月に神戸映画資料館で特集が開催された福間健二監督。その新作『秋の理由』が、12月17日(土)に関西公開を迎える。
60代にさしかかった書籍編集者(伊藤洋三郎)、新作を書けずにいる作家(佐野和宏)、作家の妻(寺島しのぶ)、そして作家の小説から抜け出てきたような女性ミク(趣里)。彼/彼女らがめぐる「人生の秋」のゆくえと、その先に開ける世界を描いた物語は、監督の近作を手がけてきたスタッフによる画面・音響設計も描写を力強いものにしている。神戸での特集から約4年ぶりに、監督にマイクを向けた。

 

──タイトルカットに続く冒頭の食堂のシーンから、「福間監督の映画だ」と感じさせる雰囲気を持っているように思いました。これまでの作品と地続きだという意識はお持ちでしたか?

『急にたどりついてしまう』(1995)のあとに時間が空いて、2008年から『岡山の娘』、『わたしたちの夏』(2011)、『あるいは佐々木ユキ』(2013)と3本続けて撮りました。それは三部作的だったけど、今回はその三部作と、『急にたどりついてしまう』でやったことを合わせた感じになっていればいいなと思いますね。

──『わたしたちの夏』と『あるいは佐々木ユキ』の撮影には、キャノンのEOS5DMarkⅡを使っていました。今回は?

変わらないです。『わたしたちの夏』からずっと同じで、鈴木一博カメラマンが持っているもの。撮影やカラコレの仕方は今までと少し違うけど、「デジタルカメラでここまでやれるか」というところまでやれたんじゃないかな。

──ロングの画も多いですね。レンズには凝られたのでしょうか。

それもあるし、映画はロングショットがどう効くかだと思っているので、「ここはロングを撮らなきゃ」、「ここならロングを撮れる」という場所を必ず見つけるようにしています。申し訳ないんだけど、レンズはキャノンじゃないんだよね(笑)。

──そうなんですね(笑)。さかのぼると、『急にたどりついてしまう』のオープニングもロングショットでした。

そう、あれは望遠で撮ったんですよね。

──本作の構想はいつ頃生まれたものですか?

去年の初めごろは別のものも色々考えていて、5月くらいからかな、以前一緒に脚本を書いていた高田亮君に手伝ってもらって、「膨らみのある物語にしよう」と話して、60代の男、あるいは僕に近い年代の男の友情を軸に考えました。

──実は最初に作品のニュースを見たときは、「福間監督が男の友情を描くんだ?」という、ある種の戸惑いもあったんです(笑)。

僕も本当にやれるのかなと思った。最初は作家と編集者の話じゃなく、「60代くらいで、自由な感じで生きている男ふたり」くらいで考えていたのが、だんだん「作家と編集者」という、僕がわかる世界や人間たちに変化した。でも、趣里ちゃんが演じてくれた若い女の子が中心でもある。それをどううまく合わせるのかもポイントでしたね。

──男性ふたりがメインの物語のなかに、ファンタジーやメロドラマなどの要素も見られますね。

男ふたりのあいだに女性がいるのは、向田邦子さんの『あ・うん』をちょっと下敷きにしたところがありますね。進めていくうちに、懐かしい映画だけど、アラン・ドロンとリノ・ヴァンチュラの『冒険者たち』(1967/ロベール・アンリコ)から少し時間が経ったような話でもあるのかなと思って。その関係に、若い女の子がどう入ってくるか?  作家の書いた小説のなかの存在がこの世に現れたらどうなるか? そういうアイデアを思い付いた。僕の場合は、撮るまでに「こういう人物の話だ」とは決めない。それよりも演じてくれる人の「地」、その人が持っているものを活かしたいし、俳優と自分のあいだに生まれるものを大事にしたい。趣里ちゃんも寺島さんも、「あ、こんなふうになっていくんだ」と感じながら撮れましたね。

──作品世界に関して、撮影前に俳優陣にイメージを伝えたりされたのでしょうか?

aki_02全然しないんですよ。まずリハーサルはしないし、役についての説明もあまりしない。今回はキャスティングに恵まれて、教えられることも多かった。寺島さんは経験もあるし、現場に白紙に近い状態で来てくれた。前もってではなく、その場でつくっていく。テストも出来るだけ簡単にして、ワンテイクでキメようと思っていた。脚本はあるわけだから、あとは演じる人が持っているものがベストの状態で出ればうまくいくんじゃないかと。悪い例で考えると、メイクでつくり込んだりして役を見せようとする。そうではなく、その人本来の魅力が出るかたちで役を演じてもらうのがいいと思うんです。例によって、あまり悪い人が出てこないでしょう?(笑) メインの4人だけじゃなく、みんなの本来のものが出れば、それがいちばんいいね。

──ちょっとした悪事を働く二人組が登場しますが(笑)、絶対的な悪人がいないのはこれまでと変わらないですね。

うん。大げさに言えば、いま世界はどうなっているのか。僕らが60年代後半に夢見たことは全然実現していない。もっと近場で言えば、ここ数年の安倍政権がやってきたことやトランプ大統領の誕生。でも、人間が駄目になっているということではない。いろんなシステムや世界の仕組みのなかで、まずくなっていることは多いけれど、人はそんなに駄目になっているわけじゃないだろうと思うし、それをたしかめたい気持ちがある。だから、どうしても悪い人が出てこなくなっちゃうんだよね(笑)。

──人を見ていくと、暗い空間の中に初老の男がいるのは、ペドロ・コスタの映画に少し似ていて、佐野さんがヴェントゥーラのように見える瞬間がありました。

映画のつくり方として、今回は「闇」や「黒」にすごくこだわった。映画を分解してしまえば、闇と光ですよね。フィルムの時代にはスクリーンに光を遮る黒い闇があったけど、いまはそうじゃなく、ある意味で濃い灰色でしかない。それをはっきりと黒にしたかった。演技面でも、佐野和宏は声が出ないので、アクションや筆談器の使い方などにサイレント的なものを感じられるようになっていると思う。映画が元々何で成り立っているか? そういうものをつねに意識しながらやりました。

──午後の食堂の、ミクとフミ(小原早織)のツーショットも暗いですよね。

微妙なトーンでね(笑)。あれは鈴木一博カメラマンの功績でもある。割と普通っぽく撮っているでしょう? でも、「こういう構図はちょっと無いぜ?」というショットになっている。それに、昼間の2時過ぎや3時過ぎの設定だからといって、特に明るくする必要はない。実際にほとんどその時間帯に撮ったので、その空間がそう見えるのであればそれでいいというね。これも例によって、照明は最小限。ほとんど使っていない。みんな、顔を撮りにいくから変に照明に凝るんだろうけど、無理に撮らなくていいし、セリフだって同じ。「そのときの音が世界の音なんだ」と録るし、映像もそう撮っています。ただ真ん中にいる俳優の顔が明るくうつっているだけなんてありえない。フレームの外にも世界はあって、それを感じさせることのほうが大事。でも、あの食堂のシーンは、実はちょっと心配で。あまり動きを取れない場所なので、一博カメラマンに「これじゃ普通の映画になっちゃうよ」と言うと苦笑いしていたけど(笑)。ミクとフミのショットは、「こんな構図ってあるかな?」と思わせるし、「おっ!」という感じになりましたね。

──食堂だと、フミがキッチンで野菜の皮を剥きながら則子(安藤朋子)と話す縦の構図もいいですね。

あのへんは結構、僕の撮り方ですよね。ふたつ前が、さっき話したミクとフミのショット。そのあとは外で則子さんと宮本が話していて、キッチンのショットが来る。それに続く、宮本が部屋でミクと話しているところまでをワンショットずつ見せている。それぞれかなり普通のセリフなんだけど、どこか不思議に聴こえる。そして、宮本が美咲のことを想ってボーっとしちゃう。そこまでをいい流れにできました。

──編集は秦岳志さん。『わたしたちの夏』から福間監督の作品を手がけておられますが、『あるいは佐々木ユキ』のあとに大阪へ引っ越してこられました。

以前のように頻繁に会えないので、秦くんが大阪で編集したものを送ってもらって、こちらからも意見を出しました。でも東京で2度一緒に作業しているし、たぶん普通の映画より、編集者と監督との仕事の時間は長いと思いますね。秦くんには本当に助けられました。

──その点でも「編集者と作家の映画」だったんですね。秦さんとは、どのようなやり取りがあったのでしょう?

僕が行き詰まるたびに、必ずひとつ、「じゃあ、こっちにこれを持って来たらどうでしょう。やってみましょうか?」とアイデアが出てくる。それがいいんですよ。

──ちょっと不思議な実景のつなぎがあります。前半の夜の高架下。あそこに映るのは、宮本の出版社の一角にある編集プロの女性と同一人物ですか?

安部智凛さんが演じた編集者・矢崎だね。「矢崎、あるいは『矢崎に似た人』でもいいから」と言って、同じように2回歩いてもらって撮りました。

──歩いている画を反復していて、錯覚を覚えるようなつなぎです。地面と空のショットで構成した、タイトルカットまでの流れも個性的ですね。

空は誰でも考えるだろうけど、それでもあんなにいい画ばかり撮れないと思う。それに対する地面は、空とはまた違って、ものすごく表情豊かなんだよね。空から降りてきて樹のあいだから現れたミクの存在が、一方では現実世界にちゃんと生きていて、それらをつなぐ役割になっている。空と地面を撮ることで、映画もそのあいだを自由に行き来できる感じになったかな。

──ミクは村岡の夢にも登場しますが、そこには難民と思しき人たちがひしめき合っている。監督は、『国境を越える現代ヨーロッパ映画250 移民・辺境・マイノリティ』(河出書房新社、2015)に寄稿なさっているので、映画と本との関連を感じました。

そうですね。準備稿を佐野和宏に送ったあと、彼からの出演の返事を聞かないまま、ヨーロッパへ向かってスロベニアとセルビアに行きました。そのときのベオグラードには、本当にあふれるように難民がやって来ていて、それを見て感じるものがあった。日本に戻って佐野和宏に出演OKを貰うと同時に、「この映画が何のためにあるのかをちゃんと考えなきゃいけない」と言われました。そこで「そうだ!」と思って、船倉のシーンを考えて、作家が夢のなかであの場所に行くようにした。具体的なつながりを説明できないんだけど、佐野和宏に出てもらうこと、実際に声が出ない彼が声を失った作家になること、そして世界のどこかの底辺に存在している人たちとがつながって、あの場面を考えることが出来た。佐野和宏自身もノッてくれてね。あそこは村岡にとって天国のような場所でもある。船倉のシーンは劇中に3回あって、最初は入っていくと誰かが毛布を貸してくれるけど、そのあとは入れないようになっていく。

──村岡の精神状態の推移に沿って変わっていきますね。作品全体を通して、ヨーロピアンな趣があります。

ヨーロッパから戻って、どのタイミングだったか覚えてないけど、ヨーロッパ映画の色には独特の暗さや色彩の強さがあるから、それを出そうと一博カメラマンと話しました。

──そして、これまでの作品に続いて森も舞台として使っておられます。

森の奥には何があるのか。闇や死の世界だったり、人々の涙や悲しみが集まるところだとして、そこへ主人公たちが入っていく。でも行きっぱなしじゃないのが、僕の映画の骨組みとしてある。今回はそのことを強く感じました。

──その要素は、『わたしたちの夏』にもありましたね。行きっぱなしじゃなく、帰ってくるという。

そうだね。脚本にそう書いてあるから帰ってくるわけだけど、見ている人もそこに入っていってほしいし、本作では村岡がローブを持ってさまよえば、「あの男をこちらへ呼び戻したい」と思ってくれるといいですよね。反対に、ミクが森に現れる場面。その前には村岡がどこかを見ている顔のショットがある。「何かが現れてほしい」と思いながら見ていると、その夢が実現していく。そういう映画が大事だし、それが映画だと思いながら撮っていますね。

──「夏」と「秋」や、メインキャストが女性ふたりと男性ふたりという違いがありますが、本作は『わたしたちの夏』を語り直しているようにも受け取れました。特に生と死をめぐって。

人間には生と死があって、それが喜びと悲しみや、笑いと涙になる。本作では、それが普通の映画のようには出てこないけど、そういうものを特に大事にしました。『わたしたちの夏』は、死んだ男を女性が追っていくところに神話的な面があった。でも今回は、普段生活しながらもどこかで死を意識しながら生きているという描き方なのかもしれない。男性ということでは、宮本と村岡は、『わたしたちの夏』で鈴木常吉さん、『岡山の娘』で入海洋一さんが演じてくれた男と性格的に重なる部分があって、まったく別のところから生まれたわけじゃない。つながる世界がある。ただ今回は、男が追いつめられて動き、人生を「生き直そうとしている」ところが違うかな。

──生と死、光と影の境でいえば、ミクが公園を横切るのを俯瞰で撮ったシーン。画面の右半分は建物の影に覆われて、左半分には光が射している。その境目あたりをさらに白線が区切っていますね。音の使い方も面白い場面です。

あれは屋上から撮っているので、地上の音も録れていたんだけど、音響の小川武さんに「公園にいる人間ひとりひとりの音を考えてほしい」とお願いしたら、なんと「空にも音がありますよね」って。それで飛行機の音が入っているんです。飛行機の音があって、足音がある。「世界ってこうだよな」と感じられたし、影の中にミクが入っていくと、白線が生と死の境目のようになっている。あれは急に思い付いたんだけど、撮れてよかったですよ。

──終盤にある宮本と美咲のシーンも、そこに無いはずの波の音を当てています。

「地の果て」って、そういう音なのかなと思ってね。あそこには車の移動がありますよね。いつも乗り物の中から撮ったのを入れますが、今回は誰でも撮りそうな平凡な車窓の風景。仕上げの段階の話だけど、村岡がさまよう夜の闇は、わずかな照明で撮っている。普通は明るくするのに、そこもやはり逆のやり方で、「顔がわからなくてもいい」くらいの暗さでいったら、いい黒が出たんだよね。それに応じて車窓風景も、もう少し明るく撮れていたのを黒くしている。村岡が闇の奥に行くのなら、宮本と美咲もそこへ行かないと。そう思って波の音を付けました。そのあとに来る手のシーンにも、うまく活きたと思っているんだけどね。

──本作は顔でなく、手のアップを積極的に撮っていますね。

aki_03伊藤洋三郎さんも趣里ちゃんも、いい手をしていてね。ミクが村岡の背中に右手をあてているところを撮ったら、それが何かを強く感じさせる手だったので、それからは意識して手を撮りました。美咲が流しで手を洗う画のあとに、村岡が鉛筆で書く手とかね。それから、宮本と美咲の関係も手で表している。『あるいは佐々木ユキ』に足を使ったシーンがあったので、今度は手だと考えていたけど、キメられるかどうかはやってみないとわからなかった。でも伊藤さんと寺島さんが、手だけで多くのことを語ってくれました。夫婦喧嘩のシーンもそうだけど、ああいうところは絶対にワンテイクでキメようと思っていた。テストもそれほどせずに「さあ、やってください」なんだけど、見ていて感動するくらいに演じてもらえましたね。

──あの手の甲のシーンは、シナリオにはどのように書かれていたのですか?

「手で」とは書いてなかったですね。ヒントにしていたのは、ロウ・イエの『天安門、恋人たち』(2006)の、やっとホテルでふたりきりになれた男女が結局セックスできなくて、男が煙草を買いに出て行ってしまう場面。それに近い状況だけど、違う表現をしたかった。あそこは宮本と美咲の切り返しになるだろうから、美咲の顔を受ける宮本の顔を、部屋のなかじゃなく、彼の心のなかをあらわすような植物の前で撮っていたんです。その受ける顔を先に撮っていた。その前に手と、美咲の顔が来ると考えて撮っていきました。撮影前のシナリオには、ふたりがホテルに着いてからのあれこれも書いていたけど、その通りに撮ると半日くらいかかってしまう。その必要がなかったというか、「テーブルと障子さえあれば撮ってしまうぞ」という勢いでしたね。

──レポートによれば、撮影は6日と……

6日と30分(笑)。

──早いですよね(笑)。88分という尺は、これまでの監督作とほぼ同じ。しかし、三部作に比べてシナリオが薄くなっているような気がしました。

そうですね。セリフが少ないというより、シーンとして考えたときに大事なものだけ撮ればいいと思っているので、そこに行くまでの準備的なものや、その次へつなぐためのものは基本的にいらない。さっき挙げてくれた、キッチンで野菜の皮を剥きながら話すショットの前後もそうで、バン!といってしまう。それで映画として大丈夫なのかと、一博カメラマンがいつも心配してくれます。でも彼が付いてくれているから、僕は撮りたいものを撮っていくスタイルなんですよね。その意味では、思い切りがよくなっているのかもしれない。みんな、見る人がわかってくれるかどうか心配するけど、そんなに心配しなくていいと思う。『君の名は。』(2016/新海誠)も、わからなくても惹き込まれているじゃないですか。本作が完成してだいぶ経ってからあれを見たけど、心配することはないと思えた。引っ掛かる部分があるとしても、そこで親切になることは、ある意味で見ている人を馬鹿にしていることにもなると思う。いままでは、2度3度と見てくれる人がいるのが嬉しい一方で、「1度見ただけでわからないのは駄目なのかな」と考えたけど、「いや、2度3度見たくなる映画でいいんだ」と捉えられるようになってきた。でも、それを自然な流れのなかでやりたい。今回は普通でない要素が色んなところに入っているけど、全体は自然な流れで編集したかったし、ある程度実現できたと思っています。

──音も編集も説明的ではないですが、独特のリズムがあります。

一博カメラマンも、小川さんも秦さんも組むのはこれで3本め。彼らを信頼しているから、僕が心配しなくてもいい部分も大きい。いい画と、いい音と、いいつなぎが必ず来ると思ってやれる。「低予算、短期間撮影でよくやれますね」と言われるけど、これだけのレベルのスタッフと続けて撮れている自分ほど恵まれた人間はいないかもしれない。小川さんはこれまで現場にいなくて、現場の音を整えてつくってくれていたけど、今回は現場にも来てくれた。新宿の雑踏を撮るときも、欲しいものをふたりは知っているから、僕はすることがない。新宿の実景の最後も三脚を立てて撮っていて、そんなことが出来るのは僕たちくらいかなと思う。いま、無許可の隠し撮りは誰でも出来るけど、三脚は立てないからね。

──『あるいは佐々木ユキ』のモノレールのシーンも、車内に三脚を立てたんですよね(笑)。

ヌーヴェルヴァーグの手持ちカメラが新しいと言われてから時代を経て、いまはそういう映像をスマートフォンでも撮れてしまうのを、きっちりと固定でやっている。一博カメラマンとは、撮影中に一回くらいは言い合いになるけど、本当によく撮ってくれるなあと思います。すごいですよね(笑)。

──監督の仕事として、現場で最も重点を置かれたのはどこでしょう?

まずスケジューリングですよね。チーフ助監督の仕事でもあるけど、今回は何作も監督をつとめている森山茂雄くんが就いてくれた。光を狙っていくシーンを朝に撮って、いい時間に昼食を食べて、そのあとは出来るだけ早く終わるようにする。無駄な待ち時間をつくらないようにね。撮影をおこなったのは去年の11月で、この時期は日が短いでしょう? 逆に言えば、夜のシーンを早く撮れる。だから、遅くなって9時くらいまでかかった日は1日だけ。あとは7時半とか、早い日は5時には終わる。そういう一週間のなかで、最後を先に撮ることになった。それが活きる撮影スタイルもあるんだなと思ってね。朝に、村岡が美咲のいる食卓で水を飲む場面。喧嘩の翌日という設定のデイシーンだけど、それを撮った日の夜に喧嘩を撮った。どんなに喧嘩をしても、次の日の朝には、あのようになっている。ふたりが本当に夫婦になってくれているんですよね。セックスシーンを撮っても夫婦になれない映画が多いけど、朝のふたりはお互いを意識できている。喧嘩も、本当は段取りさえきっちりしてなくて、寺島さんに「やれそうなら本を投げてください。無理ならいいです」程度しか伝えてなかったのに、しっかり投げてくれてね(笑)。ワンテイクの醍醐味も感じましたね。

──そのような撮り方でしたか。本で思い出しましたが、エンドクレジットで、ふたりの作家の引用があることに気づきました。

ちょっとパクリっぽく使っているんですよね。趣里ちゃんの「私、空を見るのが好き」と「好きなとき、好きな場所に戻ってくる」がル・クレジオ。それから木村文洋くんが演じる青年の「人に微笑みかけて、受け取った笑顔はこの世界からの贈りものだ」というのはオースター。黙っていてもいいようなものだけど、そこからヒントを得たし、ふたりに敬意を表してですね。

──作家というと、村岡の姿からは、監督のご友人だった佐藤泰志さんを想起してしまいますね。

作家の話をやるとなったときに、あまり佐藤泰志に引っ張られたくないと思ったけど、僕の知るなかで最も敬意を感じる作家が彼なので、どうしても引きずられる。撮影をおこなった国分寺や国立も、「ここで彼があんなこと、こんなことをしたよな」と意識せざるを得ない。作家というよりも、男の存在のあり方として大きいし、佐野和宏自身も、自分の演じる村岡と佐藤泰志とのつながりを意識した部分があると思う。でも佐野和宏の肉体で、別の作家として生きて、こちら側へ帰ってきてほしかった。

──描かれる出来事や語られる言葉にはほろ苦いものもありますが、映画そのものは幸福なムードを持っている。自然に醸しだされたものですか?

ひとつにはみんなで佐野和宏を祝福したい気持ちが大きかったんでしょうね。(咽頭癌で)「危ない」と言われていたところから、この世界へ戻ってきて、監督・脚本・主演作『バット・オンリー・ラブ』(2016)も含めて3作が生まれた。それを祝いたい想いがあったし、この映画に出てくれた佐藤寿保、サトウトシキ、瀬々敬久、そしていまおかしんじもそうだったと思う。木村文洋も学生時代に佐野和宏に出会っている。彼がまだやれるぞということへの、応援の映画にもなったと思いますね。

(2016年11月)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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