インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『自由なファンシィ』 筒井武文監督インタビュー

→特別先行試写会『自由なファンシィ』
5月14日(日)16:30〜

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ひたむきな男と、幾つもの秘密を持ち、彼を戸惑わせる女──。
同棲するカップルのすれ違いを軸にした物語に、これまでの監督のキャリアにおいてなされてきた実験──映画と演劇、ドキュメンタリーとフィクションの融合──が溶け込み、さまざまな表情を見せるロマンティックな恋愛映画『自由なファンシィ』(2015)。劇場公開が待たれる筒井武文監督のこの作品が、5月14日(日)に関西で初上映される。『孤独な惑星』(2011)で描いた世界を引き継ぎながら、より深い眼差しで〈男と女〉、そして〈孤独〉を見つめた監督にお話を伺った。

 

──演劇を組み込んだ本作の構想は、どのように生まれたのでしょう?

遡れば、『学習図鑑』(1987-89)の頃からやってみたいテーマでしたが、今回は松平英子さんと組むところからスタートしました。彼女はリヴェットが大好きな人で、ご自身も演劇を始めて、という流れがありました。本作は立教大学の研究プロジェクトの一環としてつくられています。松平さんとの出会いがあり、そのプロジェクトで撮らなければいけなくなったときに、「演劇の映画にしよう」と思いました。

──松平さんは本作の脚本も書かれていますね。

彼女が幾つか企画を出し、最終的にこのプロットに行き着くわけです。そこで演じられる演劇について、それこそシェイクスピアからラシーヌ、ジュネ、ピンターまで考えて相談しました。すると松平さんが、図書館で古い世界名作戯曲集のなかから、スタンリー・ホートンの『自由なファンシィ』を見つけてきました。全体を演じても25分かからないくらいなので、映画に組み込むのによい長さだし、しかも内容は浮気をめぐる話ですからね(笑)。「これはいいんじゃないか」と思ったんです。この戯曲が見つかったことで、この映画は成立した。彼女の功績は大きいですよ。

──さらに久保寺晃一さんも脚本執筆に加わっています。3人による脚本づくりはどのような形で?

松平さんの初稿がまず面白かった。ただ予算に収まらない。そこで僕の役割として、効率的に少ない移動で低予算でも撮れるようにしました。でも、逆のこともおこなっています。後半にある破天荒な展開、「えっ!? こうなるの?」というところは加筆しました。制作プロダクションに渡して、ロケハンやキャスティング等、プリプロを始めてもらいました。とはいえ、まだ満足いかなかったので、東京藝術大学大学院映像研究科の脚本領域にいた久保寺君に入ってもらったんです。彼は、お笑い的なものが好きな人。女性が書いた脚本のせいか、女性の描写に比べて相手の男性が薄かった。だから男を強くしてもらうことを第一にお願いして、あとは得意のコメディ要素を入れてもらおうと。そうしてフィニッシュの役割を担ってもらいました。その頃は、松平さんに役者に専念してほしいということもありました。どんな映画にするか模索した段階では松平さんと僕、撮影直前は僕と久保寺君とのキャッチボールで仕上げました。

──今回はヒロイン像が、『孤独な惑星』とかなり異なる印象を受けます。

違いますね。『孤独な惑星』の真里は、言ってしまえばすごくいい子ですよね。

──真里には「勤勉さだけが取り得です」というセリフもありました。

今回はどちらかといえば悪い子(笑)。ファム・ファタールは言い過ぎだとしても、「プチ・ファム・ファタール」をやりたかった。ヒロインのゆかりは、男をちょっと惑わせてしまう女性ですね。ただ、単純な悪女でもないんですよ。男を取っ替え引っ替えしているかもしれないし、利用して色々貢がせているかもしれない。だけど彼女は彼女なりに、自分が何をやればいいのか必死で探っている女性でもあるわけです。だから、日本舞踊をやってみたり演劇をやってみたりと「自分って何だろう、何をすればいいんだろう、どこに居ればいいんだろう」と模索している。単純なファム・ファタールではない。彼女にはいろんな面があり、そんな自分をわからずコントロールできない。演じる松平さんにも「シーンごとに別人格でまったく構わないよ」と言いました。会う人物によって対応が変わり、違う顔を見せる。ひとつひとつの瞬間が、彼女にとっては真実なんです。

──彼女が主導権を握っているカップルの設定を教えていただけますか?

fancy_w05基本設定として、彼女は1年ほど前に友人の千尋の部屋に転がり込んで同棲を始めた。ただ、その部屋の間取りはリビングがあって個室はひとつ。千尋の個室を乗っ取っちゃったんです。彼はリビングの隅っこにマットレスを敷いて眠る。だから一見すると、千尋のほうが居候しているような、力関係が逆転した雰囲気なんです。犠牲的な姿勢で彼女を迎え入れている、ふたりはそういう関係ですね。

──千尋が部屋の主に見えないですよね。

あとで気づいたんだけど、実は僕が『孤独な惑星』で撮ろうと思っていた話は本作に近いんですよ。『孤独な惑星』の発端は、映画美学校のコラボレーション実習。シナリオコンペで「結婚している男女、もしくは同棲を始めた男女が何か行き違って、最終的によりを戻すか、破局してしまうホンを書いてください」と課題を出しました。結果的に選んだ宮崎大祐君の脚本は、その設定が隣り合った部屋で書かれていた。ひとりで暮らしている女性主人公が、隣で同棲している男性と出会う話でした。本作では、その隣のカップルの部屋が描かれていると思えばいいかもしれないですね。これもまたあとで気づいたことですが、『孤独な惑星』のコンペで、僕は最後に2本残したんです。もう一本は、ラストの結婚パーティでドタバタが起こる構成だった。そういうこともあって、当時の僕が抱いていたイメージは本作に近い。宮崎君の脚本が魅力的だったので、『孤独な惑星』を選んだんだけれども。

──本作では、小説家の出版記念パーティで演劇が上演され、そこでドタバタも起こる。あのドタバタに監督の破壊願望が垣間見えるように思いました。

はい。僕はものごとが完成していくとブチ壊したくなるという。何ですかね……、始末に終えない自分の欲望があります。完成されるほど壊したくなる。これはしようがないですよね(笑)。

──そこが素晴らしいのですが(笑)。『孤独な惑星』のあとには、ドキュメンタリー『バッハの肖像』(2010)を撮られています。そのことも本作に何らかの影響を与えたでしょうか。

fancy_w03今回は『孤独な惑星』プラス、『バッハの肖像』なんです。つまり劇映画だけど、劇映画的に演出するシーンと演出しないドキュメンタリーとがある。日本舞踊と、演劇のリハーサルと本番パートはまったくのドキュメンタリー。反対にカップルの日常生活はフィクションです。『バッハの肖像』で、ライブを5台から8台のキャメラを配置して撮った経験が生きました。

──ドキュメンタリーとフィクションの融合は、初期の頃から監督の映画づくりのひとつのテーマだったかと思います。特に今回はどのようなアプローチを?

最初はドキュメンタリーとフィクションが並行して、異質なものが互いに干渉し合い、演劇パートの本番でそのふたつが合流する構成をイメージしていました。撮り方もドキュメンタリー部分は複数のキャメラ、フィクション部分は一台のキャメラと使い分けている。そういう撮り方の違いに、見る方は最初のうちは少し違和感を覚えると思うんです。それがうまく混じり合うか、水と油で終わってしまうのか? そういう実験でした。

──おふたりに求める演技も異なっていましたか?

劇映画部分で岩瀬亮さんが演じた千尋は完全にフィクションの人物で、コメディの要素を担ってくれています。それに対して松平さんは、ドキュメンタリー部分の主役であり、劇映画部分でも対等の主役です。ふたりは演技スタイルがまったく違います。共存させて、どう相互影響を与えていくかという実験でもありましたね。異質な要素を掛け合わせて、それが現場でどう出るかという駆け引きをこれほど徹底的におこなったのは初めてですね。『孤独な惑星』で綾野剛さんが、本格的な映画出演が初めてだった竹厚綾さんを最初はリードしていたという面に少し近いところもあるかもしれない。岩瀬君が引っ張ったところが無いわけではないけど、むしろ本作の序盤は「異質なものの共存」になっています。

──千尋とゆかり、どちらも主人公として解釈できるようになっていますね。

どちらを主人公とするか? 観客によって映画の見方が変わっても構わないつくりです。脚本家に男性と女性をひとりずつ起用したのも、結果的にそういうことでしたね。

──美術や撮影などについても伺いたいのですが、千尋の部屋のデザインはどなたが?

デザインを手がけてくれたのは、制作当時、藝大1年生の玉林亜理さん。制作開始の1ヶ月くらい前の授業でセットデザインを学んで、初めて書いたのが本作のセットです。彼女がイメージしたのは、玄関からリビングのドアと、奥の個室が向かい合っている空間。立教大学の研究プロジェクトでは、「映画(2D)の奥行き表現」がテーマのひとつでした。扉を開けることで奥行きが得られますよね。それで、ああいう細長い部屋を彼女がデザインしたんです。

──今回は扉が大きな役割を果たします。

扉が重要になるとはシナリオの段階から思っていましたが、出来たセットを見て、創作イメージをすごく搔き立てられましたね。

──鏡もそうで、監督の1982年の作品『レディメイド』を思い起こさせます。

ゆかりの部屋には鏡が向かい合わせに置かれていますね。『レディメイド』のことは意識していなかったけど、演劇もそうだし、僕にとってはやっぱりリヴェットの存在が大きい。『狂気の愛』(1969)のカフェのシーンの鏡像や、『アウト・ワン』(1971)の最後のほう、謎の館の一室にはやっぱり合わせ鏡があって、ビュル・オジェが無限に増殖するカットがありますよね。

──増殖した自分を見て振り返る場面だったでしょうか。

今回はどうせリヴェット的だと言われるだろうから、堂々と『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)のフランス版ポスターも使っていますが、リヴェットの映画は、ほとんどが本番直前に舞台が挫折する。リハーサルの過程が大事なんですね。でも僕は本番もライブのようにカット無しで、その戯曲がどういうものかもわかるように撮っている。そこが違うと言いたいですね(笑)。

──強調したいポイントですよね(笑)。撮影は谷口和寛さん。監督作品には初めての参加です。

今回は本当に超低予算映画だったので、成立させるためには、学生だけでなく先生方も含めて東京藝大大学院の全面協力が必要でした。いわゆる自主制作映画的なつくり方では無理で、スタジオや機材面、そしてかなり専門的なスタッフが必要だと思っていました。だから、各領域の教授陣にメインポジションに就いてもらうようにお願いしました。プロデューサーの桝井省志さんもそうですし、美術は磯見俊裕さん、音楽監修は長嶌寛幸さん、撮影は北野武監督作品のキャメラマンである柳島克己さん、愛称「ジミーさん」にと当初から考えていました。ところがスケジュールを組んでみると、ジミーさんがすべての日に参加できないことがわかったんですね。本作は8日間で撮っていますが、そのうち2、3日は来られない日がある。そこで、ジミーさんの助手を長年つとめてきた谷口和寛さんを推薦してくれたんです。本作は谷口さんの長篇劇映画デビュー作になります。今回は事前の準備期間が2週間くらいしかなかったし、ロケ場所やセットもギリギリまでどうなるか分からなかったので、現場でのリハーサルがまったく出来なかった。「すべて現場でやるしかないな」と。そこで谷口さんには助けられました。芝居が判るキャメラマンなんですよ。リハーサルを見て、ポジションをワンショットで収められる位置に大胆に持ってくるんですよ。

──ほかにも新しい試みはありましたか?

fancy_w02演劇の演出家役として奥瀬繁さんに入っていただきました。事前に演劇のリハーサルをするときも、僕は口を出さずに奥瀬さんに演出してもらいました。すると、色んな注意が出るんです。舞台なので「観客に対して下を向いてはいけない」「ふたりが向かい合って話す場面でも観客に顔を向けてないといけない」とかね。要するに、舞台としての演技をリハーサルで付けてもらったんです。それを聞いているうちに、後半にそういうスタイルを積極的に取り入れたら、映画としても面白くなるだろうなと思った。そういう部分で影響を受けました。

──後半の部屋のシーンにそれが出ていますね。過去にも『学習図鑑』で舞台公演を撮られていますが、そのときのキャメラは1台でしたよね。今回は?

演劇のリハーサルシーンは3台のキャメラで撮っています。基本は演出家ナメの舞台──まだそこに舞台は出来ていないんだけど──にいる演技者、演技者への寄りのキャメラ、そして演出家の側を撮るキャメラがあって、たとえばリハーサルが30分だとすれば、3台を回しっぱなしにしてもらうんです。それを編集でどこを使うか? 時間差があるところを連続しているように編集した場面もあります。映画の観客が本番のどこを見ればいいのかも考えたし、結局、編集で発見していくということですね。撮っているときはどうなるかわからないわけですから、即興ということも含めて緊張感がありました。

──そして今回はデジタル撮影です。

もちろんフィルムで撮りたかったんですが、予算などの制約で難しかった。デジタルを使わないといけなくなったときに、その利点を生かそうと思いました。ドキュメンタリー部分では、日本舞踊は2台、演劇のリハーサルは3台、本番は5台のキャメラで撮りました。フィルムだとそんな贅沢はできないですからね。そして、これは柳島さんの提案だったかな。優れた面もあるものの、色調整などが大変なREDというキャメラを最初はメインで使おうとしていたんだけど、もっと小さなキャメラで撮ったんですよ。5台撮るときに、1台だけ画質が良くてあとは落ちてしまうんじゃなく、どれでもいいように、同じ小さなキャメラで撮ることにした。すると現場の機動性も上がるんです。画質も悪くない。「こんなに小さくてもこれだけのものが撮れる」という発見もありました。メインキャメラは谷口さんだけど、サブをジミーさんが回すというすごく贅沢なこともありました。

──そんな贅沢な現場でしたか。

ジミーさんは、移動ショットの移動車を押していることもありました。なんて贅沢なというね(笑)。ただ、いちばん大変なのは演劇の本番でしたね。普通なら撮り終わらない。でも絶対リテイクせずに、一発でと決めていたので、2回だけです。最初は舞台の寄り引きだけを、センターと左右斜め2台の5台で撮りました。次の本番は観客も入れて、パーティから小説家の挨拶まで含めたロングテイク。30分近くあるけど、それぞれ「何が起ころうと一回しか撮りません」と宣言していました。だから、撮影自体はカメラが回り始めてしまえば30分で終わるんです。ただ、編集には少し苦労しましたけどね。

──演劇部分の素材だけでもかなりありますものね。

選択肢が10テイクあるということですよね。もうひとつデジタルの利点を挙げると、コマ伸ばしなども自在に出来る。早めたり遅らせたりできるので、気づかれないように速度調整をしています。

──でも今回は、編集のクレジットに監督の名前がない。それが意外でした。

はい。今回は、『バッハの肖像』の編集者のひとりであり、ドキュメンタリー『異郷の中の故郷──作家リービ英雄 52年ぶりの台中再訪』を撮った大川景子さんにお願いしました。

──大川さんに任せた理由は?

フィルムだったら僕が自分で編集しただろうけど、そろそろ目も悪くなってきたのでね(笑)。後継者を育てないといけないし、一度自分の手を離して人に委ねることも必要だろうと思った。大川さんは、『バッハの肖像』の演奏部分、つまり複数キャメラの編集を見事にこなした経験を買いました。現実的には2014年の12月に撮影、年明けの1月に編集、2月にMAで、1・2月は大学の受験期間です。その合間を縫ってチェックとかしているわけで、自分ですべてを編集する時間は到底なかった(笑)。

──大川さんは、諏訪敦彦監督の『ユキとニナ』(2009)や『黒髪』(2010)の編集も担当された方ですね。照明に関してはいかがでしたか?

谷口さんが、堀紀博さんを呼んでくださいました。堀さんは、CMの仕事が多いのですが。大胆な光でしょう。堀さんが来られない日は、浦田寛幸さんが担当されましたが、ふたりの持ち味が微妙に違うことが、本作の多面性に貢献しています。美術の玉林さんと柴田正太郎君が、ああいう細長い窓をいくつも使ってくれた。そこからの光を効果的に使えるように、照明部がうまく生かして、空間に多義的な意味を加えてくれましたね。単に時間の移り変わりだけでなく、象徴的なものまで光で表現してくれています。リアリズムと、リアリズムを超えたギリギリのところを照明・撮影部の力で作ってくれた。ただの作りものに見えてしまうと駄目で、僕ひとりだと突っ走ってしまうんですよ。そこを技術の力で助けてもらいました。

──そして、ドラマパートでも演劇でも重要な役割を果たすのが手紙です。それについてもお話し願えますか?

fancy_w04戯曲が大きいですね。『自由なファンシィ』という戯曲は、駆け落ちしてきた人妻と男がホテルにいて、その人妻が夫に別れの手紙を書くところから始まります。手紙が大きなモチーフになっている。本作の序盤の夜、千尋がゆかりにプロポーズします。この部分は、実は当初やろうとしていたアラン・エイクボーンからの引用なんです。「わたし、手紙を書かなくちゃならないの」というセリフはエイクボーンの引用。これくらいは言っても大丈夫でしょう(笑)。そこでは答えをズラしているんですよね。そのあとの千尋のセリフもエイクボーン。ゆかりは、「読んだ?」と自分の部屋に置いていたエイクボーンの戯曲を持ってきて見せる。でもこれは読んでなくて、偶然に戯曲と同じセリフを言ったという設定。ただその日、千尋はゆかりの部屋に入っているので読んだかもしれない。これもわからないんです。

──ちょっとゴダールに似た引用かもしれないですね。

ゴダールはこういう引用をしますね。ゆかりが失踪すると、別れの手紙が残っています。その手紙には、戯曲の別れの手紙と同じことが書かれているから、「えっ?」と思うじゃないですか? 出てくるのは外国人の名前ばかり。でも封筒の表には「Dear Mr.Tanoue」(千尋へ)と書いているわけですよね。千尋にあてているのに、「それがなぜ戯曲の駆け落ちの手紙なんだ?」という。深読みすると、メタファーとしてこの手紙を入れたとも思えますが、当初は別れの手紙を書いたゆかりが入れ間違えたという設定だったんです。終盤、ゆかりの「言えることは全部手紙に書いた」というセリフがありますが、実際に書いているんです。だから、この映画は取りようによって解釈が様々に分かれる作品なんです。『孤独な惑星』ではそれを演技や表情、仕草で見せたけど、本作では言葉、文面でおこなっている面がありますね。

──クライマックスに関してもおきかせください。以前、『孤独な惑星』についてのインタビューで、「他者を理解したときに、自分はその他者にとってどういう存在なのかを認識する。そこで、お互いを理解した瞬間にふたりは別れを迎えるのが二作の共通テーマ」と伺いました。本作でカップルが迎える結末は、『孤独な惑星』とはやや異なるものです。

fancy_w06『孤独な惑星』とは男女の役割が逆転しているかもしれないですね。『孤独な惑星』で魔的な力──というと少し大袈裟かもしれませんが──を持っていたのは、綾野剛君が演じる哲男でしたからね。

──千尋の最後のシーンは、少し悲しげでもあり前向きでもあり……。

千尋はゆかりを理解することでまた、今の自分には支えるだけの器量がないこともわかって、彼女を解放するんですね。彼自身も自分の世界を広げよう、再生させようとしているシーンですね。

──その描写も余韻を残しますが、さらに大きな展開がありますね。インタビューのはじめに監督が「破天荒な展開」とおっしゃった、ゆかりの部屋のシーン。ここには驚かされました

たぶん、この映画のいちばん変なところはあそこだと思うんです。普通だとその前でストーリーは終わるのでしょうが、本作ではもっと女性とは何かを追及したかったんです。女性が悩んで模索する姿、彼女が自分の表現の可能性を発見してゆく過程を撮りたかった。空っぽのゆかりの部屋は、彼女の内面でもあるわけです。自分で相手役も含めて『自由なファンシィ』を演じ直しているし、日本舞踊の形を探るんだけどうまくいかない。そこに何かしらの啓示が降りてきて扉を開けると、何にも無いはずの扉が音を立てて、そこで彼女は日本舞踊と演劇との接点を見つける。あそこで、「藤娘」で手紙を書くシーンから、彼女が千尋に手紙を渡すシーンにつながっていくんです。

──ひょっとして、その展開も直前まで決まっていなかったのでしょうか?

それも撮るときまで全然決まっていなかった。当日の朝にひらめいたんです。シナリオにはもう少し抽象的な、「彼女のなかで 伸縮を始める」というような書き方をしていました。すごくイメージ的な、周りを困らせる書き方ですね(笑)。実際に部屋を縮めて撮るパターンと、セット替えして広げて撮る2パターンを美術さんにお願いしていた。プランとしては、いろんなアクションつなぎで部屋が大きくなったり小さくなったりする、カット割りも多い撮影が大変なシーン。でもそれをやっていると現場が終わらないし、僕がテクニックに逃げているということでもあるんです。撮影前夜に、本質的に何を表現するべきか悩みました。スタッフとキャストに明日やることをうまく言えなくて、当日の朝、宿泊していた安宿の脚も伸ばせないような窮屈な浴槽に浸かって、胎児のように身体を丸めていたときにひらめいたんです。別の日には、もう少し浴室の大きいホテルに泊まっていたんだけど、その環境だったらひらめかなかったと思う(笑)。

──窮屈な環境が、拡がりのあるアイデアを生み出したんですね。

それで、部屋を縮めるというのはやめました。今回は小細工する必要が無いと思ったので、部屋の大きさは元のままで、彼女の模索がうまくいかない姿を撮ろうと決めた。そこで部屋が拡大していく、つまり彼女の内面が開かれて道が見えていくシーンで、松平さんには「この空間で思い切りやってみてください」とお願いしました。

──言葉では追いつかない描写でもあるので、ぜひご覧いただきたいですね。そこで起こる「分裂」も大胆です。

相手によって違う表情を見せる彼女の多面性を、「三人のゆかり」というモチーフで表現してみました。僕が本作でいちばん撮りたかったのはあそこなんです(笑)。

──筒井監督の分裂性を象徴するシーンでもあります。あのシーンは音も独創的ですが、どのようなイメージで付けられたのでしょう?

松平さんが最高の演技をしてくれたので、音をどう付けるかは悩みました。何も無いのもありかとも思ったんです。その前、彼女が普通の大きさの部屋で模索している場面は、音を全部切ってしまった。だから同じようには出来ないんだけど、普通の音は使えない。そこでイメージとして、彼女が内面で世界一周をしている。あるいは、「宇宙に飛び出してもいいんだ」というくらい、あらゆる音を探してもらいました。水音、空港の音、飛行の発着音、あとは岩石の落ちてくる音や港の音も入っている。この場面に関しては、鈴木昭彦さん(録音・整音)に用意してもらった効果音と、音楽担当のほうでミュージック・コンクレート的に作ったもらったものとを混ぜています。音楽の中野弘基さんを、「宇宙に飛び出してもいい」と呷っていました。やり過ぎなんじゃないかと思いながらでしたが、「やれるところまでやっておかないと絶対後悔する」とも思ったので。観客のみなさんの審判を待ちますが(笑)。

──そこは監督にとってもお楽しみということですね。それから面白いのが、中国三人娘が成瀬巳喜男監督やブルース・リーについて語る場面。このような直接的な映画への言及は、初めてのことではないでしょうか?

これは心境の変化なのかな。歳を取ったせいかもしれない。そろそろ好きな映画のことを語っておいてもいいんじゃないかということですよね(笑)。リヴェットのポスターもそうですし、成瀬やブルース・リーの話もそう。ただし、リヴェットのポスターは意識的に使いましたが、成瀬やジャッキー・チェンの話には僕はまったく関与していないんです。あのシーンは、助監督に準備を頼んでおいて、久保寺君と三人娘と相談してセリフをつくってもらったんです。僕はほぼ当日まで、そんな話だとは知らなかった。たまたま、あの三人のうちの一人がものすごい成瀬ファンで、藝大で研究もしていた子なんです。僕にとっても成瀬さんは神様のような存在なので、オマージュを捧げるのは素晴らしいことですが、自分ならそんなセリフは絶対に書けない。しかし今回、それを直さずそのまま撮ったのは、中国語だからですね。日本人が日本語でそれを語ると嫌味になるけど、中国の女性が日本に来て成瀬を発見して、その素晴らしさを語るのって、なかなか感動的なことじゃないですか?

──あの場面にもドキュメントが組み込まれていたんですね。会話には字幕が付いていて、「成瀬」という文字が出てくるだけでも新鮮でした。

『孤独な惑星』では英語の会話に日本語字幕を使ったし、日本語の日本映画に異質な外国語を積極的に入れたいと思っているんです。次の作品では何語にしようかな(笑)。あの三人娘は当時の藝大の僕の編集ゼミの学生で、とってもかわいい子たちなんです。センターにいた、本当にブルース・リーと誕生日が同じ子は、撮影当時2年生で、そのあと春に卒業しました。

──そうした点を含め、本作に監督の様々なエッセンスが流れ込んでいることを強く感じます。

シナリオの段階、撮影の段階、そして編集の段階で、これまで撮ってきたもののすべての要素が入っていることに気づいて自分でも驚きました。反転、引っ繰り返したようなシーンが随所にあるので、『孤独な惑星』をご覧になられた方ならニヤニヤされるだろうし、ほかの映画の要素も漏れなく入っていますからね。

──『孤独な惑星』を象徴するアイテムのひとつ、世界地図もさりげなく入っていますね。

あれは意識的にね。でも意識的ではない、偶然と偶然がぶつかってそうなってしまったところがあちこちにあることにびっくりします。

──その意味で、筒井監督の集大成と呼べる作品でしょうか?

集大成じゃないですよ! まだまだ続きますから(笑)。

取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

これまでのインタビュー|神戸映画資料館