インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW
2017 9

『幼な子われらに生まれ』 三島有紀子監督インタビュー

ⓒ2016「幼な子われらに生まれ」製作委員会

重松清の小説を映画化した三島有紀子監督の新作『幼な子われらに生まれ』が全国で公開を迎えた。再婚同士の夫婦が新たな生命を授かることから家庭に生じる亀裂や、前の家族との絶ち難い人間関係を巧みに切り取ったフィルムは、荒井晴彦の脚本にエチュードを取り入れることにより、浅野忠信をはじめとするキャストの生の姿も映し出している。繊細かつ大胆な手腕をふるった監督にインタビューをおこなった。

──本作はフィルム撮影です。1969年にお生まれの監督はフィルムに「少し遅れてきた世代」ではなかったでしょうか。

いえ、私が自主映画を撮りはじめた頃は、まだ8ミリフィルムの時代で。本当は高校生のときに撮りたかったんですが、フィルム代も現像代も高かったので、アルバイトしないと撮れなかった。でもバイト禁止で、真面目だったんです(笑)。そのときは我慢して、「大学(神戸女学院大学)に入学したら絶対に撮ろう」と思い、バイトしてお金を貯めて8ミリフィルムを買って、撮って現像して編集してと、最初に完成させた作品はフィルムなんです。

──そうだったんですね。今回、フィルムを選ばれたのは何故でしょう?

今回は出来る限りワンテイクで、俳優同士の生の感情、人間と人間のあいだに起こる化学反応が生まれる瞬間を〝記録する〟ことを目指しました。ある家族であったり、ある人間たちの記録をフィルムに焼き付けたい思いが衝動として生まれた感じでした。もちろん、フイルム独特の映像の風合いも大きいです。

──監督と荒井晴彦さんとの組み合わせも意外でした。

荒井さんの作品は元々好きで、最初に出会ったのが『Wの悲劇』(1984)、『赫い髪の女』(1979)、『遠雷』(1981)でした。それから色々と見はじめて、新しい作品だと『ヴァイヴレータ』(2003)、『大鹿村騒動記』(2011)など、どの作品も好きだったので、「一度書いてもらえないだろうか」という思いがずっとあったんです。同時に神代辰巳監督の『恋文』(1985)がとても好きで。これは夫婦の物語で、夫に昔の彼女から「もうすぐ癌で死んでしまうので、最後の時間をあなたと過ごしたい」と手紙が届く。萩原健一さんが演じる夫が家を出て行って、その後どうなるのかといった話ですが、これを現代に置き換えて男女を逆転させたら面白いんじゃないかと考えました。現代なら出て行くのは間違いなく女性のほうかなと。元彼から手紙が来て家を出て、しれっと帰ってくる。『しあわせのパン』(2012)を撮ったあとくらいだったでしょうか、「そういう映画をつくりたいんですけど、荒井さん、ホンを書いてもらえませんか?」と新宿の呑み屋にお願いしに行ったんです。すると荒井さんに、「『しあわせのパン』の監督が俺に何の用だよ?」って、すごくつれなく言われて(笑)。「そりゃそうですよね」とも思いましたが、ただ私は荒井さんの書かれたものがとにかく好きだった。何せ、土曜ワイド劇場の『盗まれた情事』(1985/監督:神代辰巳/脚本:荒井晴彦)も見ていましたから。そんな話をずっとしながら、「こんな映画をつくりたい。こんな映画が好きだ」と夜通し語り合い、夜が明けてくる頃に「男女逆転したら女の話になるよな。だったらお前が書いたほうがいい」、そして「読んでほしい脚本が一本ある」とおっしゃった。そこで渡されたのが、本作の初稿だったんです。

──筋金入りの「荒井晴彦通」だったんですね(笑)。

どうでしょうか。ただ、土曜ワイド劇場まで見ていたので、荒井さんにも「そんなのよく見ているねえ」と言われました(笑)。

──荒井さんの作品やシナリオに精通しておられる監督が、そこにエチュードを取り入れるのは大きな実験だったと思うのですが?

そうですね。「実験」ということでは、ホンを読んで「自分が撮るのであればここをこうしたい」と伝えに行くのがまず最初の実験で(笑)。荒井さんはホンを直さないことで有名だったので、「ならもういいよ」と言われるかと思ったんですが、「でも自分が撮るならこうしたい」とドキドキしながらお話しすると、「ふーん……。ああ、そう」とおっしゃったんです。私も「えっ? いいの? 書き直してくれるの?」って。「書き直してくださるのなら、私がお金を集めます」と言ってしまったんですね(笑)。そこから制作費を集めはじめましたが、台本をつくっていくうちに変化したこともあって。ありがたかったです。私が思う荒井さんの脚本の魅力は、文学的なところ。ただその文学性を追求していくと、本作で目指したドキュメンタリーのように〝記録を残す〟という趣旨から外れていく部分もある。その相反する部分をうまく融合できないだろうかと考えたのが、「荒井さんのホンで、どこまでもキャラクターを掘り下げてみる」。その人物がどういう人間なのかを俳優も私もスタッフも掴んだ上で、いったん脚本を棄てて何が生まれるのかを試してみようと。それでエチュードを取り入れたんです。

──その具体的な例を教えていただけますか?

浅野さんが演じる信が、田中麗奈さんが演じる妻・奈苗に対してキレるシーンがあります。そこでは「一度セリフを棄てましょう。全部忘れてください」と伝えました。田中さんはびっくりして、「え……、何でセリフを忘れるんですか?」とおっしゃいましたが、私は「新しいことやってみましょう。まったく新しい浅野さんと田中さんを撮りたいんです」と言って、そのようにやってみたんです。見て感じたことをすべて言葉にしてもらう。そして「この辺りで本来脚本にあるセリフが言えるだろうから、そこから入れていきましょう」というふうにシーンをつくっていきました。一方で、信と寺島しのぶさんが演じる前妻・友佳との喧嘩のシーン。そこで何故ふたりが別れたのかわかるんですが、脚本には2つ程度のセリフしか書かれていない。浅野さんと寺島さんなら、いきなりハイテンションでそのセリフを言うことは出きるだろうけど、もっとリアリティのあるシーンにするにはどうしたらいいかと考えて、シチューエーションだけつくってみたんです。友佳が部屋で勉強しているときに、信はベッドルームで友佳のシステム手帳を見つけてしまう。手帳にはさまった紙に気付いて見ると、そこには「〇〇日間はセックスしないでください」といった中絶手術後の身体への注意が書かれている。さらにめくっていくと、自分が書いた覚えのない堕胎に同意するサインも記されている。「それを見たときにどうなるでしょう? そこからやってみましょう」とスタートをかけたんです。

──あのシーンはおふたりの掛け合いのスピードだけ見ても絶妙ですよね。溝口健二監督のよく知られる「反射してください」という言葉があります。演技のリアクションを意味するものですが、本作で監督が目指されたのも、その「反射」に該当することではなかったでしょうか。

まさにその「反射」を、私は「反応する」、もしくは「化学反応」と言っていました。子役にも「このセリフを言おう」とか「ここで泣こう」と思うのではなく、とにかく相手の芝居に反応してもらいたかった。溝口監督の言葉でいう「反射」ですよね。我々はそのキャッチボールのやり取りを撮っていくという思いでこの映画に臨んでいました。ですから子役も、いわゆる「言われたタイミングで泣ける」といった子ではなく、反応できる能力の高い子をオーディションで選びました。たとえば笑顔を投げられたら顔がほぐれる、むかついたのならむかついた顔をする。そういう反応が出来る子を探して、やっと見つけたのが長女の薫を演じた南紗良ちゃん。芝居を一回もしたことのない彼女の反射能力は素晴らしかったです。

──その引き出しにも成功したということですね。本作はジャンルとしてはホームドラマに属しますが、近年の家庭劇の多くは「絆」や「喪失と再生」に要約されてしまいがちのように思います。本作にも少しはその要素があるかもしれませんが、物語の着地点はそこに集約されません。

ⓒ2016「幼な子われらに生まれ」製作委員会

誰もが正解を見つけようとして見つけられずにいる。そんな人たちや、見つけたと思う瞬間があっても、それが本当に正解なんだろうかと浮遊しながら生きている人たちに向けて、そういう人間のもがく姿を見せたい思いが基本にありました。だから、わかりやすく喪失してそれが結びつきにつながっていくというドラマではないですよね。むしろ、新しい結びつきがどこまで崩壊へ向かうのか? そして崩壊するのかしないのか? またそれが個人の崩壊なのか、家族の崩壊なのかということも考えながら撮っていました。

──崩壊と結びつきは、信が奈苗とその連れ子たちと長い階段を上ってプロポーズするシーンにもあらわれていますね。階段を上る姿は受難のようでもあるし、上り終えて結びつきを得ると同時に次の崩壊がはじまる。フィルムに話を戻すなら、フィルムはひと連なりのようでいて、バラバラのコマの集積──劇中で使われる言葉でいえば「ツギハギ」──です。本作での監督の人間や家族の捉え方も、それに通じるように感じました。

本作の英語タイトルは『DEAR ETRANGER(親愛なる異質者)』とさせてもらいましたが、おっしゃるようにフィルムはずっとつながっているわけではなく、断片的に「あったり無かったり」の連続ですよね。人は、異質な人とつながる瞬間もあれば離れる瞬間もある。また、傷つけ合う瞬間もあれば温め合う瞬間もある。その繰り返しのなかで死んでいくのかなって。この映画も単に「こういう人たちがこうなった」ではなく、その連続をただひたすら見せていきたいと思っていました。で、どこでフィルムを切るかなと。

──その描写に関しても伺いたいのですが、ほぼすべてのショットが客観視点で撮られています。主観は、歌う奈苗を信がガラス越しに見つめるショットだけですか?

完全な主観はあれだけですね。あと、もしかしたら信の主観かもしれないのが車窓でしょうか。運転する自動車のフロントガラスのショットです。

──終盤にあるショットですね。車窓といえば、自動車が前進するのに対して、ところどころにある電車の車窓ショットはいずれも後退しています。登場人物たちが、過去や何かに引きずられている暗喩に見えました。

まさにそうなんです。過去に引き込まれるように彼らはどこかへ向かっていく。斜行エレベーターの車窓もそうですが、たとえば家族のいる家に吸い込まれるようにして、そこへ連れて行かれます。でも、病院を出たあとのシーンの車窓だけは前に進んでいるんですよね。しかも意志を持って。あそこだけは意識的に前を向いている車窓にしました。

──あのシーンは会話がオフになっているのも効果的です。次にこれまで女性を主人公にして撮る機会の多かった監督が、男性を撮ることについておきかせください。女性である監督にとって、男性はひとつの大きな「異質な存在」とも考えられます。

ⓒ2016「幼な子われらに生まれ」製作委員会

男性は異質な者ですが、私からすると他人である限り、また自分自身でさえも異質かもしれません。そういう意味で男性だから異質だと思ったことはあまり無くて、むしろ父性とは何か、母性とは何かを考えていたかもしれないですね。父性や母性って、男も女も関係なく持っているもの。たとえば映画監督という生きものにはどちらも必要だし、監督でなくても生きていればそうだと思うんです。男性を主人公にして撮ることにまったく違和感は無かったですね。ただ、「男性ってこういうときにどう思うんですかね?」という話は浅野さんとよくしていました。女性スタッフたちとは「誰にいちばん共感する?」という話をして。私は、非日常を求めてしまうという部分でですが、宮藤官九郎さんが演じた沢田(奈苗の前夫)。でも沢田って信と表裏一体なので、結局は信でもあるんですが。あとは薫も自分に近いと感じていました。

──先ほどお話しいただいたたように、本作ではキャラクターひとりひとりが掘り下げられている。一方、彼らには相通ずる部分があって、皆がそれぞれの理由で家族を手離してしまったり、そういう過去を持っている。その関係性もキーポイントになっていますね。

彼らが出会うこと──まだこの世に生まれていない生命も含めて──によって、どんどん自身の本質がむき出しになっていくのが、撮っていても本当に面白かった。そのように本質がめくられて見えてくることって、色々な人との出会いでありますよね。この映画をご覧いただくことで、もしかしたら皆さんのなかにある本質がご自身に見えてくるかもしれないなと思います。私自身もそうでした。

(2017年7月28日 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『幼な子われらに生まれ』公式サイト
8月26日(土)、テアトル梅田/シネマート心斎橋/京都シネマ/シネ・リーブル神戸にてロードショー!


これまでのインタビュー|神戸映画資料館