インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『スティルライフオブメモリーズ』
矢崎仁司監督・伊藤彰彦(プロデューサー・脚本)インタビュー

©2018Plaisir / Film Bandit

四方田犬彦が1984年に著した『映像要理』(朝日出版社)。ひとりの女性の性器を2年間に渡り撮り続けたアンリ・マッケローニを主題にしたこのエッセイをもとに、矢崎仁司が『スティルライフオブメモリーズ』をつくり上げた。カメラマンの春馬(安藤政信)、彼に自身の性器撮影を依頼する怜(永夏子)、春馬の恋人・夏生(松田リマ)の関係の綾や、性器を通した死と生の循環をソリッドに描く新作は、写真が象徴する静的イメージと過去の矢崎作品には無い生命感のコントラストも鮮やかだ。監督と、プロデューサーであり、朝西真砂と共に脚本を執筆した伊藤彰彦に本作の企画から完成までを伺った。

 

──発表から30年以上を経て『映像要理』を映画にするのは斬新です。制作の発端から教えていただけますか。

伊藤 女性性器から生まれたひとりの男性が、人生を経て、もはや意識も無い母の、かつて自分が産み落とされたその性器をふたたび見ることになる。彼はまた娘の性器も目の当たりにする……原作はそうした「男性の女性性器を巡る旅」が描かれたエッセイです。監督はこれまでに小説やコミックを映画化していますが、一度エッセイを映画にしてもらいたかった。ひとつひとつが流麗で多義的なショットが連なる随想的な映画を、矢崎仁司の新作として見てみたいと思ったんです。

──「矢崎監督で撮ろう」と思われた理由は?

伊藤 僕はマッケローニが2年間に2千枚撮った愛人の性器写真の鳥肌が立つようなうつくしさを映画にしてみたかった。それにはドキュメンタリーのほうがよいのだろうかとか考えはじめてから20年ほど経ったころ、『ストロベリーショートケイクス』(2006)を観て、「この企画は矢崎監督にしか撮れない」と思いました。性器を撮ることの根底にある、性の営みと死との関わりは監督がずっと追及しているものだし、『スイートリトルライズ』(2010)にしても死の匂いのするセックスを描いていた。そしてキワモノとも受け取られかねない題材を、品格をもって撮れるのは矢崎さんしかいないと思ったんです。

──企画が持ち込まれたときに監督はどう感じましたか?

矢崎 小説やコミックを原作にして映画にするのはこれまでもやってきたことです。今まで原作者に嫌われたことが無いので、今回も四方田先生に嫌われないようにつくりたいなと(笑)。そう思いましたが、原作が小説ではないので、どう映画にするかは本当に悩みましたね。

──最初に伊藤さんに会った時点でプロットはあったのでしょうか。

矢崎 いや、伊藤さんが原作本を(監督が住む)山梨まで持ってきてくれて、一晩中呑みながら「これを映画にしませんか」と話しました。それで読むと、すごくおもしろかったんですよね。「私は生涯いくつの女性性器を見ただろうか?」というフレーズがそのまま自分に返ってきた。それを手がかりに進めていけば映像に出来るなと思いました。脚本は伊藤さんにと考えて。書いてくれた脚本を読んでは直していただく作業を2年くらいやったかな。

──伊藤さんが山梨へ原作本を持って行かれたのはいつ頃でしたか?

伊藤 2014年1月ですね。その前に、矢崎監督に「お願いします」と申し入れたときに場所を指定されました。初台にある「串松」という居酒屋という小上がりのある料理屋でした。

矢崎 最初にそこで会ったのは『ストロベリーショートケイクス』の脚本を書いてくれた狗飼恭子さんと原作者の魚喃キリコさん。それが映画になって、それからも「串松」で打ち合わせをした企画は映画化されたので、ここがいいなと(笑)。『ストロベリーショートケイクス』の安藤政信さんの出演シーンも「串松」で撮っています。

──物語のヤマ場になっているシーンですね。さて、本作を見ながら感じたことのひとつがシーンの不連続性で、それが魅力でもあります。シナリオにはどのように示されていたのでしょうか。

伊藤 男が謎の女に、螺旋に吸い込まれるように惹き付けられてゆく、という当初のプロットの痕跡はわずかに残っていますが、出来上がった映画はホンがあってホンが無いというか。シナリオ通りに撮ってはいるけど、最終的にはシーンの順番が滅茶苦茶になっています(笑)。監督が編集者の目見田健さんと、シナリオとは違う論理で映画を再構築したからです。まるで順に並べたシナリオを上から放り投げて、床に落ちて、入れ替わった順につないだようでした。それでもつながるのは何故だろうと考えると、画が強いからです。ひとつひとつの画に完結性があり、シーンの強さもある。だから入れ替えても平気なんだと思いました。

──なるほど。以前、監督には「シナリオは電化製品の説明書じゃない」という喩えを伺いました。

矢崎 その通りですね。イメージを説明してあるシナリオほど駄目なものはなくて、スタッフとキャスト全員の人数分の異なる映画が出来上がるのが素晴らしいシナリオだと思っているので。

──螺旋や水のイメージはシナリオに織り込まれていたものですか?

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伊藤 まったく無かったです。それらの形象的なモチーフは、監督がロケハンをするなかで見つけたもの。プロデューサーとして山梨県の自然を背景に撮ろうとは決めていましたが、北から南まで探すと螺旋状の道路や階段が現れた。それを、女性性器を巡る映画に隠喩やモチーフとしてどう散りばめるかは監督が考えたことですね。あとは小さな松ぼっくりなど、森羅万象と言うと大げさだけど、世界の起源である性器につながるモチーフになったものは監督が山梨の隅々まで踏破して見つけたものです。

矢崎 『太陽の坐る場所』(2014)『不倫純愛』(2011)を撮ったときに、山梨放送の建物(山梨文化会館)を使わせてもらいました。もう撮るものが無いくらいに。でも素敵な螺旋階段のシーンはいずれの作品でも欠番になってしまった。どうしても撮れないんですよ。それからも山梨放送へ行く度にその螺旋階段を撮れなかったことが悔しくてしょうがなくて、最初のロケハンでも強引に「ここで何かを撮りたい」と言いました。シナリオのどこで撮るかなど何も決まっていないのに「ここで撮りたい」って。

伊藤 あれは丹下健三さんが昭和40年代に建築された、かなり特異な階段です。螺旋階段はたいてい建物のなかにあるのに、外付けになっていて不思議ですよね。

矢崎 こんなことを言うと恥ずかしいけど、伊藤さんに「日本で(ミケランジェロ・)アントニオーニみたいな画を撮れるのは矢崎さんしかいない」とおだてられて(笑)。でも見ると「アントニオーニなら絶対撮るだろうな」と思う螺旋階段なんですよ。だからどうしても外せなかった。

伊藤 矢崎監督とアントニオーニが通ずるのは、こういう特異な建築物をうまく取り込んでいくところと、もうひとつはミステリー的で謎を追いかける話のようで、それが物語の3分の2のあたりでどうでもよくなってしまうこと。ミステリーがある種の不条理劇にスライドしていく。本作ではもっと早く破綻してしまうんですけどね。

──いつの間にか破綻している自然さも本作の妙だと感じます。螺旋に加えて、湖や現像液などの水も重要なモチーフで、この湖は『不倫純愛』でも撮られていますね。

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矢崎 やっぱり何かやり残していたものがあったんですよね。『不倫純愛』を海外の映画祭に持って行くときの英題を『湖の中にはすべてのものが沈んでいる。愛以外』にしてくれと頼んだけど、結局もとのままで。その頃から湖の底に何かを感じていて、それもやり残したもののひとつだったので、森から湖へ行くというのは今回絶対に欲しい題材でした。

──湖は母胎の象徴としても捉えられます。そういう意図はありましたか?

矢崎 自分のなかでは海ではなく湖でないと駄目だった。母胎とか母性なら海のほうへ行くんだろうけど、湖にこだわってしまいました。これは直感としか言い様が無いのだけれど。

伊藤 母になる夏生が浮かんでいたり、水に親和性のある女性として仕立てられていますが、この映画の湖は母性的な意味合いにとどまらない「鏡」でもあります。春馬が耳をつけたり、夏生が自分の心をのぞき込むように湖面を見たりする。だから海のように水流が早くない。人間が心の奥底にあるものを写し出す、水鏡としても使っていますよね。

──現像液も単純な女性的なものの隠喩ではないと感じました。

伊藤 水は人間の生まれ来たるところと捉えられがちです。でも本作の水は揺らめきであり、物語の折々で登場人物たちが心をのぞく鏡でもある。そのように乱反射するものとして水を撮っています。暖炉の炎だったり、焼く行為の火もそうで、それが何かの暗喩や換喩にならず、意味に還元されないところが矢崎監督ならではですね。

──タイトルの「メモリーズ」、すなわち記憶は監督の映画と切り離せないテーマです。記憶と水のイメージに関連性はあるのでしょうか。

矢崎 記憶は浮かんでいるもの。漂流していて、岸辺に立っていると流れつくものが記憶だと僕は思っています。

伊藤 そこにはやっぱり岸辺のイメージがあるわけですか?

矢崎 ボートに乗っていてもいいんだけど、「そのとき漂泊しているもの」のような気がしています。

──では『スティルライフオブメモリーズ』というタイトルは静物画(スティルライフ)と記憶(メモリーズ)という相反する要素の並列ともいえますね。この由来は?

矢崎 シャルダン展を観に行って、静物画の死に心を動かされ、「スティルライフ」というものを映画にしたいと思っていたんです。いちばん初めは日本語の『記憶の肖像』というタイトルでした。

──伊藤さんはどう思われましたか?

伊藤 「記憶とは何だろう」ということを、矢崎さんは撮り続けながらずっと考えている気がするんです。『太陽の坐る場所』や『1+1=1 1』(2012)、さらに遡って過去作の根底にも記憶のモチーフがある。本作に記憶は直接関係ないけど、まあいいかと(笑)。ただ、静物画を意味する「スティルライフ」は止まった絵や死んでしまった絵という多義的な意味を持つ。それは、中村早さんが撮った春馬の撮る写真につながりますね。

──本作には、過去の監督作では見られなかったものと引き継いでいるものがあり、後者は「死」です。特にずっと撮っておられる「人が横たわる姿」についてお話しいただけますか。

矢崎 僕のつくってきた映画の原作がそうで、江國香織さん(『スイートリトルライズ』)も小池真理子さん(『無伴奏』/2016)もベースに死を置いた描き方をしている。そこからかなり学んでいると思うんですね。(フランソワーズ・)サガンが「生を描くのには必ず分母に死を置かないといけない」ということを言っていたと思います。そんなこともあり、分母に死を置くのは撮るときにも心に沈めています。もしかすると「常に生きていない」というか、横たわるのは「短い死」だと思っているのかもしれないですね。絶えず自分の映画を壊していきたいと考えているのに、そういうところはなかなか壊せないな(笑)。

伊藤 死について言えば、サナトリウムのベッドに横たわったままの母がいて、それに対して怜が自分の写真を撮ってもらう。彼女が性器を撮ってほしいと思うことと、母親が死につつあることは間違いなく関連があります。さらに本作においては写真も死だと思うんです。凍結された写真のようなものが動き出すシーンが繰り返されたり、映画が写真みたいに静止して死んでゆく瞬間がある。怜の母の若い頃の写真が出てきて、そこへまだ生きていて温もりのある母の身体が写ったりもします。写真とは何か? 映画とは何か? 生と死の境は何か? がこの映画では問われています。

──あの止まっていた人物がゆっくり動き出し、モノクロから色を得る、写真から映画への発展を連想させるカットはどう撮られたのでしょう。

矢崎 「これは映画です」ということと「写真の映画」を撮ることに対する僕の遊びですね。「よーいスタート」から15秒くらい俳優さんたちに静止してもらって、それから動き出してもらっています。

──後処理ではないんですね。

矢崎 それだと意味が無いなと思っていたので、何箇所かそういうふうに撮影しましたね。動いていたものが止まるのが「写真」、止まっていたものが動いて「映画」という遊びをところどころに入れたいと考えていました。

──その映画は先ほども伺った通り、ある時点でミステリーが横滑りして抽象性を帯びはじめる。怜のセリフ「時間が無くなる」に照応するように時間感覚が蒸発してしまう印象を与えます。

伊藤 たしかに物語は進んでいくけど、途中のどこかで時間が無くなります。怜が春馬の写真を観て「時間が無くなる」と言って惹き込まれたのと同様に、観客も時間感覚を失う流れになっている。その時点で主人公たちも生と死の境目を超える気がします。現実では意識や日々が積み重なっていきますが、本作は夢の論理というか、春の明け方の夢のような、どんな夢を見たのか人には伝えられないけど、見たことは幸せだったと思える……そんな夢のような映画にしたいなと思ったんです。映画を観終えて、夢見心地のような感触が残ればいいなと。

──登場人物は行動原理も含めて、掴みがたい内面を持っています。

伊藤 春馬が写真を撮り続ける姿には、監督への映画の向き合い方が反映されています。写真に懸命に向かい合うのと同時に、撮ることの気だるさや憂鬱が描かれています。いくら掴もうと思っても水に揺らめく月のように掴めない。たとえば好きな女性に対しても掴めないあがきや諦めがありますよね。それでも一条の光明が射してくることもあれば、一方に徒労感や気だるさもある。そのような、物を創る人間が見舞われるすべての感情を──これも言葉に還元できませんが──監督は映画に撮っているし、安藤さんは演技で見せています。

──監督もそのように感じておられますか?

矢崎 そうかもしれないですね。答えは出なくて、でも探し続けなきゃいけない。

──探し続けるモチベーションはどこから湧いてくるのでしょうか。

矢崎 ……わからないな。たまたま今読んでいる探偵小説に「理解するものと、理解するふりをすることにしたものがある。愛していると認めるものと、気づかないふりをするものがある」みたいな文章があるんだけど、やけに納得しています(笑)。

──とはいえ監督が撮ろうとしているものは一貫して、本作を通してもそれは人や光を含めた空気だと感じました。

矢崎 いつも自分は本当にラッキーだと思うけど、素晴らしい俳優たちに出会える。

──ほぼすべてが手持ちで撮られています。サナトリウムの廊下を捉えたショットはセオリーに沿うならフィックスで撮ると思いますが、あそこも手持ちですね。

矢崎 メインロケハンのときに撮影の石井(勲)さんに「全編手持ちでいきましょう」と提案したんです。あのサナトリウムの構図は普通なら三脚を使うだろうけど、直感で「手持ちで」とやりはじめたことは、何か映画に作用するはずなんです。あそこはフィックスで撮ってもいい。でも少し揺れていたり動いていることが、本作にとっては大切だと思っています。

伊藤 たとえば光が少し射してくると石井さんのカメラもちょっとブレる。人物がすれ違ったり、目の前の事象が動いたり風がふっと吹くと、それに引き寄せられるようにカメラが動くんですよね。そういうことを全編通してやっていることで観客が何かを感じてくれれば嬉しくて、特に意図があるわけではないんです。画面で起きていることひとつひとつにカメラが反応していくこの映画で、端的なのは春馬が怜を撮影するシーン。俳優がどう動くかわからないとフィックスで撮れないので手持ちになりますが、カメラが第三の共演者のような形でついていきます。

矢崎 僕はそれを信じていて、春馬が怜を撮影するシーンは「ここからこう撮りたい」ということではなく、皆のコラボレーションによるものですね。

──夏生役の松田リマさんにお話を訊いた際も、最も印象に残り気に入っているのは春馬が怜を撮るところに夏生も同行して、アトリエの空気が乱れるシーンだとおっしゃっていました。現場で明確な撮影プランが無いところからつくり上げたとも。

矢崎 撮影がはじまって石井さんが撮りたいものを撮っていく。それを見ている僕は「今、この空気が撮れている」と肌で感じていました。毎回そうだけど、今回も俳優がすごくがんばってくれた。その忍耐と包容力が無ければ撮れなかった。演じてくれている人たちの空気のなかに自分が居ることが楽しくて仕方なかったです。僕がカットをかけない限り、延々と演ってくれるんです。カットをかけたくもないし、もっと見たいと思える場所に居させてもらえました。

──やはり監督は空気を大事にしておられますね。

矢崎 室内シーンでも外が晴れてないと撮らないということも、『三月のライオン』(1992)以来久々にやらせてもらったしね。普通は「曇りなら室内を撮りましょう」となるんだけど、「室内だけど晴れてないと撮りたくない」という主張をスタッフみんなが許容してくれた。

伊藤 1年かけて季節を撮っているわけですから、監督の映画に共鳴した方たちが損得抜きで関わってくださったということですよね。そしてなぜ晴天でしか撮らなかったかというと、監督のイメージではメインのロケセットであるアトリエの窓全部に絵の具が塗られている。「画家なら窓をパレット代わりにして試し塗りすることもあるだろう」と。たしかに現代の画家でもそうしている人がいる。すると光が入ると教会のステンドグラスのようになり、部屋に反映する。それを撮ろうと監督は美術の田中真紗美さんに発注しましたが、やはり光が入らないとイメージのようにならないんです。それを受けて助監督の石井晋一さん(『三月のライオン』でも助監督を担当)は、監督が撮りたいように撮れる準備をする。アトリエがカテドラルみたいに光に包まれる晴れのときを狙って、「晴れたらからやりましょう!」ってね。「夕方4時のバカっ晴れ」という言葉がありますが、その時間になると最後に光が照ってくる。それを皆で待って「来た! やろう!」というような現場でしたね。プロデューサーは大変です(笑)。

矢崎 今回はそれが2時半で。撮影の石井さんと照明の大坂(章夫)さんはロケハンのときから「ここは2時半にいきますよ」「欲しい画は2時半でないと撮れない」と言っていました。そうなると僕もがんばるので(笑)。

──アトリエのシーンは基本的に長回しで構成していて、そのなかで光も少しずつ変化していきます。
 
矢崎 色んなアトリエを見てあそこに決めたのも光の入り方が大きかったので、ずっと回していくうちに陽が沈んでいき、セリフにあるように「最後は闇に溶けてゆく」ものをリアルに撮れた。そこに居られたのもすごいことでした。

──監督は普段から、いい光だと感じたらその月日と時間を細かくメモされるんですよね。これも以前お聞きして記憶に残っているエピソードです。

伊藤 今回は窓からの光を狙って2時から4時くらいまでのあいだに集中して撮ろうと決めていました。その時間帯は(撮影が)早い。でも陽が暮れてからは長いんです(笑)。

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矢崎 僕はスカイライン狙いだと本当に早いですよ。趙方豪さんには「矢崎は光よりも人を大事にしろ」と言われ続けて、それで俳優を大事にするようになりましたが、今はスタッフが光を大事にしてくれる。だから俳優だけ見ていればいいチームが出来上がったなと思います。

──趙方豪さんがそうおっしゃったのは、どのようなシチュエーションでしたか?

矢崎 たしか病院のベッドで、当時の僕は光を一番、場所を二番に置いていたので、「お前、もっと人を大切にしろ」という言葉は身に沁みました。僕の今のいちばんの仕事は人を大切にすることだし、監督の仕事とはそういうことだと思っています。

伊藤 『三月のライオン』以前は光を、それ以降は俳優を大事にされてきましたが、今回はどちらも大事にしています。出産という共通するモチーフがあるだけでなく、いい光と芝居を逃さず撮るという点で『三月のライオン』の続編が出来たなとも思いましたよ。それから春馬という名前。『三月のライオン』で趙方豪さんが演じた役は「ハルオ」で、オマージュとして「春」をいただきました。その彼女は夏で「夏生」にしようと。その点でもハルオとへその緒がどこかでつながった主人公になればいいなと思いましたね。趙方豪さんと安藤政信さんもつながっていて、2本並べて観られればいいなと完成したときに思いましたね。

──主演の安藤さんとは『ストロベリーショートケイクス』で組んでおられます。永夏子さんと松田リマさんのキャスティングの経緯を教えてください。

矢崎 ふたりともオーディションです。「僕の新作でフルヌードあり」という募集をかけて沢山の人に来ていただき、二次オーディションにふたりが残りました。そのときには「もうこのふたりでいけるかな」と感じる出会いでした。

──劇中写真を手がけておられる中村早さんは以前から御存知だったのでしょうか。

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矢崎 この企画を伊藤さんからいただいたときに、まず僕が頭に思い浮かべたのが中村さん。何度か個展を観ていて彼女の写真をこの映画に使いたい想いがありました。伊藤さんも中村さんの個展を観てくれて、すぐにその場でオファーしました。劇中には写真に関する言葉がありますが、きっと僕が中村さんの写真を観て感じたことがセリフになっていると思います。

──ところで昔、おそらく『風たちの午後』(1980)の上映会だと思うのですが、監督から「可能な限りボリュームを下げてほしい。セリフが聴きとれないくらい」と指示があったと神戸映画資料館・安井喜雄館長に伺いました。本当にそうだったのですか?

矢崎 そうですね。当時は映写室に文句を言いに来る観客も多くて、部屋の前に「聴こえないのは監督の意図です」と書いた紙を貼ってもらっていた(笑)。たぶん前半30分くらいはイライラしていた人たちが、聴くのをあきらめた辺りから心地良くなる映画だし、撮影中もカメラが少し離れたところにあると「今のセリフは僕に聴こえたからNG」という撮り方をしていました。「聴こえて当たり前」と思うものが聴こえなかったり、『三月のライオン』では最初に物語を全部字幕で説明してからはじまるというように、映画の可能性を少しずつ広げたいと思って挑んできましたね。

──伊藤さんは脚本家として、矢崎監督作品のセリフの在り方をどう思われますか?

伊藤 矢崎監督の作品を拝見していると、書かれたセリフが現場で撮られずに画に置き換えられたときのほうが映画として強いんです。セリフは切っていくもので、それが無くなり画だけで語り通していくと強くなる。逆にセリフを足さないといけない場合は弱いんですよね。本作も前半はセリフが多すぎるかもしれない。セリフを無くしていくと強くなると思ったのは初めてです。後半はセリフがほとんど無いので、英語字幕を付けるのは楽でしたけどね(笑)。

矢崎 いまだに「好きです」みたいなセリフで成立する映画がつくられていることにびっくりします。「好き」という距離に立っていれば、セリフはいらない。「やあ久しぶり」というセリフにしても、俳優は「久しぶり」の距離に立っているんだから。

伊藤 だから本作も企画したときからストーリーではなく「随想」なんです。シナリオのおよそ3分の1が欠番になってもつながっている。四方田さんの哲学的なエッセイをもとに、性器をめぐる女性の生と死を、螺旋階段を回るように色々な面からひとつひとつ見ていくような素晴らしい画を撮ってもらいました。

──完成した映画はしっかりつながっている。しかしシナリオの時流が解体された影響なのか、見るたびに「このシーンはこの流れにあっただろうか」と印象が変わるのも本作のおもしろさです。

矢崎 自分のなかでどんどんおかしくなっているのかもしれない(笑)。『太陽の坐る場所』のときも僕と編集の目見田さんは、「今日編集したものを思い返しても、あのカットのあとは何だっけ? と思い出せないような映画にしよう」とつくっていました。それが残っているのかな。

──オーソドックスなアクションつなぎも少ない編集ですよね。

矢崎 それも目見田さんとやっていくうちにそうなったんです。撮影中もそうですが、見たい画しか撮ってないんですよ。見たい画の空気感が変わっていなければ何を撮っていても大丈夫だと確信しています。

──監督は過去のインタビューでお好きな作家にジョン・カサヴェテスを挙げておられます。カサヴェテスの撮影や編集感覚もそれに近い要素がないでしょうか。

矢崎 カサヴェテスはメイキングを見ると相当リハーサルをやっていて、そこから生まれるものを活かしていると思います。僕は『ストロベリーショートケイクス』の頃に長回し撮影をして、編集でそのあいだを切っても空気感が変わらないことに気づいたので、遅すぎるんだけど(笑)。でも生まれた空気感はカットを割っても壊れないことを、あの映画で勉強しましたね。

──それは最初に伊藤さんがお話しされた、「シナリオとは違う論理」や「随想的な映画」ともつながるかと思います。

矢崎 僕は編集中にシナリオを持たないし、今回は編集が終わったときに目見田さんにシナリオを渡しました(笑)。

──相変わらずラディカルですね(笑)。ではプロデューサーの立場から伊藤さんの矢崎仁司像をおきかせください。

伊藤 本当に丁寧な監督です。現場でどうこう以前に、役づくりで永夏子さんと「クラーナハ展」を観に行って、展覧会の佇まいをどうしようかと相談したり、雑談のなかから役柄やヒントをつかんでもらったり、眼鏡ひとつ選ぶにしても色んなものをかけてもらったりと、こんなに丁寧に映画の芯をつくってくる人はいないですね。ただし、その丁寧さは現場までで、編集ではもう1本の映画をつくろうとする。それは撮ったものへの批評であり、頭を真っ白にしてまったく別の映画をつくるということです。その意味では乱暴で、本作にはその両面が象徴的にあらわれていますよね。画面のマチエールの肌理(きめ)の細やかさと、大胆不敵な全体の流れや素材の置き方。昔のATGなどを見ていない二十代・三十代の方は、語りと画のどちらも丁寧な映画は知っていても、画は丁寧でも語りを素っ飛ばしてシャープにパパーンといく映画に触れることはあまり無いでしょうから、戸惑うけどおもしろいと思うし、やはり映画の可能性を広げていますね。こんなに繊細で乱暴な映画は見たことがない。

──神戸では新作公開にあたり、『三月のライオン』『ストロベリーショートケイクス』も上映されます。最後に監督からひとことお願いします。

矢崎 「綺麗」とかいうことではなく、映像の凄さに少しでも気付いてもらえたらと思うんです。もちろん相変わらず観客の記憶に触れたいと思っています。観たあと一週間後かもしれないけれど、妙にドカーンとくるような。自分の感じたことがすべてだと解き放してくれる映画って少ないので、映画館の暗闇に来てほしいですね。映画の可能性に賭けてきた轍を見てもらうチャンスだと思う。「こんなものかな」というものを壊そうというところから映画をつくってきたので、どこを壊そうとしたか、観た方に考えていただけるとおもしろいなと思います。

(2018年10月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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