インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『ひかりの歌』 杉田協士監督インタビュー


 

短歌を原作にした4つの短篇から成る杉田協士監督作『ひかりの歌』(2017)。原作の詠み手も撮影時期も異なる4話に共通するのは人が誰かに送る想い─まなざしだが、独特の距離感でそれをうつしとっている。写真も手がける監督にとっての「撮ること」、ゆるやかに趣を変える153分の映画の束ね方などを伺った。

 

──本作の個性のひとつがスタンダードサイズです。選択された理由から教えてください。

こだわりなどは何もなくて。私は撮影の飯岡幸子さんが過去に撮ったドキュメンタリーがとても好きで、飯岡さんの作品はだいたいスタンダードなんです。私も飯岡さんも映画を撮りはじめたのは、デジタルビデオカメラで撮る人が現れ出した頃。その頃のカメラは4:3なので慣れていて、このサイズがいちばんしっくり来るのかもしれないですね。スタンダードじゃなければ駄目だとは全然思っていませんが、飯岡さんと組むときは自然とそう決まります。あと撮っていてわかるのは、スタンダードだとひとりの人物をちゃんと見ることができる。構図などの問題以前に「今この人を見たい」「これを見たい」ということが明確になるのもいいなと思っています。

──第1章に、詩織(北村美岬)のアルバイト先で会食をおこなうシーンがあります。テーブルを囲む人たちを捉えるキャメラはフィックスだったのが、左へパンしてフレームの外にいた人物をおさめて再び右へパンします。ビスタなら一発で撮れそうな空間です。

たぶんあそこも、飯岡さんも私もうつっているところがあればいい、という感覚で撮っているというか(笑)。私たちがうつしていなくてもそこには全部あります。うつすかうつさないかの選択で目の前にある世界が変わることはない。どこを撮っていても、うつっていないところも存在するなかで、「たまたま今はここを見ている」という感覚です。だから安心して、ここからこれくらいの距離で見ていたいな、というのを優先させてカメラの置き場所を決めています。そうすると、全部はフレームに収まらなかったりする。それはビスタで撮っても、スタンダードで撮っても変わらないことだと思います。で、そこで起きていくことに合わせて、キャメラをパンしたくなったらすればいい。映画って、目の前にある対象を、動く写真として残しておきたいと思う気持ちから生まれたものだと思うんです。すでにあるものを撮るのに、どこに置けば見えやすくなるか? それがキャメラの基本的な在り方だとも思っています。すでにあるものに先行してキャメラが動くことはできなくて、「あ、今こうなんだ」「こんな風が吹いている」ということに反応するしかないから、キャメラはずっと目の前で起きることに遅れ続けるんです。だから映画のはじまりに合ったやり方だと思います。

──「全部を収めなくていい」という考えは、登場人物の背景や過去を過度に描かないこの映画にフィットしていますね。

どこを撮ってもいいけれど、撮影は「ここを見てみようかな」と決める行為です。そう決めても、フレームのなかでは見えなくなったものも問題なく外にあるので、どこでも大丈夫。そう考えています。

──キャメラの在り方の一例として、濱口竜介監督の著作に『カメラの前で演じること』(2015/左右社/野原位、高橋知由との共著)があります。濱口さんはキャメラが置かれた状況で人が発露するものとして「演技」を突き詰めていて、『ハッピーアワー』(2015)、『寝ても覚めても』(2018)は、その方法論のひとつの到達点に見えます。本作は別のアプローチから、キャメラと人との理想的な関係を探り当てていると思いました。

今回、どこに行っても濱口さんの名前が出るんです(笑)。

──(笑)。具体的にはどのように?

「真逆」と言われて引き合いに出されます。具体的にではなく「違うよね」で終わっちゃうんですけど、批評家の安井豊作さんや、全州国際映画祭に行ったときも観客の方がツイートしていました。

──人に対するキャメラの存在の違いではないかと想像します。飯岡さんは『ハッピーアワー』第2部のフェリーのシーンのBカメラを担当されています。本作にもフェリーの美しいシーンがあって、見比べると興味深いですね。

清原唯さんも『わたしたちの家』(2017)でフェリーで女性を撮っていて、何だか流行りのようになっちゃいました(笑)。

──日本映画の新潮流でしょうか(笑)。演出に関してはいかがでしょう。濱口さんの演出からはダンスへの関心がうかがえます。

ダンスへの関心はずっと持ってきました。実際に私はコンテンポラリーダンスの活動に関わっていたのが映画よりも早いんです。映画とダンスのことで言うと、たとえばダンスを撮るのがいちばんのキャメラの練習になるんです。さきほどの話ともつながりますが、先行すると絶対撮れなくなってしまう。たとえば稽古を何日も見に行ったり、撮影の練習を重ねるほど本番では撮れなくなることがあります。段取りが決まっていても、ダンスをする人の身体はそのとき一瞬限りの動きをするので、それに反応できないと逃すことになる。だからたまにコンテンポラリーダンスの記録撮影があると、感覚を戻せるからすごく助かるんです。そこでは何も考えずに反応し続ける。

──いわば反射神経のトレーニングでしょうか?

そうですね。目の前で瞬間ごとに生まれるものを拾い続けます。「映画の素振り」みたいなものですね(笑)。

──言い得て妙です(笑)。そのような感覚にもとづく撮影では、人物の背中を積極的に撮っておられます。最初のショットからそうで、なぜ背中なのでしょう。

積極的に撮っているわけではなくて、気がついたら背中だったという感覚です。ただ、誰かが移動している姿に限っては、後ろから撮るというのは選んでいるかもしれません。前作『ひとつの歌』(2011)もそうでしたが、たとえば誰かが走っているのを撮るときに、「先に行きたくない」という気持ちがあります。何かの理由があって、どこかへ向かっている人にはあとから付いていくしかなくて、キャメラが先に行って迎えるのは自分の気持ちに合わない。もう走り出しているので、向かう先に少し後ろから付いて行く以上のことはできないと感じるんです。

──劇映画であれば、フィクションとして前に回り込む方法も有効かと思います。でも、それを選ばないんですね。

観客として好きな映画には正面に回り込む作品がいっぱいあります。これは不思議で、子供の頃から映画を見て育ってきて、大好きなのはむしろジャンル映画なのに、自分が撮るとそういうふうにならないんです。それはこだわりでも何でもなく、自然に選んじゃうんですよね。理由は自分でもわからないです。

──実は本作公開にあたり往復書簡を交わしておられた宮崎大祐監督にも背中が撮られる理由をこっそり訊いてみたところ、これという答えは得られなかったんです(笑)。往復書簡は、杉田監督が宮崎さんにいちばん好きな映画を訊ねて、その回答で終わります。監督のお好きな映画は何でしょうか?

宮崎さんが『スパイダーマン:ホームカミング』(2017/ジョン・ワッツ)を挙げていたので、私は『スパイダーマン2』(2004/サム・ライミ)です。『魔女の宅急便』(1989/宮崎駿)みたいな話といえばそうですが、超人的なことをやっていた人がその能力を失って落ち込んでいく。でも物語のところどころで示されるのが、元気をなくした主人公や姿を見せなくなったスパイダーマンを待っている、見つめる人たちの視線です。メインの登場人物ではない人たちのそういうカットが時々入るんです。スパイダーマンがゴミ箱に脱ぎ捨てたコスチュームをじっと見つめるおじさんだとか。主人公が力を回復するのは、「実は色んな人が自分を見てくれている」という視線に気づきはじめてからです。列車のシーンで力を取り戻し、その乗客たちが彼を見つめてようやく気づく。そして力を取り戻し、終盤では自分の正体を明かした恋人ともよりを戻して幸せになる。そこへサイレンが鳴ってふたりが見つめ合います。すると彼女は無言で「行っておいで」というような目になる。コスチュームを着てスパイダーマンになった主人公がビルの谷間を行く姿がうつって、そのまま終わるかと思ったら、最後は窓辺に立って彼が去って行ったほうを寂しそうに見ているヒロインの何ともいえない顔で映画が終わるんです。彼はいちばん大事な人が自分を見ている視線に気づかない時間にまた戻る。そういうところが好きでよく思い出します。

──誰かが送る視線と、それが受け取られるのかという主題は本作に通じますね。編集の軸のひとつも視線ではないでしょうか。

編集でも撮影でもそうなっているかもしれません。そういうところに目がいくので、『スパイダーマン2』をよく覚えているのかもしれないですね。この映画でもそんなものばかり撮っています。第1章のベンチに座っている野球部の少年を、校舎の上の窓から詩織が見ているシーンとか。

──あそこは詩織の主観ですね。対照的なのが、人の動作を見つめる詩織をバストサイズで捉えるショットです。少年たちのキャッチボールや美術室でのデッサンのシーン。特に後者は何度か詩織を抜き出しますが、非人称的で、何かを説明するためではない画です。

撮りたくなっちゃったんですよね。カット割りは事前に決めてなくて、特にあのシーンは登場人物も多いので、まずは全員で流れをひと通りをやってもらって決めてから、ちゃんと見たいものを飯岡さんと話しました。詩織を寄りめで撮るのはその時点で気づいたことです。僕は彼女の顔が好きなんでしょうね。困ったときの顔や、何とも言葉にし難い北村さんの表情の変化に目がいってしまう。カット割りを考えるときに、目がいくものを撮るのが基本かもしれません。

──それは脚本の段階では未知数ですよね。物語の円滑な進行を優先して書かれる脚本もある筈ですが、本作はそうではなかったのでは?

脚本は、あくまで映画が生まれるかもしれない出来事を書くものです。「こういうことが起きます」という。あとは現場で脚本に従ってやってみて、それが生まれるかどうかを確認して、「あ、何も起きてないな」と思ったら修正して、何とかいい形に持っていくことを優先しています。ストーリーのようなものがあるとすれば、脚本を書き上げた時点でもうできているので、そこはそれほどケアしなくてもいいかもしれないですね。ストーリーを伝えること以上に、本当にその出来事が目の前で起きているかどうかのほうが大事です。

──「出来事が起きているかどうか」に対する、たしかなジャッジの基準は存在しますか?

自分のなかには明確にあります。感覚の部分なので、共有しづらいかもしれませんが。さきほどの話ともつながっていて、コンテンポラリーダンスの本番を撮影するときに、ダンサーは一瞬ごとに反応して身体が動いていく。いいダンスかどうかの基準はまずそこにあって、振り付けで決まった流れをなぞることができたらいいダンスということではないですよね。本番で実際にダンスが生まれるためにずっと稽古をしているし、観客が集まったその場所で初めてそれが起きるかどうか。私が専念しているのはそこです。いま起きているかを確認できたら、そこで撮影の飯岡幸子さんに渡します。だから映画の撮影には二段階の作業があって、まず出来事を起こすこと、つぎにそれを出来事に先行せずにキャメラでうつしとること。一段階目が私の担当で、二段階目が飯岡さんの担当です。一段階目に関して言えば、指示した流れを皆さんがやってくれたらOKにはならなくて、私が付けた流れは本番の起爆剤というか、用意した出来事が本番で起きるかどうかは毎回やってみないとわからないんです。これは映画を制作したことがある人はかならず直面してきたことだと思いますが、出来事を起こすためのテストをしているときに本当にそれが起きてしまって、まだテストだからキャメラは置かれてない、もしくは置かれていても撮影はしてないという事態です。そういうとき、人は笑ってるのか泣いてるのかわからないような顔になっていると思います(笑)。「撮っておけばよかったー!」って。その事態に対応するために、最初のテストの時点で、出来事をある程度予測してキャメラを置いて撮影するという手段ももちろんあります。そのときは、ああ、そうなるんだったらキャメラの位置が30センチ右だったなとか、10センチ下だったなといったことになります。出来事がベストでも、キャメラを含めたスタッフサイドの、よーいドンのときの構えがベストではないということです。だから、たとえ撮っておいたとしても、結局はもう一度やることになるのがほとんどなんです。

──「出来事が起きている」と思えるいい動きが幾つもあって、第2章で今日子(伊東茄那)が想いを寄せる相手にある行動を取ったあとの仕草も目に残ります。「振り付け」のような具体的な演出がなされたのでしょうか?

あそこは特に芝居の演出をしてなかったと思います。でも当て書きはしていて、伊東さんがああいう仕草をする人だというのは知っていた。はっきりイメージできなくても、あのようになるだろうと多少予想をして脚本を書いていました。現場でも「やっぱりそうなんだな」と思いながら見ていた。あそこはとても評判がよくて、私は何度も見て知っているので、「こういうのが心に響くんだ」と新鮮でした。彼女をキャスティングした理由も、そういうところなのかもしれないですね。

──起き続けることを撮っていく一方で、その時間は死んでいきます。以前、諏訪敦彦監督に同じことを伺った際に、ロラン・バルトの「写真とは死んだ時間だ」という言葉を引きながら、「撮られた過去を今としてどう再構成するか、そのパラドックスが映画の編集において生じる」とお話しいただきました。杉田監督は写真家でもあります。はじめにも写真の話題が上りましたが、映画を撮るときとの違いはありますか?

写真と映画は違う種類のものですね。写真は自分の身体──それこそ手や腕──でそのまま撮りたいものに触れる感覚があります。今その瞬間に判断して、身体が動いてつかまえられる感覚。映画の場合はここだと思う場所にキャメラを置いて、何ならそこから離れていても大丈夫(笑)。録画をはじめて、じっとそれを待つような感覚です。つかまえるときは自分の手でつかんでなくて、獲物に触れているのは罠なんです。もちろんキャメラを置くときに自分の身体は必要だから、途中までは一緒でしょうね。「これを残せるかもしれない」と思って動いていくけど、写真は「今だ!」と思った瞬間に撮る。映画は「ここに置けば、もしかすると何かつかまるかも」と思って、あとは見ているという違いがあります。同じ対象を撮る場合でも、距離はかなり変わってきます。写真は実際に触れられる距離という意味ではなく「今、手が届く」と感じる距離。「置いて眺めている」映画のキャメラの距離とは違いますね。

──時間性より距離の問題ですね。本作に寄せたコメントに筒井武文監督が「『ひかりの歌』を見てしまった衝撃というべきものから、まだ抜け出せないでいる。(…)それは惜しげも無く断ち切られた登場人物の魅力的な存在感に打たれたからではあるが、その視点からの距離のせいでもある」と書いておられるのと関わるようにも思います。また、「この映画(映画だとすればだが)」ともあります。この留保の意味を考えているのですが、監督はどう受け取られましたか?

そうだなって思いました。撮っている私たちが「これは何をしているんだろう?」と思いながらやり続けているところがあるので。1章ずつ2年かけて少しずつ撮って、「映画」と呼ばれるものをやっているようで、「これが何なのか」を最終的によくわからないまま続けていました。だから筒井さんが括弧でくくってそう書いてくださったのは、「あ、ちゃんと見てくれているな」と思いました。そうだよなあって。

──約2年かけて撮られたせいか、テクスチャーに変化が見られます。第1章と第4章では、レンズの深度が変わっていないでしょうか。

深度はそうかもしれませんね。並木愛枝さんと松本勝さんが見せてくれる芝居の影響で、第4章はより人物に向かっていく章になりました。第1章から第4章まで画の雰囲気やリズムやレンズがちょっとずつ変わるのは、飯岡さんはそこまで意識的にやっていないと思います。「今回はこれを撮ります」と私が準備をして、実際に目の前で出来事を起こしていくときに、まずうつすものがあり、それに合ったものとして変化していったのだと思います。第4章に関しては、レンズの選択やキャメラの動かし方、置く位置や撮影する場所を選ぶ以上に、幸子とかっちゃんというふたりの人物の時間をうつしとることがメインでした。

──第4章は車内の切り返しを積み重ねていたり、最もオーソドックスなつくりですね。後部座席から撮ったショットは第3章にもありますが、リズムがまったく違います(編集は第1・3章を大川景子、第2・4章を小堀由起子が手がけた)。

それは主演があのふたりだったからだと思います。私にとって決定的だったのは、撮影初日、古本屋のシーンで店の奥に消えて行った夫に向かって、何か不安になった幸子が名前を呼ぶ。脚本でそうなっていましたが、よーいスタートではじめて並木さんが言うと「かっちゃぁぁぁん」だったんです。そういう呼び方なんだと思って。声の表情やリズムにびっくりして、第4章のリズムに気づかせてくれました。並木さんと松本さんがひとつずつシーンで演じてくださるのを見て、それをどうやったらうつせるか試していったら、自然とそれまでの章とはまったく違うリズムになっていきました。撮る前に決めていたものではないですね。おふたりの身体に決められたんだと思います。

──第3章までは物語が持つ時間感覚も少し異なる印象を受けます。第1章の詩織は臨時教師なので辞めるときが決まっていたり、第2章の今日子が勤めるガソリンスタンドは閉業間近。第3章は旅の話で、ある限られた時間を描く。「終わりがくる時間」として一貫性を持たせようとしましたか?

それは全然考えていないんです(笑)。4つの章立てになっていますが、たとえば最初の章を撮るときに残りの3つについては何も考えていませんでした。ひとつの章を撮るのに頭が一杯で、それが終わると一旦忘れて「次はこの短歌を原作に撮るぞ」と集中してまた終わって、と繰り返していたので、意図していないことのほうが多いんです。

──第3章にも会食のシーンがあり、そこで雪子(笠島智)は解体される家の映像を見つめます。

あれは札幌で知り合った、私の映画ワークショップに参加してくださった方が、取り壊されるご実家を撮ったものです。映像で残したいけど、ドキュメンタリーのようにただ解体の様子を撮るのはできない気持ちがあったようで、彼が考えたのは家の解体が物語に入っているフィクションの脚本を書いて、それを撮るという選択でした。ちょうど私はその映画を見ていなかったので、撮影のときに見せてもらったんです。

──女性の背中越しに解体作業を撮っていますね。監督は壊されるものや失われるものに惹かれるのでしょうか?

そうなのかもしれないですね。なくなっていくものに意識が向かう。これまでつくってきた映画も──これはだいぶ時間が経ってから気づいたことですが──物語のはじめはある場所のある人たちを見ているのが、途中で本当はそこにもうひとり居たはずだけど居ない世界の話を書きがちでした。最初は自分でも気づいていなかったけど、残された人たちの話を撮ることが多くて。何年か前からそれに自覚的になって、私の年齢が40を過ぎたこともあり、「そろそろ居なかった人が帰ってくる映画を撮ろう」と考えたのが第4章です。

──音に関しても伺います。音響担当は黄永昌さん。環境音の拾い方も見事ですが、第2章の終わりで今日子が夜の街を走るときの呼吸音はピンマイクの同録ですか?

車で並走しながら撮ったので、黄さんは後部席から窓を開けてガンマイクでも録っていましたが、基本はピンマイクです。

──他のシーンの音も同録でしょうか?

同録です。第2章で高校生たちが帰る通学路を今日子が逆方向から走ってくるシーンは、道にいくつかマイクを仕込みました。

──ひとつだけ、後で処理された音がありますね。第3章、雪子が始発列車に乗り込んで口ずさむ歌です。

唯一ですね。黄さんがやりたいって(笑)。黄さんはあとでアフレコしたいとか滅多に言わない人で、今まで一緒にやってきたなかで初めてだったかもしれないです。仕上げもだいぶ進んだ頃に、「ひとつやってみたいことがあって試してもいいですか?」と。黄さんがそのように提案するのは珍しいので嬉しかったですね。

──歌はすべてアフレコで?

現場でも実際に歌っていて、アフレコではそれに合わせて録って、途中で合わせながら片方を消していくという作業です。

──歌声が消えた瞬間に雪子の寄りになる編集もいいですね。章の冒頭、フェリーのシーンでは風のノイズも切らずに活かしています。

黄さんの考え方は──私は黄さんではないので代弁してしまうのはよくないですが──「そうであるものはそうである」というもの。フェリーの甲板に出たら風が強くて、「そこで録ればそうなるよ」という人ですね。

──撮りたいものがまず存在していて、そこには音もある。スペクタクルと呼べる事件は起こらないけれど、ここまで伺ってきた撮影・録音スタイルが全編を静かなスペクタクルで満たしていると感じます。しかし、ジャンル映画をお好きな監督なら、スペクタクルを盛り込みたい思いはありませんでしたか?

なかったですね。どうしてないんですかね(笑)。原作が短歌だからでしょうか。スペクタクルな短歌ってないかもしれない。やっぱり短歌って、詠まれている歌が詠っている人についてのものだったり、一人称になるところがあって、誰かの心のうちのことだったりするから、特に今回はそうならなかったですね。あと、色んな方とトークで対談をしているうちにわかってきたのは、この映画で私たちスタッフが立つ場所、見ている場所は登場人物に近い。小説家の盛田隆二さんは「二人称の映画だ」と。「あのとき、君は」というように、「君は」を主語にして語ってゆく小説みたいで、特定の誰かが「君」と呼ぶ感じではないけれど、それに近いものを感じたとおっしゃってくれました。たしかに「君」と言いそうな距離で撮っています。でも、誰でもない視点でもある。これはトークでは恥ずかしくて言わなかったんですが、『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990/ジェリー・ザッカー)の死者の周りをウロウロしている人のような(笑)。ああいう幽霊に似たポジションなのかなと思いました。

──第2章の題名である「自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた」のシーンの距離感もそうですね。遠いか近いかでいえば近いけど、もし自分があの場に居て主人公にあれ以上歩み寄れるかと想像すると、難しい微妙な位置かもしれません。唐突ですが「世界と視線」ということでは、たとえばペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』(2000)はどうご覧になりましたか?

ライターがなかなかつかないシーンや、友人が亡くなって哀しんでいるのに、「せき止めの薬を飲みなさい」という話にスライドして、いま生きている友人の身体を心配しはじめるシーンが好きです。あのあたりに流れる時間は、映画をつくるときによく思い出しますね。

──ツーショットの対話シーンで、あそこで映画の流れが変わりますね。

そういえば飯岡さんは、『何も変えてはならない』(2010)の日本パートの撮影を手伝っていましたね。今お話ししていて、思い出しました。『ひとつの歌』公開時に樋口泰人さん(boid)とふたりでインタビューを受けました。そこでトニー・スコットの話をしていて、私がいちばん好きなのは『デジャヴ』(2006)。あの映画も、戻れない過去の女性をモニター越しに見つめることしかできない男の話ですよね。そういう映画が好きなのは、何かあるんでしょうね。

──あのインタビューはとても面白いですね。『デジャヴ』は時間軸を使って物語を束ねています。4つの章をつなげるためのプランはあったのでしょうか。

なかったんです。ないというか、少しお話ししたように1本撮ったら半年空いて、また1本撮るサイクルを繰り返していましたが、私のなかでは物語以上に気持ちの上でつながり──具体的に言うことのできない──を持ってやっていました。物語の上でも多少はクロスするようにしておきました。でも本来は1本1本を独立した映画と思って撮っていたので、「もしかするとあとで長編にするかもしれない」くらいの意識でした。いよいよ全部つなげてみようとなると不安で、撮った順は1、3、2、4章だったのを、完成した順にして地元の喫茶店で見たんですよ。ヘッドフォンをしてコーヒーを飲みながら、ノートパソコンで2時間半じっと見たら、見られたんです。さらに、ちょっとクロスさせたことを超える「こういう仕草を必ずやっている」「このアクションはどの章にもある」という初めての発見に自分で驚きました。それで、物語上のつながりは薄いけど「もしかしたらいけるかも」と思ったんです。

──たしかに章と章のつながりは淡いのに、4篇を通して見られるのが不思議です。

あ、これもいま初めて気づきました。私はドキュメンタリーを撮ることも多くて、編集するときのコツを見つけたんです。ある程度構成は事前に決めていたとしても、好きに撮ったバラバラな映像をあとで何か理由を見つけてつなげていく作業が必要になりますが、撮っている人がそのとき夢中で撮った映像同士は、脈絡がなくても全部つながって1本の作品になっちゃうんです。試しにやってみてください(笑)。

──早速試します(笑)。本作は作劇上のクロスや視線に加えて、監督のそのときどきの「夢中」でつながった映画ですね。

たとえばあるドキュメンタリーを撮影してから1年くらい経っても、まだ撮っているときのことを覚えている場面だけつなぐと、全部つながるんです。「そのとき撮っている人の本当」が本当なんです。逆にそれ以上のつながりはないともいえます。だから、ものづくりって自分で選んでいることなんてほとんどなくて、「その人がその瞬間選んでしまったこと」が最も信じられる。本作もバラバラな4つの話が1本の映画に見えるのはたぶんそういう理由で、2年間の夏と冬に私が一生懸命見ていた時間だから、くっつけるとつながる。物語とは関係ない部分でつながりがあるからだと思います。

──その時間こそが「ひかり」なのかもしれませんね。これからの各地での上映にも期待しています。

(2019年2月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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