ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

『乙姫二万年』
にいやなおゆき監督インタビュー

昨年8月に神戸映画資料館でお披露目上映会がおこなわれた、にいやなおゆき監督の新作『乙姫二万年』。おんぼろアパートに住む男のもとへある日、「二万年後から来た」という女が訪れて──。設定は古典的なSFかつ民話的でもあるが、素材と技法の細密なコラージュから、アナログとデジタルが混在する異形のアニメーションが生み出された。しかし親しみや郷愁を覚える娯楽作に仕上がったのは、監督のパーソナリティも大いに影響しているだろう。作品世界のもととなる「情景」や、その味わいといえる「ごった煮」感など、上映会翌日にお話をうかがうことができた。

 

──視覚の原風景からお聞かせください。

僕は昭和38年2月生まれで、1月に『鉄腕アトム』(虫プロダクション)が放映開始されたので、生まれた瞬間からアニメーションを見ていたといえます。それから幼いときに好きだったのは、散歩していて、川に浮かんだり沈んだりする空き缶や瓶、くるくる回る葉っぱなどを見ること。数十分見ていてもまったく飽きなくて、親に呆れられていました。

──描くことも幼少期からお好きでしたか?

実は絵を描くのは、いまもあまり好きではないんです。三人兄弟で上の妹は好きでいつも描いていましたが、僕はそうじゃなかった。どちらかというと切ったり貼ったり、模型や紙細工をつくるほうが好きでしたね。映像作品でいえば、小学一年生のときに母親に連れられて大映の『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969/湯浅憲明)を見に行きました。それにすごく感動して、家に帰るとすぐにビニール袋にマジックでガメラとギロンの絵を描いて、懐中電灯で壁に映しました。それが最初の映像作品かもしれないです。

──絵よりも、オブジェなど立体への志向を持っておられたのでしょうか?

そうでもなかったです。たとえば小学生の頃には『マジンガーZ』(1972)が流行っていて、その超合金玩具を買ってもらう子もいましたが、うちはおもちゃをあまり買ってもらえませんでした。だからボール紙をハサミで切って、中に針金を仕込んでセロハンテープで留めたりしてロボットをつくっていました。だから、常に手を動かして──プラモデルもありましたが──紙細工をつくることが多かったですね。でも、それを作品としてつくっていこうという気持ちは全然なくて、むしろテレビで特撮を見るほうが好きだった。純粋美術へ進もうという気はまったくなかったです。

──お好きな特撮番組は何でしたか?

それはもう3歳のときに始まった『ウルトラマン』(1966)でしたね『ウルトラQ』(1966)の本放送もおぼろげには記憶にあります。しかし『ウルトラマン』本放送の後半あたりからは完全に覚えています。そうして『ウルトラマン』で育ったので、円谷プロ作品はずっと見ていましたし、あとはピープロ(ピー・プロダクション)の存在も大きかったですね。漫画家のうしおそうじさんが設立した、円谷プロに比べるとちょっとマイナーで泥くさい特撮番組を制作している会社で、『マグマ大使』(1966)もピープロでした。あとは『宇宙猿人ゴリ』(1971)、のちに改題した『スペクトルマン』、それから『怪傑ライオン丸』(1972)、『電人ザボーガー』(1974)もありましたね。円谷プロが大きなセットを組んで爆発させたりするのに対し、ピープロは零細企業なので、そういうことができない。じゃあどうするかというと、写真を撮ってその上に絵を描いたり特殊効果を施したり、半分アニメーションのような特撮をやっていました。それがとても好きでしたね。

──ピープロの重ね合わせの技法は『乙姫二万年』に通じていますね。

そうですね。『乙姫二万年』はアニメーションだけど、僕は「特撮おもちゃ映画」と銘打っています。ただ絵を描いてキャラクターを動かすのではなく、セット──といっても近所のスーパーからもらってきた段ボールに色を塗ったものですが──を組んでおでん屋をつくってみたり、100円ショップで買ってきたものを写真に撮って、そこへ混ぜ合わせてコラージュしてみたり。ですから、写真と手作りの模型と特撮をごちゃ混ぜにした、テーブルの上でできる小さな特撮映画のようになっています。

──そのような制作過程も含めて、本作は多くの人がイメージするであろうアニメーションからかなり逸脱していますね。

ずっと逸脱し続けていますね(笑)。

──純粋にアニメーションと言い切れないカットもあり、その意味でジャンルを越境した作品だと感じました。これはあらかじめ意識されたものなのか、それとも結果的にそうなってしまったのでしょうか?

結果としてそうなったんだと思いますが、実は越境やジャンルの差って、あまり考えたことがないんです。僕にとっては絵を描くのも模型をつくるのも動画を撮るのも、さほど違いはない。ただ、アニメーション業界の方からすれば、「なんでアニメーションの中に突然実写が紛れ込むの?」「アニメーションなのにキャラクターが全然動いてない」「どうして段ボールのセットで特撮やってるんだ?」と思われるかもしれません。しかし僕はそれを不思議とは感じずにつくっているし、そういうごった煮が自分の作風かなと思っています。

──そのお話を踏まえて、現在のアニメーション作品は「キャラが立っているか否か」がひとつの評価基準になっているかと思います。本作のキャラクターたちもそれぞれ個性を持っていますが、キャラでドラマを進めていくタイプの作品とは違います。

僕は大阪のデザイン学校のアニメーション科を出ていて、本当はアニメーターになりたかったんですが、人の絵を真似して描くことができなかったし、先ほどもお話ししたように、元々描くことがあまり好きではありませんでした。それを掘り下げてゆくと、どうもキャラクターというものに興味が湧かないんです。子供の頃に『ウルトラマン』や『オバケのQ太郎』(1965)の落書きをしたこともありましたが、いまアニメーターになりたい人って、キャラクターがすごく好きで「このキャラを描きたい」という気持ちを持っている方が多いと思うんですね。ところが僕はキャラクターに興味がない。現在テレビで放映されているアニメーションは、実写映画と同じようにキャラクター同士がセリフを発して動いて走って、それをカメラが追いかけることでドラマが展開していく。そういうことをやりたい気持ちがあまりない。そもそも本作はドラマより「情景」を描こうとしました。情景とは背景ではない、ドラマも含み込んだ全体の光景みたいなものです。キャラクターもその情景の一部として、実写や模型や特撮映像がごちゃ混ぜになった中に存在している。一般的なテレビアニメやドラマを見ている人からするとびっくりされるかもしれませんが、ドラマでなく情景を中心につくられた作品だと思って見ていただきたいですね。

──キャラクターを動かさないのも、そういう理由からなのですね。

キャラクターも情景の一部なんです。実験的にキャラクターを動かしてみたこともあります。そうすると、目がそっちに引っ張られる。キャラクターを動かすドラマであれば当然のことですよね。でも本作は情景をじわぁっと見せていく作品なので、キャラクターが動くとそちらに視線が引っ張られて「情景」全体を見てもらえなくなる。だけど何も動いてないわけではなく、最初にお伝えした缶の浮き沈みや葉っぱの回転と同様に、現象は動かしている。爆発や煙、水の流れなどは動いていて、キャラクターたちもそこに情景の一部として存在するわけです。

───そこで驚いたのが、制作にCGソフトを使っていないことでした。

いまアニメーションをつくるならアフターエフェクツを持っているのが普通ですが、僕は持っていません。そもそも古い人間で、手作業でものをつくるのが好きで始めたので、使っているのはフォトショップとプレミアのみです。描いた絵や模型、風景など様々なものを写真に撮って、フォトショップでレイヤーを分けて合成していき、それをプレミアの中で動かす形を採っています。言ってみれば「書き割りアニメーション」みたいなものですね。書き割りアニメーションとは、たとえば人が歩いている様子を一枚一枚写真に撮って、ハサミでチョキチョキ切ります。それを机の上に針金を使って立てると小人のように見える。さらに順番に置き換えてゆくと、切り紙の小人が机の上をちょこちょこ歩く動画ができます。僕は武蔵野美術大学の1年生の手づくりアニメーションを担当しているので、そういうことを学生と一緒によくやるんですね。書き割りアニメーションや切り紙アニメーション、影絵でアニメーションをつくったり。実際に手で触るアニメーションをずっとつくっているので、本作もテレビアニメーションに比べると雰囲気は全然違いますが、手で触ってつくる色々なアニメーション技法の集大成的な作品だといえると思います。

──「2.5D」とも銘打たれていますが、これが示すものは何でしょうか?

2.5Dという言葉はすでにあって、ある劇団がテレビアニメーションやゲームを生身の人間が演じるのを「2.5次元ミュージカル」と称しています。言葉としては似ているけど、本作の場合は単純におもしろがって付けたものです。手前に人が立っていて、その向こうにビル、さらにその奥に雲が浮かぶ書き割りがあるとして。手前の人物を左に、中景のビルは動かさず、遠景の雲を右にスライドさせると立体感が出ますよね。予告編でも伝わるかもしれませんが、両目で見ると平面だとバレるのが、片目だとそれがわかりにくくなって、結構立体的になるんです。写真もそうで、展覧会で大きな写真を片目で見て、立つ位置を少し調整すると、ここというポイントで突然すごく立体的に見える現象が起こります。カメラのレンズはひとつなので、目をひとつにしたほうが立体感を感じることがあります。本作も片目で見ていただくと立体感が増す。半分シャレだけど、それで2.5Dと呼んでいます。

──平面と立体でいうと、『人喰山』(2009)は平面の特性を活かした作品でしたね。

そうですね。あの作品は「紙芝居アニメ」。水墨画の人と風景を、ズームなどのカメラワークで引っ張って見せていきます。本作はレイヤーを組んで動かしているので、そこが『人喰山』と似ているようで違いますね。平面と立体に関していえば、やっぱり模型や立体をつくるのが好きなんですよね。だけど、つくりたいのはアニメーション。それから最近はそれほどでもないですが、写真が趣味でそれでも映画をつくりたい。絵を描くのが好きではないのにアニメーションをつくりたいのも矛盾していますが、その矛盾をひとつひとつ混ぜていくと『乙姫二万年』になるのかもしれないですね。

──その矛盾も「ごった煮」のひとつの要素ですね。映画の舞台のアパートは監督のお住まいをモデルにしています。そこで火事が起こるのも実体験でしょうか?

そうです。むかし住んでいたアパートを火事で焼け出されて、そのときに6年ほどかけてつくった『納涼アニメ電球烏賊祭』(1993)のフィルムやカメラなども燃えてしまい、何にも無くなりました。だから火事のシーンの絵はうまいと言われますね。そりゃもうひどい目に遭いましたから(笑)。

──フィルムが失われたのは残念ですが、お話を伺うと、本作はSFでありながら私小説的な要素も大きいですね。

むしろ自分のドキュメンタリーみたいなところがあります。舞台のアパートはいま住んでいるところだし、背景に使った写真や混ぜ込んだ動画は十年以上、武蔵野美術大学に通いながら、その道々で撮りためたもの。一枚一枚の写真やひとつひとつの動画に思い入れがあります。自分の住んでいる部屋を段ボールの模型で再現して、そこに様々な写真や動画を合成しているので、言ってみればこれはすべて自分史なんです。

──にいや監督は短編の日記映画も撮っておられます。突飛な発想ですが、日常を映画に取り込むジョナス・メカスがデジタル技術を過激に駆使すると、『乙姫二万年』のような作品ができるのではないかと思いました(笑)

デジタルでつくっているとはいえ、ほとんど手作業の「家内制手工業」ですからね(笑)。

──どの手作業もただならぬ根気と集中力を要したと思います。その中から特にこだわったものをひとつ挙げていただけますか?

予告編には映っていませんが、幽霊船が登場します。頭から炎を上げて迫ってくる骸骨の顔をした非常に怖い船で、これは500mlのペットボトルと電球で形を作り、紙粘土をペタペタと貼り付けたものです。単純な紙粘土細工だけど、頭に蝋燭の火を合成して、嵐の海を幽霊船が通り過ぎるという、なかなかいい特撮ができたと思っています。せっかくなのでもう一つ、登山シーンの雪山はなんで出来てるでしょう。考えてみて下さい(笑)。

──これからご覧になられる方への「お楽しみ」ですね(笑)。制作中のセットの写真や合成プロセスの解説付きで見る機会があればより一層楽しめる作品です。さて、物語は主人公の「夢を見た」というモノローグで始まります。さらに作品を見終えると夢に似た感覚にとらわれます。このモチーフについてもお話しいただけますか?

夢を題材にする作家は夢日記をつけたり、むかし筒井康隆さんが夢に入り込み過ぎて白髪になったという逸話もあります。でも、それほど真面目に考えたわけではないんです。見た夢をちょこちょこメモして、「ああでもこうでもない、何か形にならないか」と考えた程度で、『乙姫』の場合はまず酒を飲んで寝るわけです。そこで見た夢を目が覚めたらメモしてまた酒を飲んで寝る。そしてまた起きると変な夢を見て……、そのサイクルが一か月くらい続きました。非常に身体に悪いアイデアの出し方ですね(笑)。

──次作では控えてください(笑)。アパートもひとつの箱と見立てると、本作には幾つかの箱が登場します。ひょっとして、箱に対するオブセッションをお持ちではないですか。

神戸映画資料館での上映後の質疑応答で、お客さんから牛乳瓶に関して「何か意味があるのか?」と質問がありました。段ボールやアパートもそうですが、それが何かを分析することはできません。ただ、やっぱり大きなものの中に小さなものが入っているのは画になりやすい。絵描きは意味があって描くのではなく、画になりそうなものを本能的に描いていきます。後付けで理由を探すこともあるけど、大きいものの中に小さなものが入っている、あるいはその逆の構造は、画になりやすいのだと思います。映画の構造もそうで、テーマや物語、撮影方法など色々な事柄がありますが、突き詰めれば暗いところから明るいところに出たり、狭いところから広いところに出る。その逆もあれば、高いところから低いところへ落ちたり、下から上に上がる。本質的にはそういうことですよね。それを画で一目でわかるように効果的に示そうとしたら、箱みたいなものが出てくるんじゃないでしょうか。

──では無意識はどうでしょう。意図的に創作に織り込もうとされましたか?

何かあるのかもしれませんが、分析すれば描けるわけではありませんから、結局「おもしろいよね」と思いながら描いて、あとから自分で意味を発見していくことのほうが多いですね。でもその発見が正しいかどうかもわからない。『乙姫』はものすごく変な作品で、見る人によって受け取り方や考え方がまったく違うと思います。ストーリーはちゃんとあります。そこからドラマを展開させれば2時間の作品になるかもしれない。深夜アニメ1クール分くらいになるストーリーはつくっていて、設定もいっぱいありますが、それはわざと見せていません。そうではなく、お客さんの目をあちこちに連れて行って、情景を直接目撃してもらうつくり方をしています。ストーリーも過去へ行ったり未来へ行ったり、またはパラレルワールド的にまったく別の世界へ行って、そこを目撃したお客さんが頭の中で思ったように広げてくれればいいなと。箱にもあとから意味付けできますが、本作は「なんとなくおもしろい」と感じながら──つくっているときの僕自身がそうでしたから──見ていただいて、あとで色々と想像してもらうほうが楽しいでしょうね。僕は基本的に笑ってもらえないと嫌なので、単純に驚いたり笑ったりするショートショートの映像集のような形にしています。何も考えずに「あ、変なことやってるな」と思いながら見てもらえれば、本当はそれで充分です。ただ、それを解釈しようとすると幾通りもできる仕掛けはしてあります。

──池なのか湖なのか、水面の実景がはさまれています。ほかにもある実景の配置も感覚的なものでしょうか。

池は、井の頭公園ですね。ひとつひとつのショートエピソードの幕間に実写映像をはさみ込んでいます。いちばん最初に友達に見てもらったときに「章立ての変わり目が欲しい」と言われました。次から次へとエピソードを詰め込むと頭がパンクしそうになるので(笑)、あいだにはさみました。こういうものが入ることによって作品世界の時間が直線的ではなくなり、作品の幅が広がりゆったりします。ぎゅうぎゅうに詰めた感じが無くなって、世界観が広がるので入れています。

──ストップモーションとスローモーションを使った、絵から写真、そして映像へと視覚表現の歴史を追うような国分寺駅のカットのリズムもおもしろいですね。

これまた「こうやったらおもしろいな」というだけですが、いつもカメラを持ち歩いて動画や写真を撮っています。あそこはデジカメで撮った普通の動画を、静止画でひとコマ抜き出しました。それにフォトショップをかけて油絵調にしてみたり、水彩画調にしてみたり、もっといじって色を変えたり。1枚の写真から様々な加工を施したのものを数種類つくります。最初は静止画で油絵調のものをポンと見せて、加工した数種類の画をフラッシュさせて動画に切り替えると、絵が意志を持って突然動き出したようになる。さらに、それをスローモーションでゆったり見せていくと、時間の感覚が狂うんですよね。さっきお話しした「ドラマを見せたいわけではない」ということにつながると思いますが、やはり情景を見せたいんです。回転する木の葉や浮き沈みする缶や瓶と同じで──僕は「無時間性」とよく呼んでいますが──見ているうちに時間を忘れることってありますよね。おそらくそれがいちばん好きなんです。意図を持ってじゃなく、自分が気持ちいいようにつくっていますから、そういう動画をもとにした疑似絵画が動き出して、スローモーションになったり逆回転する映像を幾つも編集して、じーっと見ることで現実の時間から離れることができる。そういう効果が好きなんでしょうね。

──声の出演者やスタッフがおられるので共同作業ですが、にいや監督作品は個人映画の側面も強い。音楽に喩えると、ライブよりもスタジオワークに力を注ぐミュージシャンに近い印象を受け、大滝詠一さんを思い浮かべたりもしました。

亡くなられた大滝さんについて書かれた文章を読むと、考えたりやっていることは近いと思いました。サンプリング的に自分の中で組み上げたものを変容させてゆく作業をずっとやっておられた方ですね。

──大滝さんは編集感覚がすぐれていましたが、切り貼りしたり、細かな配置や効果を考える監督のお仕事にもそれを感じます。編集者的ともいえるでしょうか。

編集者気質はあるでしょうね。「こういう絵を描きたいんだ!」とバーンと一枚描くファインアートではなく、色んなものを寄せ集めて、人がつくったものも混ぜ込みながら、ひとつのものをつくっていく。しかもそれがどこかで完結するということもなく、ずっといじり続けるのが楽しいんです。

──カメラを回す段階で、フレーミングなどに編集の感覚が働いていますか?

むかし木村伊兵衛がライカを携え着流しでふらふら歩いて、向こうのほうに子供が遊んでいたら「こうなるんじゃないか」と動きを予測してカメラを構えて一瞬でシャッターを押したといわれていますね。それと同じで、動画を撮っているときにも次に何が起こるか、こう動けば光もこう変わるだろうと考えるのはもう習性です。ただ闇雲に撮っていると終わらない。頭の中で絵コンテを描きながら目の前の風景を撮っています。でも、ドキュメンタリーを撮っている人たちもそういうことをやっているでしょう。僕はそもそもアニメーションで絵コンテを描く人間ですから、実写は「アニメーション作家が撮るドキュメンタリー」のようになっているのかもしれないですね。

──アニメーションの利点は現実には撮れないものを表現できることです。しかしそこにドキュメントが入り込んでいるのがユニークですね。

まあ舞台が自分のアパートですからね(笑)。

──これも本作のハイブリッド性をめぐる質問ですが、ミクロな世界とマクロな世界が共存しています。映画が進むに連れて、人やもののスケール感が段々と溶解します。画面設計はどのようにおこなったのでしょう?

これも先日友達に指摘されたことで、河原の場面がありますよね。カメラが空の雲から延々とパンダウンすると、そこに巨大な雀の死骸が転がっていたり、小さな家があったり縮尺がバラバラです。大きく映る人間がいますが、あれはNゲージの5ミリ程の小さな人形を画面いっぱいに映しました。巨大なビルを小さくするのも、わざとやっています。それも絵描き的な勘によるもので、そういう大きなものも小さなものも、絵も写真もごちゃ混ぜになった世界が、もともと体質的にあると思うんですね。だからミクロとマクロも混ざっている。
さっき入れ子構造の話題が上りましたが、普通であれば入れ子は大きいものの中に小さいものが入っている。ところがこの作品ではその逆もあります。箱と箱のあいだに通路がつながっていたりと、まあぐちゃぐちゃなんですが、ジャンルの横断ではなく、ジャンルがぐちゃぐちゃですよね(笑)。「何があってもおかしくない」といった感じの作品になりました。

──縮尺をきっちり定めると箱庭的になりますが、本作のスケール感はそうではない。35分に多くのものを凝縮していても、窮屈さを感じさせないのは、それも関係あるのかもしれません。冷静に見るとスケール感が狂っていますが(笑)

狂いまくってますね。何でもかんでもサンプリングして貼り混ぜているので、映っているものに優劣がないですよね。どれが主役ということがないのも「情景を見せたい」という事につながりますね。キャラクターを動かすとそれが主役になってしまう。だけど、この作品は映っているもの全部が主役ですから、どこを見てもらってもいい。『ウォーリーを探せ』ではないけど、絵本を隅から隅まで舐めるように見る経験が子供の頃にあったと思います。舐めるように見る絵本と、すごろく的ストーリーがごっちゃになった作品で、よくも悪くも穴だらけ、ノイズだらけともいえますが。目に見えない設定も含めて様々な物や事が自由に出入りできるようにしてあります。

──観客がアクセスできる穴ですね。アニメーションを含めて多くの映画制作では、観客の視線を滑らかに誘導する作業がおこなわれます。本作は特権的な存在がないのでどこを見ていいか迷いますね。しかそのカオスも楽しいです。

カットとカットのあいだで視線誘導はもちろんやっています。カットが変わるときに目を持って行ってもらわないといけないところはあるので、その作業はおこないましたが、カットの中はもうカオスですね。『人喰山』もブリューゲルやボッシュのようだと言われました。あちらこちらで、そしてはるか果てでも何かやっていて、それを一望できるつくり方をしていましたが、本作にも似た部分があります。

──主人公の声は加藤賢崇さんが担当されました。声のキャスティングはどのように?

主人公の男の声を考えたときに、「二枚目声」もどうも違うし、自分でやるのも違う。『人喰山』では僕が弁士をつとめたけど、今回はできるだけ出ないようにしたかった。加藤賢崇さんは、過去に映画美学校でお会いしていたんです。僕が特撮を担当して、賢崇さんが出演された植岡喜晴監督の作品(『月へ行く』2001/映画美学校)があって、ご挨拶はしていたんです。あのちょっと力の抜けた声で出てもらったらおもしろいんじゃないかと考えました。主人公は特に目的もなく、ただダラダラ生活している『男おいどん』(1970/松本零士)のような男で、そういう雰囲気を出せるのは賢崇さんの声かなと。ただずいぶん遠い地方に住んでおられると聞いていたし、難しいかなと思ったんです。Twitterでもフォローしていたけど言い出しにくくて。するとある日、賢崇さんが僕の近所の自転車で15分ほどのところに引っ越してきたと書いていた。そこで思い切ってTwitterでオファーしたら「いいよ」ってその場で快諾してもらえて、本当にありがたかったです。あとは変なおじさん役で仁科貴さんにも出ていただきました。仁科さんは川谷拓三さんの息子さんで、顔も声も演技もそっくりなんです。以前から映画関係の友人を介した知り合いで、『人喰山』を見て喜んでくれて「次は俺を出してくれ」と言ってもらってました。だったら出ていただこうと。花見の席でご一緒した際に「ヤクザの役があるので」とお願いしました。やってもらうと、やっぱり川谷さんの息子だけあって、滅茶苦茶うまくて120点のクオリティなんだけど、川谷さんの流れですからチンピラにしか聞こえない(笑)。

──数々の東映作品での川谷さんの姿を思い出しますね。

フランケンシュタインの怪物みたいなヤクザを想定していましたから、ちょっと違うなと考えて。結局もっとも難物の、どう演じたらいいかまったくわからないキャラクターをお願いしたら、仁科さんがすごく困って(笑)。どうなったかは見ていただいてのお楽しみですが、さすが仁科さんだけあって芸があるので、変で捉えどころのないキャラクターを親しみやすく演じてくれました。

──声の抑制がかなり効いています。発話・発声という点で小津作品に通じるものがあるのではないかとも感じました。声の演出も監督がつけられたのでしょうか?

「ああしてください、こうしてください」とは言いました。でもドラマではなく情景を見せたいので、基本的にリズミカルなセリフのやり取りはない。いま初めて小津さんと指摘されておもしろいなと思いましたが、昨日友人と話していたら「相米慎二だ」と言われたんですよ。もちろん相米作品にはストーリーがありドラマを描いているけど、顔のアップの切り返しやド派手なセリフの応酬などをやりませんよね。あの人もドラマじゃなく情景を描いています。キャラクターはセリフを通してやり取りしているけど、カメラはキャラクターだけじゃなく、後ろを走る車や木や遊具や、様々な物や事を同時に写しています。相米慎二はドラマ自体より、情景全体を見せたかったのだと思います。作品の方向性は違いますが、僕と体質が似ているのかもしれないですね。いまおっしゃられた小津安二郎という人にもそれはあるのかもしれません。ロイドの喜劇などに影響を受けて、普通にリズミカルな演出はできるに決まっている。しかしやりたかったのは、ドラマを含み込んだ情景を見せることだったのではないか。いまそう思いました。特に大滝さんや相米さん、小津さんのファンではなかったけれど、もしかすると見ているものや見方が近いのかもしれない。缶や瓶の浮き沈みや雲の流れをじーっと見つめるのが好きな人種っているんです。でも最後にお伝えしておきたいのは、本作は小津監督作とまったく違う、なんでもあり・ごった煮のおもちゃ特撮映画。宴会みたいな作品なので、よろしくお願いします(笑)。

(2019年8月26日・神戸にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

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