インタビューWEBSPECIAL / INTERVIEW

『パラダイス・ロスト』
福間健二監督インタビュー

デビュー作『急にたどりついてしまう』(1995)から25年、福間健二の長編第6作『パラダイス・ロスト』が関西でも公開された。ヒロインが亡き夫からのまなざしの中で、その異父弟との恋を通して世界を再発見してゆく物語のコピーは〈ゼロからはじまる自分に会いに行く。〉。これは過去作の意匠や技法を踏襲しながらも、詩と映画の往還やその表現の在り方を問い直す監督みずからの実践にも当てはまるフレーズだろう。その新作について、お話を伺った。

──『わたしたちの夏』(2011/以下、『夏』)も夏の映画でした。ただし、アラフォー女性の物語で、今回は10歳ほど若返って30歳の女性をメインにしていますね。

和田光沙さんと小原早織さんに出てもらいたくて、役柄は少し違うけど、ふたりの実年齢に近い女性たちが中心にいる物語を考えました。

──前作『秋の理由』(2016)は60代手前の男性ふたりをメインにした映画でした。監督が女性映画に戻ってきた。そんな印象も受けます。

戻ってきたというか、『秋の理由』で自分に近い男性の映画をやってみたのを除けば、ぼくは女性をずっと描いてきた。それは映画をつくる大きな楽しみにもなっています。

──本作で引用されているのは原民樹と木下夕爾。前者は『夏』に続いて二度目です。監督にとって特別な作家なのでしょうか。

すごく詳しいわけではないけど、この作家に対しては何か掴んでいると思えるところがある。被爆する前に妻を亡くし、さらにその前の段階で彼は人生の先に待っている悲劇を感じ取っていた作家なのではないか。そこから何か理解できるように感じるんです。最後は自殺するわけだけど、その直前に書かれた、本作にも引用した「心願の国」では死の先に大きな愛を考えている。若い頃から死を見据えて生きてきて、引用した部分でいえば、「だが、人々の一人一人の心の底に静かな泉が鳴りひびいて(…)」の一節があらわすように、その先に希望があり、それがいつかは地上に訪れるのをずっと夢見ていた作家だと思う。その部分に惹かれるし、何か「わかるな」という実感があります。

──『夏』は原爆による多数の死者が物語の基底に置かれていました。本作はヒロインの夫・慎也というひとりの男性の突然死からはじまります。死に対して、別の視点や発想を持っておられましたか?

たしかにひとりの男の死から映画がはじまり、その視線がずっとつきまとっている。それは閃きで生まれた映画の流れですね。撮る前には室野井洋子さん(1958-2017)と首くくり栲象さん(1947-2018)の死があった。ふたりはダンサー、パフォーマーであり、ぼくがずっと刺激を受けてきた人でもあった。本作は、ふたりがもう向こう側にいると意識しながら考えました。室野井さんの引用映像も、前に出演してくれた『夏』での原爆のイメージや、ヒロインにとってのこちら側から向こう側への入口に立っていた姿が重なっているので、特に今回は違うということはないかな。慎也の人物像は、そのときの勢いでつくられた部分もあります。

──慎也が踊る場面は、室野井さんの引用映像と対になっているとも捉えられます。

そうですね。室野井さんの映像には、実生活のパートナーの高橋幾郎さんのドラムの音が付いていて、それをそのまま使った。それに対して慎也はどうするか。まだ向こうに行き着いていない慎也を演じる江藤修平くんが考えてくれた。そしてぼくも普通の死者の現れ方では駄目だ、何か違うものを、と求めました。踊りがあることは伝えていたけど「じゃあこうするしかない」というものをあそこで見せてくれた。

──このシーンは真正面からのフィックス・広角レンズで撮るフラットな画づくりがなされていますが、死者と生者の捉え方もまたフラットです。

本作だけじゃなく、生と死の境目のはっきりしない部分をどうやって掴むのか、あるいはその境界を超えるのか? 原民喜や木下夕爾の詩はそうだし、映画は夢と現実が出会う場所だというのもずっと考えていることです。生と死の境界が取り払われる瞬間をなんとか撮りたいと思っていて、特に今回はそれを強く意識しましたね。でもそこには「こうなったら死者が現れる」とか「こうすれば現実が夢の世界に通じる」というルールが存在しない。大事にしたのは、その場の雰囲気。慎也の姿がどんなときに見えるのかは決まっていない。その辺りは思いつきで生まれたところも大きいので、観客の皆さんがうまく入り込んでくれるといいんだけど、考え過ぎてしまうと「これはどうなっているのだろう?」と思われるかもしれない。そんな心配も抱きながら、でも思いっきりやろうと踏み切りました。

──そして本作は物語の語りが速いですね。和田さん演じる亜矢子と、我妻天湖さんが演じる翔の関係の変化も省略を使ってスピーディーに描かれます。

本作には青年と、年上の女性のひと夏の恋という面もあって、そういう映画の描き方には大体ふたりが惹かれ合い、何か障害が起こり、それを乗り越えるというパターンがある。ぼくの映画にもないわけじゃないけど、それよりは和田さんと我妻くんが「そこに行ってくれればいい」という思いでしたね。我妻くんには、翔が劇中で語るようにトルストイの『性欲論』を読んでもらい、それなりに共感してもらった上で撮りました。その翔が亜矢子と結ばれるということが本当に起こりえるのか。そこも「起こしてもらうんだ」というつもりでいました。シナリオの流れや段取りで持っていくのではなく、ふたりの気持ちがそこへ向かっていってほしかった。そうなれば、小原さんと木村文洋くん、佐々木ユメカさんとスズキジュンゾくんが演じるカップルもいい感じで人生の次のステップへ進めるだろうと。どこがどうつながっているというよりも、ただ「いけるんじゃないか」という直感を持ってやりました。

──3組のカップルと彼らを取り巻く人たちを演じる出演者は、演技の経験や水準がバラバラです。それでも全員に存在感がある。演出はどうされていたのでしょうか。監督は振付師的な演出はしないですよね。

ぼくも自分で一体どうしてるんだろうと思うけど、よく言われる「リアル」や「ナチュラル」とは違いますよね。ひとつは人をよく見ているということ。撮っているときも、撮り終えたラッシュでもよく見て、その人のいいところを捕まえたい。キャラクターがどうこうというより、「人間がこう見えるのがいい」と考えているのかもしれないですね。

──その見方は『夏』からずっと撮影を手がけておられる鈴木一博さんと一致していますか?

それがそうでもなくてね(笑)。一博カメラマンには彼の掴みたいものがある。ぼくはそうファインダーを覗くタイプじゃないけど、自分なりに掴もうとしているものがあって、それが一致することもあれば、異なることもある。厳しい闘いになっているときのほうが多いかもしれない。

──先ほどお話ししたフラットな画づくりは過去作にもありましたが、フレームへの人の出し入れの仕方はこれまでにないものです。演劇に近い動きともいえるでしょうか。

カット割りを考えるときに、人物の出し入れだけで撮れてしまうのならそれでいいんじゃないかと思って、数シーンやっちゃいましたね。仮に演劇的になっても、ぼくはやっぱり「映画」を撮っているので大丈夫だろうと。あとは『急にたどりついてしまう』以前から考えていた要素が色々入っていて、若松(孝二)さんの効率のいい撮り方の影響もある。我妻くんの存在も大きかったですね。1997年生まれの彼の世代を撮っていると、若松プロ的な感覚が甦ってきた。「翔がいるから大丈夫。演劇よりは若松プロに近づいている」とだんだん思えてきました。

──詩をどこでどう使うか。シナリオの段階で固まっていましたか?

シナリオではどちらでもいけるようにしておいて、結果として現場で即興的に考えたほうが多いかな。ぼくの映画はシナリオから実際に撮るまでの進め方が直線的ではない。ただ、「シナリオと違うことをやろう」とその場で思いついたり、編集で入れたものが多いようでも、意外とシナリオ通りだったりすることもある。それはシーンによって違うし、そのほうが面白い。同じようなつくり方をしていないものが混ざり合っているのがいい。

──『あるいは佐々木ユキ』(2013/以下、『ユキ』)もインタビューと詩とフィクションが混ざり合う構成でした。現場で思いついたアイデアが最もうまくいったシーンを教えていただけますか?

翔が公園でケーキの小箱を持ってブラブラしていると、慎也が現れる。彼がフレームアウトするとヒラカズ先生(森羅万象)が入ってくる。あそこもワンショット。一博カメラマンとも「ここはワンショットでいけるよね」と。あれに対して映画が何をできるか考えて撮ったのが、そのあとの翔と亜矢子の切り返し。そこで鳴るドラムは、現場のぼくの頭のなかで鳴っていた。あの切り返しの勢いで続く展開、そして翔が「人を好きになるってどういうことでしょう」と言えるまでを、ノリで持っていけた。

──あそこは劇中唯一といっていい、オーソドックスな切り返しですね。

映画を撮っていると、わからなくなることがあって、朝の連続ドラマなどをつい見てしまうんですよね。「ああ、こういうふうに撮っているのか」と思って現場に行くと、全くそれをやりたくなくなる。ただドラマをなぞっているだけになるので、できるだけ切り返しはやらないんです。死者の視線で考えても、ああいうふうには見えない筈だしね。でも、あそこだけは必要だと思いました。

──その結果、印象深いシーンになっています。さて近年、詩を使った映画が何本かありました。『パターソン』(2016/ジム・ジャームッシュ)、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017/石井裕也)、『わたしは光をにぎっている』(2019/中川龍太郎)。どれも良作でしたが、詩との関わり方が本作とは異なるように感じます。

ジャームッシュは詩を「使っている」わけですよね。まず詩があって、その詩を書きそうな青年や読む少女のキャラクターが生まれる。詩からつくっている映画ではあるけれど、映画自体が詩になろうとはしていない。そしてジャームッシュがいるのは詩をつくる場所ではない。『パターソン』は優れているけど、(引用した)ロン・パジェットの創造そのものとはあまり関係がない。ぼくが狙うのは、映画自体が原民喜や木下夕爾の詩になろうとするところ。『夜空は』もよかったけど、あれは逆に最果タヒさんが言葉だけでつくっているものにイメージやドラマを与えて、詩から遠ざかるようにして映画が出来上がっている。『わたしは光をにぎっている』は、ヒロインの気持ちの転換を詩でうまく補っていた。でも、ぼくはそれとは違うところへ映画を持っていきたい。

──亜矢子とユキのセリフの掛け合いが詩へ移行するシーンも面白く、演出に監督の作家性──そういうと大げさかもしれませんが──があらわれています。

あそこは、ミュージカルなら歌を歌っていればいいけど、セリフが詩になってゆくのはやってみないとわからなくて、テイクを幾つか重ねました。映画に使っているのは最初のテイク。撮りながら「もう少しこんなふうに」とも考えたけど、それほどうまくいかなくて、あまり練らずにやった最初のテイクになりました。ぼくが考える前の、軽くやってもらっているときに出てくる新鮮さがあって、そのためにセリフを言うのではない。そこに加えたいものとして詩が存在します。そういう点でも映画全体が詩になってゆく。

──さらに作家性を考えれば、『ユリイカ』97年10月号(「特集*日本映画 北野武以降」/青土社)の「この企画が撮りたい!」というアンケートに参加しておられます。当時は『急にたどりついてしまう』の次の企画が行き詰まっていた。その原因を「1960年代から出会ってきた表現に対して、総決算的に、なにかしたい、と考えてしまうのがつまづきのもとか」と自問されています。しかし本作ではその表現への総決算がうまく成し遂げられている。具体的にいえば、ヌーヴェルヴァーグとロックです。

そうですね。意図したわけではないけど、何となくそうなったのかな。60年代、若松プロ時代のことを思ったのは、やっぱり『止められるか、俺たちを』(2018/白石和彌)が発表されたからでしょうね。あの作品には当時のぼくが「福間くん」として登場して、演じた外山将平くんにその役のまま本作に出てもらいました。自分への挨拶みたいな意味もあって、福間くんは映画を撮りたいけど撮れなくて悩んでいる。可愛いですよね。そうして60年代以来のことを色々思ったし、ゴダールということでいえば、ゴダールに足りないものがはっきりしたことも大きい。60年代にはあったけど最近のゴダールにないものは、やはりこの地上に存在する人への愛。それが明確になって、自分はそこをやればいいんだと思えるようになった。

──おっしゃる通り、少なくとも2010年代以降のゴダールはかつてのような愛を撮らなくなりましたね。本作に見られる技法が同じでも、その点が決定的に異なります。

ゴダールはすごい作家だけど、地上に人が生きていて植物があり動物がいることへの根本的な愛が欠落している。映画を撮っていると、そこに人がいることをありがたいと感じる瞬間があってね。それがぼくの映画を支えていて、ゴダールに負けないぞと思ってつくっています。

──ゴダールは、福間映画に出てくるような料理や食事風景も撮らないですね。

もともと食べることは大事だと思っているし、「人を招いてごちそうする映画」というモチーフも本作にはある。個人的には食事のシーンはまだ物足りないくらい(笑)。

──どれもおいしそうに撮られています。とはいえ、時間が経つほど鮮度が薄れる食べ物は撮影にとってひとつの鬼門です。

それもあるし、そこでも一博カメラマンぼくの意識が違っていたりする。だから食べ物を撮るのに結構苦労はしているけど、「料理が出てきてよかった」と言ってくれる人がいると嬉しいですよね。

──食事をはじめ、本作には過去作の要素が多く含まれています。監督の映画には必ずどこかにデビュー作からの接点を見出せる。こうした連続性は今回も意識されましたか?

「そうしよう」と意識したわけじゃなく、小原さんの存在によるものでしょうね。彼女は何らかの形でぼくの作品に出つづけてくれていて、『秋の理由』でも「佐々木ユキ」という役名はないけど、ユキ的な存在としてね。本作も『ユキ』のユキなのか、別のユキなのかはわからない。ただ、お寿司をつくるシーンで彼女がごはん粒を口に入れるアクションを見せた。これは『ユキ』とまったく同じで、演出ではなく、彼女が偶然やったことだけど、やっぱりあのユキだなと監督として思ったんですよね。小原さんも戸惑いながらやっているかもしれない。でもぼくのやりたいことをわかっていてくれている感じがする。今回、彼女はスケジュールがきつくて、トータルで2日も来ていないけど、その分いろんな姿を見せてもらおうと思った。それがまずあり、映画監督の講平(木村文洋)のシナリオのなかに彼女がいたという設定もあとから生まれたもの。そういうところは「連続性」というよりも楽しんでやっていますね。そして、ひとつの映画をずっとつくり直している感覚がどうしてもある。本作であれば、ユキと亜矢子の出会いはほんの少ししか描かれませんが、その出会いをまた別の形でやってみたい。ひとつの映画で描き残したことを、やり直すとどうなるのかなって。かつてやったことをなぞるのではなく、別の形としてつくり直してみたい。

──パンフレットに掲載された木村さんとの対談で、ユキの存在をトリュフォー作品のドワネルにたとえておられて、成程と思いました。「つくり直し」では小原さんの捉え方は『ユキ』と似たところがあります。ただ、『ユキ』はほぼフィックスで撮られていたのが、今回は手持ちを多用していて、その対比も興味深い点です。風景を追っていくと、屋上は『夏』にも使われていましたね。

あのときとは違う屋上だけどね。でもいい場所で撮れました。植物の入れ方なども『夏』からずっとつながっているものがあります。

──その緑が茂る森も福間映画に欠かせない風景です。これまで同様に国立の公園で撮られたのでしょうか。

後半で佐々木ユメカさんとスズキジュンゾくんがピクニックに行くシーンの森は、『あるいは佐々木ユキ』とつながる大体同じところですね。慎也が倒れていたり、そのあとに出てくるのはまた違う場所。今回初めて見つけて「こんなところがまだあったんだ」と。

──『秋の理由』公開時にも伺いましたが、『夏』以降の3作はキャノンのEOS5D MarkⅡで撮られています。本作でカメラは変わっていますか?

同じです。一台のカメラでいろんな映画を撮れたら面白いと思ってね。

──前作までとは画のタッチが微妙に変わっていて、同じカメラとは思えないですね。『夏』でも見られたストップモーションについてはいかがでしょう。『夏』のヒロインは写真家で、映画と写真の関係からこの技法を考えることもできました。

夢はすべてスチールで構成してもいいかなと考えたこともあったけど、この形になりました。ストップで完全に止まった感じにしてしまうのも嫌なので、少しずれたようなところで止めています。

──予期せぬタイミングでストップモーションが来ますね。その編集はこれまでと同じ秦岳志さんが担当しています。現在は大阪に住む秦さんとの作業で何か変化はありましたか?

最初のラフをつくる前に一度会って話しましたが、それからはそれこそリモートで進めた。秦くんはうまいので、「もう少しうまくない感じで」と頼みました。技術はまったく心配がないから、うまくなり過ぎないように、と。でも彼はそれも理解していて、ぼくがどこかで一瞬、繋ぎ間違いみたいにしたいのをわかってくれている。秦くんのほうが映画に対する不安がないのも助けになっていますね。ぼくは「まとまるだろうか」と毎回心配するんだけど、最初から「何とかなります」と言ってくれる。年齢は彼のほうがだいぶ若い。でも、いつもそうして「大丈夫」と支えてもらっていますね。

──サウンド面では高橋さんが参加するメノウの楽曲を使っています。当て方はラッシュを見て考えたものでしょうか。

音はあとからではなく、ほとんどが最初からイメージしています。現場で実際に鳴らしてなくても、「ここに入る」と意識して撮りました。あとから足した音はほぼ無くて、高橋さんのドラムもメノウの楽曲も撮影前から聴いていた。スズキジュンゾくんがギターを弾くシーンは即興です。あと慎也とのシーンで、自分の演奏に対してエアギターをやってくれるなんて、あまりないことだろうけど、やってくれましたね。

──即興で弾いている姿を見ても、スズキさんは卓越した技術を持つギタリストです。それがエアギターというのも斬新ですね。それから本作についての文章ではペドロ・コスタやビー・ガンに共感を寄せておられます。彼らの作品と同じように、本作にも現代映画的な面が見られます。

ペドロ・コスタの映画も詩になろうとしていますよね。彼も詩を引用するけど、それ以上に共感を覚えるのは、作品を詩に近づけようとしているところ。「普通に生きていること」を撮っているのもね。

──「普通に生きていること」は、室野井さんの創作にも通じないでしょうか。遺稿集『ダンサーは消える』(2018/新宿書房)を読むと舞踏と生活と書くことに隔たりがなく、まるで一本の線として連なっています。

室野井さんの本はそこがいちばんすごい。ぼくたちが日常生活で動いていることと踊ることが別ではない。その場所がいつもたしかめられている。映画もそうだと簡単に言えないかもしれないけれど、表現はそこが欠けていると駄目だと思う。

──その連なりは監督の表現からも感じます。最後に『ユリイカ』のアンケートに話を戻すと、「人にどう思われようと、この世界に存在するものへの自分の興味、好奇心、こだわりといったものを映画として提出したいという気持ちは揺らがない。宿命的にひきうけている自分の物語から逃れられないことが、そのまま、さまざまな他者への通路を開くことになるという奇跡が、映画なのだ」と述べておられます。当時の想いは今も変わりませんか?

アンケートのことは覚えてなかったけど、今それを言ってもらって、そう考えればいいのかという気持ちになりました。やっぱりどこかで「独りよがりでは駄目だ」と思うことがある。でも自分の抱えているものからは逃れられない。それをどうすればいいのか? そこは毎作ごとの問題ですね。多くのアート性、前衛性の高い作品は、「監督はすべてわかっている」という意識が先に画面に出過ぎている気がする。だけど、自分の持っているものから逃れることが人との出会いのきっかけにもなる。それは今、より痛切に感じていることですね。

(2020年6月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『パラダイス・ロスト』3月20日(金)よりアップリンク吉祥寺にてロードショー!以降全国順次
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