ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

分類 インタビュー

『ライオンは今夜死ぬ』公開記念
筒井武文インタビュー

©2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

『ユキとニナ』(2009)以来、8年ぶりとなる諏訪敦彦監督の新作『ライオンは今夜死ぬ』(以下、『ライオン』)が公開された。ジャン=ピエール・レオーを主演に迎え、『ママと娼婦』(1971)のイザベル・ヴェンガルテンも出演した本作は、ヌーヴェルヴァーグの匂いを濃密に漂わせながら、監督がフランスのワークショップで出会った子供たちをキャスティングすることで、映画史から逸脱する伸びやかさも獲得している。諏訪監督とは東京造形大学の同級生で、現在も東京藝術大学大学院で共に教鞭を執る筒井武文監督。神戸を訪れた折に『ライオン』について、筒井監督ならではの「編集」の視点もまじえたお話を訊くことができた。

 

──諏訪監督の映画は「即興」という点から語られることが多いです。筒井監督はどう捉えておられますか?

僕は、諏訪さんの映画を「即興演出」と言ってしまうのは間違っていると思う。なぜかというと、シナリオが基本的に固まっていて、その枠を超えない範囲で何かを付け加えたり、少し違う方向へ行ってみるのが普通の即興ですよね。ラストにどこへ行くかは曲げられない。それがあるから即興の自由もあるわけです。ところが諏訪さんの場合はラストがない。即興というよりも、俳優とスタッフ全員でそこで何が起こるかを発見していく場なんです。だからおそろしい。つまり、ベースになる物語自体がなく、その場で出てくる。たとえばテイクが変わるとセリフやアクション、終わり方もまったく違ってくる。ということは、順撮りでないと成立しないんです。そういうつくり方は「即興」という生易しいことじゃない。その場が創作行為で、シナリオも含んだ撮影行為といえる。そのなかで、役者のやり取りや掛け合いや沈黙、さらに小道具など、映画の方向性に何が必要で何が不要かを実験していくのが彼のやり方です。もうひとつ言うと、造形的に見事なショットを撮ることが映画の目的じゃない。だから、スタッフの意識も変わらなければいけない。自分のパートの完成度だけに拘ってはいけない。スタッフも、監督と俳優の輪に加わって、それを探していく同志なんです。そのうえで、それが見つかればいいけど、見つからないかもしれない。そういうすごくリスクの高い撮り方をしている。

──『2/デュオ』(2007)以来、毎回リスキーな撮り方をされていると感じます。

彼がえらいのは、ある時間の範囲内で出来ることを探って──駄目だと思ったら引っ込めるんでしょうね──期日は守る。そのやり方を成立させていること。期日を守らなければ,とんでもない「呪われた映画作家」になってしまうと思うけど、そこはある計算のもとで行っている。ただし、そのような撮り方から起こる最大の問題が編集です。テイクが異なれば話も違ってくる。なにしろ、彼の撮影にはNGがない。どのテイクも、俳優がそこで生きていればOKなんです。それで、どのテイクを使うか? あるいはテイクのなかのどの部分を使うか? それによって物語全体も変化するので、編集でまた再発見・再創造していかないといけない。大体の簡単なプロットがあって、その余白が膨大な時間として膨れ上がってくるから、2時間の映画であれば最初に編集すると、平気で2倍や3倍の長さになってしまいます。それをどう削ぎ落としていくか? 撮影は期限内で終わるけど、編集には時間がかかる。だから不完全なものになる可能性も非常に高いですよね。だけど逆に言えば、諏訪さんはそういうやり方でないと自分の映画をつくれない。みずからリスクの高いやり方を選択しているというよりは、彼が目指すのがそういうもので、そのようにしかつくれない映画だということですよね。ただ編集はうまいですよ(笑)。それだから、ああいう撮り方ができるともいえる。普通の撮り方をやろうとしたら、できる人なんです。でも、やらない。それでは自分がおもしろくないんでしょうね。

──ポストプロダクションのリスクも顧みない撮り方は、「柔軟」というだけでは済まされない、明確な意志や方法論の裏付けが無ければ成り立たないようにも思います。ところが『ライオン』は堅苦しさを感じさせず、抜けがいいいですよね。

©2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

彼は、自分が選んだ出演者にすごく愛情を持っているんですよね。「その人がそこでちゃんと存在感を持っていれば映画として成立するんだ。むしろ成立させなければいけない」という思いがあるので、はっきり言えば、キャスティングがすべてなんですね。俳優はセリフを覚える人じゃなくて、その場で創造行為を行う存在。だから言葉が出ない時は、沈黙を続ける権利もある。今回のジャン=ピエール・レオーは、彼が学生時代から憧れていたヌーヴェルヴァーグのスター……、というのは違うな。「スター」は存在自体が輝きだけど、ヌーヴェルヴァーグのなかでもレオーは、映画によって輝く人。映画のなかの予定調和な世界を壊すことで輝いて、おもしろくなる特異な存在です。そのレオーを最初に観た頃から数十年以上経って、一緒に映画をつくろうとしたときに、彼がデビューした年齢に近い子供の集団をぶつけた。一種の賭けですよね。それが本作ではとてもうまくいったと思う。『大人は判ってくれない』(1959)でデビューしたときのレオーは一種の野生児で、映画に対して怖いものなどなかった。そのような存在だったからこそ、ああいう革新的な映画ができたわけだけど、そのレオーをまったく知らずに「ただのジジイ」と見てしまう子供たちと組ませたことによって、大きな効果を生み出しています。レオーじゃない普通の俳優ならば、こうはならない。

──化学反応に近いものでしょうか。

化学反応といえば化学反応だけど、一般的な意味のそれではなく、もうちょっと野蛮な出会いというのかな。異質なのに同質なものがスクリーン上で共存していますね。そうした非常にラディカルな部分と、諏訪さんが映画人生のなかで影響を受けてきたヌーヴェルヴァーグの歴史の共存でもある。映画の歴史から連れてきたレオーと、その歴史と完全に切り離された子供たちというふたつの存在。そのふたつをぶつけて混ぜ合わせるのに成功している。編集でそのバランスを取るのも非常に難しかったはずです。でも今回はその賭けにも見事に勝った。

──映画史の〈内〉と〈外〉にいる存在の共存ですね。『キネマ旬報』(2018年1月下旬号)での諏訪監督のご対談で「レオーをヌーヴェルヴァーグの呪縛から解放している」とおっしゃっていたのも頷けます。

子供たちとのバランスの取り方もとてもおもしろいですよね。彼らは単純に野生的な存在というよりも、トリュフォーが撮った子供の現代版のようにも見えるし、さらにいえばハワード・ホークスの『赤い酋長の身代金』(1952)のような、子供なのに大人より強そうで、したたかな存在でもある。そういう多義性もまとわせていますね。

──その諏訪監督と出会われたのは、35~6年前になるでしょうか?

もう少し長くて、40年弱くらい経つのかな。

──ベタな質問ですが、それだけの年月の交流が続いている諏訪監督は、筒井監督にとってどのような存在でしょう。

©2017-FILM-IN-EVOLUTION-LES PRODUCTIONS BAL THAZAR-BITTERS END

ベタな言い方で答えれば、「ライバル」ですよね。彼が『はなされるGANG』(1984)を撮ったときから、こちらを刺激してくれる存在だった。あれがなければ、『ゆめこの大冒険』(1986/諏訪監督は助監督を担当)もない。ちなみに、映画冒頭でパイプ吹かしているのが諏訪さんだけど(笑)。僕の映画づくりにおいて「じゃあ次はどんなものをやろうか」と活性化させてもらったことは、大きな助けになったし、ありがたく思っています。まあ、こっちもあっちも、こんなに長くつきあうことになろうとは思ってもみなかったと思うけど。

──数日後に諏訪監督にもお話を伺う予定なので、そこでも訊いてみたいと思います。ありがとうございました(諏訪敦彦根監督インタビューへ続く)。

(2018年1月7日 神戸映画資料館にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

映画『ライオンは今夜死ぬ』公式サイト
Facebook
Twitter

〈関連記事〉
筒井武文監督ロング・インタビュー(前編)
筒井武文監督ロング・インタビュー(後編)
講演「映画史を解体する映画 諏訪敦彦の映画史的インパクト」レポート


これまでのラジオ関西「シネマキネマ」インタビュー|神戸映画資料館