ラジオ関西「シネマキネマ」インタビューWEBSPECIAL / CinemaKinema

分類 インタビュー

『さよならも出来ない』 松野泉監督インタビュー

当欄でも取り上げた『Dressing up』(2012/安川有果)や『ハッピーアワー』(2015/濱口竜介)などの録音・整音を担当した松野泉監督が、京都でワークショップをもとにつくった最新作が『さよならも出来ない』(2016)です。
「別れてから3年ものあいだ、境界線を引いた部屋で奇妙な同棲生活を続けるカップルの物語」とだけ要約してしまうとどうも収まりが悪いのは、ほかにも出演しているすべての役者それぞれの雰囲気や、多くの映画の音響を構築して様々な世界の音に耳をすませてきた監督の個性が画面にうつっているからなのかもしれません。そう思って、色んな角度からお話を訊きました(※この前文は出来るだけゆっくり読んでください。主人公のふたりが話しているみたいに)。

 

──録音技師として多くの映画の「音」を手がけてこられた監督に、まず音楽のことを伺います。監督は1982年生まれで大阪芸術大学を卒業されています。
学生時代と、難波のライブハウス「ベアーズ」を中心に〈関西ゼロ世代〉と呼ばれるバンドが盛り上がり始めたのがほぼ同時期ですよね。ノイズミュージックもお好きだと聞きました。

2000年に入学して、それから4年間は大阪の大黒町に住んでいました。ベアーズに近くて、もともとアンダーグラウンドな音楽が好きだったので観に行ったり、大学の先輩で「あらかじめ決められた恋人たちへ」という大好きなバンドの池永正二さんがPAを担当していたこともあり、ライブ出演することもありました。〈NOISE MAY-DAY〉というノイズミュージシャンが多く出演するイベントや、MASONNAのマゾ山崎さんがいるレコードショップにも行ったりと──いまはそれほど聴かないですが──ノイズは本当に好きでしたね。

──ノイズを聴き始めたのは、どのようなきっかけで?

僕らが大学に入った頃に必ず回ってくるビデオがあって、それが『鬼畜大宴会』(1998/熊切和嘉)。学生運動を描いた作品ですが、すごく音楽的で、ノイズとも通じ合う映画だった。当時は熊切さんの後輩の柴田剛さんもおられて、ノイズ寄りの音楽をやっていたので、ノイズミュージックに興味を持ちました。それ以前はそんなに知っていたわけではないですが、有名どころではメルツバウやJOJO広重さんなど、色々と聴き始めてベアーズにも通い始めました。

──ノイズミュージックの特性として、ライブの一回性が挙げられると思います。MASONNAの激しいライブは身体性も感じるものです。そういう感覚や要素は、本作にも反映されていないでしょうか。

いま自分がつくっている映画とノイズって、全然関係ないように感じる人もいるかもしれませんが、僕のなかでは結構一貫しています。ノイズの精神性はすごく好きだし、映画をつくる上でそれに助けられることもたくさんあって。音楽をやっていていちばん良かったと思うのが、物語性やわかりやすさのほかに、もっと豊かな世界が広がっている感覚を持てること。本作もちゃんと脚本やストーリーのある作品ですが、その物語だけで充足したくない気持ちがあります。ノイズのような激しい衝動の爆発ではないし、ハードコアな部分が作品に如実に炸裂しているわけでもないですが、自分の表現の核にはノイズミュージックで体感したことが反映されています。
学生時代はアニメーション作品もつくっていて、その頃は自分の衝動からくる表現に憧れていたけど、そうではない世界にもノイズ的なものがいっぱいあるし、今回はワークショップで役者たちと制作する過程がありました。本作では特に、気持ちも含めた役者の身体のその場でしか起きない一回性をいかにカメラで捉えるかを考えました。役者に集中して撮りたくて、そこに挑戦しました。

──ベースにあるのはノイズの心性。でも仕上げはポップですよね。ポップな歌ものとノイジーなものが共存しているミュージシャンには、ベアーズの店長・山本精一さんがおられます。

山本さんもすごく好きで、ライブもよく観ていました。フォーク的な素朴な歌も歌われるけど、むかしのフォークのリバイバルではなく、「山本さんの歌」があって、シンプルなのに豊かさを感じられる。そういうものへの憧れはすごくあります。表面的には受け入れやすく、誰でも理解できるようでいて、そこに広がりがあるものを観るのも好きだし、自分でも表現できればいいと思いますね。

──監督は現在まで音楽活動も続けています。いまのスタイルになるまでの変遷をお話しいただけますか?

ノイズが好きだった頃は自分で歌うという感覚がまったくありませんでした。当時は、「人工ノ夜」という2人組のユニットで、ライブでは相方が映写機で8㎜フィルムを映写していました。8㎜は黒画面で静止していると燃えたり、パーフォレーションを外すとフィルムが流れてゆくような効果が出る。そういうエラーを使ったエフェクト的な表現と、僕のギターノイズでセッションするユニットでした。ベアーズや、内橋和久さんが主催していた新世界の「BRIDGE」というすごくいいハコでライブをやって楽しかったんですが、相方が大学を卒業して就職で東京へ出て、僕ひとりでノイズをやることになると、なかなか人目にも触れないし、行き詰まりを感じてしまった。そこで、もともと好きだったメロディのある歌もの、ポップだけど、ただそれだけじゃない──山本さんやLABCRYのような──音楽を自分でも歌えたらと歌い始めて、最近は弾き語りもしています。

 

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──映画に話題を移して、本作の出発点をおきかせください。

この作品は、「シネマカレッジ京都」で全12回、日曜日におこなったワークショップからつくった映画で、受講生全員が出演しています。その人たちを魅力的に見せるために当て書きで書きましたが、その人自身を全部入れ込むことはしたくなくて、役を演じることで一歩違う自分になれて、しかも自分に嘘をつかなくてもいいシナリオを書きたいと思っていました。
ワークショップではお互いの過去を聞き合ったり、大切な人に手紙を書いて、その内容を電話で相手に伝える練習など色々やっていくなかで、ある女性が元彼と今の恋人との3人で同棲していたことがあるという、かなり不思議な関係の話をしていたんです。「元彼はもう普通の関係なので全然平気」といった話を聞いて、部屋をシェアするのは今ではよくあることだし、僕も結婚して長いですが、夫婦のあいだのマンネリ化──僕がそういう状態というわけではないですが(笑)──は社会的にもリアルな問題で、「同居しているけど心が離れている状態」を打開する何かはないだろうかと考えていたこともあって、テーマとして面白いと思った。それが始まりですね。

──まさか現実からつくられた設定だと思いませんでした。

いつも感じていますが、「あり得ない設定」ってなかなか自分のなかから出てこなくて、現実には思った以上に変であり得ないことがいっぱい存在します。僕からすると、元彼と今の彼と3人で暮らしているなんてちょっと考えられない。シナリオ上でも「これ、ちょっと嘘をつき過ぎてない?」と思う設定でしたが(笑)、現実にあるんだなというのがスタートでしたね。

──その設定でのシナリオづくりはうまく進みましたか?

実は本作に行き着くまでに、全然違うシナリオを書くという苦労もありました。その苦労が何かというと、ワークショップの受講生と映画を制作することを最初から決めていて、彼らとどう関係を結んでどんな作品をつくるかを考えたときに、お互いの接点を見つけないといけない。やっぱり僕も作家として表現したい自意識があるけど、それを受講生たちがどう思うかは別の問題です。役者をこちらのイメージで選ぶのであれば、シナリオを書いて、そこからイメージに近づけていくのが普通のつくり方です。しかし今回はそうではなかったので、その段階でああでもないこうでもないと悩んで、まったく違う作品のシナリオを2本書いて、3本めがこの『さよならも出来ない』。そこでようやく接点を見つけられました。

──はじめに書かれた2本はどのような内容だったのでしょう。

1本は群像劇で、京都に住む何らかの痛みを抱えた人間たちの数日間の話で、長い脚本でした。『ハッピーアワー』に参加していたこともあり、その頃は群像劇への興味も持っていたんですが、やっぱり人に寄り添って掘り下げて書いていくと、長大なシナリオになってしまう。濱口監督はやり遂げましたが、僕の場合は「このシナリオでこの尺はちょっと難しい」ということで、2本めを書くことになりました。
その話にも自分なりに表現したいことは書いたけど、「この人たちである必然性」をあまり見つけられなかった。本屋に出入りする変わった女の子が主人公で、周りの人たちが段々彼女のことをわかってくるという本作に通じる構造はありましたが、「変な女の子」であることの核になるものを見出せなかった。そこで「そういえば」と、3人で同棲していた話を思い出して、ふたりの男女の話を考えました。別れてからも同棲している3年という時間は、「別れた状態で一緒に住めるギリギリの年月かな」と考えて(笑)。そういうカップルの話が面白いんじゃないかと思い、核の部分を入れて書いたのが本作のシナリオでした。

──濱口監督の即興演技ワークショップは、劇団の演技指導のようなことはおこなっていなかったですよね。松野監督の場合はいかがでしたか。

僕は最初から映画をつくるつもりでいたので、参加者の足並みを揃えないといけませんでした。作品を良くするためには、ワークショップにも作品に対しても興味を持ってほしかったし、それがいちばん大事だと思っていました。ワークショップに来られる方は、「演技をスキルアップするには何を教えてもらえるか」という、どちらかといえば受身の姿勢で来られる人も多い。そういう人たちに対して「シナリオは渡しません」とか、演技と全然関係ないことをやるのはリスキーで、受講生たちにも不安があったと思います。「疑問は疑問として持っていていい」と伝えないと皆が離れていってしまうので、毎週ワークショップのあとに、手紙的な文面のアンケートを取りました。それを全員からいただいて、受講生と僕が判断して公表していいものは公表したり、ワークショップへの反応に対する長文メールを全員に送ったり、毎回授業のはじめにそれについて話したりしました。
最初のうちは落ち込むくらい「わからない」とか「どういう目的でこういうことをするんですか?」という回答が寄せられて、もっと言えばモチベーションの違いもあるので、その不満も全部僕に向けられていました(笑)。自分なりに考えるところもありましたが、その意見交換が良かったと思っているし、最初から決めていたのは、先生のような立ち位置じゃなく、向こうに問いかけて、皆が自発的に考える状況をつくること。そうしないと面白くならないし、受講生がどう感じていたかはわからないけど、ワークショップの後半では皆あきらめたのか──なかには「洗脳」と言う人もいましたが(笑)──アンケートを読んでも、自分のことより「今日はこの人のこういうところが魅力的に思えました」といった、「外」に目を向けた反応が増えてきた。狙い通りに進んで良かったなと感じています。

──本作のセリフ回しは、現代の日常会話ではちょっとあり得ない速さや間です。受講生の方たちはそれにスムーズに乗れたのでしょうか。

人によりましたね。演技経験を持たない人や映像にうつったことのない人は、「俳優ってこういうものだ」という先入観がないので、僕のやり方に素直に沿ってくれました。逆に演技経験のある人だと、普段は普通にしゃべっているのに、演技となると急に歌舞伎調になったりする。そういう人に対しては、根本的な価値観そのものを変えるような作業が必要で、大変な部分もありました。

──それでも映画で見られるセリフ回しを取り入れた理由は?

日常会話風に話してお互いの気持ちが通じ合うようなやり方ではなく、書き言葉や日常では交わさない言葉のやり取りでも、ふたりの心が通じ合う状況が生まれれば、もっと映画が自由になると思ったんです。リアルな会話で言えることって、実は限られていて不自由だったりする。シナリオを書くときもそうで、書き言葉でしかあり得ないような言葉でも書きたくなるんですよね。「愛してる」は極端だとしても、たとえば「私、今日会社の人とセックスしました」という言葉も、映画的なセリフではあるけど、僕はそれが映画のなかで本当のこととして存在してほしいし、成立させるのは役者の力で、ただ自然にリアルっぽくやればいいということではないと思っています。映画には「映画の世界のリアル」があるはずで、それを成立させるものとして、書き言葉のリズム──しかも主人公のふたりは敬語のやり取り──を使いました。ひょっとすると、僕が言葉を信じていない部分も少しあるのかもしれないですね。

──書き言葉で、ひとことでキメになるようなセリフもあります。

僕自身がひとつのことを言うために周りから言葉を重ねていって、そこに辿り着くのがあまり得意じゃないというのもあって、ひとことで広がりを持つ言葉を表現として使いたい思いがあります。でも自分の言いたいことを登場人物に言わせるのは何か違う気持ちもあるし、日常会話とのバランスも含めてその辺は難しいところですね。それがどういう効果を生むかを常に考えながら書いています。

──さきほど伺った、音楽のアヴァンギャルドとポップのバランスに関わることかもしれないですね。

ずっと意識しているわけでもないですが、おそらく生理的な好き嫌いで、僕はそういうものが好きなんでしょうね。言葉にすると「すごくシンプルなもののなかに複雑さがある」。映画でもそういうところに行きたいですね。

 

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──撮影や編集に関して伺います。役者に集中して撮るのがテーマだったとお聞きしましたが、基本的に引きの画で構成していて、顔のクローズアップはほぼ無いですね。

顔の寄りはほとんど無くて、少し広めのバストサイズがいくつかあるくらいですね。

──撮影は宮本杜朗さんが担当しています。サイズやカメラポジション、カット割りはどのように決めていったのでしょう。

カット割りに関しては、そうじゃないところもありますが、僕が事前にほとんど決めて宮本君に伝えました。サイズ感やポジションは、宮本君がポンと置いたところで決めてしまうケースが結構ありました。宮本君は感覚的な人なので、判断が早いし的確なんですよね。だからそのあたりは任せていました。

──引きをベースに撮るのも宮本さんのアイデアだったのでしょうか?

ワークショップだけでなく、現場でも人の芝居を大事にしていたので、そう簡単に深く入れないし、入るべきではないという空気がなんとなく出来ていました。入るなら「ここだ!」というときに入ろうと。カメラポジションも役者ありきでした。宮本君に「必ずそうしてくれ」と言ったわけではなく、お互いの了解としてあったので自然とそうなりました。あと、実際どうかは別として、最初に宮本君に「この映画はどういう感じでいくの?」と訊かれて、「オールドスクールで」と伝えました(笑)。それが何を意味するのかを、ふたりとも確認することもなく、「オールドスクール」という言葉は現場で何度も言っていましたね。

──……ヒップホップのオールドスクール的な意味でしょうか?

いや、はっきりした意味で言ってなかったんです(笑)。宮本君は関西ゼロ世代のアーチストたちのビデオも撮っているので、そういう言葉がしっくり来るかもしれないと思ったんでしょうね。

──なんとなくわかるような……、オールドスクールの定義は措くとして(笑)、引きで人を捉えるのは、監督の音楽性や世代から考えて、音響派やポストロックを通過した感覚によるのかなと思いました。マイキングでいえば、空間の鳴りを録るアンビエンスを活かすような。

ノイズと同時に音響派も好きでしたね。僕が京都で仲良くしている録音技師の東岳志さんという人がいます。『堀川中立売』(2010/柴田剛)や音楽の録音も多く手がけていて、二階堂和美さんの『ニカセトラ』(2008)も東さんの録音です。東さんは、アフター・ディナーの宇都宮泰さんとも親しくされている方ですが、通常のライブ録音は楽器の音はラインで、あとはアンビエンスマイクで拾った音で空間をつくります。でも東さんはペアマイク、単一指向性のあるマイクを2本立てて、それだけで録るスタイルなんです。それを手伝ったことがあって、空間をある視点から捉えるのは──音に関してですが──すごく面白いなと思っています。
でも映画の録音だとなかなかそういうことは出来ないんですよね。やはりセリフが中心になるので、ワンポイントでステレオマイクを立てて空間の音を録ることはほとんど無く、役者には必ずセリフ用のピンマイクが付いているし、そのセリフは空間とは別次元の「近い音」としてスピーカーから発せられる。それはよく考えると不思議なことで、スクリーンのなかに空間があるのに、セリフの声だけ飛び抜けてくるのは本当は変だけど、映画ではそれがリアルとされている。逆に全編を通して空間を感じる音でつくれば、ハードコアというか、パンチのある映画になるのかなとも思います。
そのように空間を捉える感覚は、僕らより少し上の世代から出てきたもので、ペドロ・コスタが『ヴァンダの部屋』(2000)で監視カメラのような視点でずっと部屋を撮っているのも、音響派以降の感覚と同じように捉えていましたね。ただ、僕はある種コンセプチュアルなものに傾倒できない性格だし、やっぱりポップでわかりやすいものが好きなので、コアなものをつくりたい気持ちがある反面、それが前面に出ないスタイルをいつも模索しています。

──音がぶっきらぼうにカットアウトするシーンがある一方、次のシーンとつながっているシーンもあります。編集の際に使い分けで意識されていたことはありますか?

次のシーンとのつなぎとして必然性があるかどうかですね。バランスといえばバランスですし、そのバランスを崩したほうがいい場合はそういう意識で決めました。感覚的な部分が多い気もしますが、いろんな要素があります。たとえば前半の映写室のシーンの前、犬が出てくる市役所のシーンの終わりに車の音のボリュームが上がってブツッと切れます。次のシーンがほとんど暗闇みたいな、どこにいるのかわからないような空間なので、音はどんな処理をしてもそこへ行けるんですよね。どこかわからない場所に飛んで、そこでは何かの映画の音が流れている。少し特殊な空間に行く前のカットはどんな終わり方も出来る。しかも屋外なので、車でも飛行機の音でも、犬の鳴き声でも何でも入れられます。そのシーンはヒロインが会社の同僚としゃべっているのを、別の同僚の女の子が見ているカットで終わりますが、不気味さと次のカットとの違和感を際立たせるには、やはりカットアウトでぶった切るのが効果的だという発想ですね。

──センスとロジックでつないだということですね。

音には無限の可能性があって、どうとでも出来るので、感覚だけだと歯止めがきかなくなる。どこかに自分のロジックを持っておかないといけないと考えています。

──音響面ではカーテンの音に始まり、その後も生活音がかなり入っています。

そうですね。よく指摘される、ふたりが同棲している部屋の上から聴こえる「ドタドタ」という音は、実はリアルな音といわゆる効果音が同じくらいの割合で入っています。もとは現場で鳴っていた音で、取り入れざるを得なかった部分と「面白いな」と思った部分の両面があります。鳴っている日はそれを活かして、鳴っていない日は効果音として入れていきました。ある意味では現場のアクシデントから始まった音です。

──すっかり、あとでミックスした音だと思っていました。

京都の山科にある2階の部屋で撮影しましたが、上の階はお母さんが放任主義で一日中子供が走り回っていて、非現実と感じるくらいずっと足音が鳴っているんです。丸一日撮影していると、朝から晩までドタドタ響いてくる。少しホラーぽくもあり、この不気味さはふたりの住む空間としてはアリだなと思って活かしました。

 

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──現場のノイズのエピソードを伺ったので、ふたたび「ノイズ」についておきかせください。作品HPには『ジョギング渡り鳥』(2015)の鈴木卓爾監督がコメントを寄せておられます。鈴木監督は俳優として、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(2016/黒川幸則)にも出演していて、この2作は音に限らず様々なノイズ──一般的な制作スタイルでは排除するもの──を取り入れる発想を持った映画です。松野監督はどうご覧になられましたか?

どちらの作品も無茶苦茶好きで何度も観ていますが、僕はああいう風には出来ない気持ちもあって(笑)。高度なことをやっておられるのに、そのように見えないすごさがありますね。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』は、ミュージシャンの山形育弘さん(core of bells)が脚本を書いているので、その力もあるでしょうし、あの自由さや音楽的感性は真似できるものではない。キャストとスタッフにミュージシャンが多いあのチームだから生まれた作品だとも思いますね。やはり僕は生真面目というか、ノイズをギャーッと鳴らすことにどこかでストッパーがかかってしまう。でも小さな音で鳴らす面白さもあると思うので、違うノイズの鳴らし方でやるしかないと思っています。卓爾さんは数年前から京都に住まれているので接点も多く、好きな音楽も似ているのでシンパシーを感じています。

──鈴木監督にお話を伺うと、映画づくりでグルーヴやバンド的なノリを大事にしておられることを感じます。仮に監督をバンドマスター、いわゆるバンマスとすれば、本作でのポジションもそうでしたか?

今回は、監督としての立ち位置がこれまでと全然違う感じでしたね。今まではバンマス的な、自分のイメージを具体化するために皆について来てもらう感覚で、今回ももちろんそういう部分もあるものの、出演者たちと、「死んでしまって幽霊になった友人が、すごく近いけど見えない位置から励ましたり、いろんなことを言う」立ち位置で関わりたいと思っていました。かなりわかりにくい喩えですが(笑)。
自分も出演者のひとり。当然画面にはうつらないし、物語に関与することもないけど、「カメラの向こう側から指示してくる人」ではない場所にいたい思いがありました。それをやってみると自分にすごく合っている気がして、これまでしっくりしなかったのが、今回はやっと居場所を見つけられた感覚があった。スタッフに対しても、そのように関わると面白くなる手応えを得られました。

──そのような立ち位置で、OK,を出すポイントは?

撮影時間の問題もあったので一概には言えないですが、基準として、芝居を見ている僕が「これはこの一回でしかありえない」と一回性を感じたときは、それを良しとしました。あとから指摘されてたしかにそうだなと思ったのは、たとえ物語的な必然性とかけ離れていても、特別な瞬間になっていればそれを採用すること。今回はそういう気分でやっていましたね。

──物語と離れているといえば、本筋とは別にある何気ないシーンもいいですね。ひとつ挙げると、夜の歩道橋でカップルが自転車に乗る終盤のシーンです。

その歩道橋のシーンは、シナリオを書いている時点で特別なものにしたい思いもなく、割と淡々としていました。でも、あの場所を見つけた段階で重要なシーンになる意識が生まれました。上下の空間が分かれていて、移動距離も充分あるのをワンカットで押さえられるところはなかなか無い。メインのふたりではないカップルのエピソードなので、「どうかな」とも考えたけど、主人公たちの道行きの終盤にくるので、いわゆるややこしさのない恋愛のきらめきがそこに出るのはマイナスじゃなく、むしろいいことだと思って。この先、あんなシーンを撮るかわからないですが、青春映画の感じも出ているし(笑)。女の子が数を数えるのもシナリオには無くて、場所を見つけた段階で出てきたアイデアです。照れもあるけれど、ああいうシーンは僕も観ていて好きです。

──きらめいてますよね。「物語の必然性」に関して、さらにお話しいただけますか?

シナリオを書いているときは、「ここにクライマックスを持ってくる」という考えも無いわけではないけど、つくっている過程でそういうところから逃れて、もうちょっと自由でいたい気持ちが強くなります。主人公のエピソードと関係ないふたりの歩道橋のシーンも、物語としての必然性はありません。でも日常生活でも皆すべてが物語のために生きているわけではないし、映画もそうだと僕は思いたいので、どのワンシーンもいいものになるようにつくっています。物語のためではなく、シーン自体がその世界のために絶対に必要な何かであれば、別に物語に貢献しなくても成立するはずだと。
それは音響やノイズの音楽的な感覚に通じるかもしれません。ひとつの音を鳴らすことに説得力があれば音楽としていいものになるように、映画にもそういう説得力を持たせたい。それに向けて、尽力したり働きかけるのが大事だと思っています。

 

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──本作は映画祭での上映も経て、いまは神戸で公開中です。これまで音響面で相性のいい劇場はあったでしょうか?

劇場によって音が異なるので、その違いを楽しんでいただくしかないですが、それはずっと上映していて如実に感じたことですね。京都で上映した立誠シネマプロジェクトは、僕が音響設計した場所でもあります。センタースピーカーが無く、ステレオ2本だけ。しかもウーハーも無く、JBLの安いものですが、縦型のツイーターがふたつ付いていて、ローは一発デカいのがある。そのライブ用のスピーカー2本しかない劇場だったので、ある意味では映画館らしくない音になります。座る場所によってバラつきが出るし、センターが無いので、いちばん前の真ん中に座ると中抜けするんです。でもステレオはよく出た。中央あたりに座ると完璧に定位するので、普通の映画館では聴けないステレオ感を感じられる面白い劇場でした。
大阪・第七藝術劇場は、システムは新しいですが、昔ながらの映画館というか、天井が高くて空間が広い。だからすごく響くんです。僕が持っている映画館の鳴りのイメージに近い。細馬宏通さんとトークをおこなったときも、さっきお話しした上の階の「ドタドタ」という音を、「画面外から鳴っているようでそれがすごく面白かった」というお話をされていて、細馬さんならではの視点だと思いました。第七藝術劇場でしか味わえない「映画館の鳴り」を楽しめましたね。
そのあとに上映したのが、東京のK’s cinema。天井が低く吸音もしているので、デッドで無駄な響きがない。スピーカーのセッティングも今風というか、分離がとてもいいので、モニター環境で聴いているのに近い音がしました。映画館的な鳴りとは少し違うけど、狙い通りの音でもありました。そのように劇場によって変わるので、「ここがベスト」とは言えませんが、色々な聴こえ方の違いがわかるのは本作の特徴です。たとえば上の階を走り回る子供の足音も、本来であれば切るようなローが出ている。家でDVDを観ているだけでは聴こえない音域があるので、そういう音を映画館で楽しんでいただきたいですね。

──そんなに違いがあるんですね。やはり、その場限りの一回性とこの作品は切り離せないように思います。

映画ってそういうものであるべきだとも思うんです。いまは家に5.1chのホームシアターをつくることも出来ます。「それで観られたら映画館行かんでええやん」という人もいるかもしれませんが、本当はそうじゃないという思いが映画好きとしてあります。映画館で観てほしい。そのためには、僕たちつくり手も「映画館で観ること」の絶対的な優位性や価値を見出していかないといけないでしょうね。

──鈴木卓爾監督に取材した際、「どんな音楽を聴いている人に『ジョギング渡り鳥』を観てほしいか」と伺いました。『さよならも出来ない』はいかかでしょう。

今回はすごく可愛らしいチラシをつくってもらいました。チラシやあらすじ、予告篇からは素朴で可愛い作品だと受け取られそうな気もしていますが、ずっとお話ししている通り、僕はノイズやロック的なマインドの人間なので、過激なものを求めている人にも観てもらいたいです。東京上映でトークゲストに遠藤ミチロウさんに来てもらったのは、自分のなかにそういう意識もあったから。やっぱりノイズを好きな方にも観ていただきたいですね。

──監督は、ミチロウさんの初監督作『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』(2015)で録音・整音を担当していますね。ほかにも幅広く様々な作品に参加しておられますが、つくり手としての芯の部分は何だと思われますか?

僕には興味が分散しているところがあります。参加する作品によって、全然音楽を聴かない監督もいれば、「この監督が好きでこういう映画を撮る」と方向性がはっきりしている人もいる。でも僕は浅く広くというか、それこそ大学時代はノイズをやりつつ、ジャズサークルに入ってボサノヴァのバンドにもいた。自分が面白いと思うものや、わからないものがあるとのめり込むタイプです。映画をつくるときも、明確な価値観に寄せていくというより、視野を広く持って、いい出会いがあって面白い状況が生まれれば、よいものがつくれると思っています。

──本作がまさにそうですね。色々とお話を伺ってきましたが、最後にひとことお願いします。監督らしく、ポップにまとめていただければ。

この映画はストーリーだけ言えば、別れてからも3年同棲を続けている少しややこしいカップルが、周りの人たち──「別れたら?」と言う人や「どうなってんねや」と様子を見に来る親戚のおばちゃん──との関係のなかで、どういう結論を出すかという話です。だけど、ふたりの関係性に共感できなければ楽しめない映画では決してない。親戚のおばちゃんや、主人公の男性がつとめる本屋の同僚で、彼にちょっと気がありそうな女の子など、脇役と呼ばれる人たちも主役と同じ愛着を持って描いています。「ああ、若い子の恋愛話ね」と想像する方もおられるかもしれませんが、そういう周りの人たちや物語の外側にも思いを馳せられる映画だと思うので、多くの層に楽しんでほしいです。

(2017年9月23日 神戸にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

『さよならも出来ない』公式サイト
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