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中川奈月の映画に呑まれろ!

西田博至(批評家)

「彼女はひとり」

→ニュー・インディペンデント・シネマ vol.3 中川奈月監督小特集

暗くて大きな川だろう。そこに架かる橋の上だろう。
両手で手すりを掴んでいる制服姿の少女がいる。
二本の腕を支えにして、ぶらんこ遊びのように、上半身を前後に揺すぶる。勢いがついた少女の身体は地面を蹴り、手すりの上を飛び越して、溢れだすようにつんのめる。
少女のこの跳躍の動きを、カメラのガラスの眼玉は、彼女の肩越しに、天使のように真上から捉えている。
中川奈月の『彼女はひとり』という映画は、橋桁と水面の間で、このようなひとつのショットから始まる。
福永朱梨の演じている少女が次にフレームの中に現れるのは、先程の橋の上のショットでは全く映らなかった彼女の顔をアップで捉えたショットである。机か何かの上に両腕を組んで、その中に頭を乗せている。頭を横倒しにしているので、このときの彼女の目に映るものは、総て倒立していて、たとえば、何もかもが水面に浮かんでいるように見えているだろう。
すると、彼女はまだ、暗い水の中に呑み込まれたままなのではないか?
ファム・ファタルを巡るメロドラマである『夜のそと』には、素足で、静かに川の中に入ってゆく女がいる。踝がすっかり隠れ、じきに臑のあたりまで、水がのたりと女の足を包み込む。橋の上を通りかかったランニング中の青年は、それを見てしまう。川辺まで下りてきた青年がフレームの中に躍り込んできて、そのまま女を追って川の中に入り、後ろから女の肘のあたりを掴む。びくりと振り返った女に、「危ないですよ」と囁いた青年に、女が返す「はぁ?」という声が、私たちの鼓膜を叩くだろう。しばらくの間、お互いを見つめ合い、押し合う力が拮抗して、水面の波紋以外の総てが静止する。やがて女が、青年の足元の川面に視線を注ぐ。「濡れちゃってるじゃん」と呟き、肘を掴んだ指を振り解く。青年の手首を掴んで、水から戻る。しゃがみこんで、裸の白くて立派な足をタオルで拭いて、女は靴を履く。やがて青年を水辺に置き去りにして、女は土くれで盛り上げられた川岸を登ってゆく。振り返りざまに見下ろす女のショットと、女を見上げる青年のショットが切り返されたあと、女は、「気持ち悪いよ、君」と吐き捨てて、去ってゆく。まるでダンスのようなシークェンスだが、この不気味な躍動は、田中佐季の演じる女と山岸健太の演じる男の高さと低さが次々と入れ替わることによって齎されている。
まるでそれが作家の署名であるかのように、建物の中の階段、森の斜面、河川堤防とその脇の遊歩道、街角の坂道、歩道橋、空中に張りだしたバルコニーなど、きわめて印象的な高低差のある場所が、中川奈月の映画には次々に現れる。
いや、堤防や橋桁のように、はっきりと名づられる場所ではなくてもいい。道端の土塊がたまたま崩れてできた、ごく小さな地面のずれでもあっても、充分である。
異なる高さと低さをもった、決して堅牢であるとはいえないそれらの場所に、各々が立つとき、中川奈月の映画の登場人物たちは、その顔と声を、ぶつけ合う。
高さの違う場所自体が抱えている不安定さを、そこに佇む両足が吸い取ってしまったせいで、かろうじて保ってきた裡なる均衡が、一気に毀たれてしまったからなのか、その衝突はとても激しい。だからしばしば、彼らは不意に転倒してしまう。文字通り、頽れてしまうのだ。
そして、どんな高い階段も橋桁も防波堤もまた、いつかは頽れてしまうだろう。絶対に呑みこまれることのない安全な場所など、たぶんない。そのとき、高低差のある斜面をさらに駆け上がるのか、あるいは、抵抗しながら呑みこまれるのか諦念とともに受け入れるのか。中川奈月の映画は、ひたひたと押し寄せる「水」を前に、翻弄される人やものの諸相を、くっきりとドラマティックに捉える。
『彼女はひとり』でも『昼の迷子』でも『夜のそと』でもいい、これらの濃密な映画を見終わったとき、画面には映っていなかったはずの「水」の奔流を、私たちはしかし、はっきりと見たと、興奮しながら口走ってしまうにちがいない。

→ニュー・インディペンデント・シネマ vol.3 中川奈月監督小特集

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