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2008年6月21日(土)
山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]6報告《加藤泰の「見せ場集」》を、若き映画研究者、北浦寛之氏がご寄稿くださいました。

《寄稿》 加藤泰の「見せ場集」

北浦寛之

 連続講座も第六回を迎え、加藤泰のフィルモグラフィーでいえば後期の、1970年代の作品に初めて視線が注がれる。加藤泰は1970年代に入って、2時間半から、長いものでは3時間に迫る大作を次々に発表していく。今回分析の俎上に載せられたのはそのなかの一本、『花と龍 青雲・愛憎・怒涛篇』(1973)である。
 『花と龍』は、加藤泰版で七度目の映画化であり、仁侠映画の定番である。とは言え、加藤泰版『花と龍』は、これまでのものとは明らかに違った物語を形成している。これまでのものは、主人公玉井金五郎と、妻となるマンが結ばれるまでの話を描いていた。だが加藤泰版では、その二人が結婚していて、すでに子どもがいるという状況から話がスタートする。山根貞男は加藤泰の言葉を引用しながら、加藤泰版『花と龍』を「父と子、二代にわたる青春ロマンの映画である」と表現し、父と自らのことを描いたとされる火野葦平の原作に、最も接近した『花と龍』であることを強調する。それだけに、加藤泰版は2時間48分の大長編映画となったわけであるが、それでも、監督が原作に忠実に演出していくならば6時間くらいの映画になると山根は言う。6時間にわたる「壮大な青春ロマン」を2時間48分にいかにして凝縮したか。山根は加藤泰が「見せ場集」と呼ぶ手法で、原作を省略しながら、物語を濃密に描いていることを指摘する。
 映画の冒頭、加藤泰映画ではお馴染みの汽車が勢いよくスクリーンを駆け抜けたかと思うと、映画の核を担う登場人物たちが一瞬すれ違う様子が捉えられる。金五郎(渡哲也)とマン(香山美子)がまだ幼い息子勝則を連れて線路沿いを歩いていると、汽車には金五郎たちの好敵手となる銀五(田宮二郎)と島村ギン(任田順好)が乗っていて、一瞬のすれ違いではあるけれど明らかに因縁めいた関係性を想像させる。さらに次の場面で、この繋がりが強調して描かれる。若松港で永田組の沖仲士として働く、金五郎とマン。二人が働いている隙に、勝則の乗った舟が沖へ流されてしまった。すると、その場に居合わせた銀五が慌てて勝則を助けに行くのであり、ここで金五郎、マンと銀五、ギンが対面する。ここまで、映画はわずか10分ほど経過しただけで、核となる人物たちの関係が重要な意味を帯びていることに観客は気づかされる。この加藤泰の手際のいい円滑な演出こそ、山根が加藤泰の言葉を引用して表現した「見せ場集」で撮られたものに他ならない。
 「見せ場集」とは「山場集」ではない。山根は加藤泰の意図を的確に伝える。つまり、「見せ場集」とは物語的に高揚感のある山場だけをつないでいく「山場集」ではなく、前述のように、加藤泰が物語を一定の方向に推進させるために重要だと判断した箇所を抽出し、効率よく紡いでいった場面集を意味する。この「見せ場集」は映画の進行とともに、際立っていく。
 映画は金五郎の活躍を次々に描いていく。なかば強引な編集によって、金五郎の活躍を伝える「見せ場」が寄せ集められ、話はあっという間に、金五郎が玉井組を構えるかどうかという点に移行するのだが、ここで金五郎の愛人となるお京(倍賞美津子)の登場によって、物語の進行速度は一気に減速する。山根は「見せ場集」におけるこの緩急のリズムを評価し、じっくりと描かれる二人のやりとりに注意を向ける。
 金五郎がお京と酒を飲んで酔いつぶれた翌朝、気づくと彼の体には筋彫りがされてある。刺青をいれようと提案するお京の言葉を、金五郎は頑なに拒否する。金五郎はお京を残して、画面前方から去っていこうとするのだが、そのとき、ふとした疑問が彼の脳裏をよぎり、結局画面後方のお京のもとに引き返していく。キャメラは固定されたまま、二人の後方でのやりとりを長廻しで収めるのだが、間もなくして今度はお京が、先ほど金五郎のいた画面前方の地点までやってくる。山根はこの二人の動きを見逃さない。金五郎とお京が互いの位置を交換し、相手が前いた場所に違和感なく収まる様子を見た山根は、この二人の関係に強固なものを感じるのである。事実、このあと金五郎は、刺青をお京に彫ってもらうことを決断し、金五郎の体に刺青が彫りこまれていく過程が精緻に描かれる。キャメラは、お京との消し去ることのできない思い出が金五郎の体内に埋め込まれていく仕儀を、これまでにない緩やかな呼吸で丁寧に記録するのである。
 お京が金五郎と会うのは、この場面のみである。しかしながら、山根も注目したように、この「見せ場」は本作品全体を通して見ても、極めて重要な場面のひとつだと考えられる。これまで駆け足でのし上がってきた金五郎が、ここではじめて立ち止まり、逡巡し葛藤する。その彼の内面を、腰を据えたキャメラがじっくりと吐露していく仕草は、「壮大な青春ロマン」を謳い上げるのに、必要な演出であったと納得させられるものである。ただ、それに加え筆者がここで注目したいのは、金五郎とお京の濃密なやりとりが、本作品の目的でもある、「壮大な青春ロマン」を「父から子へ」継承させるために不可欠な要素であったと考えられる点である。本作品はインターヴァルを挟んで、前半と後半に大きく分けられるのだが、その後半の冒頭は、青年になった息子勝則(竹脇無我)が、恋仲にある娼婦光子(太地喜和子)を足抜けさせる場面から唐突に始まる。勝則が光子と出会ってからのことは一切省略されていて、男と女が恋愛を成就させるために、必死になる場面が濃密に描かれる。この場面は、金五郎とお京の場面を否応なしに想起させる。つまり、金五郎とお京が許されない恋をしてしまうなら、勝則と光子もまた「足抜け」という許されない行為を通して愛を育もうとする。どちらも未来のない恋愛である。しかし、だからこそ観客は、二組のカップルの向こう見ずな恋に、「父から子へ」と続く「壮大な青春ロマン」を垣間見るのである。
 こうして、父と子が躍動する「見せ場」は、ときに駆け足で、ときに立ち止まり、緩急のリズムに乗って、観客に提示されていく。とは言え、父と子のみが「見せ場」を牽引するわけではない。金五郎の妻であるマンをはじめ、銀五、ギンといった、映画の冒頭で印象的に登場した人物たちが、それぞれの想いを交錯させながら「見せ場」を形成していく。そして、彼らが互いの想いをぶつけ合って衝突するラストの大乱闘が、本作品の「見せ場集」における「山場」と言えるだろう。
大勢の人が入り乱れる、文字通りの大乱闘。誰が誰だかわからないと山根が言うように、人物の特定が困難な喧騒とした空間がフレームを支配する。しかしながら山根は、ここでも加藤泰が緩急のリズムを巧みに醸成していることを見逃さない。ロングショットによって大部分が描かれているこの場面で、クロースアップが随所に挿入されるのだが、山根はそのクロースアップの持つ力を絶賛する。特に、密かにマンのことを想っていた銀五と、彼の顔を見てその気持ちを悟ったであろうマンの表情を捉えたクロースアップに、山根は涙したと言う。確かに、そこには余計な台詞は要らない。マンが銀五の顔を見て理解したように、観客もクロースアップで映し出された二人の表情だけを見て、二人の想いに感動することができる。加藤泰は映画の「山場」に、とっておきの「見せ場」を用意していたのである。

北浦寛之(映画研究者)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。修士論文で加藤泰について論じる。主な著作に、「ワイドスクリーンにおける奥行きを利用した映画演出の美学 ― 加藤泰『幕末残酷物語』のテクスト分析」『映画研究』第2号(日本映画学会、2007年)、「加藤泰研究序説 ― 奥行きを利用した映画の演出について」CMN! no.11がある。

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