レポートWEBSPECIAL / REPORT

2008年7月19日(土)
山根貞男連続講座 [加藤泰の世界]7報告《反復される場面、導き出される差異》を、若き映画研究者、北浦寛之氏がご寄稿くださいました。

《寄稿》 反復される場面、導き出される差異

北浦寛之

 ローアングルや長廻し、縦の構図など、複数の撮影スタイルを活用し、しばしば「情念の作家」と形容されたりもする加藤泰だが、必ずしもすべての作品に加藤泰を象徴する意匠が施されているわけではない。一見普通の娯楽映画も、加藤泰は製作している。今回、分析の対象となったのは、そんな作品のひとつ『緋ざくら大名』(1958)である。
 山根貞男は講座の冒頭、加藤泰について固定イメージを抱くことに警鐘を鳴らす。「加藤泰に限らず、映画監督たちはわれわれが思っている以上に柔軟である」と。山根の解説によれば、加藤泰は従来の自身の作品ではあまり見られない、稲垣浩監督や鳴滝組が持つ「軽妙さ」を意識して本作品を作り上げた。確かに、加藤泰が目指した「軽妙さ」は主演の大川橋蔵のペルソナとも合致して、作品全体に深く浸透している。とは言え、加藤泰は自らの個性を発揮しないまま、軽妙な娯楽映画を完成させたわけではなく、作品をより魅力的なものにする、複数の仕掛けを行っている。今回の講座は、そんな隠された仕掛けを解き明かし、健全な娯楽映画のなかにも、加藤泰の個性が投錨されているという事実を、明らかにするものであった。
 先に進む前に、簡単にストーリーを要約しておく。桑名松平家の次男、千代三郎(大川橋蔵)は北条家の鶴姫(大川恵子)を悪漢の手から助けるのだが、実はこの二人は互いに縁談相手であり、そうとは知らないまま出会ってしまう。そんな二人は徐々に惹かれ合っていくが、自分には別の結婚相手がいると思い込んでしまい、苦悩し葛藤する。そして、その思い込みが徹底されることで、騒動が肥大化し、娯楽的要素が強まっていく。最後には、二人は真相を知って、めでたく大団円で幕を閉じる。このように、映画は単純なストーリーを構成しているのだが、それでは加藤泰はこの物語を膨らませるために、どう演出していったのだろうか。
 山根は、頻繁に描かれるいくつかの場面に注目する。縁談を嫌がって家を飛び出した千代三郎が、浪人生活を送る長屋を中心に、その近くの空き地、小橋、芝居小屋の場面が、印象的に何度も提示される。しかし、ただ反復して描かれるわけではない。山根はこれらの場面が明確な差異を持って描かれていくことに着目する。特に小橋を収めた場面は、印象的な変化を見せていく。
 最初、千代三郎が悪漢に襲われる鶴姫を助けたあと、二人が小橋に差しかかった場面では、「通りゃんせ」を歌っている子どもたちの姿が目に付き、いかにも庶民的な雰囲気が画面から醸し出されている。次に、千代三郎が同じ長屋の住人、浅吉(千秋実)と夜、小橋を通りかかる場面では、これまた庶民的な屋台がでているのだが、ここで注目しなければならないのは、遠くに見える宿屋もしくは、飲み屋らしき建物の存在である。明るい室内に数人の人物が騒いでいる様子がシルエットで映し出される。間もなくして、姫を付け狙う悪漢が千代三郎を見つけて、両者のあいだで剣戟が始まるのだが、その途端、シルエットの人物たちがパッと障子を開け、姿を現し、画面手前の騒動を注視する。メインのアクションに対して、細部の背景が連動したリアクションをとっていて、それはいかにも「縦の構図」にこだわりを見せる加藤泰らしい演出だと言える。ただ、次に小橋を収めた場面では、その細部の建物は背景に同化し続けることを放棄する。すなわち、浅吉が負傷した鶴姫の腰元を背負って小橋を通りかかる場面。背景には先ほどの建物に数人の人物がいて浅吉たちの方に目をやる様子が描かれるのだが、今度はその人物たちが姫を付け狙う悪漢たちであって、そのことをキャメラは次に寄りのショットに切り替えることで明らかにする。背景に馴致していた建物が、ここでメインの舞台として文字通りクロースアップされ、キャメラはその建物で様子を窺う悪漢の反応を的確に捉えるのである。
 以上が、小橋の場面について山根が注目した点であるが、なるほど、焦点化されたこの小橋の場面はメインのアクションと背景の建物が実に有機的に連動していて、ひとつの物語世界を見事に紡いでいる。山根は、このように場所の特徴を効果的に利用した演出について、加藤泰が斎木祝という名で本作品の脚本を書いている時点から、計画していたものではなかったかと推測する。この山根の推測はおそらく当たっているだろう。と言うのも、別の場面でも同様の演出が行われているからである。筆者は、二度印象的に登場する芝居小屋の場面にそれを確認した。
 芝居小屋は、鶴姫が悪漢に襲われていたのを千代三郎が助ける場面ではじめて登場する。芝居中に、鶴姫と彼女を追う悪漢が割って入り、騒動を引き起こす。このとき舞台裏にいた千代三郎は舞台上の役者を押しのけて、鶴姫を助け出す。こうして、芝居小屋の舞台は千代三郎をヒーローとして輝かせる文字通りの舞台として印象的な働きを見せるのだが、次の芝居小屋の場面では、それは一転して背景に追いやられてしまう。にもかかわらず、その舞台はメインのアクションと深く関わりを見せることで、不可欠な要素となる。
 もはや縁談は不可避なものとなった千代三郎は、芝居小屋の舞台裏で憂鬱な表情を浮かべている。ここで、背景に映し出される舞台では、浄瑠璃が上演されている。そして、この浄瑠璃が、千代三郎の心理描写に重要な役割を果たすことになる。視覚的には、背景に追いやられている浄瑠璃。だが、そこから聞こえてくる詞章は前景化され、印象的に観客に伝えられる。まるで、千代三郎の心理を代弁しているかのような詞章の調子は抒情的な雰囲気を醸し出し、切なさを刻み込む。物語に深みを持たせる意味で、この芝居小屋における加藤泰の演出は、特筆すべきものと言えるだろう。
山根はこうして、何度も描かれる特定の場面に注意を向け、そこに潜んでいた加藤泰の卓越した演出に光を当てた。ただ、山根の分析は以上のような美術的要素だけに留まらない。山根は反復される登場人物のある行為にも目を向ける。具体的には、山根は鶴姫の「指をさす」という行為に注目し、それがどのように物語上機能しているかを解説する。
 はじめ悪漢に追われ、行き場を失った鶴姫が駕籠屋に「お供の人は?」と聞かれたとき、遠くに見える千代三郎に向けて、彼女は指をさす。「この指をさすという行為は、二人のあいだに距離があることを示唆している」と山根は言う。このとき、二人のあいだに物理的距離が確かにあった。だが、同時にそれは、出会ったばかりの二人に心理的距離が介在していることをも示唆している。この極めて明解な意味を持つ指をさす行為は、映画の終わりで、再度行われる。千代三郎が鶴姫を狙う悪党一味を退治したあとの場面。鶴姫のもとへ北条家の家来たちが駆けつける。そんな家来たちに、鶴姫は「あの方が助けてくれた」と千代三郎の方に向けて指をさす。この自然ななかで行われた指をさす行為は、それでもやはり、二人のあいだに距離があることを示唆している。その距離とは二人の立場が生み出すものである。ここでは、お互い惹かれ合っていて、心理的距離はない。だが、自由な恋愛が許されない二人のあいだには、埋められない距離が依然として存在することを、山根は指摘するのである。
 こうして山根の解説に沿って、反復して提示される場面と人物の行為に目を向け、そこで確認された差異の内実を明らかにしてきた。加藤泰演出の細部へのこだわりが見て取れたであろう。そして最後にもう一点、本作品を総括する重要な反復と差異の存在を紹介して、本稿を閉じる。
 本作品が、大団円で終局を迎える直前、つまり、二人が実は互いに縁談相手だったという真相が判明する直前、二人は縁談がどうしてもいやで、それぞれの城を飛び出していく。必死に逃げる二人。そのあとを追う大勢の両家の家来たち。この演出は、映画の冒頭、鶴姫が悪漢に襲われて城を飛び出し、大勢の人物に追いかけられる場面を想起させる。だが、もちろんそのふたつの場面の持つ意味は大きく異なる。映画冒頭での鶴姫の逃走は、悪漢から逃げる、文字通りの逃走であったのに対し、ラストにおける二人の逃走は、束縛された現状からの逃走という意味合いもあったであろうが、それ以上に、愛する人に会いたいという強い気持ちの表れであったと理解できる。事実、二人は束の間の時間を共有した長屋に向かって疾走する。どうしても埋められなかった距離を埋めるために、ひたすら走る。こうして、二人は疾走の果てに再び長屋で会うことができ、真相を知った二人はあらゆる距離を埋めてようやく結ばれることができたのである。

北浦寛之(映画研究者)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程在籍。修士論文で加藤泰について論じる。主な著作に、「ワイドスクリーンにおける奥行きを利用した映画演出の美学 ― 加藤泰『幕末残酷物語』のテクスト分析」『映画研究』第2号(日本映画学会、2007年)、「加藤泰研究序説 ― 奥行きを利用した映画の演出について」CMN! no.11がある。

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