レポートWEBSPECIAL / REPORT
2009 11
ワスレナグサ
――ヤスミン・アハマドへの手紙

藤井仁子(映画評論家)


 批評家である以前に一人の映画好きとして、この人の撮る映画をもっと見たい、これからもずっと追いかけていきたい――そう思うようになった矢先にその人の訃報に接しなければならないとは、なんと痛ましい、やりきれないことなのでしょう。たった6本の、抽斗の奥に誰にも知られず仕舞っておいた青春の日の形見のようなみずみずしい長篇を遺して、あなたは51歳の若さで逝ってしまいました。自分自身さえもてあます、あの思春期の少年少女に湧き起こる胸苦しい衝迫と、長く人に裏切られつづけ、また人を傷つけてしまった経験をいつまでも忘れられずにいる者だけに訪れる達観とをさりげなく共存させてしまうあなたにとって、死は、もちろん生と同じくらい常に身近なものであったはずですが、それだけにあなたが死を親しい隣人としたまま、いつまでも生きて映画を撮りつづけてくれるものとわれわれが勝手に思いこんでいたことは、愚かな幻想でしかなかったのでしょうか。
 映画を撮ることと見ることとが、もはやかつてのようには当たり前のことではなくなってしまった時代に映画評論家と名乗っている以上、私は自分の書くものがすべて「追悼文」でしかありえないことを知っています。と同時に、あらゆる「追悼文」は後に残された生者を明日に向けて励ますためにも書かれるのですから、そのことがそれほど悲観すべき事柄ではないということも理解しているつもりです。にもかかわらず、「間に合わなかった」という苦々しい思いを噛みしめながら、称賛すべき対象が去った後の空虚に向かって「追悼」の言葉を綴る日々の隙間にふと襲いかかる憂鬱に、つい根負けしそうになったことが一度ならずあったこともまた事実です。そんなときだったのです、私があなたの映画に出会ったのは。
 広告の世界で長年充実したキャリアを重ねたあなたが長篇第一作を監督したのは2003年のことですから、ごく最近まで私があなたの映画を見ていなかったことは怠慢以外の何物でもありません。とりわけあなたのお祖母さまの生まれたこの日本は、国際交流基金から東京国際映画祭に拠点を移しながらも一貫してあなたの映画を上映するために奔走しつづけた石坂健治氏の敬服すべき炯眼と尽力によって、非常に早い段階からあなたの熱烈なファンを育んできたのですから、私の怠慢はどうにも弁解しようのないものです。そこにマレーシア映画、ひいてはマレーシアの国と文化そのものに対する私の無知と偏見がなかったとはいえないでしょう。そのことを率直に認め、深く恥じ入ると同時に、他方で私は、あなたの映画がマレーシアの現実を厳しく見据えながらも、「マレーシア映画」を超えていたからこそ心奪われたのだということを告白しなければなりません。エドワード・ヤンの映画が台湾の現実に根ざしながらも「台湾映画」を超えていたように、チョン・ジェウンの『子猫をお願い』が韓国の現実に根ざしながらも「韓国映画」を超えていたように、マレーシア以外のどの国からも生まれなかったであろうあなたの映画も、「マレーシア」や「東南アジア」という枠に閉じこめて語るべきではないと確信されたのです。同じように、あなたの映画は女性にしか撮ることのできない映画でありながら、「女性映画」の枠を軽く飛び越えてしまっている。それどころか好きな映画は『男はつらいよ』だというあなたにあっては、「芸術映画」と「大衆映画」の区別すらまるで通用しない。あなたは「ナントカ映画」ではなく、ただ「映画」を撮りつづけたのです。しかしただそれだけのことが、現代の作家誰もが直面するさまざまな困難に加え、マレーシアに固有の検閲と因習の壁に阻まれての苛酷きわまりない消耗戦であっただろうことは容易に推測できます。
 そのような映画を撮る同時代の作家についに「間に合った」と思えた私の喜びを、どうか想像してみてください。これからあなたが撮るはずだったすべての映画に自分の言葉を「間に合わせる」ことができると思えた私の胸の高鳴りを、ほんの少しでも想像してください。それなのに私は今、またしても「追悼文」を書いてしまっています。

 乳白色のバター、そして掬おうとしてゆっくりと垂れていく質量さえ実感されるような粘りの強い赤茶色のジャムをたっぷりと、はみ出さないように満遍なく入念に食パンに塗り重ねていく女性の危なげない手つき――それが、私がはじめて目にしたあなたの画面でした。
 6本しかないあなたの映画のうちの最初の4本は、同じオーキッドというヒロインの人生の一時期を時間順にではなく描いていることで俗に〈オーキッド4部作〉と呼ばれています。その3作目、物語内の時間ではもっとも後に位置する『グブラ』(05)を私は最初に見たのですが、そのことは私があなたの映画に魅了される妨げには少しもなりませんでした。夫のために朝食を準備する主婦の毎日の労働を、精一杯抑制を装いつつ、実は饒舌きわまりない告発への意志を漲らせたロングの長回しで収める野心的な現代の映画作家なら他にもいるでしょう。しかしあなたはそんなことよりもまず、パンにバターとジャムを塗るという主婦の日常的な営みを、完全に身についた見事な「技」として驚異と尊敬をもって撮っておられます。その「技」がもっとも的確に捉えられる位置――仕事の邪魔をすることのない斜め後ろ――から大切に見守るような手元のアップは、対象にことさら何も付け加えてなどいないだけにかえって一流の左官職人の壁塗りの技術にも劣らぬ輝きを、慎ましいサンドイッチ作りの工程から引き出しているのです。
 このように冒頭から非凡さを剥き出しにした、それでいて物欲しげなところなど皆無の『グブラ』に私はあっという間に引きこまれてしまったのですが、そんな私がヤスミン・アハマドの名を特別なものとして記憶する最後の決め手となったのは、愛すべきオーキッドの家族が勢揃いする最初のシーンでした。父の危篤の報せを受け、オーキッドが慌てて夫の車で駆けつけた実家では、発作を起こした恰幅のいい半裸の父親を取り囲んで大変な愁嘆場が展開している。妻や娘らが泣き叫ぶなか、苦しむ父親よりもさらに立派な体格をしたお手伝いさんらしき中年女性が「泣いてないでしっかりしなさい」と一座を諌めるたび、混乱にかえって拍車がかかるのがまず可笑しい。主人たちの誰よりしっかり者のこのたくましいお手伝いさん――ヤム――が4部作を通じての人気者であることを知らなかった当時の私も、彼女にはたちまち魅了されてしまいました。すると突然、死にかかっていたはずの父親がむくりと起き上がり、啞然とする家族の前で「オシッコ」という。奥のトイレまで父親をつれていくのにさらなる騒ぎが繰り広げられ、途中で用を足そうとしはじめる父親をみなが必死に止めるところでこのにぎやかなシーンは終わります。『グブラ』に先立つ『ラブン』(03)と『細い目』(04)を前もって見ていたなら、私はこの一家が常に笑いを欠かさない個性豊かな人たちの集まりであることをあらかじめ知っていたはずですから、この緊迫した場面にも最初からユーモアを期待していたかもしれません。しかしそれまでの静かで抑えたトーンから、ある種の「芸術映画」に臨むときの態度で『グブラ』に接していた私は、深刻な事態を喜劇として演出してみせる余裕にあふれたあなたの手つきに気持ちよく予想を裏切られ、緊張をすっかり解かれてしまいました。しかもそのいっさいを、あなたは俯瞰気味のロングのワンショット――つまり考えうるもっとも単純な手段で実現しているのです。これほど堂に入った演出にスクリーンで出会えることは最近ではなかなかないことで、「これは本物だ」と私が確信したのはそのときでした。
 もちろん、『グブラ』にあるのはユーモアだけではありません。それどころか、オーキッド一家の傍らに虐げられた娼婦たちの姿を男性による暴力やHIVの問題さえ絡めて点描する『グブラ』は、あなたが撮ったもっとも厳しく、陰翳の濃い映画だといえるでしょう。それでも私は、この映画であなたに出会えたことを幸運だったと思います。今、あなたが遺した6本の映画を振り返って驚かされるのは、初めのものほど「芸術的」で、後へいくほど「通俗的」になっているように思われることです。そしてそのことが、作家としての「堕落」を少しも意味していない。キャリアを重ねるうちに「芸術的」な映画を撮るようになる作家は少なくありませんが、あなたのようなケースは珍しいでしょう。ロングの長回しを多用し、物語も見えやすいとはいいかねる『ラブン』の「不親切さ」と比べたとき、遺作となった『タレンタイム』(09)は、笑って泣ける群像劇の「わかりやすさ」といい、今どきこれほど巧くていいのかと心配になるほど冴えわたるアクションつなぎの心地よさ――とりわけ同軸つなぎの鮮やかさ!――といい、商業主義との妥協と見なされかねないほどの変貌を見せています。それが妥協であるどころか、あなたが「芸術映画」と「大衆映画」の区別そのものを乗り越えてしまった証であることは全6本を均等に見晴らせる今となってはあきらかですが、そう自信をもって私が断言できるのも、あなたのフィルモグラフィのほぼ真ん中に位置する『グブラ』であなたを知ったことが大きい。有り体にいって、最初に見たのが『ラブン』だったら、CM上がりの気どった作風の持ち主としてあなたのことを警戒してしまったかもしれませんし、『タレンタイム』だったら器用なアジアの職人監督の一人であると、高を括ってしまった可能性が棄てきれないからです。
 だがもちろん、あなたはそのような人ではなかった。私が『グブラ』の次に見た『ムクシン』(06)の冒頭では、教室を最後に出て行きかけた10歳のオーキッドが先生に呼びとめられて振り返る――その瞬間、ロングからアクションつなぎで彼女のバストショットにカットする見事な呼吸に、あなたがオーキッド役のシャリファ・アルヤナを子役ではなく「女優」として撮ろうとしている覚悟を見た思いがし、魅せられると同時に思わず襟を正しました。その覚悟に一瞬でも触れた者であれば、『ムクシン』をただのセンチメンタルな小品として片づけられるはずがありません。
 あなたの映画はどこを取っても映画的としかいいようのない瞬間に満ち満ちており、評価を下すより先に頬がゆるみ、目頭が熱くなってしまう。そのような瞬間を前に言葉は要らないと何度つぶやきかけたことでしょう。難解なところなど一つもないあなたの映画は、ただただ純粋に「映画」であることによって批評家を試練にかけるのです。

 それにしても、今振り返ってみて『ムクシン』は、やはりあなたにとっても傑出した一本だったと思います。4部作の掉尾を飾るとともに物語内の時間ではもっとも早い時期をあつかうこの映画は、少女時代の初恋を描きだす感傷的な筆致ゆえに、オーキッドの思春期をよりクールに描いた『細い目』などに比べても、侮られやすい面があるといえるかもしれません。しかしこの『ムクシン』こそ、あらゆる細部を記述し尽くしたい欲望に駆られるほど豊かで繊細きわまりないあなたの傑作であり、その美しさ自身が、こんな美しさがいつまでも続くはずはないと一瞬ごとに見る者の胸を不安で締めつけながら、きっかり90分の上映時間をはかない奇跡のように支えているのです。
 冒頭から10歳のオーキッドを見事に立ち止まって振り返らせたあなたは、スクールバスから降り立つオーキッドの姿を捉えたロングショットに遠雷の音を添える。何かが訪れようとしている気配だけを大気中の湿気として画面に漲らせながら、余裕綽々たるあなたはオーキッドの家の玄関先に固定キャメラを向け、なぜか集まっている楽士たちに演奏を始めさせます。『グブラ』でも自らの容貌と声の美しさを誇っていたヤムが披露する歌にのせ、とうとう降りはじめた大粒の雨をものともせず、オーキッドと母親とがずぶ濡れになって踊る姿はただそれだけで感動的です(あなたは相米慎二の『台風クラブ』を見ていたでしょうか?)。しかし、この素晴らしいシーンにはまだ続きがあります。踊りつづける母娘の背後、先ほどスクールバスが通った道路を一台の自動車が滑るように右から左へ走りぬけていく。物語上無意味な背景での出来事にすぎないと油断していた観客が、実は自動車の窓から小さな手が突き出ていて、その手が降りしきる雨のなか、フラダンサーがするようにやわらかな波の動きを懸命に表現していることに気づいた瞬間、やはりそれを目にして立ち止まったオーキッドのウェストショットを挟んで、今度は彼女の見た目として遠ざかっていく手が示されます。その手が誰のものであったにせよ、ここで起こっているのが「運命の出会い」であることに説明は要りません。たんなる背景と思われたものが不意に重要な意味をもって瞳に迫ってくる、そのような変化が生きられる瞬間をヒロインと観客に共有させることで、あなたは「運命の出会い」を鮮やかに成就させているのです。
 これほど自然な呼吸によってではなかったものの、あなたはすでに『細い目』でも、思春期のオーキッドと中国系の青年ジェイソンとのあいだに同じような「運命の出会い」を生きさせていました。あなたはまず、オーキッドと女友だちに市場の雑踏のなかを歩かせ、それを俯瞰の超ロングショットに収めます。実際の街頭で隠し撮りされたように見えるこのショットののち、キャメラは地上に降りて一軒の屋台に近づく二人を捉えますが、次いでキャメラが二人の正面に回りこみ、ここではじめてわれわれは、直前のショットで斜め後ろから撮られていた青年がジェイソンであることに気づくのです。オーキッドが大好きな金城武のVCDを探して店番の青年に声をかけるとき、見つめあう二人の出会いはもっとも正統的なショット/切り返しショットで捉えられ、時間は止まり、完全な静寂のなかで二人は言葉を失います。二人のただならぬ様子を察した女友だちがからかい気味に指を鳴らして二人を正気に引き戻すのですが、ここでもエキストラ同然に見えた店番の青年が実はわれわれの主人公だと観客に知れる瞬間と、物語内の男女が互いに一目惚れをする瞬間とを巧みに重ねあわせることで、あなたは観客を「運命の出会い」へと否応なしに巻きこんでしまったのでした。ドキュメンタリー風のロケーション撮影と古典的な視線編集とを結合させる手並みは鮮やかというしかなく、これほど胸ときめかす「一目惚れ」の演出がまだ映画に可能であるという事実に驚きを禁じえません。
 そして『ムクシン』。オーキッドがあの手の主とついに出会うシーンは、いっそう見事だというべきでしょう。まず、校庭でいやいや女の子たちと結婚式ごっこをさせられていた男勝りのオーキッドが、頭に黒い帽子を載せた花婿姿のまま後景に入ってくる。前景では男の子たちがフレームを出たり入ったりしながら球技をして遊んでおり、そのなかでもひときわ目立つ長身の少年がわれわれの気になりはじめた頃、オーキッドは傍らの子に向かってあの見慣れぬ少年は誰かと訊ねます。見る者の注意の方向を主人公のそれと連動させながら思いのままに操るあなたの手腕はここでも冴えわたっていますが、その少年――ムクシン――があの手の主であることを、われわれはこのときまでに確信しています。オーキッドを仲間に入れるかどうかで男の子たちのあいだで意見が分かれ、度胸試しにムクシンはいきなりボールをオーキッドに投げつけ、やはり女だなと笑う。すると、いきなりムクシンの背後からボールが飛んできて頭を直撃します。振り向くムクシンと顎で威嚇する不敵なオーキッドとがショット/切り返しショットを構成し、ポンとキャメラが引いてロングショットになる。このとき、後景の校舎の外に向かって開いていた窓が、無言のまま睨みあう二人の奥でパタンと音を立てて閉まる。その音で一挙に緊張が解け、イニシエーションの儀式は終わったとばかりに子どもたちは一緒になって遊びを再開するのです。その次のシーンでは、ムクシンの誘いに応じたオーキッドがもう自転車の二人乗りを楽しんでいるのですから、二人の距離を縮めたものはあの窓が閉まる音だったに違いありません。それにしても、緊張した睨みあいが続くなかでポンとキャメラを引き、パタンと窓を閉める音一つで空気を変えてみせる――なんと見事な演出の呼吸なのでしょう。
 そう、私があなたの映画を見ていていつも感嘆させられるのは、見事としかいいようのない演出の呼吸なのです。オーキッドを背後からやさしく包むような二人乗りでムクシンが――片手であの動きをしてみせながら――自転車を漕ぐとき、シューマンのトロイメライがそっと滑りこむように入ってくる見事な呼吸。もちろん、『ラブン』での歌謡曲にのせたオーキッドの両親の自転車二人乗り、『タレンタイム』でのゴルトベルク変奏曲のアリアにのせたヒロインとその送迎役「サル」とのバイク二人乗りなど、趣味のよい選曲をともなっての二人乗りは、しばしばあなたの映画で他の何物からも干渉されない恋人たちだけのユートピアを束の間つくりあげていますが、二人乗りやら「一目惚れ」やら「運命の出会い」やら、せっかちなわれわれが独り合点して時効を宣告していたものに、あなたは演出の呼吸によって何度でも、それこそ新たな息を吹きこんでみせたのです。

 選曲の趣味のよさに支えられての音楽の入りの呼吸といえば、『グブラ』でベートーヴェンの《皇帝》の第二楽章がしめやかに流れる美しいシークェンスを忘れるわけにはいきません。夫の浮気が発覚して大荒れのオーキッド夫婦、入院中の夫のベッドに潜りこみ二人並んで横になったまま仲睦まじく踊るオーキッドの両親、病院でも諍いの絶えないジェイソンの両親、いつの間にか看護士といい仲になっているヤムとそれを物陰から嫉妬の眼差しで見つめる隣家の青年、そして開明的なイスラムの聖職者一家と今夜も客をとるしかなかった娼婦――それまで点描されてきたそれぞれに問題を抱えた『グブラ』の登場人物全員が、赦しと安息に満ちた調べとともに分け隔てなく並置される、涙なしには見ることのできないシークェンスです。
 あなたがしばしば採用する群像劇の形式は、ロバート・アルトマンに由来するいかにも「現代映画」風のものと受けとられかねませんが、そうした当世風の群像劇が社会のなかで散り散りになった個を見つめるかに見えて、実際には統一した視座のもとにいっさいを俯瞰しうるという綜合への意志を隠し持っていることが多いのに対し、あなたの映画で際立つのは、共同体に所属しきれない孤立した個人の愚かさや不完全さであり、だからこそ彼らに訪れるそのつどの一時的連帯の可能性です。実際あなたが見つめる恋人たちは、いつも宗教や階層の違いを超え、お互いに単独者として出会っています。『タレンタイム』での「サル」の聾唖といい、『ラブン』での父親の弱視といい、あるいは華僑を指しての「細い目」という蔑称を加えてもいいでしょうが、あなたが身体的な障碍や先天的特徴からしばしばきわどい笑いを引き出すのは、それが短所であるどころか、その人のかけがえのなさの中核をなしているという認識からに相違ありません。『タレンタイム』で腸の弱い教師がことあるごとに漏らすおならのように、それは傍迷惑ではあっても、やはりなくてはならないその人ならではの魅力なのです(東京国際映画祭で上映されたあなたが監督したCMの一本では、夫を亡くした妻が葬儀の席上、故人を偲んでそのような意味の挨拶をします)。そうしたあなたの映画の特色が、さまざまな人種と宗教が入り乱れるマレーシアの現実と無縁であるとはいいません。無縁であるはずはないのですが、そのような多文化主義的読解だけに押しこめてしまうと、あなたの映画を不当に矮小化することになってしまうでしょう。
 個人の特異性はむしろその人の不完全さ、愚かさのほうに存しているというあなたの洞察は、ともすれば善人しか出てこないかのように誤解されるであろうあなたの映画に思いがけず濃い、黒々とした影を投げかけています。すでにデビュー作の『ラブン』から、何者かが肥料に混入した毒は映画それ自身に不信の影を落としていましたが、続く『細い目』ではジェイソンが属する暴力に支配された夜の世界とオーキッドらの昼の世界が冒頭から対置され、二人の恋の行方を一貫して不安なものにしていました。実際、ユーモアを絶やさぬはずのあなたがもっとも厳しい相貌を見せるのは、作中人物をそれぞれの夜と向きあわせるときです。その夜の拡がりは、電気を止められた家でイェムと継母が闇に浮かぶ二つのランプの灯りとなって口論する『ラブン』から、やくざがいつ襲撃に現れるか知れない『細い目』の危険な夜、あるいは娼婦テマーの金を取り戻した聖職者が借金取りに眼を潰される男に背を向けて一人闇の奥へと去っていく『グブラ』を経て、「サル」のおじさんが望まぬ婚礼の夜に呆気なく殺害された『タレンタイム』にまでおよんでいるでしょう。あなたが〈オーキッド4部作〉の後に撮った『ムアラフ 改心』(07)では、幼年期に受けたトラウマという非常にシリアスな主題が導入され、なぜか幼児虐待に執着する2000年代クリント・イーストウッドとも比較したくなるような、他の作品と一風異なる肌あいを生んでいますが(そうでなくてもあなたの映画でピアノがすーっと静かに入ってくる呼吸には、どこかイーストウッドに通じるところがありました)、その肌あいの違いは、夜の暗闇ではなく白昼の光のなかで主人公たちが自身の闇と対峙しなければならないことからきているように思います。
 実は『グブラ』でも、オーキッドは真昼の光のなかで自身の闇と向きあうことを強いられていました。先に述べた《皇帝》のシークェンスの締めくくりにようやく平静を取り戻したオーキッドは、浮気相手のことを「あんな女は何でもない、ただの肉片だ」と弁解する夫に向かって、「その言葉を彼女の前でいって」と冷たく告げます。そもそもこの夫は、いささか横柄で軽薄なところはあるにせよ、夫として不足のある人物としては描かれていませんし、一方の愛人のほうもまるで憎々しくはなく、どちらかといえば見る者の同情を誘う人物として登場させられています。それだけに、オーキッドが夫に示したこの残酷な和解の条件は、映画と見る者の心の両方をやりきれない虚しさで澱ませることになるのです。この条件はのちに実行に移され、むろんそれで救われる者など誰一人いるはずはなく、お互いに傷を深くしただけの二人が無言のまま帰路につく車中のシーンは、冒頭近く、円満だった頃の二人が車で実家に駆けつけたシーンの皮肉な反復となっており、それだけいっそう見る者を気まずく沈黙させます。
 常に印象的に登場する乗り物の反復的な活用は、演出家としてのあなたの大いに称えられるべき美質です(二人乗りの魅力についてはすでに述べました)。その背後に優れた映画作家ならではの運動への鋭敏な感受性があることは間違いないでしょう。しかしながらあなたの乗り物は、主題論的に見るとかけがえのないものを奪い去る不吉な装置でもあるはずです。ジェイソンの命を奪ったオートバイ、ムクシンを永遠に連れ去った車――乗り物はあなたの映画にあっては必ずといっていいほど別れと結びついているか、少なくともその予感をあたりに漂わせます。そう考えると、『ラブン』で助手席の恋人から車の運転を教わっていたオーキッドは、両親のもとを巣立つための訓練を受けていたようではありませんか。『ムアラフ 改心』でカトリックの教師ブライアンが車を異常に遅いスピードでしか走らせないのも、幼い頃父親に自慰に耽っているところを見つかって車で遠くまで連れて行かれ、全裸で放置された忌まわしい記憶と無縁ではないでしょうし、だからこそ愛するアニに早く会いたい一心で母との再会――〈家〉への帰還――を果たした彼が、いつしか車を全速力で飛ばしているのは当然なのです。

 思えば別れこそが、あなたの映画にあってもっとも基本的な人間のふるまいであるのかもしれません。至るところに誤解が、行き違いが、不寛容が氾濫し、恋人たちは引き離される。その行き違いは『ラブン』で中国人青年のエルヴィスという名が惹き起こす滑稽なやりとりや『ムアラフ 改心』での「マタイ伝の引用?」「パウロ(Paul)よ。ポール・サイモン」というケッサクなやりとりのように、吹き出さずにはおれないギャグにもなれば、人種や宗教、階層の壁に阻まれる現代のロミオとジュリエットを毎度生み出しもします。バイクで送り迎えをしてくれる聾唖の「サル」のことを挨拶も返さない礼儀知らずだと思った『タレンタイム』のヒロインの誤解はじきに解けますが、それはさらなる戦いの日々の始まりでしかありません。すれ違いこそがあなたにとって人間の自然状態であるかのようです。
 そのような誤解を解こうとして、なんと多くの男たちが女たちに宛てて手紙をしたためたことでしょう。しかしその手紙までもが、痛ましい行き違いの末に読まれずして放置されてしまう。あなたの手紙がようやく開封されて読まれるとき、すべてはもう遅すぎるのです。『細い目』のジェイソンは、さまざまな過去のしがらみから逃れようとしてかなわず、オーキッドから拒絶されることになる。ジェイソンに残された唯一の希望はオーキッドに手紙を読んでもらい、自分の本心を伝えることにありますが、依怙地になったオーキッドは手紙に手も触れず、独り英国留学を決めてしまいます。空港に向かうオーキッドがようやく手紙を開封して電話するとき、バイクで空港に駆けつけようとしていたジェイソンは、衝突事故を起こして致命傷を負っていることでしょう。また、オーキッドとの恋よりも友だちの前での男としてのメンツを優先させたムクシンも、オーキッドから顔もあわせてもらえなくなりますが、そんなオーキッドがムクシンにもらった手づくりの凧の尾にようやく手紙を見つけて読むとき、ムクシンはこの町を去って行く車中の人となっています。ニーナ・シモンの唄う「行かないで」が哀切に流れるなか、ムクシンの家まで必死に駆けて行ったオーキッドの視界を一台の車が遠ざかっていき、その後部座席の窓にあの手が、あの手の動きが見えるとき、乗り物を反復的に活用するあなたの憎らしいほどの才能にあらためて感じ入りながら、われわれは流れる涙を堪えることができません。そもそも『ラブン』でも、イェムが自転車から見かけた娘に一目惚れして書き送った手紙は、読まれこそすれ、結婚に結びつくことはなかったのですが、この書き手がこめた思いを裏切る不実な手紙という主題は、『ムクシン』のフセインが母親にかけつづける取り次いでもらえぬ――最後には母親の死を一方的に告げられるだけの――電話、『タレンタイム』でおじの真情を死後にあきらかにするEメールといった具合に、さまざまな通信手段の遅れ、行き違いへと変奏されています。これほどまでに「間に合わない」意思疎通というものを一貫して描いたあなたの映画が、にもかかわらずペシミズムといっさい無縁であり、それどころかオプティミスティックな希望に満たされているという事実を、われわれはあなたを失ってしまった後にどう考えればよいのでしょうか。
 詩が好きな青年である『細い目』のジェイソンは、「詩は神への手紙である」という言葉を口にしていました。『グブラ』のヤムが看護士から贈られた花に添えてあったのも詩でしたが、至るところで詩が読みあげられるあなたの映画にあって、モノローグは存在しません。手紙はもちろんのこと、詩も歌も、そして祈りの言葉や日記さえもが――『ムクシン』の物語じたいが教師の頼みに応えてオーキッドが綴った日記でした――あなたにあっては特定の誰かに向けられたダイアローグの断片なのです。『ムアラフ 改心』の終わり近く、子犬のようにいつもじゃれあっていたアニとアナの姉妹がいなくなってしまった後、アニに思いを寄せるブライアンが律儀に二人の留守を預かり、二人の日課まで代わりにこなす印象的なシークェンスがあります。そこでブライアンは、部屋の私物にアニの残り香を嗅いでまわったりしながらも、昏睡状態の少女にコーランを朗読するという奉仕の仕事をも引き継ぎます。コーランの言葉は少女に直接宛てられた届くかどうかもわからない希望の「手紙」であり、同時にその言葉を通して遠く隔てられた恋人たちが再会への希望に結びつけられているのです。『グブラ』でオーキッドが受け取ったジェイソンの遺品は何だったでしょうか。オーキッド宛てのたくさんの手紙の束、タゴールの詩集、そして携帯電話でした。
 「手紙は間に合わない」という悲痛な命題を「間に合わなくてもいつか手紙は届く」と翻訳してしまうところに、語の最良の意味で楽天家だったあなたの真骨頂があります。しかしあなたは、楽天家ではあっても夢想家ではなかった。オーキッドがついにジェイソンの手紙を開封する『細い目』のクライマックスで、あなたはオーキッドと母が座る車の後部座席にキャメラを固定したまま、手紙を朗読するジェイソンの声を完全なオフで聞かせています。そのオフの声は、ハンドルを握る父が直前にオーキッドに向かっていった「あきらめたほうがいい、あの男はおまえにふさわしくない」というオフの声と紛れもなく対照されている。父親なりに娘を思ってのことには違いないその言葉は、まさにオーキッドの両親が結婚を反対されたときにいわれた言葉と正確に同じであり、その事実に衝撃を受けた母が、オーキッドに自分の気持ちに素直になることを促したのでした。あなたがここでジェイソンの手紙と対照させたもう一つのオフの声は、遅れて届く「手紙」の負の側面を代表しています。それは歴史の悪しき反復、現代のロミオとジュリエットを何度でも再生産しつづける不寛容の繰り返しにほかなりません。
 しかしながら、これら二種類の「手紙」が競合するさまにこそ、あなたは真の希望を見いだしたのではないでしょうか。『タレンタイム』の――つまりあなたの全作品の――ラストショット、そこでは歴史の悪しき反復によってまたしても引き裂かれようとしている恋人たちが、急な階段の傾斜を利用して対峙し、一方は口頭で、他方は手話で、激しい「口論」を繰り広げています。あなたは二人の行く末を示すことはしませんでしたが、相異なる個人と個人が激しく衝突する、この永遠の葛藤こそが希望の謂であることをあなたの映画の観客はみな知っています。そしてこれからも、あなたがわれわれに宛てた「手紙」としての6本の映画は、どれだけ遅くなろうと配達されつづけるはずなのです。
                             2009年11月8日

ヤスミン・アハマド監督 “オーキッド4部作”


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