レポートWEBSPECIAL / REPORT

2012年6月29日(金)〜7月2日(月)
転形期のインディペンデント映画 第1回 万田邦敏・小出豊作品集

上映時間
 
小出豊監督のブログ

 

転形期のインディペンデント映画、小出豊監督作神戸上映に寄せて
 深田晃司
(映画監督)

 映画は「痛み」をどうしたら描けるのだろう。俳優が全力で泣き叫べばいいのか、血がよりリアルに見えればいいのか。そんなことにもし思い悩んでいる人がいたら、まずは小出豊監督の映画を見ることをお薦めします。
 そこでは、人間もアクションも、言葉さえもできるだけ物質的即物的にスクリーンに置かれようと背筋を正している(気がする)。それなのに、それゆえか、カメラのレンズに写るはずのない痛みが、何か人間が根元的に抱えている存在の痛みのようなものとして、伝わってくる。硬質なスクリーンの裏に隠れて脈打つマグマのようなその熱気に、いつも僕は魅せられる。
 痛みのあるところには暴力がある。『綱渡り』の少年にとって、日常は彼を孤独に押し込むしんとした暴力だ。殴られれば殴り返せるが、殴るもののいない暴力からは、人はただ黙って押し潰されるか、逃げるかしかできない。彼は海への逃避行の末に、世界に一本の傷をつける。その線は少年を未来へと導く道なのかも知れないが、僕には、逃げるぐらいのことしかできない小さい彼が、ようやく残した反撃の爪痕のように見えた。
 それゆえ、さらなる大きな力に晒されあっさり消失するその線は、シンプルにダイレクトに、あらゆるモノはさらなる大きな力の干渉から逃れえない、暴力の垂直的な構造の本質のようなものを私たちに突きつけてくる。どれだけ血糊を使ってもなし得ないほどの説得力で。
 『お城が見える』は、妻への家庭内暴力をマネキンを相手に淡々と再現する、というそのアイディアだけでも傑作で面白く、夫の抑揚を欠いた仕草と声はゾッとさせるが、何よりも痛みと舫うことない「単品」として暴力を扱うその仕掛けが、なんだか画期的なことに思えゾクゾクした。
 暴力があるから痛みがある。しかし、何か大きな空洞を抱えているように見える夫が繰り返すそれは、痛みから導き出された暴力だ。壁に叩きつけられ、吹き飛び、コロコロ転がるマネキンの首はユーモラスでさえあるが、所詮は想像に委ねられるしかない他者の痛み、果てしない断絶を端的に示してくれた。
 『葉子の結婚・月曜日』、『こんなに暗い夜』もそれぞれ、痛みと暴力、暴力と痛みがねじれ現象を起こしながらスクリーンに満ち満ちて見る者を圧するが、一方でジャンル映画のように軽やかで楽しい。『葉子の結婚』の姉妹の会話の妙と厳密に計算された肉体の配置、切り取られるアクションのリズムに息をのみ、『こんなに暗い夜』はタイトルの期待を裏切らない漆黒の犯罪映画だった。
 とっちらかったまま締めます。現在進行形で今まさに変わり続けている小出監督の映画を「総括する」ことなんて自分の筆力ではとても出来ないのだと思う。
 眉間に皺を寄せて映画理論を深め実践していく思索家のようで、ただ単に映画の快楽を追っかけている楽天家のようでもある、多重人格のような小出監督の映画は、とにかく癖になります。この機会にひとりでも多くの人に見て欲しいです。
 最後にこれは私信ですが、『綱渡り』の撮影は、私にとって初めての映画の現場でした。右も左も分からない美術スタッフとして、多大なご迷惑をおかけしたことをこの場を借りて10年越しにお詫びします。ごめんなさい。今思い出すと、ユートピアのように楽しい現場でした。また新作作るときは隅っこで遊ばせてください。楽しみにしています。
 

『絶対絶命』をおすすめする。
 長島良江
(映画監督)

もちろん、『夜の足跡』『面影omokage』もおすすめだが、ここでは、『絶対絶命』をおすすめしたい。
 
この作品は夏目漱石の「明暗」からの自由な脚色なのだが、「明暗」 の数あるシーンの中から選び取られた箇所にまず驚く。本を読んだときには気がつかなかった面白さ・密度に気付かされるからだ。
 
恋人がヒロインを責めて言う台詞で「俺のことかわいそうだと思ったことないだろ」という箇所がある。
まるで、『接吻』の京子のような台詞ではないか。田園の中に車を止めて話す、あの長いシーンを思い出す。
 
「俺のこと安心させてくれよ」と乞う恋人に嘘をついて、ヒロインは昔の男に会いに行く決断をする。このように人は魔がさして自ら選んで落ちていくのだ、という詳細な観察のようでもありおそろしい。
 
 脚本の充実ぶりもすばらしいのだが、演出・撮影方法においても、万田さんの「転換期」を感じられるという点で必見と言える。
特に気になるのは、劇中2回カメラが前進移動する箇所。追いつめられていくヒロインを凝視するための移動が、カメラも加担して追いつめていくようなおかしな感触がある。今までの万田さんにはない撮り方を随所に感じることができる。
 
 追いつめられる人間と、追いつめる人間を見るのは楽しい。
ひさしぶりに黒々しい万田作品を見たという興奮を味わえる『絶対絶命』をおすすめする。
 

わだば小出豊になる!
 内田雅章
(映画監督)

本人に問えば言下に否定されるだろうがここだけのハナシ小出豊は暴力に魅せられているのだ。え? なに? そんなのあたりまえだろうって? 『お城が見える』や『こんなに暗い夜』でドメスティック・ヴァイオレンスをふるう人物が出てくるから? 子供や犬や胎児や浮気者が殺されるから? なるほどそりゃあたしかに暴力だ。DVや殺害を目のあたりにすると人は安心して「ああこれは暴力だ」という。だがあなたはほんとうに目のあたりにしたのだろうか? それが『お城が見える』のもっとも肝要な問いかけだろう。
かつてある男性が妻に対して振るったDVが今あたかもほんとうであるかのように律儀に再現される。実際にやったとおりに再現せよとの指示が繰り返し発せられ周囲の人物たちも段取りはすでに承知でシナリオどおりにことを運ぼうとする様子を見るに確かに彼は実際にかつてこのような暴力を妻に振るったのであろうと思われる。しかし人形を相手に突き飛ばし束ねたコードで叩きドアで身体を挟みつける彼の暴力につきまとう無力感をなんと見るか。私たちがそこに見るのは暴力ではなく暴力の影だ。そして逐一律儀にその影を見せられる映画の暴力性だ。
冒頭の一節は書き換えなければならない。小出豊は暴力=映画に見せられているのだと。書き換えの結果として「に」という助詞の収まりが悪くなってしまったがここはひとつ助詞力をアップさせる方向で考えていこう。どんなときも前向きな心構えを心掛けたいものだ。
小出豊は世界が暴力に満ち満ちている様を見せられることがいやでいやでしかたがない。ほとほと弱り果ててしまうがそれでもクソ暴力に塗れたこの世界でしか小出豊は生きていくことができない。かたやいいっぽうで小出豊は世界を映画で見せられることに倦むことを知らない。不完全な機械たる人間の知覚がオーヴァーフローするのもおかまいなしの質量でもって世界を再現する完全な機械仕掛けの映画に危険も顧みずに素肌を晒してしまう無防備な小出豊。この小出豊の映画を見るとなればクソ暴力を見せられているという世界をおかまいなしに再現しているのを見せられているということになろうことは自ずと明らかになるであろう。
ここに至って小出豊はもはや一個人としての小出豊の体ををなさなくなっている。私たちやあなたたちやヤツらをも指し示すような異形の人称代名詞としての小出豊。小出豊になるかならぬか。それが喫緊の問いとなろう。
 

映画史の極北、未踏の北方へ――小出豊特集上映に寄せて
 廣瀬純
(映画批評)

 映画作家は映画史のなかに身をおいて自作の制作にあたる者とそうでない者とに二分される。険しいのは前者の歩もうとする道だ。なぜなら、映画史のなかに身をおくとは、先達たちの仕事の総体を包括的に把握した上で彼らの至り得たその極北をはっきりと同定するということであり、そのように同定された映画史の極北をおのれの出発点にするということだからだ。極北よりさらに北へ向かう道をこうして拓かんする者は今日、数少ないが、小出豊はそうした例外のひとりである。
 極北を出発点にするというのは、端的に、極北として同定したものをそっくりそのまま反復することから自作を始めるということに他ならない。極北から出発するという振る舞いには曖昧さがあってはならない。小出監督のすべての作品のすべての瞬間、すべてのショット、すべてのモンタージュにおいてブレッソン映画の全体が、しかしとりわけ『ラルジャン』が、誰の目にもはっきりと、あからさまに反復されているとすれば、それは、おのれに課すたたかいの所在にいっさいの曖昧さを残さないという強い意志が彼と彼の作品とを貫いているからだ。したがって、この反復に見出すべきは、たんなる「引用」やら「模倣」といったことではない。そうではなく、おのれに微塵たりとも南下を許すことなく、極北から極北へと続く仮借なき稜線をひたすら辿っていくその持続の強靭さなのだ。
 しかし、持続のこの強靭さ、強靭なこの持続とともに、極北の彼方の未踏の北方が到来する。凍てついた極寒の稜線に沿って、すべての瞬間、すべてのショット、すべてのモンタージュに、何人たりとも経験したことのない圧倒的な凝寒が到来するのだ。極北とそのさらなる北方、極寒とその彼方、この偏差を体感し続けること、身体をもって計測し続けること、それが小出豊監督の作品を観るということなのだ。
 よりわかりやすく言い直そう。ブレッソンに少しでも勝っていなければ、ストローブやゴダールに少しでも勝っていなければ、映画を作る意味などいったいどこにあるというのか。映画は「自己表現」の道具ではない。映画はよりいっそうの寒冷を求めている。世界は冷えきった映画を求めている。小出豊は映画の、そして世界の、この欲望をおのれの生として生きる作家なのである。
 

小出豊作品におけるDとV
 結城秀勇
(nobody編集長)

小出豊の作品には必ずDVが存在する。それは彼の監督作だけではなく、『県境』や佐藤央『MISSING』といった他監督への脚本提供作にも必ずある。
ここでまず付け加えなければならないのは、もちろんDVの定義などではなく、また一見してそれとわかる具体的なアクションとして記録されたヴァイオレンス=Vのありようですらなく、なにはさておき彼の作品におけるドメスティック=Dの重要性なのだ。鋭利なVよりも、内部空間を閉じ込めるDこそが、小出作品の出発点である。
『綱渡り』の狭小な食卓に始まり『こんなに暗い夜』の新興住宅地にいたるまで、家庭は登場人物を閉じ込める境界として存在している。だが『綱渡り』の食卓の天井に雨漏れする穴があいていたように、それはそれほど強固な囲いではない。そもそもDとは、まるで半身を欠いた○のような不完全な囲いである。父あるいは母あるいは子のいない家、または『月曜日』のように作られる前から「みんなを不幸にする」とわかっている家庭。だから小出作品において目指されるのは、Dの内側から外側への脱出ではないし、Dを破壊することでもない。極めて小出的な登場人物たちは、越境を、ではなく、ただ境目を見つめ続ける役割を担う。『綱渡り』の少年はまさしくそうした役割を完璧に生きているし、『県境』の少年少女が目指すのも県境の向こう側ではなく、境目そのものなのだ。それはDは不完全であると宣告する行為ではなく、その不完全さを詳細に観察することである。『こんなに暗い夜』において繰り広げられる、「家庭内の出来事」へ向けての終わらないリハーサルのように、その観察を通じて、Dの中にあるDといった具合にDは自らの深度を増し、マトリョーシカ化したDの相似的な関連性の内に、われわれは不完全さを観察する。
そして小出のDVにおけるDがそのようなものだと考えたときにはじめて、残るVの重要性について語りはじめることができる。これは鋭利さの象徴などではなく、むしろD同様に半身を欠いた▽なのだと考えるべきだ。小出の暴力=Vはどの方向にも常に均質な刺激を与える角を持ったものではなく、ある角度から見れば単なる凹みのようにしか見えない。そしてそれは暗がりの中に身をひそめながら、ほんのつかの間マトリョーシカ化したDの内側から、「おはよう靴下」のようにぬるりと顔をのぞかせる。私はいつもその瞬間に震え上がる。
 

 安井豊作(映画批評)

資本主義は終わる。その時は遅かれ早かれ訪れる。あたかも酷薄かつ滑稽なカフカ的機械が動きを止めるが如く。
ところで万田、小出両シネアストの作品もまた酷薄かつ滑稽である。ということは、万田、小出両シネアストの酷薄かつ滑稽な作品を見ることを通して、同じく酷薄かつ滑稽な資本主義が終焉を迎えんとしていることをはっきりと予覚しなければならない。
〈転形期〉とは、そのような事態を指しているのである。また、万田、小出両シネアストがしばしばラディカル(根底的)であると称されるのも、それゆえである。
付言すれば、資本主義が終わる前に、人類は不可避的に過酷な未知の戦争を体験しなければならないようだ。こんなに暗い夜に、夜の足跡だけを頼りに私たちは歩を進める。
 

「夜」が「こんなに暗い」ものだと知らなかった
 冨永昌敬
(映画監督)

3年前にCO2の上映会で『こんなに暗い夜』を初めて見たとき、僭越ながら自分も似た種類の映画をかつて撮ったことがあるような気がして、小出さんに強い親しみを感じた。しかし上映が終わるころ、その親近感は早合点にもとづくものだったと気づいて恥ずかしくなった。似ていたのは種類だけであって、ほかの何もかもが、その確実性や到達度においてまったくの別物だった。つまり僕は「夜」が「こんなに暗い」ものだと知らなかったし、夜をこんなに暗く撮れたこともなかったし、また撮ろうとしたことさえなかったのだ。
上映後、この傑作に拍手が起こらなかったら大変だと思って(音楽や演劇には拍手するくせに映画にはそうしないのが当然みたいになっているが、上映会となったら話は別だ。なにしろ作った当人が会場にいる。にもかかわらず拍手を送るのをためらう人は多く、ためらっているうちに会場が明るくなってしまった場合など、本当に寂しい気持ちになる)、さりげなく手を叩いたら、間髪を置かず喝采が湧いた(しかしこの映画の素晴らしい出来に見合った量ではなかった。それに憤慨したけども、いや冷静にみれば、この映画の終わり方というのは、どうも拍手しにくいというか、むしろ感極まった観客が拍手を送ろうとするのを防止する設計が施されているようにも思える。それが事実だとしたら、僕は余計なお世話を働かせてこの映画の結末を大いに汚したことになる)。
で、あれから3年経った今、この文章を書くためにDVDをお借りして見直したのだが、またしても上のような感想を抱き、この映画が自分の映画だったらいいのにとまた思った(しかし拍手を送りにくいという一点だけは、正直いかがなものかと思う)。
 

『綱渡り』と『夜の足跡』
 西村晋也
(映画監督)

映画芸術のサイトに掲載されたインタビューによると、小出豊が万田邦敏と出会ったのは2002年あたりらしい。今回の特集で上映される作品を何本か再見して、とくに二人の出会い以前に撮られた2本の作品に深く打ちのめされた。
2000年に撮られた小出豊作品『綱渡り』と、2001年に撮られた万田邦敏作品『夜の足跡』である(両作品とも16ミリフィルムで撮影されている)。
『綱渡り』は、綱渡りの直線運動に魅せられることで、他者と繋がる言葉を失ってしまったような、孤独な少年の彷徨を描いた、極めてシンプルな作品だ。
私は小出監督と映画美学校の同期だった関係で、『綱渡り』にはスタッフで参加していた。
撮影、特にフレーミングへの尋常ではない監督の拘り方が印象に残っている。
それは、理想的な画面を追求する完全主義とは、異質なものだったと思う。
にわか仕込みの照明部となった私は、少年のマンションの天井から落下する雨滴の動きを、引き画・長回しの中で見せることに苦労していた。もう少し寄ったサイズなら、とか弱音を吐いたかもしれない。もちろん監督は譲らなかっただろうが・・・。
引いた画面の中で、少年と母親が演じるドラマと水滴の即物的な落下運動を、同時に捉え続けること。それは一体何を狙ったものだったのだろうか。
当たり前のことだが、水滴の垂れる位置や間隔、見え方などを調整することは出来ても、落下の運動そのものはCGでも使わない限り、人間が統御することはできない。
『綱渡り』における引き画・長回しというアプローチは、この落下運動のような、世界に偏在するコントロールし切れない事物の運動を、ありのままのすがたでフィクションの中に呼び込む、という試みだったのではないかと思う。加工されない事物の運動とフィクションが共存することではじめて開かれてくるような世界。
加工されない事物の運動とは、少年の前で綱渡りが演じられる時の、綱の微妙なたわみやしなりだったり、川べりで少年が餌を投げた瞬間に、一拍遅れて舞い上がる鴎の飛行が描く軌跡だったり、少年の傘が砂浜に刻み込んだ直線を、波が洗い流して消し去る運動だったりするようなものだ。それらの運動こそが、この映画で少年が対峙していく世界そのものではなかったか、と思うのだ。世界とのもっともシンプルなコール&レスポンスがそこにはある。
しかし、その後の小出監督は、アプローチをがらりと変える。物語は鮮明な対立による緊密な展開を示すようになり、引いた長回しのショットは、細分化されたスピーディなショットの連続に取って代わることになった。そして何よりもノワール色の強いダークなテーマの追求。試みは長編『こんなに暗い夜』でひとつの頂点を迎えたといっていいのだろう。そのクオリティーは疑うべくも無いが、一方で『綱渡り』には豊かに存在していた、のびやかな開放感や、そこはかとないユーモアのようなものが失われたように見えるのは、少し残念ではある。
『お城が見える』や『こんなに暗い夜』で注目した人にこそ見てもらいたい、小出豊の「原点」だ。
『綱渡り』は、父親のいない母子家庭の少年が主人公だったが、父親を殺した過去を持つ青年を描いたのが、翌年に撮られた万田監督の『夜の足跡』だ。
青年は、彼をいまだに憎んでいる弟との再会・葛藤を通して、過去と向き合うことを余儀なくされる。異様な緊張感が漲るこの傑作は、『綱渡り』とは対照的に、徹底的に構築された作品に見える。
人物間の視線構造の変化や、フレームの内外に跨って展開される芝居の磁力など、とにかくファーストカットから刮目して見て欲しいと思う。
かつて決定的な暴力を振るった青年は、周囲との軋轢を避けるように生きている。
しかし、『綱渡り』の澄み渡った世界とは真逆の、混濁した薄暗い世界は、青年の存在を脅かすかのように向こうから忍び寄ってくるのだ。その不吉な気配に対して、青年が示す反応(リアクション)がひとつのキーとなって物語は展開していく。
例えば、青年がリストラされる原因となる同僚の登場場面はどう演出されていたか。
俯いて仕事をしている青年を捉えたショットに、画面外の同僚が吹く口笛が聞こえてくる。その音に反応した青年が顔を上げると、酷薄な顔をした同僚と一瞬目が合う。気まずさにすぐ目を逸らす青年・・・。会話ひとつ交わされないが、口笛の音へのリアクションによる一瞬の視線の交わしあいが殺伐とした空気を醸し出す。そして、自らを圧迫してくる世界に対して受身である青年が、いつかその暗い衝動を爆発させるに違いないという予感が静かな不安を掻き立てていく。
弟は、そんな兄の真の姿を暴きたてようとする。彼が背負っているリュックの赤い色や、持ち歩いている懐中電灯の赤い光が、口笛の音がそうであったような不吉な符牒として兄を脅かしていくことになる。
コンビニでの二人の再会場面も、気配を感じて振り返った兄が、まず弟の足元に置かれた赤いリュックを見、次に目を上げて、その斜め後頭部を見る、という無言の演出が導入部となっている。避けるように去っていく兄を、画面外から呼び止めるのは弟の方なのだ。見ていたはずの兄が実は見られていたという逆転がそこには仕掛けられている。
同じ部屋に同居するようになった弟は、兄を挑発するために、街で拾った女子高生を連れ込んで目の前で戯れてみせる。女子高生の退廃したふるまいと、裸の上半身に纏ったマフラーの赤(くすんだ発色が禍々しい)に駆り立てられたかのように、とうとう暴力の衝動を剥き出しにしてしまう兄。だが、拳を振り上げた瞬間に発せられる「殴りなよ」という弟の一言に、兄はすんでのところで衝動に歯止めをかける。宙に止まったままの拳のアップが凄まじい。それは、かつて振るわれた暴力の惨さを、実際の暴力以上に生々しく浮かび上がらせていたように思う。
やがて兄弟は、かつて父殺しが行われた実家で対峙することになる。
兄は、倒れて天井を見上げていた父の姿勢を自ら再現して見せ、「その時」のことを語り始める。兄の主観で天井の無人ショットに切り替わると、真っすぐに見下ろす弟の顔が不意にフレームインし、間髪入れず兄を激しく蹴りつけるアクションへと繋がる時、弟が兄を、兄が父をループしてしまうのではないかという悪い予感に見るものは震える。終わりの無い憎悪と暴力の連鎖。
しかし、最悪の悲劇は回避される。この諍いのあと、兄と弟は徐々にこわばりを解いていくことになるのだ。兄と弟の間に仄かな共感が生まれ出す・・・。
そんな二人の姿を見ていると、ふと兄が腕を後ろ手に組んで天井を見上げていた時の姿が、映画の冒頭、穏やかな表情で川原に横たわって空を見上げていた弟と、そっくり同じポーズであったことが思い出される。
兄はあの時、父だけでなく、弟をも無意識に反復していたということなのだろうか・・・。
謎を孕みつつ全編に渡って張り巡らされた緊密な演出には言葉を失うしかない。
ところで『綱渡り』のあと、小出君と私はしばらく疎遠になった。私自身が商業作品を撮るようになったこともあり、彼が万田さんに師事していることも噂で聞くぐらいだった。
そんなこんなで年月が経ったある日、私は久しぶりに小出君の新作を見ることになる。
『お城が見える』という短編だった。『綱渡り』とは全く違ったその作品には、色々な意味で度肝を抜かれたものだ。そして、そこで描かれていた肉親間の憎悪と暴力という主題は、むしろ『夜の足跡』と密接な関係があるのではないかと、今回思ったのだった。
 

  青山真治(映画監督)

映画の絶対零度というものがあるとすれば、
それは『夜の足跡』をおいて他にない。
日本は間違いなく凍る。
こんなにもリアルであることなど、
映画には許された試しはないのだ。
(転載)
 

最もラディカルでチャーミングな2人の親子会
 佐藤央
(映画監督)

 落語の世界では師匠と弟子による2人会のことを「親子会」と呼ぶ。万田邦敏・小出豊という現存する最もラディカルな2人の映画監督であり、師弟でもある2人による「親子会」が開催されると聞き、ただごとではない胸騒ぎを憶える。
 これに匹敵する「親子会」とは、2006年5月30日新橋演舞場で行われた「立川談志・志の輔 親子会」か、あるいは2008年6月29日歌舞伎座で行われた「立川談志・談春 親子会」くらいしか思いつかない。落語の世界では故立川談志率いる一門のことを「落語立川流」と呼ぶのだが、かりに「映画立川流」というものがあれば、それは小出豊を筆頭弟子とする、この万田邦敏一門ということになるだろう。それは万田さんが立川談志に似ているとかそういうこととは一切関係ない。むしろ万田さんは立川談志にまったく似ていないし、似ていると思われたくもないだろう。単純に事実に即して言えば、三遊亭円生、古今亭志ん朝、柳家小三治が万田さん好みの落語家だ。もし立川流と同じであるとするならば、談志が「落語を落語足らしめているのは何か」と生涯を通して問い続けたのと同じ、「映画を映画足らしめるのは何か」という単純なただ1つの問いにさえ彼らの作る映画が貫かれていれば、この一門の門人たる条件は十分に満たされるという一点だけだろう。あとは酒を呑もうが寝坊をしようが歌や踊りができなかろうがすこぶる自由だ。実際、万田さんも小出さんも歌も踊りもなされないが、とてもチャーミングでユーモア溢れる方である。
 実は、この「親子会」が途方もない貴重な瞬間を見せてくれるのもそこにある。今回上映される映画をあえて時系列に見てみると、この2人の映画監督にとっての「映画を映画足らしめるもの」がこの10年間でいかに深化を遂げたかが画面にはっきりと映っていることに目を見張る。これはこの2人の監督の「映画観の深化」と置き換えても良いし、落語家だったらそれを「落語家の了見の深化」と呼んでも良い。時を経るにつれ、2人がいかに「映画を映画足らしめるもの」を説話や主題のなかに巧妙かつ繊細に隠しつつ、それでいて視覚的なショットとして一本の映画に溶け込ませていくようになったか、いわば2人の監督の「技術の深化」としても見て取れることが貴重なのだ。これは得も言われぬ体験である。どうか『×4』の緊迫感溢れる2人の女子の室内でのやりとりを万田さんがどのような構図に収めていくのか、『県境』の引っ越したアパートの前で繰り広げられる親子の葛藤をどのように視覚化しているかを見逃さないで欲しい。小出さんの傑作『お城が見える』はもちろんのこと、『月曜日』の驚嘆すべきバックショットの演出にも目を凝らしていただきたい。わたしはこれほど見事なバックショットの演出を少なくとも同世代の監督たちの演出で見たことがない。同じ一門の末席を汚させているものとして、これほど恐れを感じつつも楽しみな「親子会」はそうそうないと断言できる。
 それでは「万田邦敏・小出豊 親子会in神戸」の始まり始まり~♪
 

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