プロ鷹クロニクル
『娼婦』(68年)水城リカ(右)プロ鷹専属のスター女優として育てられた
鈴木義昭(映画史家・ルポライター)
■まもなく9月28日から10月1日にかけて、「昭和桃色映画館50年目の幻のフィルムと活動屋たち」の後編「プロ鷹クロニクルPART-1」、「プロ鷹クロニクルPART-2」の特集上映が始まります。今回、発掘上映いたしますのは、神戸映画資料館が長年蒐集し・保存してきました「プロダクション鷹」の作品群です。いずれも、この世に一本ずつしかないと思われるフィルムですが、上映プリントの状態はどれも良好です。監督は全て木俣堯喬。東京生まれですが、関西に長く暮らし、関西で初めての成人映画専門の独立プロダクションを立ち上げた人物として知られ、根っからの活動屋と言っていいでしょう。東京時代には芸術家として多彩な活動もしていて、注目されます。やがて活動の拠点を関東に移して、若松プロと提携するなど目覚しいい活動を展開した時期もある。2004年に89歳で亡くなられていますが、近年は東映映画作品やテレビ朝日『相棒』シリーズなど人気作品の監督、ヒットメーカーとして活躍著しい和泉聖治監督の父上として回顧される事の方が多くなっているようである。
昨年、出版しました拙著「昭和桃色映画館」でもほとんど触れることができませんでしたが、30年前に出版した「ピンク映画水滸伝 その二十年史」には顔写真入で登場いただきました。そこで、今回、「プロ鷹特集」をより面白く、よりマニアックかつ探究心旺盛な気分でご覧いただく為に、ちょうどいい文章を書庫の奥深くから発見いたしましたので、本ページにお願いして採録をさせていただくことにいたしました。「記事」をお読みいただくと、特集全作品が見たくなるかとも思います! 木俣堯喬監督、プロ鷹作品はある時期から低調な作品が多く、新世代の監督からは批判の対象にもなっていましたが、今回上映される作品群のクオリティは、60年代~70年代初期にかけての「ピンク映画」「独立プロ」の当時の水準を上回るものかと考えられます。性愛映画に不可欠の要素が散りばめられているだけでなく、独得の娯楽的テクニックや演出の妙も多く発見ができます。簡単に見過ごすことなく、当時の活動屋たちの心意気に思いを馳せてみて下さい。木俣堯喬が、どんな人物だったかが、やがてわかってくることでしょう。
「俺はピンク映画のチャップリン」
「俺はピンク映画のチャップリン」(「シネマLOOK」)記事
珠留美(上)と木俣堯喬監督(下)
昭和39年に「肉体の河」でデビューして、この道13年の大ベテラン監督である。
それまで撮った作品は、日活ロマンポルノを含めて、なんと百本を超える。
大正4年3月26日、東京は神田の金物商の家に生まれる。
日本美術学校の彫刻科を卒業し、国展、二紀会など二十数回も入選し、特選を受賞している。
現に、東京の世田谷にある豪徳寺境内にある無名戦士記念碑も彼の作品だし、マニエロハス比大統領碑なども制作している。
神田っ子の彼は、戦前に作家の高見順氏とよく飲み歩き、小説の「いかなる星の下に」や「大部屋の友」などは、高見順が木俣監督をモデルにした作品という。
よき浅草の肌合いと庶民的な人情味を持っている。
昭和九年ころ、池田義信監督の私的門下生となったが、大阪の吉本興業演出部に入り、浅草オペラ館ほかで劇作、演出をする。
松竹や吉本興業で八年間、脚本や演出を担当し、東映京都では役者もやったことがある。
京都を本拠に、39年日東テレビK・Kとプロ鷹を設立し、数本の作品を自主製作したが、43年に上京し、本拠を東京の渋谷に移し本格的に製作に力を入れる。
プロ鷹作品の特性はきまって「製作・脚本・監督・木俣堯喬」とタイトルに出る。
これまで百本を超える作品の中で、半分以上の作品に監督自身が出演している。
こうしてみると、いわば〝ピンク映画のチャップリン〟である。
一人何役もこなさなければならないのは、ピンク映画の宿命だろうが、木俣監督の場合は、自分でテーマを選び作るのである。
「自分で作るまでがボクの仕事であって、映画館にフィルムが回れば他人です」ともいう。
ピンク映画という限られた予算、人員、日数は、いわば手づくりのサンプルといえる。監督だけをやっていればいいという、大手の会社と違うところもそこにある。だから、自ら主役もつとめるわけだ。これは木俣監督に限らず、必ずと言っていいほど、ピンクの監督は映画に出演している。
相手の女優をかき抱いて、ベッドシーンもやるが、木俣監督はそれがちゃんとサマになっている。これもやっぱり役者をやっていたキャリアがものを言っているといえる。また、これまで数多い女優も育ててきた。ピンク映画ではあまり女優を育てることはしない。せっかく育てても他社にもっていかれたりしたんではモトも子もなくなってしまうせいもある。
だが、木俣監督はこれまで水城リカ、芦川絵里、緑喬子を育ててきた。
本格的に育てたのは、芦川絵里だろう。
「女優を育てることに執念に近いものを持っている。女を描く良い作品を作るには絶対に必要だし、他人の手アカのついていない女優を自分の色で仕上げるために、自分で育てたいのです」
というのが、木俣監督の主張であり、主義だ。
緑喬子という新人をデビューさせたとき、彼女を喫茶店で発見し、「このコだ!」と目をつけ、「女優にならないか? ピンク映画だけど……」と口説いた。
モチロン、断られたのだが、これで諦めては男がスタル……とばかり、十日間にわたって口説き続けた。しかも、彼女が通っている洋裁学校のある駅で待ち伏せしたり、サラリーマンの両親を訪ねて説得したりまさに執念に近いどころか、〝執念のオニ〟である。
「それだけ責任を持って育てるし、幅広い女優に磨きあげましたよ。女にホレる。ホレさせる、人生の生きがいをこころみるわけですね」
と言い、珠留美、谷身知子の異色姉妹女優も育てた。
谷身知子の方はアメリカ人と結婚し、渡米してしまったが、現在は姉の珠留美一人で孤軍奮闘している。このプロ鷹には、もう一人活躍している人がいる。
木俣堯喬監督には三人の息子がいるが、長男の和泉聖治クンは若手演出家である。これまで二本の映画を手がけ、監督として期待されている。やはり、血筋は争えないということだろう。役者や歌手などには芸能親子二代というのは、さして珍しいことではないが、ピンク映画界で親子がそろって監督をというケースは珍しいといえる。
「まさか息子までが監督するとは思いませんでしたよ」と木俣監督。
プロ鷹を設立して十二年目にして文字通り〝父子鷹〟というワケだ。
「世の常識からいえば色目もあるでしょう。むしろそうしたことに反発し、自分がピンク監督であることを誇りに思っている。ボクはロマンはテーマにしない。発情した男がどんな犯し方をするかに興味があるんだ。だから、バイオレンス派とオヤジは言うが、ボクとオヤジとは作風が違います」
と和泉聖治監督が言うが、まさに「この親にしてこの子あり……」ということだろう。
「セガレとはよきライバルだ」という木俣監督も62歳。まだまだポルノに賭ける意気込みは息子には負けられませんと、今日もピンク映像に突き進んでいる。
ピンクの父子鷹、ピンクのタカ派になり得るか。
「シネマLOOK」1977年9月号(サン出版)より
■月刊の男性雑誌の記事だが、狙いは外していない。細部の取材も徹底している。こんな文章がヌード写真とヌード写真の間に挟みこまれていたのが、僕らが思春期に眺め貪り読んだ雑誌群だった。今はもう、どこにも保存されていないだろう。国会図書館にすら収められていない雑誌には権威も思想も哲学も感じられなかったが、街の片隅に吹く、微風や淫風だけは感じられた。「シネマ」に賭ける男たち女たち、活動屋たちの夢と生きざまがあった。……木俣堯喬監督は、例えば、そのデキはともかく女優の沖山秀子に監督をさせて、『グレープフルーツのような女』(北山理絵主演/81年/日活配給)という映画を撮らせている。ただの「ピンク屋さん」ではないのだ。実験精神や冒険心に富んでいる。そこがおもしろい。それは、京都というより浅草時代に培われたアバンギャルドな心意気に基づくものだろうか。著書「浅草で春だった」(晩聲社/85年)のあとがきには、息子の和泉聖治に語りかけて自分の生涯を振り返る件がある。父と子の微妙で深い絆が、活動屋の苦悩と歓喜を感じさせる。これも、少々引こう。
昭和四〇年八月「プロダクション鷹」の発足である。
ちょうどこの時期、おまえ――和泉聖治はすでに高校生なっていた。だから、おまえの知らない私の生きざまを伝える「遺書」で、これ以降のことについてはもう何も語る必要はなかろう。
俺と和子が、いちどかかげた旗を巻くまいと、いかに「プロダクション鷹」の映画づくりに苦闘したかもおまえの知っているとおりだ。そしてやがて、俺がソ連、東欧圏へのひと月の旅に出る直前、突然和子が狂気を患い、以後、入退院をくり返し、ようやく快方へ向かって作曲を愉しんでいたと思ったある日、ピアノを台になんの遺書もなく縊死をとげ、俺たちを愕然とさせたこともあった。
珠留美(上左)、和泉聖治(上右)木俣堯喬監督
■生前にこれだけの規模の「木俣堯喬監督特集」「プロ鷹特集」は実現することはなかった。その意味では、画期的な上映である。日本映画斜陽の波は、「ピンク映画」「独立プロ」を呑みこんで洗っていった。ひとつのプロダクションの黄金時代の歴史を回顧する「特集上映」、60年代から70年代にかけて大きく変化を迫られる活動屋たちの軌跡を、スクリーンに見出していただきたく思う。
■さらには30年前の拙著「ピンク映画水滸伝 その二十年史」(青心社/83年)から、木俣堯喬監督とプロ鷹について触れた箇所から引こう。木俣監督は長年連れ添った和子夫人を亡くした後、病に倒れ、女優として育てた珠留美をパートナーにして映画製作を続けた。木俣監督と珠留美の年齢差は、34歳。小生は、文中で「奥さん」と書いたが、籍には入っていなかったと思われる。文中に「大蔵貢と喧嘩して」とあるのは、本木荘二郎、山本晋也らとともに大蔵映画社長の大蔵貢に「製作費値上げ」を要求したが受け入れられず、決裂した「事件」を言っている。ピンク映画が70年代に向かうときに、大きな曲り角となった出来事だが、今は誰も思い出そうとはしない「事件」である。「プロ鷹特集」の最中に、「本木荘二郎」を振り返る「トーク」をおこなうのも、実は深い意味があってのことだ。本木荘二郎、木俣堯喬、山本晋也、和泉聖治は、「同志」だった……。御興味をもたれた方は、ぜひ、29日(土)の「トーク」にもご参加下さい。
「今までに、いろいろ撮ったけどね、結局、自分たちの映画っていうのは、初号試写までですね」
というのは、木俣堯喬監督。江戸っ子だが、京都で「エロダクション」を起した。一九一五年生まれだから古い。
美術学校で彫刻を学び、そちらでも活躍したが演劇に手を出し、やがてピンク映画。「プロダクション鷹」と名乗って『赤いしごき・日本毒婦伝』(風魔三郎監督・香取環主演)をプロヂュースしたのが、一九六五年。『野武士』(倉橋良介監督)『背徳』(倉橋良介監督・新高恵子主演)に続いて、自ら監督したのは『肉体の河』(六六年・扇町京子主演)から。フロアショーのダンサーの姉妹の話だった。その後、約十本の映画を京都を拠点に、関西で撮影するが、六八年の『狂った牝猫』より東京へ進出。大蔵貢と喧嘩して大蔵チェーンからパージされたり、若松プロと〝業務提携〟したりあって、今日へ。ピンク女優・珠留美は奥さん。若手の監督・和泉聖治は息子。「一家でピンク」なのである。
黄金時代来たり去り。
苦悶の時代が、やって来る。
(「ピンク映画水滸伝 その二十年史」より)
■同時に劇場内に「プロ鷹作品」の「ポスター展」も開催する。合わせて御注目いただきたい。いずれも恒例の「東舎利樹コレクション」提供・協力によるものだ。9月28日(金)~10月1日(月)の展示されるポスターの作品名は下記の通り。【01】から【08】は「桃色映画史上の名作」、【09】から【24】までが「プロ鷹作品」である。
プロ鷹作品ポスター展(シアター内で開催)
《後期》 ★印は「特集」上映作品
桃色映画史上の名作
【01】肉体市場(62)
【02】肉体自由貿易(62)
【03】情欲の洞窟(63)
【04】日本拷問刑罰史(64)
【05】黒い雪(65)
【06】壁の中の秘事(65)
【07】荒野のダッチワイフ(67)
【08】女高生芸者(71)
プロ鷹作品
【09】赤いしごき(65)
【10】背徳(66)
【11】女体標本(66)
【12】欲情の河(67)
【13】亀裂(67)
【14】或る色魔(68)★
【15】好色魔(68)★
【16】灼熱の暴行(68)★
【17】送り狼(68)
【18】広域重要指定一○八号拳銃魔 なぶりもの(69)★
【19】裸体[はだか]の街(69)★
【20】血まみれの犯行(69)
【21】女体密猟地帯 生体解剖(69)
【22】好色痴女(70)
【23】女体断絶(70)
【24】肉の取引き はめ手(71)
プロ鷹クロニクル