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「新発掘!大藤信郎アニメーション」に寄せて

渡辺 泰(アニメーション研究家)

『のろまな爺』

大藤信郎(1900〜61)と言うアニメーション(以下アニメと略す)作家について若いアニメ・ファンは知らない人も多いだろう。大藤はアニメのキャラクターの衣装や背景に江戸伝来のカラフルな千代紙を使ったことから千代紙アニメ作家とも言われた。またシルエットの影絵アニメの製作者でもあった。
現在、日本のアニメは世界的に有名で、宮崎アニメは全世界で知られる様になった。しかし、戦前から日本のアニメ作家は世界で知られていた。その人こそ大藤信郎であった。戦前だけでなく戦後の1946年、南米ウルグアイの第1回国際映画祭で大藤は芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』を影絵アニメ化して出品したのが入賞。現地のエル・バイース、エル・ディーア両紙は共に「美しさは手にとりたくなるほど」と激賞したと、当時の新聞はベタ記事ながら報じた。
海外の映画祭は仏カンヌ、イタリアのヴェネチア、ドイツのベルリン映画祭が有名。大藤は戦後の52年にカンヌ、56年にはヴェネチアにそれぞれカラーの影絵アニメを出品。カンヌでは惜しくもグランプリこそ取れなかったが、結果的には次点だった。ヴェネチアでは入賞。二つの映画祭のアニメ部門で大藤のシルエット・アニメは芸術的な作品とマスコミの話題になった。日本の名監督クロサワの名前よりも前にオオフジの名は特にヨーロッパのアニメ界では知られていた。
50年代の仏映画雑誌のアニメ特集号には日本アニメとして大藤作品を紹介。大藤はアニメ製作開始の段階から家族主体の家内手工業的な製作システムを行った。長女の八重がスポンサー兼プロデューサー。姉や妹たちが切り抜き作業のアシスタントに従事。戦後は姪の芳枝がアシスタントになった。仏雑誌には家族の八重、芳枝、大藤3人がソファで小さなスクリーンの映像を観ている写真が掲載されていた。

戦前から海外で大藤アニメは公開されたが、その経緯をもう少し詳しく紹介しよう。最初の作品は27年の影絵アニメ『鯨』。22年に独コロナ社でマチアス・シューマッハが製作したハウフ原作の影絵アニメ『カリフの鶴』(注=正確には鶴でなくコウノトリ)が、24年2月15日から東京・東洋キネマで公開された。エキゾチックなアラビアの影絵アニメは当時、日本でも話題になったそうだ。千代紙アニメを製作した大藤も当然この話題作を観たと思われる。シルエットの美しさに魅了され影絵アニメにチャレンジ。結果は美女をめぐり男たちの醜い争いをシルエットで描いたアニメ『鯨』であった。当時の評価は不詳。フィルムの存在は未確認だがスチールは2点存在する。
一方、28年5月に劇場公開された衣笠貞之助監督の『十字路』は前衛芸術映画として高く評価された。衣笠は同年6月、『十字路』と大藤の影絵アニメ『鯨』を持参し、ソビエト経由でドイツへ。ドイツを拠点にヨーロッパ各地を2年にわたって見聞。これは『十字路』のフィルムが売れたからで、大藤の『鯨』もフランス人が購入したそうだ。大藤の名は欧州でも知られていたのである。
また、大藤が28年に製作した千代紙アニメ『珍説吉田御殿』(改題・武者修行物語)は映画評論家の袋一平が30年、ソビエト映画界訪問の際、持参。6月14日に劇場公開され、ソビエトでも大藤の名は知られた。
戦後は前述のウルグアイ映画祭で『蜘蛛の糸』が入賞。52年には戦前27年に作ったモノクロ版『鯨』をコニカラー(小西六=現コニカミノルタが戦後製造したカラー・フィルム)でリメーク。素材には教会のステンド・グラスにヒントを得て透明なカラー・セロファンを使用。53年4月開催のカンヌ国際映画祭短編部門に『くじら』の題名で出品。グランプリは白い野生馬を描いたドキュメンタリー・タッチのアルベール・ラモリス監督の『白い馬』に与えられ、賞は逃がしたが次点であった。しかし、この作品を著名画家ピカソや、詩人で映画作家でもあるジャン・コクトーが観て色彩の美しさを評価したと伝えられている。
56年、大藤は第7回ヴェネチア世界記録映画祭に富士フイルムのフジカラーを使用し前作同様に色セロファンを使って『幽霊船』を出品。今回は特別賞を受賞。だが外国で評価されたものの日本国内の反応は冷たく、同作の劇場公開もされなかった。

戦後、アメリカでは台頭するTV攻勢で映画観客は激減。映画界では対抗策として立体3D映画や巨大画面のシネラマ、横長スクリーンのシネマスコープ(以下CSと略)を取り入れた。日本でも東映が57年4月、国産の東映スコープと称するCS第1作『鳳城の花嫁』を製作公開。CSアニメ第1号はディズニー・スタジオが53年『プカドン交響楽』を公開。(日本公開55年12月)。大藤はCSアニメにチャレンジ。58年3月、『ガリバー旅行記』8巻、『竹取物語』(巻数不詳)の製作発表後、『竹取物語』に着手。作画も完了しラッシュ撮影の後、本番撮影直前の61年6月、大藤は脳軟化症で倒れ7月28日死去。享年61のアニメ人生を終えた。日本最初のCSアニメとなる筈だった『竹取物語』は残念ながら未完に終わった。国産CSアニメは大藤の死去で東映動画製作の『少年猿飛佐助』が59年12月に公開され第1号となった。泉下の大藤も口惜しかったことであろう。

『竹取物語』

 2013年5月、大阪のプラネット映画資料図書館が大藤が24年に最初に試作した5分の『のろまな爺』(文献では親爺)のポジ・フィルム及び遺作となってしまったCS『竹取物語』のネガ・フィルムなど2缶の超貴重なフィルムを発掘。『のろまな爺』は89年ぶりに姿を現わした。フィルムの保存状態も良好だったが、経年変化でフィルムも縮む。一方、CS『竹取物語』のネガ・フィルムも55年が経過。カラーはフィルム現像しなければカラーの褪色状況も不詳。フィルム修復のIMAGICAウェストで修復作業及びカラー現像が終了。試写の結果、『竹取物語』のカラーに経年変化はあるものの色調は残存。『のろまな爺』もニュー・プリントとして甦った。
このニュースは新聞に6段記事として取り上げられた。フィルムセンターでも今回の発掘を高く評価。それにしても大藤のデビュー作と遺作が同時に発掘された事実は奇蹟に思われる。泉下の大藤も今回の特集上映を喜んでおられるに違いなかろう。
(文中敬称略)

2013年9月7日(土)・8日(日) 新発掘!大藤信郎アニメーション

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