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『イヌミチ』万田邦敏監督インタビュー


『UNLOVED』(02)、『接吻』(09)、そして神戸で撮影された『ありがとう』(06)など忘れ難い作品を発表してきた万田邦敏監督の最新作『イヌミチ』が5月3日(土)より大阪で、その後京都へ続き、神戸映画資料館では6月6日(金)に公開される
──仕事にも恋愛にも疲弊した女性がある日、出会って間もない男の家で催眠術にかかり、「犬=イヌ」として居候を始め奇妙な関係を取り結ぶ──骨子だけを書き出せばきわめてエキセントリックな物語を、そこへ留めることなく端整な怪作へと仕上げる手腕は万田邦敏ならではのもの。言葉そのままに「独自の視点」を持つ作品について万田監督に語ってもらった。──本作は映画美学校でつくられた作品で、オリジナルシナリオも学生の方の手によるものですね。制作までの道筋を簡単に教えていただけますか?

映画美学校に開設された脚本コースの第1期の高等科のシナリオから、面白いものを講師3人が選考して、それを映画化するという流れのなかで選ばれたものですね。

──どなたが監督するかは最初から決まっていましたか?

今回は僕が監督することがあらかじめ決まってました。

──万田さんが監督をつとめるという前提は、学生の方たちがシナリオを書くのに、あるいは選考にも影響があったんでしょうか?多少は「万田監督的」なものが求められるような。

それはまったくありませんでした。僕が監督することは決まっていましたけど「ただ面白いシナリオを選ぶ」、それだけのことでしたね。

──そうだったんですね。最終的に選ばれた伊藤理絵さんのシナリオが監督の手もとに届いたときはどんな状態でしたか?その後の改稿には高橋洋さんも加わっておられます。

僕のところに最初に来たのが初稿(※作品パンフレット「イヌジン」に掲載)で、それはまだ全然直しの入っていない、伊藤理絵さんが授業の中で書いて来たものですね。僕も高橋さんも直しに参加する前の状態でした。

──決定稿と大きく違っていたところがあれば教えて下さい。

初稿にはモノローグがものすごく沢山あった。主役の女性のものもあるし、途中からは相手の男のモノローグも出てくるというものだったんですけども、それを一回取ってみて、モノローグがないと成立しないところ、あるいはどうしても言いたいであろうところだけ残す方向で考えていきました。だから随分モノローグを落としていきましたね。

──残ったモノローグに耳を傾けるのも観るときの楽しみかもしれません。シナリオを練っていく中、独白を削ぐことで作品の骨格も幾分か変わったんでしょうか?

なるべく伊藤さんがやりたかったことは残しながら進めたので、作品そのもののテイストはそんなに大きく変わってはいないと思います。それでもやっぱり最初に伊藤さんが書いたものを、高橋さんと僕と彼女との3人で直していったので、決定稿になったものは初稿からちょっと印象が変わったかもしれないですね。

──モノローグを落としていかれた理由は何故でしょう?

内面を言葉で説明してゆくモノローグで、やや説明に近過ぎる感じがしたんですね。もちろん言うことで主人公のキャラクターが出てくることもあるんですけど、それはわざわざ言葉にして聞かせなくてもいいんじゃないか?お芝居の中や、男女2人の関係の中で見えてくるものを、寧ろお客さんに“読ませる”。感じさせたり考えてもらおうということで、こちらから説明しなくてもいいのではないかということでしたね。

──たしかに“読ませる”映画ですよね。一方で、『群像』誌の連載で蓮實重彦氏がこの作品を「けったいな」と形容しておられて、まさにその通りだとも感じたのですが、シナリオの時点ですでに「けったい」だったのか、映画にする過程でそうなったのか、考えていたんです。

そうなんです、結局「けったいな」映画になっちゃったんですね(笑)。でもそれはモノローグの量とは関係なく、最初にホンを読んだとき、たとえば若い15、6歳の女の子が遊びのつもりで犬をやって「ワンワン」だったらまだ可愛いし、わかるんですけど、30歳に近い女性が急にイヌになって「ワン」。それは変な話だと思いましたよ。「どうするんだ?これ」という風にね。

──その「けったいな」映画を構成する要素についてうかがっていきたいんですが、物語の中心になる日本家屋がまず特徴的ですね。

『イヌミチ』の制作はさっき言ったように、映画美学校の脚本コースのシナリオを、フィクション・コースの学生をスタッフに、アクターズ・コースの学生をキャストにして撮るという企画でした。シナリオ初稿では完成した映画のような日本家屋ではなくて、もう少しリアリティのあるマンションの一室、2DKとか2LDKという設定だったんです。ところが撮影場所が狭いと、せっかく生徒たちがスタッフに加わっているのにそこへ入れず外へ追い出されてしまう。カメラや機材、照明が入ってしまうと人間が居られなくなって、そうなると学生たちの勉強にならないので、多少無理があっても広いところを設定しました。するとああいう日本家屋くらいしか思いつかなかったんです。でも、あれはあれで制作部がものすごくいい家を見つけてきてくれて。いいというか変な、また「けったいな」家なんですけども(笑)。それで映画のテイストも変わったというか、決まったんじゃないかな。

──そういう事情があってでしたか。あの広い空間をどのように活用しようと思われましたか?

やっぱり部屋数が多いので、一つの部屋で一つのシーンを作るんじゃなくて、居間も使いたい、台所も使いたい、それから応接間や廊下も使いたいと思った。一つのシーン、芝居のなかで、移動しながらそれらの部屋を使っていきたいイメージをロケハンの時に持ちました。

──ロケハンの時点でどこに役者さんやカメラを置くか、ある程度固めていたんでしょうか?

最近、僕はそれを一切やってないんですよ。あらかじめカメラのポジションを決める、あるいは芝居を決めるということをやってなくて。現場に行って役者さんに一回動いてもらって、芝居を詰めていくと段々「あ、この芝居はここから撮りたいな。次はこっちに割って別のアングルから撮りたいな」ってなんとなく見えてくるので、そのとき見えたものを現場で撮っていくというスタンスですね。昔は台本に色んな書き込み──「割り線」と言うんですけどね。カット割りのところで台本の上に線を引いてゆく──それをしていたんですが、今は一切せずに、台本に何も書いてない真っさらな状態で現場に行って、そこで作っていくようにしていますね。

──撮影期間は6日間と決まっていたそうですから、その撮り方はリスキーでもありますよね?

ある程度その撮り方に慣れたんで、結構早く決まっていくんですよ。逆に僕の最初の長編『UNLOVED』(02)の頃は、全カットの絵コンテを書いて臨んでいたんです。でもそうすると逆に絵コンテに縛られて、コンテ通りじゃないと何遍もやり直す。なるべくコンテに近づけようとするんで、逆にものすごく時間がかかってたんですよね。その辺が今はラフにといいますか、現場で考えていく。現場でやっていると本当に周りが見えてくるので、寧ろその方が早い。そんなに時間をかけずに撮れるようになりましたね。

──そのためには「芝居」も重要かと思いますので、芝居に関しても訊かせて下さい。万田監督は過去に神戸映画資料館で溝口健二をテーマにした講座を行っています。
そこで「映画の芝居」に触れておられるのがとても興味深いですが、たとえば「演劇の芝居」と比べたときに、それはどう違うんでしょう?
難しいところですが、ドラマをどうやって「芝居」で見せていくかというとき、僕の中にひとつあるのは人物同士の距離の関係。もうひとつは個人個人の動きですね。「身体」と言い換えてもいいんですが、このふたつをどう組み合わせてゆくか?距離が伸びたり縮んだりする。その伸び縮みのきっかけは登場人物のどの動きなのか?ふっと立ち上がるとき、それをきっかけに一歩、二歩と彼の前に近づいていくとか、ゴロンと横になると、横になられた男の方が彼女に体を寄せてくるとか、何かしらの身体的、動きのきっかけがあって、それによって距離が伸びたり縮んだりということを今は考えています。きっと舞台でも同じようなことがあるわけですが、映画の場合はそれをフレームに切る。そのフレームというものがものすごく大きいですよね。映画では見る方向と見える範囲が決まっている。そこを更に今話した「芝居」と組み合わせてゆく。僕が思っている「映画の芝居」って、きっとそういうことですかね。

──身体性で見てゆくと、イヌになる主演の永山由里恵さんの動きも他の映画にはないものですね。

そもそも最初にシナリオを読んだときに思ったのが、「女性がイヌになる、四つん這いになる。……それって画面になるの?芝居出来るの?」でした。四つん這いで「ワン」としか吠えないとなると、芝居の選択肢が一気に減りますよね。「どうするんだろう?」と思ったし、リハーサルでまず四つん這いになってもらっても、「成立してないな、これ」というところがあった。そこから考えて「とにかく色々動かしてみよう」と。特に理由があるわけじゃないんだけど、身体が四つん這いのまま動いていくのが大事かなと思って。やればやるほど演じる永山さんの身体能力が求められるんですが、そこは彼女が頑張ってくれた。でも膝小僧がアザだらけになっていました。一生懸命やってくれましたよ(笑)。

──あの姿勢で熱演する女性は今後現れないかもしれません(笑)。「距離」という言葉もありましたが、「人とイヌ」だと目の高さから独特の距離が生じますよね。「大人と子供」とも少し違う高さですし。

イヌになると芝居の選択肢はものすごく少なくなるんですけど、逆にいうと四つん這いになることで高低差が出て、たしかに「大人と子供」とも違うし、大人同士でもない微妙な距離感が生まれる。そこは面白かったし、それに懸けるということなのかなとも思いましたね。

──その高低差をとらえるのに、カメラの位置も影響してくるはずだと想像しました。さっきロケハンのお話が出ましたが、そこでポジションを決めないのだとすれば、当日に現場で万田監督が幾つかの位置に立って画のイメージを固めるなどの作業をなさるんでしょうか?

いや、そんなにやってなかったと思うんですよ。僕はどちらかといえばそこはカメラマンに任せるんで、大体の方向とサイズは伝えますけど、あまり細かいことは決めずにいました。僕の思っていたものと画面の角度やサイズが大きく違う場合は「もうちょっと寄りましょうか」とか「ここはもう少し引いておきましょう」と言うんですけど、おおむね合っていれば、あとは少しくらい違っていても「全然これでいいです」という感じでした。

──仰角や俯瞰などアングルが凝っているので、そこも気になっていたんです。それからこの作品は資料によれば順撮りだとか?

シーンに関しては、日本家屋でイヌになるシーンは先に全部撮って、その前後はあとで撮りました。各シーンそれぞれは順撮りで撮っていきましたね。デジタルカメラの影響もあったと思います。『イヌミチ』はもともとそんなに予算のある映画でもないので、照明をそれほど焚けない。昔、フィルムで撮るときはやっぱり灯りが難しくて、一回変えるだけでもすごく時間がかかってなかなか順撮り出来なかった。今、デジタルなら案外、基本的な灯りをパッパッと置いて、あとで細かく補正していくことが出来るようになったんで、たいがい順撮りでやらせてくれますね。

──デジタルで撮る場合、フィルムに比べて照明面で神経を使うことは減りましたか?

すごく微妙なポイントで決めないといけなかったしね。もちろんデジタルでもそうなんですけど、かなりその辺は楽になったといえます。

──変化というと、これまで万田監督は奥様の珠実さんとシナリオを共同執筆されてきましたよね。今回は異なる女性との作業ということで、色々と違うこともあったかと思うのですが?

違いましたね。伊藤さんは脚本コースの学生で、僕はフィクション・コースの講師でしたから、シナリオをもらうまでは会ったことがなかったし、そのシナリオがどういう段階で出来てきたのかということも一切知らなかったので、ほぼ初対面で会ってそれから直しをはじめていった。だから遠慮がお互いにありましたね。僕もなかなかどこまで突っ込んでいいかわからないし、彼女も僕との距離を測っていたと思うんですね。妻と書くときはその辺はなあなあと言いますか、こちらから一気に距離を飛び越えて「僕がやりたいことはこうなんだから!」と言って、それで結構大変なことになるんですけど(笑)。今回はそうはならなかったといいますか、逆に「ならないところで何が出来るか」もやってみたいと思ったんですね。伊藤さんがやりたがっていることを僕がどれだけ画面に、映画にしていけるか?それをちょっと試したい思いはありました。

──物語を「ストレスを溜め込んだ女性の心の解放」という切り口から読んでいくことも可能かと思いますが、伊藤さんの初稿にそういったテーマ性は込められていたんでしょうか?

そこがね、微妙といえば微妙なんですね(笑)。込められてはいたんですけど、込め方が違うというか……それを込めることに伊藤さんはあんまり思い入れがなかったんですよ。寧ろ僕がそこに思い入れを作った、つまり「動機付け」ですよね。主人公の女性が見知らぬ男の前でイヌになる。それって結構ハードルが高くて、「なんでこうなっちゃたの?この子は」っていうのを前段階にしっかり作っておかないと、観るお客さんが納得しないんじゃないかと思ったんですね。でも伊藤さんとしては、「いや、たぶん今の女性はそこを平気で飛び越えちゃいますよ」という気持ちがきっとあったんですよね。飛び越えてイヌになって、イヌも駄目だったから元に戻ってしまうのを平気で出来ちゃう。そういう女性が面白いということですかね。そこはかえって僕の方が動機付けをしたんですが、結局さっきのシナリオ直しの話じゃないですけど、僕の要求も中途半端になっただろうし、一方で「伊藤さんの言う、平気で飛び越える人ってどういう人なんだろう?」という興味も僕の中にあったんで、その辺の明確なラインが出ないまま映画になった。でもそうなった分、より変てこりんな映画になったのかなとも思うんですけどね。

──随所に妙なうねり、起伏がありますね。そんな変てこりんな話にも関わらず、『イヌミチ』は観ていてストレスを全然感じなかったんです。それも不思議で。物語上では主人公の「選択」がひとつのポイントですが、映画づくりでは編集も重要な選択といえます。今回、編集で意識されたことなどあるんでしょうか?

……特に今回に限ってということはないですね。いつも通りですね。いつもと違うところとかありましたか?自分ではわからないんですけど(笑)。

──そこもかなり考えたんですが、わかりませんでした(笑)。男性の家の表札が出て来るタイミングなど、「おや?」と思うところが幾つかあります。取材もありますので、はじめは色々考えながら観ていたのを途中で止めてしまって、ただ観ることに専念したんです。トリッキーな設定なのに、スムーズに観てしまえるのがこの作品のまた不思議なところというか。

そういうことだと思うんです。僕は今それしか出来ないんで、観る人にいかに余計なことを考えさせずに物語を語っていくか。僕の言葉では「きちんとした映画を撮りたい」というのがあるんですけど、変な物語、奇妙な主人公の物語をきちんと撮ったら更に変になってしまったのかなと(笑)。ただ、そういう変な映画を求めているのではない、普通のドラマを見たい人にも入り口は見やすい映画だし、出口もきちんと出られる映画になったとも思いますけどね。

──おっしゃる通り、端整に撮ることでかえって奇想が増幅された、でも観やすいという(笑)。たとえば最初に女性が催眠術をかけられるシークエンスはインパクトがあります。編集で特にあそこに力を注いだということもないんでしょうか?

特にはないですね。「こうつなぐよね、普通」っていうことですよね(笑)。

──撮り方やつなぎは「普通」なのに、なぜこれほど全体がけったいになるのか(笑)。万田監督も参加されている『映画長話』(蓮實重彦・黒沢清・青山真治著/リトルモア刊/11)での座談会で「活劇」の重要性が語られていますが、あのシークエンスには静かな「アクション」を感じますし、映画が波立ちますよね。

物語的にもあそこで女性が一線を越えて決心をする、「イヌになってみようか」と思うところですから、それはやっぱりそうなんでしょうね。

──逆に一筋縄ではいかなかった、手こずったシーンはあったんでしょうか?

特に手こずったこともないんですけど、それでもシナリオの量に比べると撮影日数が少なかったので、ちょっとシーンを削らないといけない状況にもなったんですよ。いわゆる「撮りこぼし」ですよね。こぼしが出てリテイクが出来ない状況にもなったので、その点ではきつい現場でもあったんですけどね。でも特別に「これが大変だった」とか「このシーンは手こずった」というのはあまりなくて。スタッフをつとめてくれた学生はもう本当に大変だっただろうと思うんですけどね。

──そういえば『映画長話』では、文脈は省略させていただきますが、青山監督が万田監督のすさまじい羽目のはずしように言及して「教育者としていいんですか?(笑)」とおっしゃっています。

そんな話をしてましたっけ?(笑)。

──はい(笑)。面白いくだりですし、他にも万田監督の学生時代、映画づくりを教える者としての発言を読むことができます。改めて今、学校で教えながら感じていることを聞かせていただけますか?

僕らが学生の頃につくっていた、あるいは大学を出てからつくり続けたような自主映画って、ほんと自主映画なわけですよね。『イヌミチ』でもスタッフをやってくれた今の学生は文字通りの「学生」で、映画づくりを学びに来ている。僕らは自主映画だから好きなことを何でも出来たんですよね。「そんなことやめろ」と言う人も、「もっとこうした方がいい」と上から何か言ってくる人もいない。自由にやっていたんですけど、やっぱり学校の中で映画を作るなら僕には講師の立場が、向こうは学生の立場がある。だから僕らが学生の頃にやっていたハチャメチャで自由でわけのわからない映画は、学校ではなかなか作りにくいですよね。学校を離れて彼らが好きにつくるのは構わないし、つくってもらいたいと思っているんですけど、学校の中で何かやろうとすると、或るひとつの「枠」っていうのかな。それがどうしても発生してしまいますよね。

──この本では「あえて抑圧する」ということも語っておられます。

言ってみれば、僕らは抑圧されるのが嫌で映画の学校に行かないで自分たちでつくっていたんですけど、映画学校に来る学生は抑圧されたくて来てるんでしょうから、「じゃあ抑圧してあげますよ」ってことですかね(笑)。「その中から何かつくってごらん」というスタンスを持っているのかもしれないですね。

──お話を聞いて、「やはり教育者なんだな」と実感しました(笑)。

そういうつもりはないんですけどね(笑)。でも嫌いじゃないんでしょうね。昔から学生の映画を観て講評したりするのも好きでしたしね。

──なるほど。ところで万田監督のフィルモグラフィーを辿ると「女性映画」という一本の線が引けるかと思います。今回もその点は踏まえておられましたか?

あまり意識していないんですけど、昔から「凛々しい女性って格好いいな」「凛々しい女性を撮りたい」と思っていて、それは今でも変わらないので女性を撮る。あとは僕の場合は妻と一緒に脚本を書いたりしている。すると妻は今のところ女性(の話)しか書けない。なかなか男性のストーリーは書けないですから、必然的に女性の映画になっているということで、必ずしも女性だけを撮りたくて撮ってるわけじゃなくて、男の映画も撮りたいと思いますね。

──本作はまず東京で公開され、名古屋、関西と続きます。ご覧になった方、特に女性からのフィードバックで印象に残っているものがあれば聞かせて下さい。

主人公の一線の飛び越え方の“緩さ”というか、平気で飛び越えるあの感じって「やっぱりあるんだよね」って。主人公よりもう少し上の年代の方なんですが、「ああいう子たちっているよね」という感想はもらいましたね。

──そこは「リアリティ」の問題ともつながってくると思うんですが、『映画長話』には万田監督の「日常を写すために映画はあるんじゃない」という言葉もあります。

日常性は外したいと思っているんです。どうしてだかわからないんだけど、何か嫌なんですよね。日常とベッタリくっついている感じとは一回距離を取って、日常とは違うものを撮っていきたい。何でそうしたがっているのかは自分でもよくわからないんですけど。

──ただ、『イヌミチ』は写っている空間だけを取り出せば非常に日常的ですよね?

うん。別に奇妙なものを奇妙に撮っているわけじゃないんで、その意味でのリアリティは僕なりにこだわっているんですよ。背景の携帯ショップなら、「携帯ショップらしい」美術とセットを作り込んで撮りたいし、日本家屋なら生活感を出したいし。そこで男性が暮らしている空気感とか、彼の立ち位置とかも考えて。寧ろそういう意味での日常性、リアリティっていうのは考えているんですけどね。

──そうした映画づくりの姿勢は変わっておられない。でも『イヌミチ』は万田監督の新しい側面が見える作品だと感じるんです。

さっきも言ったように、今までやってきたことじゃない新しいことにトライしたい気持ちは僕もあったんですよ。結果的にそれがどう観られて、どうなっているのかがまだ自分でもわからないし、上手くいったのか失敗したのかもちょっと自分ではわからないんですよね。

──言葉の響きも、これまでの監督作品と少し違う印象を受けました。

たぶんそれは伊藤さんという、今まで付き合いのなかった脚本家の書いたものをつくるということも関係していたかと思います。

──セリフの言い回しに重力がかかってないというか、軽みがあるというんでしょうか。

そうですね。伊藤さんの書いたセリフがそういうニュアンスを含んでいたんでしょうね。僕は何度かもっと重くしたい、重力のあるセリフにしたいと思ったりもしたんですけど、そうじゃなくて今回はもう少し軽いものを撮ってみようと。「それをやってみたらどうなるのか」をやってみたい気持ちはありました。

──きわめて単純な質問ですみません。台本には「ワン」と書かれていたんでしょうか?

あ、書いてありましたよ(笑)。芝居の流れのなかで役者さんが「ワンワン」と言うこともありましたけど、決めのところでは「ワン」と台本に書かれていました。
──通常のセリフなら監督ごとにOK/NGのライン、明確な線引きがあるかと思うんですが、一言「ワン」だけの場合ってどうなんでしょう?

ねえ、どうだったんでしょう(笑)。「ワン」……難しいですね(笑)。線引きが有って無いようなものだったな。

──その場で「映画の芝居」が出来ていればOKということだったんでしょうか?

そうですね。そういうことでしたね。

映画『イヌミチ』公式サイト

(2014年3月 大阪にて)
取材・文/ラジオ関西『シネマキネマ』吉野大地

 

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