レポートWEBSPECIAL / REPORT
2014 12
《採録》 「ニュージャーマンシネマと文学」
──映像とテクスト新たな関係性を探る──

 

2014年5月10日(土) 講師:渋谷哲也
 
今年5月にはじまったドイツ映画研究者・渋谷哲也によるレクチャーシリーズは、映像をテクストとの関係から読み解いてゆくもの。その第3回開催に向け、初回「ニュージャーマンシネマと文学」を採録した。当日は、ストローブ=ユイレの初期2作品『妥協せざる人々(和解せず)』(65)、そして『花婿、女優そしてヒモ』(68)が上映された。

 

イントロダクション

神戸映画資料館さんとは上映だけでなく、観終わって色々と意見を話し合う──大学の講義というとちょっと固いんですけど──そういった形での討論セッションを出来ればいいですねとずっと構想を温めていました。私はドイツ映画、特に1960~70年代の「ニュージャーマンシネマ」と呼ばれる作品を研究しています。ですから今回はそれらの作品の中から何かを考えてみて、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレという夫婦作家の映画を選びました。ストローブ=ユイレは、今回上映した『妥協せざる人々(和解せず)』、『花婿、女優そしてヒモ』などの35㎜プリントがちゃんと日本に存在します。でも世界的には観ている人の数は圧倒的に少ないはずです。彼らの作品は神戸ファッション美術館に所蔵されていますが、誰でもプリントを借り出して今日のように上映することが出来ない状況にあります。今日は「ここ神戸市で」上映することと、ストローブ=ユイレの日本での紹介に尽力されたアテネ・フランセ文化センターの協力によって35mmフィルム上映が可能となりました。そして観て頂いた作品は、2本とも文学作品をもとにした映画です。映画だけを観て、どう受け止めていいか戸惑った方もいらっしゃるかもしれません。そこで今日は「ニュージャーマンシネマと文学」という少し大きなタイトルを付けて、上映2作品をもとに新しい映画である「ニューシネマ」の中で文学がどう活かされているのかということをお話したいと思います。ストローブ=ユイレの映画作りは、いわゆる我々の知っている脚色、すなわち小説をもとにした映画化とは違うのですが、実は一見するよりずっと深く文学と結び付いています。その結び付きを明らかにするのが、今回のお話のひとつの取掛かりです。客席の中にはおそらく、ストローブ=ユイレの作品をすべてご覧になった方もいるかもしれませんし、今日が初めてという方もいらっしゃるかもしれませんが、彼らの作品には映像表現のラディカルさがあり、研ぎ澄まされた映像から目を離せない感覚もあります。しかもストーリーで笑わせたり泣かせたりという単純な映画でもありません。だから日本では過激な映画作りをする作家として、映像と音の表現で語られることが多いんです。ところが、ストローブ=ユイレは作品のほぼすべてを既存の文学作品や他人の書いたテクストを用いて作っています。オリジナルの脚本作がひとつもありません。それは一体何故でしょうか。今日ご覧頂いた作品にはすべてドイツ語が使われているわけで、それをどのように使っているのか?彼らはイタリア語やフランス語の映画も作っていますが、それぞれの言語に注目しないと分からない。ということは外国語と向かい合わなくてはいけないので、映画ファンやシネフィルからはなかなか敷居の高いところにあります。今日は映画自体の感覚的な面白さや不思議さと、言語という知的理解が必要な部分をあわせてストローブ=ユイレという作家を考えてみたい。それからもうひとつ大きなテーマは、「映画の中に文学を使うとはどういうことなのか?」。これを根本的なところから考えたいと思っています。皆様にも感想や疑問点などを出して頂きたいと考えていますので、よろしくお願いいたします。

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