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『シネパトス』(監督:斗内秀和)へのコメント

大澤浄 (映画研究者)

『シネパトス』は映画を撮ることと恋愛、そのどちらもが不可解で頼りないものであることを描いている。
その頼りなさは、主人公が立ち上がった時に机が倒れそうになり、思わずそれを曖昧に支えてしまう場面に象徴的に表れているように思う。
青臭く、初々しい映画だ。

長谷正人(映画研究者)

 最初のカットにドキッとした。自室らしきトイレの便器に、一人の美しい若い女性が、パンティを膝のあたりまで下ろしたまま腰かけている。少しだけ顔を右に傾けているので、考え事をしているのかなと思って見ていると、両手を膝からゆっくりと上げ、親指と人差し指で作った直角を上下にあわせて四角形を作り、その四角形を通してこちらを眺める。どうやら、その四角形はカメラのフレームを意味しているらしい。なるほど、タイトルの「シネパトス」って、そういう意味か。これからこの映画は、映画監督としての彼女のパトス(情熱)が描かれているに違いないと思って私はわくわくした。
 事実、彼女はその部屋で同棲している男性と食事しているときにも、その指で作ったフレームを通して彼を眺めて嫌がられる。あまり詳しく描かれないのだが、彼女の映画へのパトスが二人の愛を妨げている、というような設定であるらしい。そして彼女は映画を撮影するという理由で、同棲生活を捨ててしまう(らしい)。捨てられた男は彼女の撮影現場を突き止めて電車に乗って追いかけてゆく。しかし彼女は説得に応じない。このあたりの物語と画面の推移は、奇妙にシュールな雰囲気を帯び始めていて意味は良く分からない。彼女に影響を与えたらしい先生との乱闘。作務衣を着た宗教団体のような撮影隊との遭遇、そして夜の野外で上映される男同士が絡み合うゲイフィルムらしき映像。そして彼氏が撮影した彼女の素顔・・・。
 それらをどう感じ、どう考えるかは、観客の自由に委ねられているのだろう。ただ一つ文句があるとすれば、最後の映画上映の場面は、その場面自体を撮影しているというメタ設定で、カチンコを叩く映像が繰り返し出てくるのだが、それを命じる「スタート」や「カット」の掛け声がどれも、彼女のものではないということだ。だからこの場面を、映画への「パトス」でコントロールしているのは彼女ではなく、フィクションの外にいる監督本人のように思えてしまう。映画内で描かれていた「パトス」は、現実の監督によって奪われてしまったかのようだ。だからこの映画の見終わった印象もまた、美しい女性の「シネパトス」というよりは平凡な男の子の「映画愛」のように思えてくる。そこが残念だった。
 もう一度、最初の便器のカットに戻ろう。女性がフレームを指で作ったところで、カメラはするするとトラックバックを始めて、そのままドアが自動的にバタンと閉まる。私は一瞬、ホラー映画が始まるのかと思った。確かに始まり方としてカッコイイ。しかしこのときすでに、映画内の「パトス」をリアルな監督が奪っていたのではないか。思わず自分が表現者であることのうれしさに酔ってしまったのではないか。つまり「シネパトス」を「パトス」として描き出すのに必要なのは、自己愛を抑制することだったように思われる。
 京都造形芸術大学の卒業制作展に招かれた私が出会った本作は、監督の斗内君が、自分が映画を作りたいというパトスに向き合おうとする誠実なものだと思った。ただ、そのパトスをどう虚構化し、どう観客に感じさせるか、その技術と工夫がもう少し必要だと思った。だが若く美しい女優さん(大西礼芳)が、すました顔を見せ続ける映画を見るのは実に心地よいなあと感心もしたのだった。

野原位(映画監督)

監督を知っている人は誰もが頷くが、斗内さんは一見こわい。
僕も初対面の時そう感じた。いつ殴られるのかとドキドキしたものだ。
そんな彼の映画がどんなものかといえば、正直よく分からない。
物語が分かりにくいということでもなく、登場人物が魅力的でないということでもなく。
しかし、作品の内容など関係ない。
そんなこわそうな彼が映画を作ったことだけで、とても興味深い。
ぜひ監督の姿を見に来て欲しい。作品はついでに見るくらいな軽い気持ちで。
そして、実物と映画を見比べ、彼がどんな人間なのかを推理するのも一興かもしれない。
とにかく、彼が人生をかけた映画を見てほしい。
僕が言いたいことは、それだけです。

鈴木卓爾(映画監督)

ありきたりな認識を越えて、目の前にあっと驚く貌が現れる、それが映画だ。
ではそれは、フィクションのような周到に考え抜かれた、知性によって可能か?
はたまた、ドキュメンタリーのような一回限りの瞬間を掴む、身体性によってなのか?
映画についてずっと繰り返されて来た、強力で、曖昧な、この問いかけが、
若い男女関係の身の置き所の見つからないやりとりに重なりあって、仄かな不安感と共に進行していく。
「曖昧で不安だらけの世界から、あっと驚く映画の貌を撮る覚悟は出来ている。」
何処に連れて行かれるか判らない、斗内秀和の『シネパトス』は、そういった宣言そのもののような映画だ。

濱口竜介(映画監督)

格別に面白いとか、興味深いとか、そういう映画ではない。ただ見たときに妙に不意を突かれた。襟を正した。それは時たま現れる水準以上のショットのせいだけでもない。自分の生の真剣さや切実さを問われるようなところが、妙にある。ただ、そんな風に言うと身構えてしまう観客がいるかもしれない。だから言おう。これは別に面白いとか、興味深いとか、よくできているとか、そんなことはない映画だ。そんな映画がゴロッと転がっている。試みにつまずいてみてはどうか。

瀬々敬久(映画監督)

若い人たちが作る映画が「映画それ自体を考察する映画」を作らなくなって久しいような気がする。デジタル技術の発達で誰でもが面倒なことなく映画を作れる時代になった。それはそれで嬉しいことなのだが、どこか違和感がある。そんな時、出会ったのが斗内監督のこの『シネパトス』だ。不器用で玉砕主義で時代錯誤で行き当たりばったりのこの作品は、脆弱した小奇麗を好む新保守主義的な今の映画嗜好への疑義を旗揚げし、間違いなくそれを粉砕してくれた。

北小路隆志(映画評論家)

黒い下着を下ろし、狭いトイレの便器に座る若い女性。顎に手をやり、何やら物思いに耽るようでもある彼女が、不意に神の啓示でも受けたかのように――『2001年宇宙の旅』で猿がモノリスに触れるときのように――少し首をかしげながら両手でフレームをかたどり前方に翳すなか、微妙な揺れを伴う手持ちのカメラが後方に退き、トイレのドアが独りでに閉じられる……。そんな美しくも艶めかしいショットで幕を開ける斗内秀和による『シネパトス』は、ただひたすら映画を巡るpathosの異種混淆性=亀裂のみを画面に収める試みである。フレームを介して世界を観ることこそ映画であると悟った女性(大西礼芳)と、そうした境地に思いも寄らず、ひたすら現実に飲み込まれるばかりの男性(関屋和希)のあいだの同棲生活は自ずと亀裂を深め、ついには女性が行方を暗ますにいたるが、男性はその失われた半身を探し求めて映画の撮影が行われているらしき海辺の旅館にたどり着く。通された部屋で布団に包まり、ふと目を覚ます男性の枕元に、それが当然のごとく正座する女性の姿はまるで鈴木清順の映画から脱け出てきたかのようだ。本作での大西礼芳はどこまでも艶めかしい確信犯であり、映画という厳粛なる遊戯を司る巫女なのだ。映画を巡るpathosは、快楽にして苦痛であり、喜びにして哀しみであり、つまりは情熱にして受難(passion)である。映画に犯され、馬乗りにされ、平手打ちを食らうこと、フレームを介してしか世界を観ることができなくなること……。引き裂かれた両極(男女)が、ちょっとした格闘のあげく夜の浜辺で接吻を交わすとき、それは僕らが一瞬のみ目撃できる、(おそらくは困惑をも孕む)俳優と(彼らが演じる)登場人物の悲喜劇的な重なり、あり得るはずもない虚構と現実の交わりであり、瞬時にして崩れ去る運命にある(それでいながら、いつでも再生可能な)映画の起源=理想である。


  

2015年7月11日(土)・12日(日)
木村卓司監督最新作『庭』+映画美学校フィクションコース ミニコラボ

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