レポートWEBSPECIAL / REPORT

さよなら、香取環

「牝罠」

『牝罠』

いつものようにハスキーだが、甘い声が電話の向こうでした。
「どうしてる?」
「どうしてる?」というフレーズで、僕に電話を掛けてくるのは、彼女だけだった。
彼女の声を聞く瞬間、僕は日活青春映画の主人公のような気分になる。目の前にパッとワイドスクリーンで、六〇年代初頭の裕ちゃんや赤木の日活映画のワンシーンが浮かぶからだ……。
そう、電話の声は、香取環。今は携帯電話だから、誰からかかったかわかるが、それでも香取環の「どうしてる?」の声が聞こえると、なんだか落ち着かない。これじゃ、まるで恋人からの電話じゃないかと、いつも切った後に苦笑する。ほら、日活映画の電話のシーン、想い出してくれないかな。あの明るく歯切れ良い声とスピード感。
香取環は、女優を引退から故郷の熊本に帰り、その後「食堂のおばちゃん」になっていた。電話は「食堂のおばちゃん」にしては、艶やかな声だった。
電話の向こうの香取環は、年齢を感じさせなかった。いや、僕にはそんな声をわざと使っていたのかもしれない。だが、その日は、なんだか妙だった。いつにはなく静かな口調なので、緊張した。
去年の七月初めだったか。「いえ、相変わらずですよ」と応えたが、どうもいつもとは調子が違う。
聞いていると、今はもう食堂の仕事をやっていないという。ガンが見つかり、春に退職したというのだ。その後は、闘病と養生にぶらぶらと過ごしているが、肺癌だから切るのは難しいし、副作用のある抗がん剤治療はやらないという。髪の毛が抜けるのや苦しむのは嫌だという。香取さんらしい懸命な考えだと思うが。「もう、あと二、三年かな」と言ったので、「いや、のんびりしてれば、ガンも進行しない、年配のガンの進行は遅いって……」というのが精一杯だった。
五月に、かつて旅行して楽しい想い出のある香港に旅したが、香港の街が昔とは様変わりしていて寂しかったと言った。
もうすぐ、自分は小川欣也監督の最新作の撮影現場に取材に行くというと、「私も出たいわ」と言った。「うん。わかりました。監督に言っておきますよ」。
時間があるから、随分むかしに書いて破って捨ててしまった回想録をまた書いてみようと思っていると言った。これまでも何度か、僕が熊本に行って長時間のインタビューをする話が持ち上がったことがあったが、実現はしていなかった。
「やっぱり、あんたに見て貰うからね」
今までは、もう重荷のような気分になっていたが、その日のその言葉は、嬉しかった。
何度か喧嘩にもなったし、もう彼女について長いものは書かないと思った時期もあった。
東京に出てきてもらった上映会の時も、結局最後はてんやわんやの騒動になった。毎日、「食堂のおばちゃん」として働いている日常から、突然東京の映画館に引っ張り出され、子供のような若者たちに囲まれた時のストレスは計り知れないものがあったと思う。あんなことしなけりゃ良かったと思ったくらいだ。
ひとつひとつ彼女の気持ちはわかった。わかっていても、マネージャーでも恋人でもないから、僕が彼女のお世話をするのにも限りがあると思い、知らんぷりをしたこともある。
何年も故郷での平穏な暮らしにあった彼女を、あまりに若い観客などの前に引っ張り出し過ぎた。嬉しそうに楽しそうに振る舞っていたが、やはり、帰郷してからの電話では「疲れたわ」と、いつも言っていた。
最初は、彼女を何度も東京にお呼びするつもりはなかった。そのきっかけは、僕が西原儀一監督から多くのフィルムを譲り受けたことに始まる。懐かしい出演作品を見たくなったと言ってくれた。ビデオがある作品もあって何本かお送りしたが、フィルムで見たいということになった。一つ一つが忘れられない想い出ばかりだった。
西原儀一監督とは、亡くなるまでお付き合いをさせていただき取材を続けた。西原監督から、自分の会社の専属女優にした香取環についての思いを聞いたことがある。監督のほうには、香取環という女優に特別の思いがあったことが感じられた。それを話すと、彼女のほうは「嫌ねえ」と笑っていたが、作品を見れば監督の思いが透けて見えた。
ある雑誌に「新藤兼人と乙羽信子のよう」と書かれたこともあったようだが、少し違うだろう。二人が二人三脚だったのは、ほんの一時のこと。西原儀一と香取環は、おそらくピンク映画のジャンルに新しい流れを作りたいという共通の思いがあって、監督と主演という形で一連の作品を撮ったのではなかったか。葵映画は、関西の資本がピンク映画にひとつの流れを起こそうと作られたプロダクションだった。
香取環を香取環らしく撮ったのはピンク映画では西原儀一監督だけだったのではないか。それは、西原儀一が宝塚撮影所の出身だということと無関係ではないはずだ。西原儀一は、宝塚撮影所で映画の勉強をしてから独立、主に東海地方や関西で映像や興行関係の仕事をしていた。資本力のあるバックボーンを得て関西から関東に移り、ピンク映画専門の葵映画という会社を起こしている。ピンク映画の市場が、まだまだ群雄割拠の時代だった。西原儀一は、監督としての腕を見込まれたのである。
当時の西原監督は、女優を美しく撮ることを模索していた。それは、監督自身の言葉としても聞いている。香取環という女優がそれに応じて、専属になったのである。香取さんに専属料がいくらだったか聞き洩らしたが、高額だったに違いない。まだ、ピンク映画も華やかで先行投資も冒険もあった頃のことだ。
香取さんとは、監督についての話をいろいろした。多くの監督の作品に出て、名演を多く残しているからだ。
向井寛監督が亡くなった時には、ふらりと東京の「偲ぶ会」に顔を出した。あれが、彼女が再び東京へ出てくるようになった始まりだった。
「ピンク映画」を、撮影所からはみ出した仲間たちが作る映画と考えていた。日活撮影所のはみ出し者だった彼女。だから、あそこまで頑張ることができたのだろう。
監督については、辛辣なこともよく言った。
「若ちゃん(若松孝二)は、何を撮りたいかが自分でよくわかっているからね。でも、あんな理屈っぽい映画ばっかり撮らなきゃいいのに」
「(渡辺護監督は)気障な監督だったわね。若いのに気取ってるなあって思った。」
若松孝二と渡辺護という、後々ピンク映画の巨匠といわれることになった二人に対しても、はっきりとした考えがあった。現役時代は、もっと手厳しい物言いをしたらしい。だって、二人よりもずっと香取環のほうが映画界の先輩なのだ。当然と言えば当然だった。
香取環を起用することは、ピンク映画界では、ひとつのステイタスだった。撮影所の映画に負けない作品を、香取環という女優で撮ってみたいと、多くのピンク映画の監督が思ったようだ。
運命的だった。西原儀一監督からフィルムを僕が託されなければ、香取環を東京に引っ張り出すこともなかったはずである。僕が熊本に通って、「自伝」をまとめるはずだった。
香取さんには、何度も上映会や集まりに来ていただいたが、最も彼女が喜んでくれたのが、神戸映画資料館での上映会だった。
「神戸、神戸なら行くわ。神戸って想い出があるのよ。お正月に神戸の映画館で舞台挨拶したの。すごく賑やかだったな」
神戸映画資料館での上映会は、長い香取環との交流でも、忘れられないものとなった。
安井館長やスタッフとも、なぜか旧知のように意気投合した。九州人と関西人の肌合いが合うのかなど思ったくらい。
トークは、資料映像の上映を挟みながら、実に二時間を超えた。休憩があったといえ、やはり作品上映を含めれば大変な長丁場。でも、文句ひとつ言わず香取さんは終始楽しそうだった。当日は、意図せずに彼女の誕生日と重なり、ケーキも用意された。ロウソクを吹き消す時の彼女の顔は、少女のようだった。
東京に来た折に、赤木圭一郎のファンクラブの会合に呼ばれ、原宿で作品の断片を見ながら、想い出話を語った。赤木圭一郎と香取環、いや久木登紀子(日活時代の芸名)は、日活ニューフェィス第四期で同期生だった。日活では、入社してすぐに六本木の俳優座に研修に出る。俳優座での研修時代から、アイウエオ順の並びで赤木と久木の名前は近く、二人で組んでの稽古も多かった。想い出すことはたくさんあった。
その時の縁で、久木登紀子の日活時代の出演作品の場面とインタビューをDVDにしたものが赤木圭一郎ファンクラブ会員限定で作られた。それをスクリーンで見ることができたことも、あの日の彼女を感激させたに違いない。
日活時代の久木登紀子の美しさと演技力は、まさに群を抜いている。スクリーンから彼女を通して、銀幕黄金時代の熱気が伝わってくるようだった。そのまま、終わって飲み会になったから、気分が高揚したのもあったろう。
「神戸は楽しかったわ」
神戸から帰るとすぐに、そんな電話が、彼女からあったのは言うまでもない……。

昨年、十月十二日、香取環は亡くなった。
正直、こんなにも早く彼女が旅立ってしまうとは思わなかった。夏になり、病状が急変してしまったというのである。
訃報を知らされたのは、亡くなってから一カ月ほどたった頃だったか。最初の知らせは、僕にではなく神戸映画資料館へのものだった。息子さんがメールで知らせてくれたのである。
「全てが終わったら、神戸にだけ知らせてね」と彼女は言ったらしい。
あの日の神戸のことをそんなにも楽しい想い出に感じていてくれたのだと思ったら、涙が出そうになった。
息子さんとお電話すると、既に葬儀やお別れは終わり、数日前に遺言どおりに遺骨の一部を、想い出の地・小樽の海に散骨したという。海が凍って船が出なくなる前にと、急な北海道行きとなったらしい。小樽で、久木登紀子時代に、想い出に残る日活作品のロケがあった……。
僕が初めて熊本へ彼女を訪ねた日から、どれぐらいの歳月が流れただろうか。
もう「どうしてる?」と電話してくる香取環はいない。「ピンクの女王」いや「食堂のおばちゃん」からの電話はない……。
香取環の追悼上映は、神戸でやらなければいけないと昨年から考えてきた。香取環の出演作品を多数保管し、香取環さん自身が楽しかったと電話をしてきてくれた神戸映画資料館での「追悼上映」こそが相応しい。新盆が訪れ、まもなく一周忌も来ようという頃になってしまったが、香取さんも喜んでくれると思っている。
今回上映する二本は、安井館長と相談のうえ決めた。他にも彼女のお気に入りの作品はあるのだが、まずは香取環の魅力と美しさの神髄を知っていただく二本を上映する。『牝罠』は、フィルム発掘後、一度だけ本館で上映をしているが、東京での上映はしていない。演技力に磨きのかかった香取環が、ある女性の一代記を演じるスケールの大きな作品である。『引裂かれた処女』は、愛していた恋人の手によって転落していく女の物語。無残に打ち砕かれる女の夢と希望が、せつなく激しい。二作品とも、壮絶でまっすぐな生き方を貫いた香取環の人生に重なるようにすら思える。
きっと、当日は、どこからか再び「ピンクの女王」として香取環は降臨して、僕らの上映とトークを見守ってくれるに違いない。
是非、香取環を知る人も知らない人も、彼女を偲んでほしいと思う。
さよなら、香取さん。また逢う日まで。

鈴木義昭(映画史研究家/ルポライター)

※香取環さんの追悼記事は、以下の各誌、サイトに書きました。ご参照をいただければ幸いです。
hiho01●「映画秘宝」(洋泉社)2016年1月号/映画訃報欄「ピンク映画の女王の生涯」
「イエロージャーナル」/日本で最初の「ポルノ女優」の死――伝説の‶特殊〟女優「香取環」の美と魅力

●「アサヒ芸能」2016年8月15・25日合併号/特別読物「日本初のピンク女優の波乱の生涯」

赤木圭一郎ファンクラブ誌「激流」(2015年12月3日号)訃報欄

赤木圭一郎ファンクラブ誌「激流」(2015年12月3日号)訃報欄

『色と欲』(1965/新藤孝衛監督)右は新高恵子

『色と欲』(1965/新藤孝衛監督)右は新高恵子

『桃色電話 (ピンクでんわ)』(1967/監督:西原儀一)

『桃色電話 (ピンクでんわ)』(1967/監督:西原儀一)

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『牝罠』(1967/監督:西原儀一)

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『引裂れた処女』(1968/監督:西原儀一)

2011年10月22日神戸映画資料館事務所にて

2011年10月22日神戸映画資料館事務所にて

 

映画史のミッシングリンクを追え! 2 Days
2016年8月21日(日)
追悼・香取環 ミッシングリンクを生きた女優
『牝罠』『引裂れた処女』

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