映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW


第二回 「ジョン・ドウ問題」を宙吊りにする5時間半の息もつかせぬ疾走
『カルロス』

©Film en Stock / CANAL+ / Photographe : Jean-Claude Moireau

『カルロス』CARLOS
9月1日より5週間限定、
渋谷シアター・イメージフォーラム、吉祥寺バウスシアターにて公開!
他、全国順次公開!!
監督:オリヴィエ・アサイヤス
2010 / 332分 配給:マーメイドフィルム

 ヒトラーの手に堕ちたドイツを離れ、ハリウッドで最初の映画を監督しようとしていたフリッツ・ラングがプロデューサーから釘を刺されたように、アメリカ映画は「ジョン・ドウ」──つまり、ごく普通の人々のものだった。傑出した指導者が主人公である場合も、それが許されるのは無数の「ジョン・ドウ」を代表する限りであり、その地位は常に「ジョン・ドウ」──英雄=主人公ならざる人物──との関係において問われつづける。しかし今、「ジョン・ドウ」はアメリカ映画の表舞台から一斉に姿を消してしまったかのようだ。より正確にいうならば、英雄的な主人公と「ジョン・ドウ」との関係が、おそらくはかつてないほどの頻度で問題にされているにもかかわらず、実際の画面からは「ジョン・ドウ」が奇妙な失踪を遂げてしまったのである。
 クリストファー・ノーランの『ダークナイト ライジング』で主人公のバットマンが宿敵ベインから突きつけられることになるのは、あえて汚名を着てまでバットマンが守ろうとしたゴッサム・シティの平和が、本当にそれだけの犠牲を払うに値するものなのかという問いだ。市民たちは恩知らずにも伝説を鵜呑みにしてバットマンを憎み、ベイン一味のテロによって平穏な日常生活を脅かされるや、今度はたちまち無秩序な騒乱状態に陥る。したがって、そんな市民のためになお自らの命を投げ出そうとする主人公の姿には、すべての対立に超然としたシニカルな距離を保つかに見えたアン・ハサウェイの女泥棒でさえ心を動かされるだろう。しかし、以上はこの映画がくどくどと説明に努める筋書きにすぎない。ここで特別な能力をそなえた主人公がそこからの孤立に苦悩する民衆の姿は、実際には反対に、全篇を通じてほぼ不在なのである。引退していた主人公に復帰を促す役目さえもが、英雄を待望する民衆であるどころか、ゲーリー・オールドマン扮する警察本部長──官憲!──に担わされており、この作品の登場人物が一貫して「ジョン・ドウ」に寄せる関心と、この映画そのものが「ジョン・ドウ」に示す徹底した無関心との極端な不均衡には驚かされる。結局のところ、本作でかろうじて目にすることのできる「ジョン・ドウ」の姿は、主人公が隠遁していたあいだに資金援助を打ち切られてテロリスト予備軍となるほかなかった孤児院の子どもたちに尽きている。自らもまた孤児としての出自を持つ主人公は、誰よりもまず彼らのために自分自身を犠牲にするのだから、この作品で「ジョン・ドウ」は、孤独な大富豪が死を前にして自己の幼年期と和解するためのきっかけとして要請されているだけなのである。主人公の英雄的な自己犠牲の後でさえ、それが救ったものに映画はろくすっぽ注意を向けないのであり、壮大な見かけはついに描写の実質を伴わぬまま空転するしかない。
 マーク・ウェブの『アメイジング・スパイダーマン』では、サム・ライミ版との差別化を図るさまざまな試みが、何もかも裏目に出て映画を空疎なものにしている。ここでは主人公が思いを寄せる恋人の父親が、スパイダーマンを無政府主義者として忌み嫌う警部に設定されており、ゆえに恋人の父親から一人前の男として認められたいという主人公の願望は、自警的なヒーローが警察からのお墨付きを得るという物語上のゴールと正確に重ねあわされることになる。またしても民衆不在のまま、指導的な英雄と警察権力とが野合するのだ。映画中で不在の「ジョン・ドウ」がただ一度、例外的に視界に浮上するのは、摩天楼を駆けるスパイダーマンを助けようと、労働者たちが次々に巨大なクレーンを操作するシーンにおいてである。その瞬間、星条旗がこれ見よがしにひるがえる。かつて西部劇で民衆が窮地に陥ったときには、騎兵隊が高らかにラッパを吹き鳴らしながら救出に駆けつけたものだった。それとはちょうど反対に、ここでは選ばれた人間の危機を救うときにだけ、どこからともなく匿名の民衆が志願して現れるのである。そのようなとき以外には、本作における「ジョン・ドウ」は、誰かが壁に残した蜘蛛のマークの落書きを見つけて主人公がほくそ笑むシーンにあきらかなように、聞き分けのよい不可視の服従者の地位にとどまっている。
 このように、アメリカ映画を真にアメリカ映画たらしめていた「ジョン・ドウ」の不可思議な消滅とともに、近年のアメリカ映画は迷走を続けている。ジョス・ウィードンの『アベンジャーズ』に至っては、無敵の超人どうしの仲間割れと団結の物語に終始し、そうまでして彼らがいったい誰を、何を守ろうとしているのかについては一顧だにされない。だから、最後の最後に市民たちがテレビ画面に登場し、今さらヒーローたちを口々に称えても、その言葉がまるで空虚にしか響かないのは当然だろう。ここまでくると、もはや映画づくりのうえでのもっとも基本的な何かが壊れていると考えざるをえない。アメリカ映画のこの迷走ぶりは、一部のジャーナリズムが主張するような『キック・アス』(マシュー・ヴォーン)におけるヒーロー像の革新──だが、それは本当か?──などよりもはるかに深いところで、それこそ現実の政治における代表制の危機とも密接に結びついた問題のように思われる。

©Film en Stock / CANAL+ / Photographe : Jean-Claude Moireau

 「ジョン・ドウ問題」に足をとられ、迷走を続けるアメリカ映画の体たらくをよそに、空想科学的なヒーローとは異なるものの、同じように特別な才能に恵まれた英雄的な人物の闘争を、民衆からの孤立まで含めて一気呵成に描ききったのがオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』である。実在の伝説的なテロリストの半生を、詳細な細部の積み重ねによって息もつかせず駆けぬける全3部、計5時間半のこの傑作の勝因は、「ジョン・ドウ問題」の要諦──すなわち、誰のために何と戦うのかという問いを意図的に宙吊りにしつづけた点にある。主人公カルロスは、金持ちの御曹司がある日、事業でも始めようかといった趣で当然のことのように革命家となり、そのことに何の疑問も葛藤も抱かない。そこには実存のドラマが決定的に欠けており、全体が見えぬまま、そのつどの状況が絶えず彼に行き当たりばったりの行動を強いる。敵は上層部からの指令によって一回ごとに名指されるにすぎず、主人公の前に立ちはだかる障害は、もっぱら内輪での思惑の相違と、冷戦期の複雑な国際関係のなかでの政治的打算のみで構成されるだろう。革命家たちがそのために戦っていると称するところの民衆は映画中で端的に不在であり、カルロスを英雄として持ちあげたり非難したりする「ジョン・ドウ」もマスメディアも映画中にはまったくといっていいほど登場しない。これら幾多の欠落を戦略的に徹底し、同時に細部を極限まで飽和させることで、『カルロス』は描写の実質を欠いた抜け殻に終わるどころか、かえって圧倒的に充実した推進力の獲得に成功しているのである。
 映画は跳ねっ返りのカルロスが組織から疎まれ、孤立し、ついには冷戦の終結とともに使い捨てにされるまでを詳細に追う。冒頭で全裸のまま、鏡の前で仁王立ちになって睾丸を握りしめていた男は、最後は睾丸の痛みに苦しみ、精子の減少まで医師に告げられるのだから、ここで冷戦末期における革命家の栄枯盛衰が、一人の猟色家の男性としてのそれに重ねられていることはあきらかである。紛れもなく南米出身の顔立ちながら、さまざまな人種に立ち交じってまったく違和感のないエドガー・ラミレスが、カルロスの上昇と没落を髪型や体型までめまぐるしく変化させながらカメレオンのように演じており、その希薄さにおいて逆説的な魅力を放つ。
 長い上映時間の果て、全篇の結尾において交わされるごく簡潔な会話を、むろんこの場で明かすわけにはいかない。だが、その一対の問いと答えが、ついに〈アメリカ〉と擦れ違いつづけた、20世紀的な革命の根本的な問題に関わっていることだけは指摘しておきたい。この結尾とともに、実在するテロリストの国際的な活躍を描いてきた『カルロス』は、彼が起こしたとされるテロの舞台となり、彼を囚われの身とし、今も彼を裁判にかけているフランスへと一挙に投げ返されるのである。その離れ業に舌を巻く。

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