映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW



第三回 自らに相応しい年齢を獲得した「下山の達人」による贅沢な仕事
『Virginia/ヴァージニア』

© Zoetrope Corp.2011



 
 
 
 
 
 
 

『Virginia/ヴァージニア』TWIXT
神戸・元町映画館 12月1日〜21日公開
全国順次ロードショー中
監督:フランシス・F・コッポラ
2011 / 88分 配給:カルチュア・パブリッシャーズ

 ダーレン・アロノフスキーの『レスラー』でミッキー・ロークが復活したなどと騒がれたとき、何をいうかと憤りをおぼえたファンは少なくなかったに違いない。おまえたちは『ドミノ』での賞金稼ぎのリーダー役をもう忘れてしまったのか、と。亡き──と今や記さねばならないトニー・スコットは、そもそもその前作『マイ・ボディガード』でもいかがわしい弁護士の役でロークを巧みに使っていたが、この初老に達して昔日の面影もない元セックスシンボルの予想外の活用法は、むろんこれらすべてに先立つフランシス・フォード・コッポラの『レインメーカー』での、あの胡散臭い悪徳弁護士役に学んだものだろう。かつて『ランブルフィッシュ』でデビュー後間もないロークをセクシーな不良としてモノクロ画面に定着させたコッポラは、ボクシングにうつつを抜かして大切な時期を犠牲にした落ち目の俳優に手を差し伸べ、若さのまばゆい輝きを失った人間だけがまというる灰色のくすんだ魅力を新たに惹き出してみせたのである。
 何しろ『アウトサイダー』のときにはマット・ディロンやトム・クルーズら、80年代を代表する青春スターたちを一斉に世に送り出したくらいだから、伸び盛りの若者を目ざとく見つけて一人前のスターに育て上げるコッポラの才能はあきらかだろう。だが、そうした才能に恵まれた作家など他にいくらでもいる。コッポラで真に感嘆させられるのは、ピークを過ぎた俳優の老い、ときにはくたびれぶりさえ利用して、よく醸成されたワインの深い味わいのような厚みを自身の画面におびさせる手際なのだ。キャリアの最初期にフレッド・アステア最後のミュージカル映画まで撮っているコッポラは、まさにそのようにして70年代にほとんど生ける伝説と化していたマーロン・ブランドを引きずり出し、若きアル・パチーノやマーティン・シーンの傍らに配することで双方を引き立たせたのであり、先に述べたミッキー・ロークがまだ初々しかったマット・デイモンの傍らに姿を見せたことも同様の効果を上げている。この手際は、私財を投じ、世界一富裕な「自主映画作家」として第一線に復帰してからも変わらない。『コッポラの胡蝶の夢』でのティム・ロスと『テトロ 過去を殺した男』のヴィンセント・ギャロは、曲がり角の難しい年齢に差しかかった俳優として招かれ、新たな魅力を惹き出されたと見るべきだし、彼らの傍らにアレクサンドラ・マリア・ララとオールデン・エーレンライクの手垢のついていない新鮮な若さが配されていたことは付け加えるまでもないだろう。
 それゆえ、ひとまずはホラーに分類されよう最新作の『Virginia/ヴァージニア』で、人になつきすぎた運動不足のネコ科の動物のようになりはてたヴァル・キルマーが、酒浸りの三文小説家として『トップガン』──またしてもトニー・スコット!──の頃からは想像もできないような醜態を晒し、その傍らにエル・ファニングのあきらかにこの世のものではない神秘的な美少女がふわりと姿を現すのは、それじたいとして少しも意外なことではない。コッポラよりも年長のブルース・ダーンが作家志望の狂信的な保安官役で久しぶりにあくの強い怪演を堪能させてくれることも、コッポラならばそれくらいはやってくれるだろうと納得できる。だが、それぞれに異なる時刻を示す七つの文字盤を持つ不気味な時計塔の鐘に誘われるがまま、あてもなく夜の散歩に出た小説家の傍らに、いつの間にか謎の少女を並んで歩かせるあたりの演出と編集の呼吸は、コッポラとしても例外的なまでに素晴らしい。突如現れて前方に立ちはだかるのではなく、気がつくと並行して歩いていて、さらに気がつくと互いに距離が縮まり、どちらからともなく会話を交わしているという一連の自然な流れは、ホラー映画のものというよりも、むしろ澤井信一郎の『野菊の墓』で綿摘みに行かされた若い二人が互いを意識すればこそ近づくことができず、ぎこちなく距離をおいたまま並行して歩いていく、あのどこか西部劇を思わせる忘れがたい場面にも比すべき清冽な詩情を漂わせている。今、まさしく澤井信一郎や西部劇のことを連想してしまったように、こんな演出に勝負を賭けられる作家は、現代では絶滅危惧種の指定を受けてしかるべきである。
 とはいえ、たんに古典的な演出だけでは終わらないところがこの作品の尽きせぬ魅力なのだ。さびれた田舎町の風景を切りとった不穏なショットの連続にトム・ウェイツの語りがかぶさる冒頭部を初めて目にした瞬間、私はヴィルモス・ジグモンドあたりが撮影した70年代のアメリカ映画を見ているような心地がして、しばらく混乱させられたものだった。やがて小説家夫婦のとげとげした、しかし実に可笑しいテレビ電話でのやりとりが分割画面で映し出されるのを挟み、先述した夜の散歩に出かける頃になると、鐘の音をきっかけとして小説家が窓越しに見る月夜の光景以降は、夢か現か、ティム・バートンを思わせるいかにも現代的なデジタル処理を施されたモノクロ画面となり、手前のカーテンやら直後に出現するエル・ファニングの眼の周りの赤など、一部分だけがサイレント期のように彩色されることになるだろう。実は私はこの作品をフィルム上映とデジタル上映の両方で見て、デジタル上映ではこうしたパートごとの映像の質感の違いがさほど感じられなくなっていることに唖然とさせられたのだが、少なくともフィルムで見る限り、この映画の画面は映画史におけるルックの変遷を行き来するように設計されているらしいのだ。時計塔の内部のシーンだけが3Dで撮影されている事実を考えあわせても、この作品が映画技術の変遷をあらかた呑みこみ、それこそ〈夢の作業〉のように圧縮と置換を行なっていることは間違いないだろう。前作『テトロ』において、同年公開のペドロ・コスタによる『何も変えてはならない』などとともに、真にデジタル時代に似つかわしいモノクロ画面の質を作りあげたコッポラは、いうまでもなく昔から『ランブルフィッシュ』のパートカラーや『キャプテンEO』の3Dなど、技術上の冒険に対しても貪欲な作家だったが、『胡蝶の夢』の舞台ルーマニアでのコッポラと撮影監督ミハイ・マライメアJr.との出会いは、『シンドラーのリスト』のロケ地ポーランドでのスティーヴン・スピルバーグとヤヌス・カミンスキーの出会い以上に幸福なものだったかもしれない。あるいはコッポラは、いかにもコッポラらしく、晩年を生きつつある自らの傍らに、この才能豊かなルーマニア人キャメラマンの若さの輝きを周到に配したというべきだろうか。
 頂上を過ぎて山を下る一歩一歩が、登りの行程のたんに逆向きの繰り返しではなく、それまでの登山の全行程の記憶を内包した新たな経験であることを知りぬいているコッポラは、「下山の達人」である。その見事な下降の技術によって、「下山の達人」はこれから頂上を極めようとする若者にも重要な教えを授ける。一流の登山家ならば世界には掃いて棄てるほどいるかもしれないが、一流の「下山家」など滅多にいない。一人の人間としてのコッポラがいまだ老いを獲得していなかったとき、人はコッポラの下降への執着に反時代的で誇大妄想狂的な野心を見た。だがここへきて、コッポラの「下山家」としての資質に彼の実年齢がようやく追いついたように思われる。
 師ロジャー・コーマンを通して若き日のコッポラ自身とも結びついた名であるエドガー・アラン・ポーさえ登場する『Virginia/ヴァージニア』は、詳しく書くわけにはいかないが、主人公である三文小説家にそこそこの稼ぎを握らせて人を食った結末を迎える。このそこそこ当てたというのが現在のコッポラらしくて愉快ではないか。大作でうんと当てるのでもなく、商売に背を向けて芸術に耽るのでもなく、そこそこの稼ぎを受け取り、しかし山を下る行程だけは誰が何といっても一歩一歩味わい尽くすというのだから、これはそこそこどころか、なんとも贅沢きわまりない仕事である。

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