映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW
2012 10



第四回 饒舌な顔に交じってビートたけしだけが寡黙に腹の痛みを耐えている
『アウトレイジ ビヨンド』

『アウトレイジ ビヨンド』
全国ロードショー中
監督:北野武
2012 / 112分 配給:ワーナー・ブラザース映画、オフィス北野

 一目で沖縄とわかる海辺の風景へと開け放たれた古い民家の一室で、背中の彫り物もあらわに半裸のビートたけしが愛人らしき女と苛立たしげに花札に興じている。暑さと蝉の声ばかりがその苛立ちの原因でないことは佇まいからしてあきらかだが、やおら銃を手に取り立ちあがったたけしはこちらに向きなおり、蝉が鳴いているあたりに向かって続けざまに発砲する。せいせいした様子で女のほうを振り返ったたけしは、俺たちも終わりだなとだけつぶやくと、躊躇いもせず女を撃ち殺し、続いて銃を自身のこめかみに当てる。誰もが自死による惨劇の完成を予感したその瞬間、不意に画面外からカットの声が響き、たけしの頭部は撃ちぬかれそこなったまま、不快な「現実」へと引き戻されることになる。
 国際的な名声の高まりと裏腹に個々の作品には迷いが目立ったこの十数年の北野武を振り返ったとき、2005年に公開された『TAKESHIS’』はやはり重要な転機だったと思われてならない。『ソナチネ』に代表される初期の作品を連想しない者などなかろう上述のシーンにおいて、すでに還暦を目前にしていた北野は、周到にも三重の距離化を施している。まず、このシーン全体をテレビ局で収録中のドラマに設定し、背景の沖縄の風景がブルーバック合成でしかないとあらかじめ暴露すること。次に自分以外の者にディレクターの役を演じさせ、『ソナチネ』の末尾では遂行された「ビートたけし」の自殺を止めさせること。最後にこのシークェンス全体を、金髪であることを除いては「たけし」と瓜二つの売れない役者「北野」の夢に帰属させることである(この「北野」の覚醒も実は「たけし」の夢の一部かもしれず、さらに……?)。実際、『TAKESHIS’』は『ソナチネ』などとは異なり、一度銃で頭を撃ちぬかれた者は二度人生を降りることはできないとでもいうかのように、「たけし」に別の結末を用意している。「北野」の手に刃物を握らせ、「たけし」の腹を刺させるのである。絶命には至らないこの腹の痛みは、夢から醒めた後もスターである「たけし」を苛みつづける。
 北野作品にあっても異例なほど大量に飛び交う『TAKESHIS’』の銃弾は、例外的な「たけし」の腹への刃傷を、ひたすら際立たせるために放たれていたかのようだ。なぜ今、このように書けるかといえば、疑いなく北野武に新境地をもたらした最新の『アウトレイジ』二部作が、ほかならぬ腹への攻撃によって、「全員悪人」と喧伝されるいかつい顔のヤクザの群れからビートたけしただ一人を特権的に浮き立たせているからである。前作『アウトレイジ』の終わり近く、刑務所内の運動場の片隅で、かつてカッターで派手に顔を斬りつけた中野英雄から不意に襲撃され、ドスで腹を抉られたたけしは、今回の『アウトレイジ ビヨンド』にも平然と再登場を果たすのだが、そのたけしはシャバに出て早々に、ホテルのエレベーターで乗りあわせたヒットマンからまたしても腹に風穴を開けられる。腹の傷では当然のように死ねないたけし自身、運ばれた先の中野が経営するさびれたバッティングセンターで、何かというと腹をやられるなあと思わず洩らすのだから、これには見ているわれわれも苦笑するしかないだろう。
 だがそのたけしの嘆息を、笑うわけにはいかない男が一人いる。たけしもその男には、いやいやそういう意味じゃないんだと慌てて弁解しなければならないほどだが、その男とはいうまでもなく、前作で当のたけしの腹を刺した中野である。トップダウン式の組織の論理の非情さをニヒリズムの哄笑が弾けるまでに強調した前作とは大きく異なり、『アウトレイジ ビヨンド』に重い情念の負荷がかけられているとすれば、それはこの互いに対して負債を抱える二人が、小日向文世演じるマル暴の刑事の策謀にそうと知りつつ乗せられて、組織への復讐という同じ目的のためにあえて行動をともにしなければならなくなるという皮肉な設定によるところが大きい。そのうえ、前作で散々組織に利用された挙げ句、組ごと使い棄てにされて自身は服役中、死んだことにされてしまったたけしは、今ではヤクザの世界にすっかり嫌気がさしてしまっているのだから、そのたけしにヤクザの論理に従ってケジメをつけさせるために、映画は彼にさらに二つの負債を上乗せしなければならない。
 ひとつは、中野が出所したたけしに護衛としてつけたチンピラ二人組の無惨な死。彼らが若い命を散らすことになったのは、彼らの護衛を拒否したたけしがヒットマンを見抜くこともできず、むざむざ腹を撃たれてしまったがゆえであり、黒い袋をかぶせられて頭を滅多打ちにされるという残酷な処刑を二人が受けるに至った事態の重みは、またもや生き残ってしまったたけしの腹を激しく苛む。そしてもうひとつは、盃をもらおうと出向いた関西の花菱会での不始末。たけしも映画中で唯一激昂したさまを見せるこのシーンでの怒号の飛び交いは圧巻というしかない。しかしながら、たけしが激昂するのは自分たちの優位を見せつけようとする先方の陰険なやり口にほとほとうんざりしてのことで、おのれの主張を通そうとしてのことではないことに注意が必要だろう。今回のたけしは徹底して受け身なのであり、塩見三省から顔に銃口を突きつけられても一向に動じないたけしは、腹ではなく頭を撃ちぬくことでさっさと自分を死なせてくれとでもいっているかのようだ。そのありようは、最期に臨んで見苦しい命乞いばかりが目立つこの映画の人物たちのなかにあって明瞭な差異を示している。さらにこの、ヤクザの論理から自分独り離脱しようとするたけしの身ぶりこそが、まさにヤクザの論理に従って傍らの中野に非道なやり方で指をつめさせることになるのだから、その後のたけしに意見できるような権利はもう残されていない。X字形の顔の傷に加え、今また指を一本失った中野にたけしがかけられるのは、アンタの顔に比べれば俺の腹などなんでもないという言葉だけである。
 前作以上の規模で繰り広げられる後半の凄惨な殺しの数々については多くを語るまい。そこで攻撃が加えられる身体の部位が、前作同様、顔ないし頭部にほぼ限られていることも付け加えるにはおよばないだろう。『アウトレイジ』二部作で初めて北野が採用したスコープサイズの横長画面は、そうでなくても人物の頸から上の強調に役立っており、二本の足で歩行する全身こそが重要だった従来の北野作品との著しい違いを見せている。しかも、『ビヨンド』に至っては性愛さえも映画中から厳しく排除されるので、男たちはもはや性器すら持たず、顔だけと化しているといってよい。画面に陳列され、やがて毀損されるその饒舌な顔どもを、銀残しの手法まで用いて陰翳深く捉えた柳島克己の撮影の見事さは、映画的な顔は初めから存在するのではなく、光と影によって初めて産み落とされるものだという事実をあらためて思い出させて貴重である。そのフィルムならではの入念な処理にもとづく見事さを、デジタル化を完了してしまった都内の封切館では理想的な条件で味わえないというのだから、人類にとっての技術の進歩とは何なのだろうか。
 果てることのないプロメテウス的な腹の痛みを饒舌な顔に交じって寡黙に耐えてきたたけしは、結局、兄弟分となった中野にも別れを告げて姿を消す。しかしそれは、去り際に中野に伝えたとおり、最大の敵と認めた者を自らの手で仕留めるためにほかならない。いっさいにケリがついたように思われたとき、たけしが再びどこからともなく現れて宿敵に止めを刺すパチンコ屋のシーンは素晴らしい。ここでたけしが、自分に相応しいと認めた唯一の敵=俳優のどの部位に目がけてドスを突き立てるかは書くだけ野暮というものだ。だが、そのたけしの渾身の攻撃を補佐するのが、受話器に向かって韓国語で短く受け答えをするほかはまともな台詞すら与えられていない、例外的に寡黙な顔である点には触れないわけにいかない。その印象深い寡黙な顔をパチンコ屋の店員の制服の上に見る者が発見した瞬間、シーンを満たす空気は一変し、真に全篇のクライマックスに相応しい緊張が言語を介さずして沈黙のうちに漲ることになるからだ。この寡黙な顔が仕えるところの、得体の知れない匿名性によって見る者を圧倒する同じく寡黙な顔がまた凄いのだが、義兄弟である中野との関係以上の絆で彼らとたけしを結びつけているものは、この匿名的な寡黙さであるに違いない。言語を介さない彼らの絆の深さに比べれば、任侠道は半島にしか残っていないとでもいいたげなこの映画の見せかけのメッセージなど取るに足らないし、彼らの声なき連帯の後になお奸計をめぐらす小物の癇に障るキンキン声など、なるほど、身体から切り離されたまま永遠に沈黙させられるのが相応である。


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