映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW
2012 11



第五回 「悪くない」映画に出会える幸せが人を映画につなぎとめる
『ルビー・スパークス』

© 2012Twentieth Century Fox

 

『ルビー・スパークス』RUBY SPARKS
12月15日(土)よりシネクイント他にて全国順次ロードショー
監督:ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス
2012 / 104分 配給:20世紀フォックス映画

  噂ばかり聞かされて長年見ることのできなかった傑作にとうとう出会い、期待に違わぬ素晴らしさに打ちのめされるという経験は、もちろん格別なものである。私の経験でいえば、思い悩んだ末に卒業がかかった試験を棄ててドライヤーの『奇跡』を見に行った大学4年の冬の日の身を切るような寒さは、今も皮膚感覚としてなまなましく思い起こすことができるし、つい先日ニュープリントで再会できた『白夜』を含むブレッソンの全作品を見るために、まだ住んではいなかった東京に二度に分けて通った一九九九年の晩秋を生涯忘れることはないだろう。とはいえ、こうした例外的な経験は、まさにその例外性によって、人を快く映画に引き寄せるというよりは厳しく撥ねつける。あまりの偉大さに突き放されるからこそ、人は嫌でも立ちどまることを強いられ、思考することへと誘われるのだ。だが、人間というのは現金なもので、年がら年中そのような贅沢ばかりしていると、映画史に残るような傑作はだいたい見たから映画はもうたくさんだなどといいだす。傑作は、必ずしも人を映画につなぎとめてはくれないらしいのである。
 では、いったい何が人を映画につなぎとめるというのか。たとえば、思ったよりも仕事が早く終わった平日の夕方、近くの映画館にふらりと寄って、たまたまかかっていた映画を期待もせずに見たらそれが意外に悪くなかったというようなとき、人は思わず相好を崩し、これだから映画はやめられないと思う。あるいは、たまたまテレビでチャンネルを合わせてそのまま見入ってしまった映画でもかまわない。この種の発見はしばしば人に独占欲をそそるが、幸か不幸か人はそれほど忍耐強くもないので、たいていは適当な友人をつかまえて「こんな映画見てないでしょ?」と喜色満面に切り出すことになる。つかまった友人のほうも災難で、相手がそれほど楽しそうにしているのを見てじっとしていられるわけがない。数日後には無理にも時間をつくって幸福の分け前にあずかろうとするだろう。なんともささやかな幸せだが、そんなちっぽけな幸せこそが、思いがけず波及して人を映画につなぎとめる。斎藤武市は悪くない。ロイ・ウォード・ベイカーは悪くない。ダリル・デュークは悪くない……かもしれない。そうした秘密ともいえない秘密のごく個人的で偶発的な発見を重ねるうち、人はいつしか映画から離れられなくなるのである。
 映画好きにとって近年の映画の状況があまり幸福なものに見えないとすれば、それはメジャーもインディペンデントもともに例外的であろうと躍起になるあまり、一見他愛もないような「悪くない」映画に出会える機会が世界的な規模で失われつつあるからだ。「悪くない」映画を目指してさらりと撮られればよかったはずの『崖っぷちの男』のような企画が中途半端な大作として製作されてしまうことは、現代ハリウッドの贅沢などでは断じてなく、不幸でしかない。だからこそ、恐るべき『J・エドガー』に存在の根から震撼させられた後で、『幸せへのキセキ』のような文字どおり「悪くない」小品に出会い、ついつい頬と涙腺をゆるませてしまうという経験がこのうえもなく貴重なことに感じられるのである。実際、幸福とは『幸せへのキセキ』程度の映画にたまに出会えることでなくてなんだろうか。偉大な傑作を見ることは常に人を幸福にするとは限らないが、「悪くない」映画との出会いはいつでも人を幸福にする。

© 2012Twentieth Century Fox

 そんななか、6年ぶりの新作『ルビー・スパークス』が公開されるジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリス夫妻は、これからもわれわれを驚かせることはないかもしれないが、安定して「悪くない」映画を期待できる喜ばしい作家だと思う。彼らの前作にして長篇デビュー作である『リトル・ミス・サンシャイン』を、私は本当に仕事が早く終わった平日の午後に、たまたま近くの映画館で何の予備知識もなく見たのだった。ばらばらになりかけている家族が幼い娘の美少女コンテスト出場のために旅をするという筋立てに、特段評価すべきところがあったわけではない。だが、彼らが乗るオンボロの黄色いマイクロバスがまず可愛らしいし、発進もままならないバスをみんなで押して、それから飛び乗るべく必死に後を追いかけて走るというあたりがいかにも「悪くなかった」のである。家族の再生というそれじたいとしてはありきたりな主題が、微笑ましい運動として成就されていくからだ。
 『ルビー・スパークス』もまた、基本となる設定に目新しいところはない。神童として輝かしいデビューを飾りながらも長いこと2作目を書けずにいる小説家の青年が、ある日夢で見た理想の女の子のことを小説に書くと、なぜかその女の子が現実に現れる。性格も行動も思いのままに変えられるというのだから、物語の下敷きになっているのはあきらかにピュグマリオーンの神話であり、今となってはフェミニストならずとも眉をひそめるべき反動的な題材だろう。ところが、全篇を通じて真に変身することを迫られるのが男のほうだという点が「悪くない」。うぶで孤独な青年が恋の喜びと悲しみを経験することで人間的に成長するという展開そのものには何の新しさもないが、それによってピュグマリオーン神話を転倒させるという発想が「悪くない」のである。脚本は、ヒロインのルビー・スパークスも演じているゾーイ・カザン。同姓の名高い監督の孫だが、女性ならではの視点が活きているという陳腐な言い回しを、今だけは使うことを許していただきたい。
 演出する側からすれば、小説のなかの女の子が現実に飛び出してくるという荒唐無稽な事態を主人公にどのように受け容れさせるかが工夫のしどころだろう。デイトン&ファリス夫妻は、その重要な転換点をまたしても眼に見える運動として具体化しており、爽快だ。ルビーが幻覚ではないことをようやく理解した青年は有頂天になり、泣きわめくルビーを荷物か何かのようにいきなりひょいと抱きかかえ、そのまま家に向かって駆け出すのである。二人の恋の成り行きも、まるでありもしないプロダクション・コードを遵守したかのごとく、寝室内での出来事を直接見せることなく描かれていく。むろんそれは時代遅れの奥ゆかしい道徳意識などからではなく、二人が唇を重ねるだけで見る者の胸を最高にときめかせるという演出上の計算なのである。こうした品のいい聡明さが、いちいち「悪くない」のだ。
 主人公の小説家には、『リトル・ミス・サンシャイン』でも奇矯な長男役で好演していたポール・ダノ。その母親とパートナーの役で、アネット・ベニングとアントニオ・バンデラスが従来のイメージからは一風異なった新鮮な表情を見せている。そして、主人公のかかりつけの精神科医がエリオット・グールド。『リトル・ミス・サンシャイン』の祖父役がアラン・アーキンだったように、小さくても要となるような役にベテラン俳優を配して全体を引き締めるという配慮がまた「悪くない」ではないか。
 ところで、主人公は小説を書くのにタイプライターを使っている。一度でもタイプライターを使ったことのある人ならおわかりのとおり、タイプライターで書くことは、コンピュータのキーボードを打つのとはまったく違う。キーを押しこむ力が足りなければまともに印字されないし、逆に強く打ちすぎると文字がブレて二重になったりする。そのくせ手書きと異なり、現に自分が力をおよぼした地点からは少し隔たったところに文字が綴られていくわけで、そうやってちょうどいい力加減を探りながら書いているうちに、やがて自分の身体がじかに機械と接続されて延長されたかのような奇妙な感覚に襲われる。だから、自分の書いたものが自分の身体を離れて現実化する『ルビー・スパークス』にタイプライターが採用されていることは至当だと思うのだが、映画の終わり近く、主人公がついにルビーの物語の結末を書くことを決意してタイプライターに向かうシーンにおいて、キャメラが機械の精確な作動だけをアップで捉えつづけるのには心を動かされないわけにはいかない。悲壮な覚悟でキーを打っているであろう主人公の表情は一瞬たりとも示されないまま、ただただ真っ白な紙面に物語の終わりが、あくまでもハードボイルドな文体で一文字ずつ刻まれていく。その末尾に終止符が打たれるとき、小さな黒い点がわずかに震え、ブレて二重になる。偶然であれ何であれ、この恋の終わりの抑制のきいた表現は、やはり「悪くない」。


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