映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW
2012 12



第六回 陰翳も質感も手に入れてしまったデジタル3Dの新しさと古さについて
『ホビット 思いがけない冒険』

© 2012 Warner Bros. Ent. TM Saul Zaentz Co.

『ホビット 思いがけない冒険』
The Hobbit: An Unexpected Journey

12月14日(金)より全国ロードショー
監督:ピーター・ジャクソン
2012 / 170分 配給:ワーナー・ブラザース映画

 3時間近くものあいだ、ともかくも退屈する暇はあたえてくれなかった『ロード・オブ・ザ・リング』の第一作を見たときの、これで撮れない画というものはなくなったのだなという脱力に近い印象は、10年経った今でもよく覚えている。あきらかに現実世界ではありえない眺めが拡がるなか、天を衝く高い塔のてっぺんに囚われているガンダルフが蝶を放つと、その様子を真上から撮っていたキャメラ――という呼称が相応しいのかどうかさえもうわからない――が塔に沿って猛スピードで下降し、地底深くで無数のオークどもが鍛えている刀剣のアップへと至る「ワン・ショット」は、むろん最新鋭のデジタル技術に頼らなければ決して実現しえないものであり、長回しの美学を最終的に無効化するものだった。一般的なバザン理解によれば、編集に依存することのない長回しの手法は、キャメラの前の現実をありのままに尊重しようとする姿勢ゆえにリアリズムの現代的な段階と見なされ、評価されてきた(批評家アンドレ・バザンの名誉のために断っておくが、バザン自身の主張は、長回しを用いた映画が即、現代的であるなどという短絡的なものではない)。そうした主張の根拠となっていた写真映像のインデックス性という前提――すなわち、キャメラに映っている以上、それはそのままキャメラの前に実在し、現実に起こったのだという前提が、完全に突き崩されたことになる。窓ガラスを突き破ってキャメラを屋外から屋内に侵入させたいという『市民ケーン』でのウェルズや『サイコ』でのヒッチコックの欲望は、当時の技術的制約ゆえに、観客に気取られぬよう一瞬の暗転のうちにカットするという疑似ワン・ショットたらざるをえなかったが、ガス・ヴァン・サントによる『サイコ』の再映画化という呆れた企画が実現した20世紀末までには、この制約もあっさりと乗り越えられてしまう。こうなると、実写では撮れない、アニメだけに可能な自在な運動を現実化してきたとされる宮崎駿のような作家も立場がなくなるのは当然で、最近作『崖の上のポニョ』では、全篇手描きという反時代的な「アナログ性」こそが前面に出されたのだった。
 『ロード・オブ・ザ・リング』三部作とともに、ニュージーランドという映画的辺境から一躍ハリウッドの寵児にのぼりつめたピーター・ジャクソンが巧みだったのは、こうした技術革新が持つ映画史的な意義を、作品中でごく自然にプレゼンテーションしてみせる才覚においてである。そのことがもっともよくあらわれているのは、先ほど述べたような、もはや括弧付きでしかいえない「長回し」の用法だろう。第二作の『二つの塔』からは、俳優による演技をデータとして取りこみ、CGと組みあわせるモーション・キャプチャの手法に拠ったゴラムというキャラクターが登場し、善悪二つの人格に引き裂かれて苦悩するさままでもが延々と「ワン・ショット」の移動で捉えられる。実写ではありえない、しかし動きと表情は生身の俳優のものであるという意味で現実とのつながりを完全に断たれたわけでもないキャラクターの「内面」の葛藤が、「長回し」で示されるのである。トム・ガニングのような研究者も指摘するように、ここにはインデックス性に依拠した従来の批評や理論の枠組では評価しがたい事態が出来している。こうした提示の仕方の抜け目なさこそ、最新のデジタル技術を誇示しようとするあまり、実写と完全にかけ離れたイリュージョンに走って結局はCGアニメと代わり映えのしない画面をつくりあげてしまうルーカスやキャメロンからジャクソンを隔てる厄介な点なのである。

© 2012 Warner Bros. Ent. TM Saul Zaentz Co.

 そのピーター・ジャクソンが、『ロード・オブ・ザ・リング』の前日譚として位置づけられる同じトールキンの原作にもとづいて、やはり三部から成る超大作『ホビット』の製作に着手した。公開中の『思いがけない冒険』がその第一作にあたるのだが、この10年間の技術の進歩は目覚ましく、3時間近い上映時間をひたすら驚きつづけているうちにやがて驚くことにも疲れ、ぐったりとした疲労感とともに明るくなった座席に取り残されていたというのが見終わっての正直な感想だ。冒頭で述べたような、凄まじい高低差を一息に駆け降りるような「ショット」もリアルさをさらに増し、どの箇所が実写でどの箇所がCGなのかを識別することは、もはや不可能だといってよい。理性のレベルでは絶対に現実でありえないことの自明な映像が、知覚のレベルでは現実そのもののように高解像度で迫ってくるのだから、見ているだけで疲労困憊するのも当然だろう。手法じたいは同じモーション・キャプチャに拠ったゴラムも、動きといい表情といい、なまなましさを増している。以前は「ゴラム役」のアンディ・サーキスと生身の俳優とを別々に撮影したのちにポストプロダクションで合成していたというが、今回はゴラムの登場シーン全体を「ワン・ショット」で撮影することができるようになったというから、ゴラムと主人公との視線の交わりにも不自然なところはまったく感じられない。
 今回の冒険は、前回の三部作とは異なり、闇の支配から世界を救うというような壮大なゴールからはほど遠く、王国の復興を目指すドワーフたちをホビットの主人公が局外者として半ば嫌々手助けするという設定をとっており、ゆえにクライマックスに向けて突き進むだけの動機づけの求心力を少なからず欠いている。いきおい、新技術のデモンストレーションとしての面が前景化することになるが、今回劇映画として初めて導入された新技術の最たるものが、HFR 3D(High Frame Rate 3D)と呼ばれる方式なのだという。
 映画のスピードは、トーキー化してからというもの毎秒24コマに固定されてきた。ところが、本作は1秒あたり倍の48コマで撮影と映写がなされ、従来の方式と比べてよりクリアな映像と滑らかな動きが得られるとされる。その違いは3Dでひときわ明白だということで、上述したような解像度の高いリアルさの印象も、この新方式によるところが大きいらしい。とりわけ、これまでCGを多用したデジタル映像が不得手とされてきた深い陰翳となまなましい質感の再現には目を瞠るしかなく、これからは、うっかり照明が優れているなどといおうものなら、実は全部CGだったというようなことも起こりかねない。しかしながら、HFR 3Dでの上映は、少なくとも現時点では都内でもごくわずかな劇場でしか実施されておらず、地方ではその数はさらに限られる。デジタル化というだけでも地方の劇場は――都心でもミニシアターは――見棄てられようとしているのに、上映環境の多様性を奪う要因がさらに一つ加わったということなのだろうか。
 多くの観客から本当に支持されているかどうかはきわめて怪しいにもかかわらず、ハリウッドがこれほどまでにデジタル3Dに意欲的なのは、早い話が、この技術革新に要した多額の設備投資を回収するまでは嫌でも後に引けないからだ。逆にいえば、そうした設備投資を行なえるだけの巨大資本が中小の競争相手を淘汰し、市場を独占しようとしているのである。その意味で、現下の状況をトーキー化の際の状況と比較する視点は歴史的に見て正当なものといえるだろう。だとすれば、今、われわれが警戒すべきなのは、この変化をあたかもテクノロジーの自然な進化の過程であるかのように主張する言説にほかならない。たとえばジェームズ・キャメロンは、3D映画そのものは昔からあったが、それらが飛び出す印象ばかりを売りものにするただの見世物だったのに対し、現代のデジタル3Dはむしろ奥行きの表現に秀でており、自分が『アバター』で行なったように、奥行きのリアリズム表現に貢献してこそ3D技術は「正しく」用いられたといえるのだと胸を張る。だが、このキャメロンの口ぶりは、かつてジャン=ルイ・コモリによって厳しく批判された、映画のリアリズムの一貫した底流であるところの遠近法イデオロギーの露骨なあらわれ以外の何物でもない。こうした通俗バザン主義そのものの主張は、当人の自負とは裏腹に、新しさとは無縁の古色蒼然としたものにすぎないのである。
 あのゴダールまでもが新作を3Dで撮影中だと伝えられる現在(ゴダールが参考に見たのが、キャメロンによって一笑に付された『ピラニア3D』だというのも愉快ではないか)、求められるのは、どのような変化にも当然ながら含まれている新しさと古さの両方を正確に見きわめる地道な作業だろう。そうした当たり前の作業すら怠ったまま、今生じている変化を不可避の流れとして認めよと性急に迫る主張も、ただ滅びつつある過去にしがみつこうとする主張も、どちらも醜悪である。そんなことを考えるにつけ、この10年以上ものあいだ、3DCGアニメの可能性――とりわけその陰翳と質感の表現を孤独に追究していたロバート・ゼメキスの新作が、もう撮らないといっていたはずの実写であるという報せになぜか無性に胸が騒ぐ。


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