映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW

第十三回 「飛ばす人」への焦点化が国民映画作家の遠近法を狂わせる
『風立ちぬ』

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『風立ちぬ』
全国東宝系大ヒット公開中!
原作・脚本・監督:宮崎駿
2013 / 126分 配給:東宝

 君が高く飛ぶとき、人から君は小さく見えるとニーチェは書いた。自分が特別だと信じている人間にとっては民衆がちっぽけな存在に見えるというわかりやすい通念を転倒させて、優れた個人の尊い行ないを民衆はしばしば無理解から嗤うものだと定式化してみせたのである。このいかにもニーチェらしい逆説が陳腐化された果てに、クリストファー・ノーランによる『ダークナイト』(2008)の空虚な自己荘厳化が現れることになるが、さしあたりそれは別の話だ。今、ここで述べようとしているのは、文字どおりに高く飛ぶ人と、そのような才能も手段も持ちあわせていない地上の民衆とを一貫して両極に配することで、自らの世界を強固につくりあげてきた宮崎駿のことである。というのも、最新作『風立ちぬ』を見て、これまで宮崎の作品世界を支配してきた遠近法に、なんとも危ういかたちで狂いが生じているように思われてならなかったからだ。

 宮崎駿のアニメーションにおいて空を飛ぶことがいかに魅力的に描かれ、また上昇や落下という垂直的な運動がその世界をいかにダイナミックに構造化しているかについてはつとに指摘されてきた。しかし、宮崎の世界にあって分をわきまえない過度の上昇は、避けられるべきふるまいとして位置づけられていることには注意が必要だと思う。民衆がゴミのようにしか見えないほどの高みへと上昇することを企てた『天空の城ラピュタ』(1986)のムスカがどのような末路をたどったか、今さら繰り返すまでもあるまい。『紅の豚』(1992)の印象深い一場面にあったように、はるかな天の高みはたとえば死んだ飛行士たちの魂が帰っていくべき場所なのであって、この世の生に縛られた人間にはいまだ足を踏み入れることを許されていない聖域なのである。したがって、乱暴に図式化してしまうならば、宮崎にとってもっとも望ましい自由な個人の飛行空間は、天と地の中空において開かれることになる。おのれの力を過信して天を目指すのではなく、また地に這いつくばって生きる民衆にあまんじて伍するのでもなく、真に自由を謳歌しうる宮崎的なヒーロー/ヒロインは、その中空を自然の風に逆らうことなく、むしろ風と戯れながらのびのびと滑空する。そうした天と地との、そして自然とテクノロジーとの緩衝地帯こそが宮崎駿の場所、あるいは非=場所としてのユートピアなのであり、そこにおいて展開される、国家だの血筋だの運命だのといった束縛から解き放たれた自由な飛行が、われわれをこれほどまでに魅了してきたはずなのである。

 ところが『風立ちぬ』は、まさに宮崎的な中空――というのはつまり、地上のあれこれがゴミのようではなくそれとしてはっきり見てとれる高さということだが――において自由な飛行を謳歌していた個人を、開巻早々、いきなり墜落させる。雲の晴れ間から朝の光が眼下の草原を照らすこの導入部が、思わず涙腺が緩むほど素敵な出来であるだけに見る者のショックは大きい。しかし、考えてみればあきらかに戦前の服装をした少年にそもそもこのような飛行が独りでできるとは思えないし、鶏――飛べない鳥――を模したらしい奇抜な飛行機のデザインも現実離れをしている。そう、これは主人公の堀越二郎が少年時代に見た夢なのだが、以降も現実と夢とを何度も行き来するこの映画は、近眼の主人公に自ら飛ぶことを断念させることから開始されるのだ。

 「飛ぶ人」の座から脱落することで、二郎は飛行機を設計する仕事、すなわち「飛ばす人」であることに専念することになる。『紅の豚』のうら若い女性設計士フィオですら完成したばかりの飛行機に自ら同乗してみせたというのに、ここでの二郎は、夢のなかで尊敬するカプローニのつくった奇想天外な飛行機に乗せてもらったり、研修先のドイツで最新鋭の飛行機に乗せてもらったりする程度で、自ら設計した機体に乗りこむことはない。このことが意味するのは、美しい飛行機をつくりたいという二郎の夢は彼自身によって叶えられることは決してありえず、彼がつくった飛行機に乗って実際に「飛ぶ人」という他者の力をぜひとも必要とするという事実である。宮崎の遠近法に狂いが生じるのは、まさにこの点においてだ。天と地と中空、国家と民衆とそれらから独立して行動しうる自由な個人という従来の宮崎世界の安定的な構図が、ここにおいて崩れざるをえなくなるからである。この狂いを修正するためには、論理的にいって、「飛ばす人」と「飛ぶ人」との関係を、天と地の、あるいは国家と民衆のはざまに明確に位置づけなければならないはずだが、奇妙なことに『風立ちぬ』は、「飛ぶ人」の存在を限りなく視界から締め出す途を選ぶ。二郎の設計した飛行機が初めて試験飛行を行なう際、順調に飛んでいたかに見えた機体は突如大破して無惨な残骸となり、地面に叩きつけられるが、誰もが操縦士の死を確信した瞬間、顔も識別できないほど小さな彼の姿が落下傘とともにゆっくりと地上に降りてくる。二郎の夢の実現には不可避的に他者の犠牲をともなうという事実、それゆえに自ら「飛ぶ人」である『紅の豚』の主人公ポルコ・ロッソがファシスト政権下にあって享受しえたような超然は不可能であるという事実が持つ厳しさは、ここでごく楽天的に消し去られるのである。

 この消去とともに、いっそう驚くべきことには、国家と民衆までもがきわめてあいまいに後景へと退く。まず、戦時下の軍需産業において航空機の設計に携わるという事実の持つ重みが意図的に閑却される。そのことが端的にあらわれているのは、映画中での特高警察の扱いである。二郎が例外的な才能を持つがゆえに例外的な待遇を受けている存在であることは、ついでに世界を見てこいと、ドイツでの研修から西回りで帰国させてもらえることからもあきらかだが、何より上司たちは、特高の理不尽な追及から二郎を必死に匿う。この特別な庇護があればこそ、二郎は上司である黒川の家の離れに結核を患う菜穂子と住まわせてもらい、ささやかな祝言を挙げてもらうことまでできるのだから、この映画で特高警察が果たしている役割は決定的だといえるだろう。だが、二郎が特高の目から隠れて進める航空機開発という設定は、まるで彼のつくる飛行機が国策とは無縁の、それどころか国家権力の意向に反した、ひたすら美と自由を希求する純粋に個人的な営為であるかのように見せることになる。

 さらに、民衆も消える。まるでこの世の終わりのような凄まじい巨大地震に巻きこまれようと、近しい人々からいくら責められようと、二郎は一貫して無感情、無感覚なままであり、周囲の状況に対して反応を示したり、自分から積極的に何か働きかけるということをしない。庵野秀明による抑揚を欠いた、しかし一定の調子を決して乱さない声が、二郎のそうしたありようを決定づけることにもなるだろう。このひたすら受け身のまま、ただぽかんと歴史の激動を通りすぎていく主人公のありようは、『太陽の帝国』(1987)や『A.I.』(2001)におけるスピルバーグ的な男児をも連想させるが、安全な自動車の内部から銀行の取り付け騒ぎをガラス越しに距離をおいて眺めるだけの二郎は、おびただしい群衆に取り囲まれて自動車から外に出て行かざるをえなくなった『太陽の帝国』の少年ほども歴史と関わらないというべきである。映画中でほとんど唯一、彼が周囲の状況に介入を試みるのは、菓子屋の店先でたまたま見かけた貧しい姉弟に買ったばかりのシベリアを差し出し、無言で拒まれるシーンだけだが――ちょこまかと動きまわる幼児と郷愁を誘う美味そうな食べものという従来であれば宮崎アニメのトレードマークだったはずのもの――、このささやかなふるまいが偽善として直後に非難されることで、『風立ちぬ』という映画そのものが民衆との関わりを以後すっぱりと断ち切ってしまう。より正確には、周囲の民衆が現に置かれている状況は、選ばれた人間にさえも変えようのない、手の施しようのないものとして視界から遠ざけられるのである。そもそもが、紛れもない人禍たる戦争を直接画面によっては示さず、代わりに地震という天災ばかりが誇張して描かれるのだから、ここで状況が、人間にはどうしようもないものとして示されることになるのは当然ではないか。

 この選ばれた人間にも変えようのない大状況に見あったものとして、二郎の妻となる菜穂子の、当時は死病であった結核が導入される。二郎による飛行機づくりの夢の追求と、菜穂子との悲恋のゆくえとは最後まで有機的に交わることなく、映画のなかで分裂したまま放置されている。『紅の豚』ですら、男の自己陶酔的な超然主義が女の犠牲的な献身の上にしか成り立たないことにいま少し自覚的だったはずだが、ここでの菜穂子は男の領分にほんの少しの関わりを持つことさえ許されず、まともに映し出されぬまま結局は喀血で汚される彼女の描く絵が、二郎による飛行機開発と並置されることすらない。避暑地のホテルで、階上の部屋から大きく身を乗り出した菜穂子と地上の二郎とが紙飛行機をほとんど垂直方向に延々とやりとりするシーンは、提灯の灯りに照らされた祝言のシーンとともに、この映画で躊躇なく素晴らしいといえるシーンの一つだが、このシーンですら、いつ落下するかと見ていて冷や冷やさせられるほどの女の身の乗り出し方ゆえに、一方的に男が女を振りまわしているだけの二人の関係性の隠喩にも見えはじめる。不意に夫のもとから姿を消した菜穂子の真意も、ただ黒川夫人の口から代弁されるばかりであり、菜穂子には自分の声というものがまったくあたえられていないのである。

 個人には抗いようのない、その意味で「運命」というしかないここでの歴史の波に揉まれて、二郎は気がつくと「地獄ではないが、それと同じような場所」にいる。すでに菜穂子の姿はなく、国は滅び、二郎がつくった飛行機は一機も帰ってこなかった。あなたはこれからも私のぶんまで生きてという都合のいい死んだ妻の声は、溝口健二の『雨月物語』(1953)でのように欲に目が眩んだ男におのれの身勝手さを思い知らせることもないまま、こんなはずではなかったという感傷に男を暮れさせる。堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んでいるとでもいうのだろうか。

 終始、感情を表に出さずにきた果てに一瞬だけ「人間宣言」をのぞかせるここでの「飛ばす人」としての二郎に、選ばれた才能という呪いをかけられた創造の鬼、宮崎駿その人の自己投影を見ることはたやすい。しかしそのような見方は、疑いようもなく国民映画作家の座に君臨する宮崎駿の最新作のなかに、この映画を見る国民自身の姿が描きこまれているという事実の否認にしかつながらないだろう。惹き起こされた事態に対する責任を問い、かつ問われることの苛酷さをこの国の国民はまたしても回避して、「運命」を前にした個人の無力感に発する感傷が、国土の隅々を覆いつくしていく。

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