映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW


第十五回 時代の間隙で呪われた血は新たな快楽へと転生を遂げる 『共喰い』

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

映画『共喰い』
2013年9月7日(土)より全国ロードショー中
監督:青山真治
2013 / 102分
配給:ビターズ・エンド

 作り手たちの名前が、これほど煩わしくまとわりついて離れない映画もめずらしいのではないか。何しろ、芥川賞受賞会見での不敵な発言で世間を騒がせた原作の田中慎弥、脚色をめぐる原作者との意見の相違から訴訟沙汰まで起こした経験を持つ脚本の荒井晴彦、さらに小説家や批評家、近年は舞台演出家としても八面六臂の活躍を見せる監督の青山真治と、それぞれに強烈な個性をそなえた男たちが顔を合わせたのだから、公開もされないうちから『共喰い』は、作り手たちの名前というフィルターを通してでなければ近づくことも難しい、予断にまみれた映画として世に出る運命を背負わされたのである。

 にもかかわらず、実際に『共喰い』という一篇のフィルムを成立させている画と音は、そうしたいずれの固有名にも還元しがたい、匿名的ともいうべき乾いた静かな緊張を湛えている。そのためだろうか、困惑した一部の観客からは、今までの荒井なり青山なりの作品とすっかり違ってしまったではないかという、勝手といえば勝手な失望や非難の声が、大方の讃辞に交じって聞こえてくることにもなった。人はやはり、未知の当惑に身を委ねるよりも、既知の風景に安住したい生きものであるらしい。だが、『共喰い』という映画が放つ新鮮な魅力の源は、強い自己主張が掛けあわされることで逆説的にも個人の計算を超えて産み落とされてしまった、灰色がかったこの匿名性にこそあるのではないだろうか。

 もっとも、『共喰い』が青山真治らしからぬ題材だというわけではない。それどころか、原作の舞台は下関で、青山の生地であり青山作品の特権的な風土でもある北九州とは関門海峡をはさんで目と鼻の先、しかも中上健次の影響がつとに指摘される、忌まわしい血をめぐっての性と暴力に彩られた父殺しの物語となれば、あまりにも青山的すぎるというべきだろう。おまけに時代は昭和の最後の年、『Helpless』(1996)の直前に設定されているのである。あまりに青山的すぎて青山自身は手を出しそうにないこの題材を、『赫い髪の女』(1979)の脚本家はあえて青山に挑発的にぶつけてみせたのかと勘ぐりたくもなる。そうした勘ぐりからすれば、北九州の裏門司あたりがロケ地に選ばれ、青山作品の常連といっていい光石研が父親役を演じ、余所者にはほとんど博多弁と区別のつかない方言をまくしたてていることは、見まがいようのない青山の作家性のあらわれということになるのだろう。

 

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

 しかし、このロケ場所の選択と光石の演技とを称賛するために作家性を持ちだす必要は、実のところどこにもないのである。潮が流れこみ、昂っては鎮まる人間の性と暴力の衝動と生命の循環とを象徴するかのように満ち引きを繰り返す、町の中央を流れる「女のワレメ」のような川は、原作の設定と必ずしも一致しないにもかかわらず、ここしかないという確かなイメージで画面に収まっており、余計な時代考証や映像処理に頼るまでもなく、すでに国土の大半から失われた昭和のにおいを濃密にたちのぼらせている。また、セックスの最中に女を殴らずにはおれない父親の円役に、人の好さが隠しきれずにのぞく光石研を配するというキャスティングは、線が細すぎるのではないかという当初の懸念を吹き飛ばすほどに見事なものだ。それどころか、女を踏みつけにしながら、結局はへらへらと締まりのない笑いですべてをあいまいにやりすごす、このような父のあり方こそ、すぐれて日本的なものだろう。あちこちで旺盛に女の腹へと種を蒔きつづけるこの父親は、むしろ自身の子種の薄さを自覚しているからこそ、強迫的に散種に駆られているようでもあり(この映画の世界で円の子であることがはっきりしているのは主人公ただ一人である)、それゆえに円が内縁関係にある琴子を殴りながら果てる性交シーンは、女の視点から仰ぎ見られた抑圧的な体位の強調もあって、男を駆り立てる恐怖を女の苦痛以上に見る者になまなましく感知させ、陰惨きわまりない。女から引きぬかれたばかりで萎えきらない男根を持てあまし、途方に暮れたような円の立ち姿が、陰茎の立派さよりも、それに比された身体のみすぼらしさのほうを際立たせてしまうのも、だから当然なのである。

 光石によって現実化されたこの父の造形は、原作小説の先の地平にまで跳躍する荒井晴彦の鮮烈な脚色と相俟って、原作と同じはずの『共喰い』という表題の意味を根底からぐらつかせる。若い性のたぎりに衝き動かされるがまま、自分の体内を流れる呪われた父の血と向きあうことになる主人公の遠馬――菅田将暉が素晴らしい――は、結局は恋人の千種に手を上げるようになり、さらには満たされぬ欲望を抱えて、父親が頻繁に通うアパートの女のもとまで訪れる。この筋立てからすれば、「共喰い」とは同じ血で結びついた父と子の、文字どおり相食むような骨肉の争いを意味するはずだが、実際の映画からは、この父子のあいだに対立や憎悪の感情はほとんど感じられない。むしろ反対に、光石研の父親が一人息子を見つめるまなざしには、自分の分身を愛おしむ純粋で無邪気な喜びが感じられ(遠馬に向かって、父子してアパートの女を抱きまくれば二人分の子を産むかもしれんといって心底うれしそうに目を細める円の表情を想起せよ)、そんな父のことを、遠馬も憎みきれずにいるように見える。代わりにここでは、そんな男のもとを出て、今は独り魚屋を営む、戦争で失った左腕に義手をはめた母の仁子こそが、円と「共喰い」を演じるに相応しい相手だといえるだろう。田中裕子が圧倒的な貫録で演じるこの仁子は、琴子に去られて動揺した円がとうとう千種まで犯し、殴ったことを知るや、大雨で増水した川べりで、積年の恨みをこめて義手で円の体を刺し貫くに至る。離れて暮らす遠馬のことを愛情深く見守りながらも、息子が父親の血を受け継いでいるという事実を片時も忘れることができないという彼女のありようには、田中裕子の凄味ゆえにいっそう、母性愛という言葉には回収できない、殺気にも似た不穏さが滲む。手のない仁子と男性性に欠損を抱えた円とは、その意味で似た者どうしだったのかもしれず、だから二人による「共喰い」としての凄惨な殺し場の翌朝、円と初めて出会った神社に独りたたずみ、刑事が来るまでのあいだ、物思いに耽る仁子の姿が胸に沁みることになるのだろう。

© 田中慎弥/集英社・2013『共喰い』製作委員会

 だが、ここで終わらなかったのが『共喰い』の真に瞠目すべきところなのだ。自ら果たすべき「父殺し」を母による「女の復讐」として、いわば代行されてしまったわれらが主人公は、もはや父を殺すことも叶わないまま、相変わらず自分が引いた忌まわしい父の血と向きあいつづけることを強いられる。昭和の最後の年という原作からあった時代設定が、原作にはない長い後日譚でめざましい効果を発揮する。親たちの世代が「共喰い」して歴史の表舞台から退場した後、取り残された子の世代はどうすればよいのかという問題が、一挙に前景化することになるからだ。それは、この映画で一貫して遠馬が置かれる時間的な位置どりの独特さの帰結でもある。ここで遠馬が出来事に対して常に「間に合わない」ということについてはすでに廣瀬純の指摘があるが(『映画芸術』444号の座談会での発言)、実際には遠馬が蚊帳越しにのぞく円と琴子のセックスも、仁子による円殺しも、別に「終わりかかっている」わけではなく、そのクライマックスともいうべき瞬間を遠馬はしかと目撃するのだから(彼が本当に「間に合わない」のは円による千種の凌辱だけであり、この事実が遠馬から報復の権利を奪う)、彼が「間に合わない」のは出来事そのものというよりも、その「始まり」なのである。ことの起こりを知らない、とっくに始まってしまっている出来事の、しかしその帰趨にだけは否応なしに立ち会わされるというのが、この映画で遠馬が終始置かれる時間的な位置なのだ。血と継承という、この映画の中心主題と結びついてのことであることはいうまでもない。

 歴史を自身の体を流れる血の問題として捉えるという姿勢は、青山真治に一貫するものである。その血をなんとか否定しようとして、結局はその否定の身ぶりによって血を反復してしまうという悪循環に、青山真治の男たちはいつも囚われてきた。出身大学が同じという信じがたいほど杜撰な理由でしばしば一括りにされる黒沢清と青山とを、決定的に隔てるのはこの歴史の捉え方にほかならない。黒沢にとっての歴史が、究極的に個人には抗いようのない「運命」としてあるのに対し(したがって、個人にできることはせいぜい目の前にいる人を助けることだけだというのが「3・11」後の「リアル」となる)、青山にとってのそれは、抗うことがそのまま自身の存立を脅かすような命がけの問題としてある。『共喰い』の終結部において、「あの人」に訪れようとしている死が、「あの人」が始めた戦争で手を失った女に恩赦をもたらすかもしれないというかたちで、大小二つの「家」が直接結びあわされることになるのは、その意味で、いかにも青山真治に似つかわしい脚色だといえるだろう。しかし、映画はここでもまだ終わらないのである。

 遠馬は、一度は飛び出した町に自分から舞い戻る。そこではいつの間にか、仁子の魚屋を千種が引き継いでいる。二人は再びセックスを試みるが、父が殺されたからといって、息子の体を流れる父の血が消えるわけではない。気がつけば女に痛みを与えようとする遠馬の手を千種は縛り、自ら男の体の上にまたがる。そして二人は初めて一緒に快楽をおぼえ、ほどなくして昭和が終わる。

 ここに見られるのが、かつての青山作品でのような、暴力的な血を暴力をもって打ち消そうとすることの悪循環とはまったく異質の、ほのかなヒューモアさえ漂う楽天性であることはあきらかだと思う。血を否定するのではなく、その血が如何ともしがたくおのれに流れていることを認めたうえで、それを別の身体的な快楽に向けて――しかも暴力の犠牲者と二人して――つくりかえていくこと。女を殴ろうとする手を遠馬が進んで縛られることと、あれほど出たがっていた故郷の町に自ら戻ることとは明白に対応している。ここに兆している希望は、いかにも頼りないものだろう。だが、愛よりも身体の快楽のほうが、ここでははるかに信じるに足るものとして提示されているのではないだろうか。この映画に見られるもっとも強い愛は、述べたように、ことによると父の息子への愛だったかもしれないのだから。

 女の痛みと引き換えに男が快楽を得た時代が終焉を迎えつつある間隙で、呪われた血は、若い男女が二人してつくりあげる新たな快楽へと転生を遂げる。映画『共喰い』が最後にたどり着くのは、田中慎弥の原作になかったのはもちろん、荒井晴彦的とも青山真治的とももはやいえない、この白々と拡がる匿名的な地平である。未知の快楽が創出されようとしているこの場所で、何かが致命的に終わり、そして/あるいは、始まる。

[関連記事]ウェブ・スペシャル「『共喰い』 青山真治監督インタビュー」

これまでの映画時評|神戸映画資料館