映画時評:一年の十二本 藤井仁子(映画評論家)WEBSPECIAL / REVIEW
2013 11


第十七回
 厳密であるがゆえの不確定性が見えない世界の黒々とした拡がりを触知させる
 『女っ気なし』

© Année Zéro – Nonon Films – Emmanuelle Michaka

『女っ気なし』Un monde sans femmes
監督:ギヨーム・ブラック
2011 / 58分 配給:エタンチェ
全国順次公開中
神戸アートビレッジセンター
 2014年公開予定

併映短篇『遭難者』2009 / 25分

 ギヨーム・ブラックと名のる30代の新人監督が撮りあげた60分に満たない『女っ気なし』は、もちろん1本の独立した作品として完成されており、劇場公開にあたって併映される『遭難者』と題された同じ作家による25分の短篇と、関連づけて見なければならない義務は誰にもない。にもかかわらず、その両方に同一人物によって演じられるシルヴァンという男が主演級で登場し、一目で英仏海峡沿いのあまりにぎわってはいない海辺の町と知れる風土が共通しているとなると、この2本を完全に切り離して見ることは難しい。しかも『遭難者』の冒頭に掲げられた字幕では、この短篇が『女っ気なし』と同じ町で撮影され、そのプロローグをなすものである旨がわざわざ断られているのである。

 端正な面立ちを崩さぬまま田舎の一本道を孤独に走っていた自転車乗りが、「クソッ!」という不意の罵声とともにパンクした愛車を荒々しく土手下に投げ棄てる導入部から、『遭難者』はただの前座として受け流すわけにはいかない凄みで見る者の居住まいを正させる。カットに先んじるようにして発せられる罵声のショッキングな大きさと、忌々しげに道路を何歩か行き来する男の強調された足音に比して、放り投げられて草むらの陰に消える自転車が派手に立てるはずの物音が、まったくといっていいほど聞こえないという音響上の不均衡のために、どうにも不穏な気配がかきたてられるのだ。この音響上の不均衡は、その日の夜、度重なるパンクで結局パリに帰れなくなった男が、砂利を踏みしめつつ恋人に電話するシーンでも顕著であり、ことによると技術的な稚拙さによるものでしかないのかもしれないが、真相はどうあれ、現に見えている以上の不穏な何かが、この映画の世界に立ちこめているらしいという思いを見る者に強く抱かせる。実際、この短篇が進むにつれてあきらかになるのは、自転車乗りの帰宅を妨げた当の責任者でありながら、なぜかしら彼と意気投合して一夜の宿まで提供する土地の冴えない男シルヴァンの孤独であり、時代から取り残されたこのさびれた避暑地そのものの孤独であり、さらには一見恵まれた境遇にあると思われた自転車乗りの複雑な心の葛藤でもあるのだから、外見にあらわれているとは限らない世界の黒々とした拡がりは、この映画の主題といってもいい位置を占めていると思われる。

 どこまで本気か知れない、すっとぼけたようなヒューモアさえ漂わせながら、最後には沈痛な余韻を残して閉じられる『遭難者』の影響下に『女っ気なし』を見始めるわれわれは、しかし、題名から想像したものとはずいぶん異なる映画の調子に意表を衝かれることになるだろう。直訳すれば「女のいない世界」となる原題のとおり、イケてない男が女にモテようと悪戦苦闘して失敗しつづけるさまを笑うコメディなのかと思いきや、鍵穴に鍵を差しこんでガチャガチャいわせる音に続いてあらわれる最初のショットに映し出されるのは、充分すぎるほど魅力的な二人の女性なのである。やがてヴァカンスでパリ郊外から来た、姉妹のように見える母娘だと判明するこの二人は、少なくともそのどちらかがほぼ全篇にわたって出演しつづけ、冒頭と同じく、最後のショットにも二人して収まることになるだろう。『遭難者』のときよりもさらに肥満が進んで髪も薄くなったように見えるシルヴァンは、ここで彼女らと一緒にいて、彼女らの両方から好意を示されもするのだから、『女っ気なし』という表題は見る者を欺く、偽りのものなのだろうか。

 パリから来た美男の自転車乗りを相手に『遭難者』のシルヴァンがこぼしたように、この町に住む男たちにとって意中の女性とめぐり会うチャンスがヴァカンスの季節に限られているのだとすれば、まさにヴァカンスの季節に設定された『女っ気なし』は、冬に設定された『遭難者』とは異なり、恋人探しに励む独身者たちの必死の努力を描きだす。事実、ヴァカンスの客に貸すアパルトマンの管理の仕事をしているらしいシルヴァンは、母娘を部屋に案内する冒頭から、涙ぐましいほどのおしゃべりで彼女らの気を引こうと懸命で、隙を見て近くの鏡を覗きこみ、残り少なくなった毛髪を整えてみせる。見る者の当初の予想をはるかに超えるこの映画の厳しさは、こうした冴えない田舎者の道化じみた努力を都会から来た美しい女たちに嗤わせるのではなく、むしろ日常を離れてすっかり開放的な気分になった彼女たちに、ヴァカンスのあいだだけ、好意を抱かせるところにある。むろん、シルヴァンの人生を賭けた必死さとは裏腹に、女たちにとって、この一時の気紛れのために都会に残してきた生活を棄て去るなど思いもよらないことだ。『女っ気なし』は、映画中でほとんど常に行動を共にするシルヴァンと二人の女性との、属している「世界」の根本的な相違をこそ、映画に固有の方法で露呈させていくだろう。

 

© Année Zéro – Nonon Films – Emmanuelle Michaka

 では、その方法とはいかなるものか。シルヴァンとは比べものにならないほど女性の扱いに手慣れているようだが、やはり女性と知りあう機会には恵まれていないらしい友人の憲兵が、母親のほうと仲良く遊ぶのをシルヴァンが妬ましく見つめるビーチのシーンや、彼らが4人揃ってディスコに出かけるシーンに見られるように、この映画は、シルヴァンだけをほかから分離させるようなフレーミングによって、他人と一緒にいてもうまく溶けこめないでいる彼の孤独を際立たせてはいる。だが、こうした箇所はきわめて巧みに撮られているものの、いささかアカデミックな香りを残すもので、この映画の最良の部分を構成するものとはいいがたい。この映画がもたらす真の驚きは、むしろ時間の厳密きわまりない処理に由来するものなのである。

 映画の冒頭、シルヴァンは黒いTシャツの上に白と黒のチェックのフリースのようなものを羽織って現れる。『遭難者』にも登場したそれは、シルヴァンの家に泊まった自転車乗りが翌朝、パン屋に行く際に羽織ったものでもあり、その直後、寝ているあいだのシルヴァンの行ないを知るにおよんで彼が怒って投げつけたものでもある。つまり、この衣裳ひとつで二人の男の近づきと決裂とが鮮やかに表現されていたのだから、ギヨーム・ブラックという未知の新人が、衣裳の扱いにとりわけ長けた作家であるらしいことは容易に想像がつく。すると果たして『女っ気なし』でも、そっちのほうがよく似合うと女たちにおだてられて、シルヴァンが色違いのポロシャツを3枚も買いこむシーンが出てくるので、やはり衣裳の重要性はあきらかだろう。ところが、『女っ気なし』のシルヴァンは、実はシークェンスが替わるたびに衣裳を取り替えており、見る者は少なからず混乱させられることになる。まるで、ひと夏ほども長い期間の出来事が、大胆な省略をまじえて描かれているように誤解しそうになるのである。しかし、憲兵の質問に答えて母娘が明言するとおり、彼女らの滞在期間は「週末まで」、すなわち1週間にも満たないのであって、実際、この映画の物語は火曜日に始まり、日曜の午前には終わっているらしいのだ(ディスコに行くのが金曜の夜なので、前後の日替わりさえ数えれば造作なくそう推定することができる)。

 5泊6日の出来事を、あたかも一季節にわたる出来事であるかのように見せかけることで、この映画は「女のいない世界」の孤独をわずか数日間に凝縮して描ききっているのだと主張することもできるだろう。シークェンスごとにシルヴァンが衣裳を取り替えるのは、女によく思われたい一心の彼が、汗をかくたび着替えているからだと本当らしさの基準に照らして了解することもできる。だが、挿入される夜の場面ごとに律儀に日替わりが告げられる『女っ気なし』のあまりに厳密すぎる時間処理は、『遭難者』の影響下にこの映画を見るわれわれの関心を、見えてはいない世界の黒々とした拡がりへと惹きつけていく。

 『遭難者』で自転車乗りが窓越しに目撃してしまった、独り缶詰を食べながらテレビ画面の光の反射を顔に受けていたシルヴァンの姿に呼応するかのように、『女っ気なし』でも独りテニスゲームに興じる彼の姿が、あるいは夜の海を独り見つめる彼の姿が、1日の終わりを告げる句読点として挿入される。そして、前日に購入した青いポロシャツを着こんだシルヴァンは、3日目に至って母親の手を握ることに成功するのだが、この試みはあいまいにかわされてしまうだろう。夜になっても胸の高鳴りを静められないらしいシルヴァンは、独り街路をさまよいながら、母娘の滞在する部屋を空しく見上げる。同じ頃、やはり気分の昂揚した母親が、娘を置いて独りバーに行き、あの憲兵に声をかけられていい雰囲気になっていることなど、シルヴァンは知る由もない。注目すべきは、ここでのシルヴァンが、映画がこれまで打ち立ててきた原則に逆らうかのように、相変わらずあの青いポロシャツを着つづけていることなのだ。その翌朝、友人であるよく肥えた初老の女性宅を訪れて会話するシーンでも、彼はまだ同じポロシャツを着つづけているのだから、ここでは何か異常なことが起きているに違いないのである。

 この夜、シルヴァンに何が起きたのかを、映画はまったく説明していない。青いポロシャツさえ着つづけていれば必ず恋が実ると信じて、一晩、着替えることも忘れてまんじりともしなかったのかもしれないし、もしかすると朝まで独り町をさまよっていたのかもしれない。すべては厳密をきわめた時間の処理ゆえに、かえって決定不能なままとどめおかれているのだ。同じように、明日は母娘がこの地を離れるという最後の夜、シルヴァンは思いがけない人物とベッドを共にすることになるが、その翌朝、ベッドに裸で横たわり、片方の肩だけを露出させて朝日を浴びる女の美しい後ろ姿のショットは、そのキャメラの位置にいて眠っているふりをしつづけていたらしいシルヴァンの視点ショットであったのか、なかったのか。

 そうしたいくつもの疑問が厳密に計算された不確定性で宙に吊られながら、今や疑う余地なく触知可能なものとなった見えてはいない世界の黒々とした拡がりが、夏の終わりという自然な季節の循環には還元されようのない沈痛さで、われわれの胸に棘のように刺さって残る。この離れ業が、シルヴァンを演じるヴァンサン・マケーニュのまったく特異な魅力によって初めて可能となっていることも、ぜひとも言い添えておかなければならないだろう。ギヨーム・ブラックの登場は、たんに最近の注目すべき話題であるばかりか、この何十年というスパンでフランス映画界に絶えて久しかった事件であると少しの迷いもなく断言する。


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